今を去ること16年前といえばいささか旧聞に属しますけれども、大相撲でいうと全盛期をすぎたとはいえ第一人者の北の湖敏満(強かったよなあ)、二代目若乃花幹士、気鋭の千代の富士貢らが綱を張っていた時代です。単に相撲が好きだからという理由だけで大学の相撲部の門を叩き、強い先輩同輩の陰で3年間鳴かず飛ばずの成績だった私にも、ついに団体戦のメンバーとして戦列に加わる機会がめぐってきました。会場は蔵前の国技館(両国国技館の落成前でした)。この時の相手や相撲内容のことはよく覚えていません。しかし、二字口にあがって塵浄水を切った時、「おお、あの北の湖が相撲をとる同じ土俵に上がっているのかあ」という、妙な感動があったのをよく覚えています。
さらにさかのぼって高校時代。男子校でしたけれど相撲部はありませんでしたので、山岳部に籍を置いていました。(もっとも山の上でも仲間ともっぱら「大鷲と双津竜はなぜ弱いか」などといった議論をしてましたが (^_^) )私は性格がひねくれているせいか、みんなが行くような山はあまり好きじゃなく、地味でかつ体力の要るような山歩きが好きでした。たとえば、北アルプスと南アルプスだったら断然南アルプス、それも南部の南アルプスという具合です。ところがあるとき、友人に夏の尾瀬歩きに誘われたんですね。当時の私には、尾瀬なんて猫も杓子も訪れる混雑したところ、商魂逞しい山小屋が密集してるところというイメージしかなかったものですから、「おぜぇ?」とろくな期待もしないでついて行ったのです。ところが、どっこい。いざ尾瀬ヶ原の入り口に辿りついてみると、私はその広さと美しさに圧倒されてしまいました。オレンジのじゅうたんを敷き詰めたようなニッコウキスゲの群落、青い空にひときわ映える白樺の林、その空の落ちるところに対峙する至仏山と燧ヶ岳の雄姿…。とたんに大勢の登山客や土産物屋といった夾雑物は意識の彼方に遠のき、尾瀬の自然と一対一で向き合っている自分に気付きました。うん、だてに「夏が来れば思い出す」と歌われているわけじゃないんだ。以来尾瀬の大ファンになりました(しばらく行ってないけどね)。
こういう昔のことって不思議とよく覚えてるんですよね〜。はちこに昨日頼まれたことはコロっと忘れてるくせに。 f(^_^;;; (私の知り合いには高校の修学旅行で泊まった旅館の電話番号をいまだに暗記してる奴がいる。)何でこんなしょうもないことから書き出したかというと、実は最近−とはいえもう二年以上前ですが−似たような体験をすることがあったもんで、つい思い出しちゃったんです。もちろんこれはまわしや山靴の話じゃなくて、イスラエル旅行、そう聖地巡礼の話なんですが。
長くなってしまいましたので、この続きはまた次回。
クリスチャンにとって聖地を訪れるということは、かりにそれが夢であっても必要なお金や時間を考えたとき実行に移すのはなかなか難しいかもしれません。あるいは不安定な中東の情勢を見て敬遠する人も多いでしょう。また「イスラエルなんか行かなくたって信仰とは関係ないわよ」とか「エルサレムやベツレヘムの(イエス・キリストをだしにした)商業主義には幻滅させられるよ」というコメントもよく聞きます。私の場合、幸運にも高校時代の親友D川君が当時NHKのエルサレム支局長をしていて、案内してやるから是非遊びに来いというので、彼の熱意にほだされてイギリスでの学会のついでに一足のばして行ってみることにしたのです。(彼こそが例の旅館の電話番号を記憶している超人であり、高校の体育祭での相撲の宿敵でもあった。)D川君との再会や物見遊山というレベルでは楽しみだったものの、上述のようなコメントを聞いていたこともあり、信仰的には正直言ってあまり得るものを期待していませんでした。
けれども、いざふたを開けてみたら大違い。イエス親分と同じ「土俵」の上を歩いたという実感は予想以上のインパクトでした。イスラエルを訪れている間なんだか時間が凍りついて、旧約聖書の世界にそのまま飛び込んだような錯覚すら覚えました。(通貨単位ひとつとってもいまだに「シェケル」を使っている。)イエス様がパンと魚で5000人を満たしたという聖書の箇所も、実際にそれがあったガリラヤ湖畔に立ってみれば、それまでの気ままな解釈をこえて具体的なイメージをともなってきます。以来その底抜けに明るい風景は食前の祈りの度に私の脳裡に浮かび上がり、それまで通り一辺だった感謝の祈りが、もっと自分の内側から出てくるようになりました。イエス様が涙の祈りをささげたゲッセマネの園も、十字架の横木を背負って歩かれた悲しみの道も、正確な所在には諸説ある復活の墓も、実際に自分の足で踏んでみたとき、イエス様に「よーく見ておきなさい。これが私の愛するエルサレムだ」と語られている気がしました。「土産物屋?お上りさん?そんなものは私の時代にもあったよ」とも。そう、どんなに世俗化していても、ここは神が自ら選ばれた土地、自らの住みかとおっしゃる場所なのです。「目を覚ませエルサレム!」 祈りが心の叫びのようにほとばしりでました。
イスラエルで過ごした1週間は私の心を捉えて離しませんでした。是非またゆっくり訪れてみたいと思っています。いろいろな意味で、この旅行は私にとって第2の「蔵前体験」「尾瀬ヶ原体験」でありました(強引なアナロジーですみません)。この中味を全部伝えることはとてもできませんが、これから回を追って少しずつ文章と写真とでシェアしていきたいと思っています。
文中色文字をクリックすると写真と解説が別ウィンドウでご覧になれます。
週末の雪かきでぎしぎしになった身体がやっと少し動くようになったと思ったら、エミが「お父さん早くたんすを組み立ててね」と言う。小学校2年生になって学校の宿題や読書の量もぐっと増えたので、いままでお客さん用にあけておいた寝室を勉強部屋兼寝室としてエミに与えることにしたのだ。これまでエミはみんと二人で寝室を共有していたのだが、みんが3つ上のお姉ちゃんのやることになんでも首をつっこまないと気がすまないものだから、いくら仲良しとはいえエミとしてはずいぶん我慢を強いられてきたところがあった。それで思いきって一人部屋へ移すことにしたのである。
これに伴い、いままで親と寝ていたま〜やをみんの寝室にうつし(まだ本人の「承諾」が得られていないが)、家具の配置を入れ替えたり、例によってはちこが壁のペンキを塗りかえたりで、家の2階はまだ当分片付きそうにない。エミの部屋には新しい勉強机と本棚がはいり、あとはたんすを入れるだけ(ベッドはもう前の部屋から引っ越した)。
エミは自分のプライベートな空間ができたことが嬉しくてたまらないらしく、半ば放心状態である。部屋のあっちこっちに縫ぐるみの人形が雁首そろえてかざってあったりする。その気持ちよくわかるよ。Daddyは一人っ子だったけど自分の部屋をもらったのは小学校3年の頃だったかな。急に自分が大人になったような気がして、勉強にも気合いが入ったものだった。
昨日エミが寝た後でひょいと見ると部屋の扉の外に直筆で
"Dear Visitors,
When you enter my room, remember to take off your shoes and do not misplace anything. When you are finished with something, put it exactly where it was.
Sincerely,
Your Guide, Emi Nakamura"
「お客様各位。私の部屋に入るときは靴をぬぎ、ものをなくさないようにお願いします。なんでも使用後のものはきちんと元どおりのところに戻してください。草々。ガイド、エミ・ナカムラ」
という貼紙がしてあった。むふふ可愛いヤツ。
今のところ無法者のみんも少しはエミのプライバシーを尊重して遠慮しているようにもみえる。
子供の成長は早い。海に泳ぎに行った帰りに疲れてお父さんの背中でおんぶされたまま寝ちゃってたのがついきのうのことのようだ。「Enjoy while you can(今のうちに子育てを楽しんでおきなさい)」というのはまったくもってその通りだ。
さ〜てと、それではたんすを下からとってくるかな。(それにしても何でアメリカの家具は全部自分で組みたてなきゃいけないんだろう)
西海岸で日本人留学生グループに伝道しているアメリカ人の宣教師の友人がしばらく前にこんなことを言っていた。年度の始めに新しい顔ぶれで集まるとき、当然自己紹介などをするわけだが、日本人の学生たちは遠慮しているのか英語が得意でないのか、名前を言うぐらいであまり口を開こうとしない。何とか沈黙を破ろうとして「どんな色が好き?」「どんなたべものが好き?」なんて聞いてみるけれども、ぽつん、ぽつんと返事が返ってくるだけで一向に会話にはずみがつかない。あるとき困りはてて、「それじゃあ嫌いな色は?」「嫌いなたべものは?」と聞いてみたら、とたんにみんなが元気になってああでもないこうでもないと言い出したのだそうだ。以来初顔合わせの会は「嫌いなものシェア」で始めることにしているという。
これが日本人の若者に独特の反応なのか、国境を超えた普遍的な傾向なのかはよくわからない。(まあ、「おかあさんといっしょ」じゃあるまいし、いい年の大学生に「好きな色」なんて…という気は私にも少しするが)それにしても、好きなものについては多くを語ら(れ)ず、嫌いなものについてはいくらでも情熱的に語れるというのが人間の性質だとしたらちょっとさびしい気がする。それは物事や他人の中によいものを見い出すことができない、不健康な状況だと思う。かくいう自分も例外ではないのだ。
大学教授の仕事の半分は、学生や他の研究者の仕事を客観的に評価することである。一年間に10何本という出版論文の審査を依頼される。学生の書いたものの添削をし、学位論文の審査もする。読まなければならないものは多いが、その中で、本当に読むに値すると思われるのは正直言ってごくわずかである。締切に追われている時に質の低い論文を読まされるような時は、思わず辛辣な批評を書きたくなってしまう。
むかし、このことで自分の恩師に愚痴をこぼしたら、彼いわく「ぼくは、原則としてどんな論文も出版を却下するような批評は書かない。どんな論文にもどこかしらいい点というのがあるものだよ。そういうところをほめて、書き直すようにすすめるんだ。具体的にこうしたらよくなるよ、というアドバイスも添えてね。」これを聞いて私は目から鱗が落ちる思いだった。やはり、偉大な教育者というのは人にいいところを見いだす目をもっていて、底辺にいる者をはげますつぼをおさえているのである。そして何より、相手のことを第一に考え、そのために犠牲をはらうことをいとわない。やれやれまだまだだぜ、俺は。イエス様、ごめんなさい。
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」ピリピ人への手紙4:8
去年の秋口だったか、外国駐在中の邦人の投票権を認める法律が国会で通り、今年から私らのような者でも晴れて日本の政治のために一票を投じることができるようになるらしい。いまや衛星放送やインターネットで候補者のプロフィールや公約なども容易に知ることができるから、これは当然といえば当然、むしろ遅きに失した感がある。これまでは数ヵ月以上日本を離れると不在者投票も認められていなかったから、はちこも私も日本を離れてからのここ14、5年間というもの、書類上の国籍こそ日本でも、こと基本的な人権である参政権については全く行使する機会がなかった。住民票からもとっくに名前が落ちている。
もちろん、永住権はもっていても市民ではない私たちは、こちらアメリカにおいても選挙に参加することはできない。4年にいっぺんの大統領選挙や、2年にいっぺんの議員入れ替え選挙はもちろん、自分の村の村長(シカゴといってもちょっと郊外なので、住んでいるのは人口2万人の「村」なのである。 (^_^) )や役員の改選にも票を投じることはできない。住民税その他の税金はきちんと払っているにもかかわらずである。だからいつも選挙の時期になると、何となく蚊帳の外に置かれたような気がする。(日本と違い、宣伝カーみたいなものは使わず、選挙活動は静かである。しかし夥しい数の立て看が近所の家々の庭先に乱立する。)
選挙権がないかわりに、国民の義務として課せられている裁判の陪審員としての奉仕は免除になる。本来なら裁判所から召喚を受けた場合(無作為抽出で数年に一回くらい)、特別な理由がない限り断わることは許されず、仕事も休まなければならない。(外国人であるというのは数少ない「特別な理由」にあたる。)また、裁判の内容によっては数名からなる陪審の中で意見がまとまらず、一日で片付かないこともあるそうだ。アメリカ人にとってもやらないですむならやりたくない仕事らしく、これが免除されているのは外国人の「特権」というべきか。
日米どっちにしても幽霊市民のこんな私たちにも、神の国の市民権だけはしっかり与えられている。来る永遠をイエス・キリストと、また信仰にあっての兄弟姉妹たちと過ごすことを約束されていることに比べれば、日本かアメリカかなどという問題はむしろ些細なことだ。ハレルヤ。しかも、神の国はあの世のことだけではない。近くに親類縁者はもちろん、日本人のコミュニティーももたない私たちにとって、本当の意味で家族とよべる教会が与えられているのも感謝である。ともに礼拝し、ともに祈り、喜怒哀楽をともにできる仲間が、教会に、そしてインターネットの向こうにもいることが神の国への帰属意識を強くしてくれる。
アメリカで生まれたうちの3人の娘たちは日米両国籍をもっており、21歳になるまでにどちらかに決めればよい。でもこの子らの本当の国籍は天にあるのだ。神を畏れ、人々に仕える子供に育ってほしい。(加えて、わが家のモットーである『図太く野太くしぶとく』も忘れずに!)
氷点下20度の寒さのなか、雪をかきわけてなんとか夕食の時間ぎりぎりに家にたどり着くと(クルマ社会のアメリカにあって私は電車とバスで通勤している)食卓の上に山のように盛られた殻付のカニが待っていた。「焼豚に蟹(よいことが続くことのたとえ)」とは所ジョージか誰かの造語だったと思うが、これはご馳走である。
「いぇい。どーしたのこれ?」
「スーパーKマートで安売りしてたから買ってきちゃった。ちょっと多いかなと思ったんだけど、食べられるよね。」
私は無精者なので、枝豆とかみかんとかバナナとか、自分で皮をむいたりしなくちゃいけない食べ物は本当は苦手なのだ。しかし、カニだけは別である。しかもこの分量からいくと相当楽しめそうであるぞ。まず娘たちに何本か足の殻を割ってやり、然る後に自分たちの分にとりかかる。たれは味ぽんにマヨネーズ合わせ。ん〜むうまい。いつもだとみんやま〜やが最後まで食卓でうじうじしているのだが、今夜ばかりは親がふたりとも真剣な顔をしてカニと取っ組みあっているもんだから、みんないつのまにかいなくなってしまった。
実は、暮れにヤオハン(アメリカではまだつぶれていない)に行って同じ種類のカニを見つけたのだが、ちょっと高いような気がして少ししか買ってこなかったため、あらかた子供の分に消えてしまい、すごく欲求不満を感じていたのだ。それだけにこのように心おきなく食べられるのは本当にうれしい。戦中戦後のもののない時代を生きてきた私の両親などは、「こういうものはちょっとだけいただくからこそ有難味があるんだよ」てなことをいうが、高度経済成長期の落とし子である私にはそれは通用しない。
子供のころ、縁日の屋台で時々親に買ってもらうたこ焼が、せっかくおいしいのにひと皿たった6個しか入っていなくてひどくがっかりしたものだった。一度でいいから腹一杯たこ焼を食べてみたいものだと思った。その願望は大学院時代になってやっとかなえられた。すでにアメリカに来たあとのことである。ひょんなことからたこ焼用の鉄板が手に入ったので、アパートのルームメートのN氏と、ニューヨークの寿司屋までたこの頭をわけてもらいに行き、その夜はもっぱらたこ焼だけの晩飯とあいなった。ぼこぼこ穴のあいた鉄板にあさつきやかつおぶしや紅しょうがをどっさり敷き詰めて焼き直すこと6回。二人で119個のたこ焼を平らげたあの晩の満足感は今も忘れない。
「ねえ、あなた」
とはちこが回想をさえぎった。
「あたし、あなたとふたりだけでご飯食べるのが一番好きよ。」
僕もだよ、と返事をする隙を与えず、
「だって誰にも気がねせず食べたいだけ食べられるんだもの。」
はぁ。そうそう、はちこが実はすごくよく食べるひとで、初めてデートした時にも(他はともかく)私の食べっぷりの良さが気に入られたというのは知られざる事実だもんね。ま、いいか。そのはちこも「カニが夢に出てきそうだから」としまいに席を立ち、結局ひとりで残りを平らげる光栄にあづかった。殻も入れて計1.5キロのカニがきれいに無くなるまで所要時間約1時間。満足、満足。
NBAのスーパースター、シカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダン選手が二度目の引退を表明した。カムバックはもうないのかという質問にも、「絶対にとはいわないが、99.9パーセントない。これからはもっと家族といっしょに時間をすごす」と言って。良きにつけ悪しきにつけ、彼ほどアメリカ人にとってヒーローでありお手本だったスポーツ選手はいないのじゃないかと思う。少なくともここ地元では、ドライブウェイのバスケットゴールにたむろする少年たちがみんな23というマイケルのチーム番号の入ったシャツを着ているし、彼がコマーシャルに出ればスニーカーでもシリアルでも、売り上げが全然違うという。うちの牧師のメッセージのなかにも、たとえ話のネタとしてしょっちゅう出てくる。
プレーの華麗さもさることながら、他の選手にはできないことでも彼ならやってくれるんじゃないかと期待させ、そしてここぞというときにそのファン心理に応えてくれるというのが絶大な人気の理由だと思う。そしてその実力が、見えないところで彼が人一倍練習している成果であることもみんなが認めている。アメリカのスポーツ界では貴重な穏和な人となりも見逃せない。
6年前、彼が最初に引退を表明したとき、やはり街は上を下への大騒ぎだった。テレビの記者が街頭で道行く人々にコメントを求めていた。ほとんどの人が「信じられない」「残念だ」「さびしい」などとこたえていたなかで、ただひとり、中国系の移民とおぼしきおじさんが
"Michael who? I don't know whom you're talking about ... A basketball player? Whoever that person is, he has no effect on my life."
「マイケル誰だって? 知らんね。バスケットの選手? 誰でもいいけどわしの人生にはなんら影響ないね」
と言ったのが耳に残っている。このときはまだ私もマイケル・ジョーダンの偉大な業績などほとんど知らず、たかがスポーツ選手の引退でこの騒ぎは何だと少々鼻白んでいたものだから、このおじさんのコメントに大いに溜飲を下げたものだった。
でも、ヒーローが自分の街にいたことも知らずに暮らしているというのは、考えてみればちょっともったいない気もするよね。マイケル・ジョーダンならまだしも、私たちのヒーロー、イエス・キリストだったらどうだろうか。この世界中、実は多くの人が
「イエス誰だって? 知らんね。神のひとり子? 誰でもいいけどわしの人生にはなんら影響ないね」
と聞かれればこたえるのではないだろうか。そういう人達にマイケルのプレーを説明するのと同じ様に、否それの何倍もの情熱をもってイエス・キリストの愛を伝える準備が自分にはあるだろうか。
少なくともそうありたいものだと思う。
きのう一日中外でかまくら作りをしたせいで、背筋や上腕二頭筋が重たい。かまくらは毎冬大雪が降ったあとに1回だけ作ることにしていて、これが通算4回目になる。なぜかまくらかというと理由は特にないのだが、シカゴの冬に外に出て家族みんなでできることというと雪遊びくらい、雪だるまよりは少し作りがいがあるという程度のことである。もちろん一番喜ぶのはかまくらの中でのおままごとをもくろむエミとみん。まぁしかしお手伝いしてくれるといっても、できることといえば壁の穴を雪でふさぐくらい、あとは力仕事をする私の横で雪合戦やソリ遊びをしている(写真はこちらです)。
3年前に初めて作ったときは制作のノウハウが全くなく、いいかげんな作り方だった。回を重ねるうちに少しずつ学んだこつを書いてみると:
(1) 気温が一日中氷点下の時は、雪がさらさらでほとんど仕事にならない。こういう場合は大量の水を接着剤として用いなければならず、服がばりばりに凍り付いてすこぶる面倒である。
(2) 昼すぎ、雪が全体にゆるんでいるうちに壁の下の方から積み上げはじめ、気温が下がって雪の締まる夕刻から宵にかけて難しい天井部にかかれるように作業を計画するとよい。
(3) 雪を積み上げる際にはブロック状に固めたものを敷き詰めるのが定石とされているが、それが面倒な場合には四角いプラスチックの容器にぎゅうぎゅうに詰めた雪を逆さまにして抜いてやれば似たような効果がある。ただし雪がある程度湿っていないと崩れてしまう。私はリサイクルの空缶を入れる容器を使っている。
一番難しくていまだに完全に習得していないのが壁を内側にすぼめて天井を閉じるさじ加減である。あまり急激に閉じようとすると壁が自分の重みで崩れてしまうし、いつまでも閉じないでいるとかまくらの背が高くなるばかりで天井が一向に出来上がらない。とくに今回のかまくらは直径約3.5メートルといままでのものに比べ大きかったので、横壁から天井への移行に入る前に陽が暮れてしまった。内部で丸く仕切られた小さな星空を見上げながらの一服も悪くなかったが。プロはこの辺のところどうやっているのだろうか。
(4) 上達するまでは裏庭とか近所の人の目につかないところで作るべし。前庭で作っていて犬の散歩に来たおじさんに話しかけられ、気をそらしているうちに天井が落ちたことが1回、それに似たようなことが何回かあった。
そして最後に
(5) 一日で作りきれない場合は天気の続く時を選ぶべし。いったん天井を閉じてしまえば多少の雨にも耐えられるが、上を開いたままの状態では風雨に対する耐久性がない。
実はこの第5点、今日学んだばかりのことである。まさかあんな上天気の翌日、しかもシカゴの1月に大雨が降るとは思わなんだ。(ちなみに私の肩書きは気象学教授である。)
うーむ今年は前例を翻し、2月にもう一度チャレンジしてみるかな。
世の中理不尽なことは多い。大学院の時にいた研究所は、スーパーコンピュータの演算回路を守るために空調をかなり低温に設定してあり、真夏で外がうだるような天気の時もオフィスは寒くて足元に電気ストーブを炊かなければならなかった。なんというエネルギーの無駄遣い。
1歳半になるま〜やの断乳を決意して4日目になるが、断乳時の親子関係というのも随分と理不尽なものだ。当然ま〜やはお母さんのおっぱいが欲しいから泣き叫ぶ。お母さんだっておっぱいが痛くなるくらい張ってしまって、本当はま〜やに吸ってもらったほうがずっと楽なのだ。今まで通りにま〜やと一緒に寝ていたのではお母さんの気がくじけて断乳できないから、お父さんである私がかりだされて子供部屋でま〜やといっしょに寝かされる。ま〜やが夜中におっぱいが欲しくて泣いたらあやしてくれということらしい。ところがこちとらにはおっぱいにとってかわるような強力な武器など何一つないうえに、もともと子供の泣き声や地震のごときでは目をさまさないタイプときている。どーもこういうのは苦手だ。ま〜やにしてみればお母さんから引き離されたあげく、お呼びでないお父さんの登場とあってますます半狂乱のようにわめく。同じ部屋で寝ているみんにとってもえらい迷惑である。家族みんなが余分なエネルギーを使わなければならない。
思えばエミもみんも、もともと指しゃぶりをする子だったので、断乳は比較的スムーズに行った。ま〜やは床に落ちているものは何でも口にいれるくせに自分の指だけはくわえようとしない。案の定断乳実行の道のりは平坦ではなかった。
ひと晩目。狭い子供ベッドの上で寝相の悪いま〜やと一夜をすごす。寝入り鼻はもちろん、2時間にいっぺんくらい目をさまして大泣き。そのつどなすすべなく泣き寝入りするまでじっと我慢。こっちの体は半分ベッドからずり落ちた状態で当然眠りも浅く、かまくら作りの後遺症もあって、げんなりと朝を迎える。はちこもま〜やの泣き声が気になって眠れなかったらしい。
ふた晩目。相変わらず寝入り鼻は戦争状態。かろうじて寝かしつけたあと仕事をしていると何か音がするのでのぞいてみると、いつの間にかま〜やが自分の部屋から抜け出して寝ているお母さんのベッドによじ登ろうとしている。子供部屋に連れ戻すと当然大泣き。しかし、以後は目をさましても隣にお父さんがいるのを確認するとあまり泣かなくなった。あきらめがいいのかもしれない。しかし、昼すぎ僕のオフィスに「おっぱい欲しがって泣いて昼寝してくれない」とはちこから半べその電話。なるべく早く帰るからと言ってなだめる。
3晩目。最初はやはり泣いたが、お昼寝抜きが効いたのか寝た後は前ほど頻繁に目を覚まさなくなり、覚ましてもしばらくベッドの上に座っているだけで、そのうちおとなしくまた寝てしまう。最初の二日に比べ、こちらも少しよく眠れた。
一体この先どれくらいこれが続くのだろうと思っていると、昼過ぎまたはちこから電話があった。
「あのね、ま〜や、1回も『ぱいっ!』って言わないで寝たの。」
「やったじゃん」といいかけて、はちこの声がとてもさびしそうだったのに気付く。あんなに好きだったおっぱいもういらなくなっちゃったの?という痛切な心の叫びが伝わってくるようで、一瞬言葉を失った。
う〜ん、やっぱり、いつかは通る門とはいえ、理不尽だよなあ。
「科学と信仰はどう両立するのですか」という質問をよく聞く。「この科学の発達した世の中になぜ宗教が必要なのか」という声も。大方は私がサイエンティストでありクリスチャンであると知っていて興味半分に聞いてくるようである。確かに、そういうことは自分でもしょっちゅう考えている。しかし、頭の中で考えているだけでは科学の現場にいるクリスチャンはやっていけない。InterVarsity(アメリカのキャンパスミニストリー)の学生集会などに招かれていくと、「生物学の教授が無神論者で、聖書的な世界観を頭から馬鹿にした講義をしている。どうしたらいいのでしょう」なんていう質問がぽんぽん出てくる。
このテの苦情に対して私は大概いつも、第一ペテロの3章9節から17節に基づき、まず、講義に対する熱心な姿勢を失わず、先生のいわんとしていることをよく学び、自分のベストを尽くすことを勧める。どんな高名な教授でも、自分の講義をよく理解し、努力して一定の成績を修める学生には一目置くものである(必ずしも天才である必要はない)。やがて教授と一対一で話しをする機会も生まれてくるかもしれない。クリスチャンの使命はまず人間関係を築くことであって、自分の神学(あるいは科学)を固守することではないのだから。
とはいえ、頭の中がごちゃごちゃしているのは気持ちが悪い。(私はどうもその心配はないようだが。よくはちこにあなたの頭は空っぽねといわれる (^_^) )自然科学と信仰の関係についての混乱の多くは、科学がどういう学問かを知らないところからくると思うので、ちょっと整理しておこうと思う。
1. 自然科学は物質世界のできごとだけを対象とする。
価値観、モラル、霊の世界などは守備範囲外であって、これらについては沈黙を保たざるを得ない。なかには人間の精神も分子レベルの物理化学の研究対象と考える科学者もいるが、しかしそれはあくまでひとつのパラダイムであって、霊の世界(そしてもちろん神)の存在そのものを否定することにはならない。科学者にも大勢の宗教家がいる。
2. 自然科学の手法は人間が考え出したルールである。特に、客観性を重んじるために a. 実験や観測によって再現・実証可能な帰結だけを事実として受け入れ、
b. 研究結果は他の研究者たちに厳しく審査されて初めて陽の目をみる。(テレビでよく報道される学会発表というのはこの前段階であって、研究者たちがみな同意した結論とは限らない。)
しかし一方で、
c. どんなに確立したと思われている理論体系も、将来にわたって相反する実験や観測結果が出てきた場合は修正されなければならないという意味で、絶対的普遍性を保証されていない。(そうでなければ科学の進歩はなくなってしまう。)
というわけで、科学というのはなかなか制限の多い、流動的な学問である。コーヒーにクリームを入れてかきまわせば混ざる、というようなあたりまえのことも、上のルールにのっとって記述しようとすれば、ややこしい方程式を大型の計算機で解かなければならない。しかも、計算機の中で起こっていることは調べれば理解できるが、解いている方程式自体は人間が考え出したものだから、答えが本当に現実のコーヒーを現わしているかどうかについては「現時点ではそう思う」としか言えない。科学は「真理を究明する学問」とよくいわれるけれど、厳密には「物質世界のモデルの中の真理」は究明することはできても、現実世界の不変の真理には手が届かないのだ。
私は聖書の記述を科学的な目で評価することをあまりしない。ひとつには聖書は近代科学の興亡にかかわらず永遠の真理だと信じるからであるが、もうひとつは科学が神のみわざをはかる手段としてはあまりにも制限が多すぎると思うからだ。太平洋の水を穴のあいたバケツで量っているような気がする。
たとえば、神が特定の目的をもって被造物の摂理に介入する、奇蹟。 科学が客観性を最大公約数とする以上、聖書に書かれている奇蹟を研究対象にすること自体、不毛な試みである。
では、クリスチャンにとってサイエンスは無用の長物なのだろうか? もしそうだったら地球物理学などとっくの昔にやめている。私にとっては研究も立派な「礼拝(act of worship)」である。
これについてはまた次回。
昨日、礼拝から帰ってきて「科学と信仰」の続きを書こうと思ったら、千代大海初優勝のニュースが入ってきた。本割と優勝決定戦取り直しの末に若乃花を制しての逆転優勝で、来場所の大関昇進はほぼ間違いないそうである。これを聞いて私は、千代大海本人の力量もさることながら、師匠である九重親方(元横綱千代の富士)の指導能力に思いを馳せざるをえなかった。自分の現役時代(四つ相撲)と全く異なるタイプ(突き押し)の弟子の素質を見極め、持てる力を十二分に引き出してやるというのは容易なことではないはずである。かつてのスターが必ずしも有能な指導者とならないのは相撲に限ったことではないが、九重さんは現役を退いてなお頭角を顕わしておられるようだ。
現在私が指導している大学院生は3人。それぞれに持ち味が違う。たとえばJ君。彼は全盲である。4年前にバージニア州から盲導犬を連れてやってきて、「先生の論文は全部点字に翻訳して読みました。学生にしてください。」とのたまわった。その熱意と優秀な大学の成績を考慮して、夏のインターンシップを経て次の年から私の研究室に加えたのである。正直言って盲人に博士課程水準のサイエンスを教えることができるか始めは自信がなかった。式やグラフの中味はどうやって伝えたらいいのか。しかし、私の心配をよそに、J君は点字のキーボードでコンピュータを自在に使いこなし、研究室内外の学生たちの親身の手助けもあって、決してやさしくない物理科目でも立派な成績を修めてきた。彼のために私が教室で特別な配慮をする必要は全くといっていいほどなかった。(なにしろ彼はスキーはする、魚釣りはする、映画館にも美術館にも行く、と私の盲人に対する偏見をことごとく打ち砕いたのである。)
難しいのはJ君の眼が見えないことではなく、彼のサイエンスへのアプローチの仕方が私のそれと全く異なっていることである。私のはまず紙や黒板に絵を描いて問題のイメージを作り、その上で数式をたて、出てきた答えを観測データと比べてああでもないこうでもないと解釈しなおしているうちに理解を深めて行く、というやり方だ。ところが、J君のやりかたはいたって直観的である。
J「これの答えははこうですよ(いささか断定的)」
ぼ「君ぃ、何もやってみないうちからどうしてわかるのかね」
J「いや別に。そうだと思うんです。さっそく論文を書きましょう」
ぼ「・・・・」
経験からいうと、彼の直観が正しいのは30パーセントくらいである。初めは、そんなんじゃだめだよ、僕の言う通りにやってみなさいと手ほどきしようとしたが、私の型にはめようとすればするほどJ君の研究の進みは遅くなるように感じられた。結局、私の務めはぼぼる二世を生産することではなく、彼の直観力を30パーセントから60パーセントに、そしていずれ90パーセントへと伸ばしてやることなんだ、という結論に落ち着いたのは比較的最近のことである。まだまだ先の長い話ではあるが。
自分の娘たちを見ていても、どうして3人でこうも違うかねと考えてしまうことが多い。また、自分の子なのにどこからこんな人格が出てきたのかしらん、ととまどうことも。一人一人をユニークに造られた神様の創造の偉大さに脱帽すると同時に、教育の難しさをあらためて痛感する今日このごろである。
(科学と信仰の続き)
神は聖書を通し、キリストによる罪からの救いについて啓示されている。一方で、被造物である自然を通してご自身の永遠の力と神性をも啓示しておられる(ローマ書1章19ー20節)。私たちの友人で、学生時代北海道の大自然に触れ、背筋がぞくぞくと震えるような感動とともに「神は、いる!」という確信を覚えたという人がいる。彼はその直後に聖書の学びを通してキリストを救い主として受け入れた。今は牧師になっている。
私たちが自然の営みを観察する時に覚える感動とはどんなものだろうか。南アルプスの稜線から見た朝焼けの富士山、八ヶ岳山麓の奇抜な形をした樹氷、イエローストーンの巨大なバイソンの群れ、コロラドの渓流で釣り上げたにじますの鮮やかな体斑。思わず息を呑むような体験もあれば、味噌汁の中に湧き上がる対流やハイビスカスに群がるくまン蜂のように、どうってことはないけれど見ていて飽きない情景もある。その時によって反応はまちまちであっても、私たちがこれらのことに心ひかれるのは、自然界が多様性の中にも不思議な秩序を現わしているからではないだろうか。
この秩序こそ、創造主としての神の性格を証していると私は思う。
「主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。」(箴言3:19)
「摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。わたしは分別であって、わたしには力がある。」(箴言8:14)
前に、科学は究極の真理に到達することはできないと書いた。しかしながら、現在の私たちの実生活がいろいろな意味で自然科学の恩恵に浴していることも否定できない。科学の成功の秘密とは何であろうか。それは、摂理の基である神が、自然界をもともと秩序あるものとして創造し治めているからだと私は考える。秩序という前提なしには、一般化された科学理論の余地などない。ひるがえって、科学はそれ自体で究極の真理に到達することはできなくても、科学に携わる者は知性である創造主の摂理を信頼することにより、「信仰によって」真理を宣言することはできると思う。この意味でサイエンスは私にとって「act of worship」たりえるのだ。もちろん、私たちが科学であれなんであれ、創造のみわざを鑑賞し理解することができる理由として、神が私たちをご自身の似姿に造られ、恵みによってその知性のかけらを与えて下さっているという事実も忘れることはできない。
実はこれらのことは300年前にすでにアイザック・ニュートン卿がその主著「プリンキピア」で語っていることである。ニュートンといえば近代科学の父として名高いが、彼は「プリンキピア」の中で実に半分以上のスペースを割いて聖書に基づいた世界観を語り、いかに科学的手法がその理にかなったものかを説いている。近代科学がキリスト教世界であった西欧にまず始まったというのは、あながち偶然ではないようだ。
マスコミの報道とは裏腹に、科学者の平均的な一日とはたいへん地味なものである。研究すれば研究するほどいかに自分がものをわかっていないか思い知らされる。数年前に「地震予知連絡会20年の歩み」だったかそんなようなシンポジウムがあって、唯一参加者の意見が一致したのは、「地震予知連絡会20年の成果は、地震予知は20年前にわれわれが思っていたよりずっと難しいということがわかったこと」。たとえクリスチャンでなくても、実験を成功させるにはしばしば祈りが不可欠であることを現場の研究者なら知っている。神の摂理に委ねることができてはじめて科学のさらなる進歩が期待できるのかもしれない。
「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1章7節)
思い立ってオフィスの整理をすることにした。過去7年間の間にたまった空箱やコンピュータのプリントアウト、郵便物の山などで空間が手狭になってきたからだ。いつもはちこに、そんなゴミのようなオフィスでよく仕事ができるわね、と呆れられているのだが、自分ではいろんなものが(理論上は)すぐ手の届くところにあるほうが都合がいいので、ほっとくと机や棚の上のものが勝手に崩れ落ちるという状態になるまでは手をつけないことにしている。同僚にも似たような哲学の人はいて、議論しに行って椅子に腰を沈めると、うず高く積まれた書類のむこう側にいるはずの彼の声はすれども姿は見えず、なんてことがある。もっとも書類をそこまで高く積み上げることができるのはそれはそれで特殊な整理能力であって、私には真似ができない。要するに片付けに適性がないということなんだな、この私は。そんな私でも整理しようかと思うことがあるんだから、熱力学第二法則にも例外ありといったところか。(電話がなっても探さないとどこにあるかわからないというのは、流石にすこし不便である)
地層のように積み重なった書類を、埃を払いながら仕分けしていく。大体は、使うこともあろうかと思ってとっておいたダイレクトメールのカタログだとか、書きかけの論文のコピーだとか、封もあけてない何年も前の教授会の議事録だとか、確かに今まで処分されずに残っていたのが不思議な代物である。当然、そのままゴミ箱行き。(日頃からそうやってればいいのに、という批判は、はちこからもらう前にも母親から20年間頂戴し続けた。)
しかし、中にはおぉと思うようなものもある。コンピュータ用紙の裏側にピンク色のマーカーで描かれた「抽象画」は、はちこがま〜やを妊娠していたときに、みんが描いたものだっけ。お母さんが隣の大学病院で毎月1回の定期検診を受けている間、Daddyのオフィスでみんはぺちゃくちゃおしゃべりをしながらお絵描きをしていたものだった。本人は太陽を描いているつもりなのだが、丸から放射状に出ている無数の光線がひょろひょろしているもんで、髭もじゃの顔か原生動物のようにしか見えない。しかし、何枚もそんなのが出てくるので比べてみると、明らかに上達の軌跡がそこに見てとれて面白い。(「ひげ」の数が次第に減ってまっすぐになり、だんだん太陽らしくなってきたり。)
みんの絵が残っているということは…と思いつつさらに書類の山を下の方にかきわけていくと、やっぱり!あったあった。懐かしいなあ!色あせたピンクの「ひとつ目小僧」や「バニー」は、さらに遡ること3年、はちこがみんを妊娠していた時にエミが同じように描いたものだっけ。エミはひとつのモチーフにかなり凝るほうなので、同じひとつ目小僧でもいろんな表情をしていて愉快である。30〜40枚は下らない、おびただしい数のスケッチが発掘された。
作業をしているうちに、7年間の家族の歩みも自然と思い起こされてくる。あの時ははちこのつわりが激しくてたいへんだったなあとか、みんが生まれた直後、エミを連れて水族館に行った時のこととか。その時その時は一生懸命で楽しんでいるゆとりすらなかったのに、振りかえってみるとみんな暖かい思い出になっているのは不思議だ。
子供たちのスケッチにすっかり見とれてしまい、整理がほとんどはかどらなかった。ぼぼるパパのオフィスが片付く日は、一体いつくるのであろうか。
(c) 中村昇 1999, 2002