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1. 魚釣り 自然科学者といっても理論屋の私は、毎日を机と計算機に向かって過ごしている。けれどももとはといえば、少年時代に思う存分山野を駆け巡ったことがこの道に入るきっかけとなったのだ。中学高校と山岳部に在籍したのが大きかった。1年のうち40日近く山に入り、稜線から手の届きそうなところを雲がふわふわと流れていくのを飽きず眺め、気象通報を聞きながら天気図をひっぱっているうちに、いつか気象学をやろうと思うようになった。 しかしさらにさかのぼると、私が自然に親しむことを最初に学んだのは、父と足繁く出かけた魚釣りであったと思う。釣り無くして父の想い出は語れない。物心ついた頃からあちこちに連れて行ってもらった。 それは近所の池のクチボソ釣りであったり、ヤマベの毛針釣りであったり、渓流のニジマス釣り、ハゼの束釣り、堤防の五目釣り、シロギスの投げ釣り、アジ・サバの乗り合い、ブラックバスのルアー釣りと、凡そありとあらゆる種類の釣りをやった。家族3人で旅行に出かける時も、釣りができるところというのが大前提であり、この点は釣りをしない母もよく承知していた。 とこう書くとあたかも父は釣りの名人のようだが、何のことはない、全くの素人・下手の横好きだったのである。実際、父と出かけて大漁だったことは滅多になく、1匹も釣れないことの方がはるかに多かった。彼は几帳面な性格なので、どこかに出かけるたび写真を沢山撮っては、それを後でアルバムに整理するのを常としていた。当時のアルバムを今ひっくり返してみると、さっぱり成果があがらないことに対する父の自嘲的なコメントが目につく。 「××月△△日、○○渓谷。さっぱり魚信なし。お隣さんは次々と釣り上げているのに」 「△△月○○日、××港堤防。1匹も釣れず。風邪をこじらせホーホーの体で引き上げる」 「○○月××日、△△川上流。今日も全然だめ。あまり釣れないのでイヤになる」 等々。 きっと、息子に釣りの楽しさを教えてやりたいのに肝心の魚が釣れないので、随分とじれったい思いをしていたに違いない。 けれども、私にとっては「父と釣りに行くこと」自体がとても楽しみであったので、大漁の釣りも手ぶらの釣りも、同じようによい想い出である。今食うかと心踊らせながら毛針の流れる先を目で追う瞬間も、夜明け前にごそごそ起き出して支度をしている間も、帰り道に車の助手席で心地よい倦怠感にまどろむひとときも、同じように楽しい体験だったのである。大自然に囲まれて並んで竿を振る時、言葉は交さなくても二人の間に妙な一体感があった。時々ひょいと横をみると父が魚を釣り上げている最中で、「お、やるな」と内心思いながらエールを送ったものだった。 初めは仕掛けを作るところからエサを針につけたり、釣れた魚をはずすところまで全部父にやってもらっていた大名釣りの少年も、次第に自分で仕掛けを工夫し、刻々変化する釣り場の状況を読みとることを覚えて行った。同時に、釣れないときの忍耐も。 こちらがアメリカに来てからはさすがに親子での釣りの機会は減った。最後に父と釣りをしたのは1996年の夏、両親がうちを訪ねてきた時にウィスコンシンの湖でだった。先日もコロラド州を車で旅していたとき、滔々と流れる渓谷にでくわし、こういう所におやじを連れて来たら喜ぶだろうなと思ったばかりである。それももはやかなわぬ夢となってしまった。 さればこの続きは、天国でだ。きっと父は魚を漁るのがうまいイエス様に聞いて最高のポイントに陣取り、私が来るのを待っているに違いない。 2. 闘病
一病息災というのか、私の父はしょっちゅう体をこわしては病院にかつぎこまれた。まだ彼が子供のころ肋膜をやり、それから結核になった。ストマイが出回る前で、肋骨を何本か切り落として病巣を押しつぶすという荒療治でかろうじて回復したものの、これがもとで父の肺活量は普通の人の半分ちょっとしか無かった。 私が小学校3年のときには急性肝炎になり(酒など全然飲んでいなかったのに)、長期間入院した。ちょうどこの時は家の建て替えの最中で、母が一人で建築家や大工さん相手にてんてこ舞いしていたのを覚えている。折りから大阪万博の開催中であり、母は父の看病の合間をぬって、新幹線に乗って一日だけ日帰りで私を万博に連れて行ってくれた。 肝機能が正常に戻るまで父は入退院を繰り返した。そのたびに母とふたりで差し入れを持って病院へ足を運んだ。その後も胃潰瘍、帯状包疹、痔などでたびたび入院し、2年前には結核の再発でまた3ヵ月病院にお世話になった。この時は家を売って引っ越しをする時期に重なったため、母の手伝いのために私も1週間ほどアメリカから帰国した。そして今回肝癌の疑いがあるので検査のために入院しようとしていた矢先、急性間質性肺炎という難しい病気を併発して、生涯の終わりをやはり病院でむかえることとなった。 家族が健康なのに越したことはないが、父がたびたび病気していたことで、私たちのあいだには思いやりが生まれたと思う。用意する食事に気をつけ、入院となれば着替えや果物などを持ってせっせとお見舞いに通った母はもちろん、父もそんな母の健康を気づかい、とくに私が家を巣立ったあとは、自分の体調と相談しながら努めて母の好きな旅行に二人で出かけていた。病に倒れる直前の7月末にも浜名湖に旅行している。ちなみにこのとき父はルアー釣りを試みたが、例によって全然釣れなかったそうである。 亡くなる前に、父は「よくまあ74歳まで生きてこれたもんだよ」と感慨深そうだった。父よりはるかに体の丈夫だった学生時代の友人たちが次々と先だっていくのを目のあたりにして、棺桶に片足つっこみながらも連綿と生きながらえている自分の運命を数奇なものに思っていたようである。 彼の心にイエス・キリストが住んでいることを確認できたのはごく最近だが、自分で生きているのではなく、神に生かされている自分ということをずっとどこかで感じていたに違いない。 父は日頃から自分はいつ死んでもおかしくないと思っていたから、母とも十分話し合い、死というものに対して驚くほど周到に準備していた。医者には、必ず病名・病状を告知すること、延命治療は決してしないこと、ただし臨終に際しては苦痛を和らげる処置だけはほどこすことなどをきちんと文書で請願しており、結果的にはすべて彼の希望どおりになった。またひと月前私が見舞いに行った時、ベッドの上でしきりと書きものをしているので何かと思ったら、「ご会葬の礼状なんてありきたりの面白くない奴が多いだろ、だから自分で書いてるんだ」。これには悲しくなるより呆れてしまった。(もっともこの文章は未完成に終わり、陽の目を見なかったが。) 最期に父と会ってアメリカに帰り、わずか10日で葬儀のために日本へとんぼ返り。リムジンの 窓から遠くに東京タワーが見えた時、普段は気にも止めないその姿に今度はちょっと心動かされた。先月12日間通いつめた父の病室からは東京タワーがよく見えたのである。これからも東京に帰ってくるたび、こんなふうに父のことを思い出すのであろうか。 この地上において、父の人生は多くの病との闘いであった。しかし、今はピンピンした体で私たち家族のことを見守ってくれている。キリストを信じる者は永遠不滅の体をもって復活するという聖書のみことばが、私たちの慰めであり、希望である。 3. 厳しさと優しさ 告別式の日の朝、父に怒られる夢を見て目をさました。 「大体おまえは人の気持ちなんか全然わかってない!」前後の脈絡は、忘れた。 地震・雷・火事・親父という。私は職業で地震や雷を研究する学問にたずさわっているから、こういうものの怖さはよく知っているが、父の厳しさにはやはり格別のものがあった。江戸っ子独特の歯に衣を着せぬ物言いで、家庭でも職場でも、筋の通ってないことはけちょんけちょんにこきおろしていた。 頑張ってもなかなかほめてもらえず、歯を喰いしばったことが何度もある。 あるとき小学校の算数の試験で95点をもらって家に凱旋したことがあった。当然父にも褒めてもらえるものと信じきっていた。ところが父は、とりそこねた5点のことを問いただしたのである。そしてそれが単純なうっかりミスだったということが判るや、ものすごい勢いで怒り出した。自分の力量以上の問題で点を落とすならまだしも、とれるはずの点をとりこぼすとは何事か、というのである。試験で95点とってしかられるのは世の中できっと俺だけだとそのときはひがんだけれど、以後試験の答案にしろ研究論文にしろ、推敲に推敲を重ねる習慣がついた。 父の仕事は小さな私立大学の理事であったが、ここでも彼の辛い評価に涙をのむ部下が大勢いたと、あとになって当事者たちから聞いた。 厳しさの反面、家族を大切にし、ものわかりのいい父でもあった。戦争と病気によって思うにまかせない青春を送ったからだろうか、一人息子の私がやりたいということは、ほとんどやらせてくれた。山も、相撲も、父がいいよと言っていたので、母もしぶしぶ承知していた。サイエンスをやると言ったときも「おまえそれで食っていけるのか」とは聞いたが、だめだとは言わなかった。アメリカに行くと言ったときも、「僕が先に死んだら、おふくろさんの面倒だけはみてくれよ。それが約束できるなら、行ってこい。」というのが彼の返事だった。 家を売って介護付高齢者マンションに入居することを決めたのも、アメリカにいる私に負担をかけないようにという配慮からだった。 去年の暮れ、テニュア昇格が決まった直後におめでとうのファックスを父から受取り、これで少しは恩返しができたかなと思う一方、海のこっちで自分にできる親孝行とはたかだかこんなものか、と肩身が狭かった。 父が仕事をリタイヤして以来、日本はもとより世界中を旅して回っていた両親だったが、父は亡くなる数日前にも母にこう言っていた。
天に召されるまでの1か月間、父は病院で丹念に闘病日誌をつけていた。亡くなるその日の日誌は、急激に悪化した病状についての彼なりの分析ではじまり、病院に向かう途中の母を待ちわびる気持ち、そして最後の1行にはこう書かれていた。 「ママ、僕のオバケの件 忘れなさんな。」 到着した母に看とられて息を引き取る数時間前のことだった。結婚以来自分の闘病生活につきあわされた母へのいたわりと、軽妙洒脱な語り口は最後まで健在だった。(ぼ)
M. Nakamura(ぼぼるパパのパパ) |