ホームぼぼるパパの部屋>Idle Musing 2003年12月

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ぼぼるパパの研究日誌 Idle Musing

12/26/2003 Do You Hear What I Hear?

Said the night wind to the little lamb,
"Do you see what I see?
Way up in the sky, little lamb,
Do you see what I see?
A star, a star, dancing in the night
With a tail as big as a kite,
With a tail as big as a kite."

Said the little lamb to the shepherd boy,
"Do you hear what I hear?
Ringing through the sky, shepherd boy,
Do you hear what I hear?
A song, a song high above the trees
With a voice as big as the the sea,
With a voice as big as the the sea."

Said the shepherd boy to the mighty king,
"Do you know what I know?
In your palace warm, mighty king,
Do you know what I know?
A Child, a Child shivers in the cold
Let us bring him silver and gold,
Let us bring him silver and gold."

Said the king to the people everywhere,
"Listen to what I say!
Pray for peace, people, everywhere,
Listen to what I say!
The Child, the Child sleeping in the night
He will bring us goodness and light,
He will bring us goodness and light."

おそらくこれが今年最後のエントリーになると思う。いつも駄文におつきあいくださって、ありがとうございます。そもそも、この研究日誌とはいったい何で、小生はなぜこんなものを書いているのか。

1. 自分の研究のため。あとで自分で読み返して当時何をし、何を考えていたか、また人の研究の要点はなんだったか、などを思い出すことができる。これが2年前に日誌を書き始めたときの主目的であり、今も大体その路線を保持している。研究者の日々のくらしは研究以外の仕事に追われているため、意識して考えをどこかにまとめておかないと、すぐ忘れてしまう。したがって、基本的にこの日誌はセルフ・トークであり、自分以外の読者の設定をきちんとしていない。また、御意見やコメントを頂戴しても、とくに講義を担当している時期はメールに返事を書くのが2ー3週間はかかるので、いまのところ一般読者との交流は原則としてしていません。

2. うっぷんばらし。考えていることを頭から外に出す作業は、精神衛生上よろしいようです。ろくなことを考えていないときは、なおさらです。

3. 思い上がり。上の二つが主な理由なら日誌を公開する必要はまったくないわけだけれど、駄文でも、いちおう後で自分で読み返して観賞に耐える程度には編集しているので、ひょっとして、世の中にこれを読んでくれる人がいるんじゃないか、という不遜な考えと自己顕示欲が頭をもたげてくる。そもそも、こんな文でも読んでくれる人がいるという思い込みでもないと、意志の弱い小生は、馬鹿馬鹿しくて書き続けられない。しかし、一般読者を意識すると、今度は逆に気を使いますな。ことばづかいや、いいまわしとか。思わず、売らんでもいい媚を売ったりとか。

しかし、ひとことおことわりしておきますが、この日誌を読んで、小生のことをただのおちゃらけた科学者だと思っているそこのあなた。それは違いますぞ。小生がこの日誌に書き綴っていることは、小生という氷山のほんの一角にすぎないのだ。そもそも、サイエンスが小生の人生に占める割り合い、というか、小生の世界観に落とす影響というのはそう大きくはないのである。日誌を書くことができる程度に一生懸命やっているにすぎない。むしろ、この日誌に普段書かれていないことが、小生にとっては大事なのだ。

今年は特に、公私ともに思い悩むことが多かった。

「正義とは、いったいなんなのか」「自分は人に仕えているのか、それとも人の歓心を買おうとしているのか」「そばにいるのにどうして家族の必要を感じ取ることができないのか」。こういう問題にくらべれば、論文がなかなか書けないなどというのは、正直言ってかなりどうでもいいことなのであった。

このようなところを通って、すこしでも思いやりのある生き方へと神様が導いて下さっているのだと信じたい。願わくば、きたる一年がこれらの面で今年よりすこしでもいい年でありますように。

みなさんの2004年がすばらしい一年となりますよう、お祈りしています。

12/25/2003 The Birthday of a King

In the little village of Bethlehem,
There lay a Child one day;
And the sky was bright with a holy light
O'er the place where Jesus lay.

Alleluia! O how the angels sang.
Alleluia! How it rang!
And the sky was bright with a holy light
'Twas the birthday of a King.

'Twas a humble birthplace, but O how much
God gave to us that day,
From the manger bed what a path has led,
What a perfect, holy way.

Alleluia! O how the angels sang.
Alleluia! How it rang!
And the sky was bright with a holy light
'Twas the birthday of a King.

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ書5章2節)

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ書9章6節)

クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日である。(実際に彼が生まれたのは12月ではなかったと考えられている。)飼い葉桶、羊飼い、天使など一見して平和な聖夜のイメージはしかし、キリストがこの地上で遂行する重い任務のはじまりを描いているにすぎない。イスラエル、ひいては人類すべての罪からの解放。(そう、そこには、小生も、あなたも、含まれているのですよ。)そのための十字架。そして死からよみがえり、いまや天の父の右の座で、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。んなわけで、この赤ん坊は、ただの赤ん坊ではなかった。すげいベイビーだったのである。

イエス様、ご降誕ありがとうございます。メリークリスマス!

12/24/2003 I'll Be Home For Christmas

I'll be home for Christmas
You can count on me

Please have snow
And mistletoe
And presents 'neath the tree

Christmas eve will find me
Where the love light gleams
I'll be home for Christmas
If only in my dreams

あるラジオ番組で、女性ホストが電話で聴取者のクリスマスにちなむ「よい知らせ」を聞くというプログラムを聞いていると、ある若い男性のはずむ声がオンエアされた。

ホスト 今晩は。
男性  今晩は。僕には、実にいいニュースがあるんです。
ホスト それはそれは。あなたのいいニュースを是非、聞かせて下さい。
男性  僕は、3日まえにバグダッドの治安任務から帰国して、いま愛妻のいる家に向かっているところです。急に決まったことなので、家内は僕がきょう帰ってくるとは知らないんです。彼女の驚く顔がとても楽しみです。
ホスト まあ、それは素晴らしいクリスマスプレゼントですね!
男性  それだけじゃないんです。家内は臨月で、もう今日か明日にも生まれそうなんです。
ホスト おやおや。クリスマスイブに赤ちゃんが生まれるのと、ドアのところにあなたが立っているのと、彼女にとってはどっちがサプライズでしょう。
男性  僕が帰ることだと思います。
ホスト どのくらい家をあけていたのですか?
男性  9ヶ月とちょっとです。
ホスト つまり、子供だけ授けておいてさっさといなくなり、妊娠中の彼女の愚痴を全然聞いてあげなかったというわけですね(笑)。
男性  いやいや、Eメールや、ごくまれにかける軍の電話でちゃんと聞いてましたけど。(笑)
ホスト 妊娠と砂漠での治安任務ではどっちが大変でしょうかね。
男性  妊娠でしょう。(笑)
ホスト 私の経験から言って妊娠は確かに大変でしたけれど、異国の砂漠で家族から離れて生活するなど想像を絶します。
男性  まあ楽ではなかったですけれど、家族のことを考えて励まされました。
ホスト あなたのような兵隊さんたちが働いてくださっているお陰で、本土は安全です。本当にありがとう。お疲れさまでした。
男性  ありがとうございます。むこうにいるみんなは、国民の皆さんの支援を必要としています。
ホスト 赤ちゃんは男の子ですか、女の子ですか。
男性  それがまだわからないんですよ。
ホスト それもサプライズですね。サプライズがいっぱいありますね。休暇を十分楽しんでください。
男性  ありがとうございます。
ホスト メリークリスマス!
男性  メリークリスマス!

もちろん、この男性のようなラッキーな軍人ばかりではないし、いまだ混乱の中にいるイラクの人たちの立場はどうなるんだ、ということは可能だ。しかし、ここで言いたいのはそういうことではない。理由はわからないが、神様はこの人とこの人の家族にとても良くしてくださった。それだけでGod is good! と言うのに十分ではないだろうか。

Welcome home!

12/23/2003 I Heard the Bells on Christmas Day

I heard the bells on Christmas day
Their old familiar carols play,
And wild and sweet the words repeat
Of peace on earth, good will to men.

And thought how, as the day had come,
The belfries of all Christendom
Had rolled along the unbroken song
Of peace on earth, good will to men.

And in despair I bowed my head
"There is no peace on earth," I said,
"For hate is strong and mocks the song
Of peace on earth, good will to men."

Then pealed the bells more loud and deep:
"God is not dead, nor doth He sleep;
The wrong shall fail, the right prevail
With peace on earth, good will to men."

Till ringing, singing on its way
The world revolved from night to day,
A voice, a chime, a chant sublime
Of peace on earth, good will to men.

『I Heard the Bells on Christmas Day』はアメリカ南北戦争の最中の1864年に国民的詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローによって書かれた。喜びと平安の象徴であるはずのクリスマスを、国土を二分する戦火の中で迎えなければならない苦悩が、3番の歌詞ににじんでいる。(じつは戦争そのものを描いた歌詞があともう2連あるのだが、賛美歌集では省かれるのが普通。ウルトラセブンの12話みたいなもの)しかし、クリスマスベルはその年もやってきた。もっと大きく、深い音で。「神は死んでいない/眠りもしない/悪はほろび、正義が勝る/そして地上に平和、人の心に善意が来る」。

今年はイラク戦争があり、その大義をめぐってはクリスチャンの間でも意見がわれた。平和を求める気持ちは誰でも同じだと思いたい。しかし、現実には、世の中から争いがなくなることはないとイエス自身が語っている(マタイの福音書24章6ー7節)。また、誰でも自分の人生で好むと好まざるにかかわらず「戦い」に巻き込まれることがある。出口の見えない戦いの中でなお、われわれクリスチャンに希望を与えてくれるものはなにか。つきつめていくと、すべては神の目のとどくところで起こっており、最後には神がご自身の正義を成就させてくれるという確信である。私たちが自分の正義を主張して、すすんで争ったり復讐したりしていては平安は来ない。神がご自身の正義にのっとって介入してくれることを信じ、自らを神の正義にあずかるものにしてくださいと祈るときに、はじめて安らぎが訪れる。自分が勝組側にいることが実感できるからだ。

このクリスマス、戦いの中にいるあなたに、この歌を贈ります。

12/22/2003 Joy To The World (もろびとこぞりて)

Joy to the world, the Lord is come!
Let earth receive her King;
Let every heart prepare Him room,
And heaven and nature sing,
And heaven and nature sing,
And heaven, and heaven, and nature sing.

Joy to the earth, the Savior reigns!
Let men their songs employ;
While fields and floods, rocks, hills and plains
Repeat the sounding joy,
Repeat the sounding joy,
Repeat, repeat, the sounding joy.

No more let sins and sorrows grow,
Nor thorns infest the ground;
He comes to make His blessings flow
Far as the curse is found,
Far as the curse is found,
Far as, far as, the curse is found.

He rules the world with truth and grace,
And makes the nations prove
The glories of His righteousness,
And wonders of His love,
And wonders of His love,
And wonders, wonders, of His love.

いよいよクリスマスである。イエス・キリストの降誕を祝う、1年のうちで最も美しい季節だ。今週はクリスマス・キャロルにまつわる話などを書こうかと思う。研究日誌ではあるが、2、3日ならよかろう。

クリスマスの主題はもちろんイエス・キリストの誕生という歴史上の事実であるが、そこに一貫して流れるコンセプトは「喜びと平安」である。ある意味でキリスト教全体を貫く中心テーマのひとつとも言える。こう書くと、戦争やテロのはびこるこの世の中でどうして「喜び」や「平安」が持てようか、そんなものは理想像ではあっても所詮絵に描いた餅ではないか、と思う人がいるかもしれない。

しかし、幸せで平和な環境イコール喜びや平安とは限らない。しいたげられ逆境の中にいても、内に秘めた喜びや平安がひしひしとこちらに伝わってくる人もいれば、表面的には何ひとつ不自由していないように見えても、喜びも平安もないという人だっている。喜びや平安はポジティブ思考や自己啓発の結果として得られるかというとそうでもない。むしろ、努力とは正反対の位置にあるように思える。自分のもちものやお金、地位名声、愛する友人や家族などをすべて失ってなお、生きることへの希望を与えてくれるものが真の喜びであり、平安ではないだろうか。それは結局、この世が提供するものの中にはなく、誰かこの世の外にいる人(=神)が自分のことを愛し受け入れてくれている、したがって自分の命には価値がある、という確信があって初めて得られるものだと思う。キリストの降誕は、聖書の神を信じる人にはその確信を具現するできごとなのである。

このよく知られた賛美歌は、主の降誕のよろこびを率直にあらわしたもので、詩篇98章がベースになっている。作者はアイザック・ワッツ(1674-1748)というイギリス人である。600を超える英語の賛美歌を書き、賛美歌の父と目されている人物だ。しかし、ワッツ自身の生涯は「よろこばしい」状況からはかけはなれていた。英国国教会から一線を画した彼は、聖書にすでに記録されている以外の「賛美歌」を作ることを当時認めていなかった国教会から目をつけられ、おびただしい反対にあった。私生活においても、30代のなかばから慢性の熱病にうなされるようになり、公務からしりぞいて余生約36年をすごした。しかも悲しいかな、背が1メートル50しかない上に頭でっかちで、まったく女性にもてなかった。あるとき、ワッツの書いた詩を読んで彼にほれこんだ女性が会いにきて、ワッツは彼女がとても気に入って結婚を申し込んだが、彼女はワッツの容姿をどうしても受け入れることができずに断ったそうだ。一説によると、彼が上の賛美歌を書いたのはこの事件の直後だったという。

通常なら喜びの歌を書くような気分にはならないはずだ。やけくそだったのだろうなどという憶測ができなくもないが、ワッツが本当に神様を愛していたことを考えると、神様のめぐみによって、このようなcheerfulな歌が与えられたのだと思う。喜びが状況の如何によらないことを端的に示している。

ちなみに、日本語訳の「主はきませり」というのが子供のころ何のことか意味不明で、小生なりに「シュワッキマセリ」だから、ウルトラマンの歌かなんかだろうと、本気で考えていた。

12/19/2003 輸入規制

暮れから正月にかけて、小生の母が地熱発電とオーロラの観察をかねてアイスランドに旅行に行く。流石は地球物理学者の親だけのことはある。(って、本人はぶつりのぶの字も知らないのだが。いや、といっては嘘になるな。ぶの字は知っているがぶつりは知らないというのが正しい。)ちょうど母からまた小包がとどいたこともあって、ちょっと電話をかけて話した。そのとき、母がもうしわけなさそうにいうには、

「悪いけど、食べ物の小包はこれで最後になりそうよ」

もちろん、この歳になって日本の親からわざわざ食料をさしいれてもらわなくたって全然困らないわけだけれど、子供達に日本のお菓子や食べ物を食べさせてやりたいというおばあちゃんの好意なので、「無理しなくていいよ」と言いつつ、いつもお世話になってしまっている。このあいだの干し貝柱の一件のあとでは、小生の話を聞いて、4袋ぐらいどさっと箱に入れてきた。それがいよいよむこうからもう送らないと言うのだから、さすがに体力の限界ということかなと思ったが、どうもそういうことではないらしい。

これから3か月たつと、日本からアメリカに食料の小包を送る場合、あらかじめインターネットで宛先人住所のほか送る食べ物の種類と買った場所・日時などを記入して、アメリカ側からオーケーをもらったものしか送れなくなるのだそうだ。これって、おそらく生物テロにそなえたアメリカの本土防衛策の一環なのだろうが、実に迷惑な話である。こまかい駄菓子をどこでいつ買ったかなんて記録はいちいちとらないのが普通だし、それをインターネットで登録するなど、コンピューターに通じていない小生の母などにはできっこない。孫がアメリカにいるじーちゃんばーちゃんには厳しすぎる処置である。なんとかならんものですかね。

12/18/2003 おっと

魂とまことによるのであるから → とまことによるのであるから

でしたね。この違いは、大きいかも。

12/17/2003 感謝

つきなみだが、家でクリスマスカードを書いている。この半年間ほぼ毎日曜日、朝夕いっしょに演奏してきた教会のワーシップ・バンドのメンバーとオーディオ・ビジュアル係の人たちひとりひとりに感謝の言葉をそえて。立候補したわけではないとはいえ、音楽のトレーニングを全く受けていない小生みたいなリーダーに、家内も含めみんなよく文句も言わずについてきてくれたと思う。本当にありがとう。

Eb(フラット3つ)やAb(フラット4つ)の曲が多い賛美歌を、カポも使わず一生懸命ついてきてくれた少年ギタリスト。逆に最近ギター用のワーシップ・ソングに多いE(シャープ4つ)の曲のメドレーでキーボーディストをあっぷあっぷさせてしまったこと。8分の3拍子の曲にドラムスがどうしてもうまく乗らなくて苦労したこと。O Holy Nightでアルトにhigh G(上のソ)を歌わせようとしてひんしゅくを買ったこと。歌詞がごっそり抜け落ちているのが礼拝の直前になってわかり、サウンドブースの係にその場で必死にパワーポイントにタイプさせたこと。冷や汗が出るようなことがいっぱいあったなあ。

でも何より、みんなが神様のことを礼拝するのが大好きで、そのことで一致しているのが強みだ。賛美は音楽のテクニックじゃない。魂とまことによるのであるから。

12/16/2003 向い風の季節

学科の同僚の助教授のMがテニュア(終身雇用)をとりそこなった。キレモノ中のキレモノ、分野のホープと目されたMは6年前、数十万ドルもする誘導結合プラズマ質量分光計を大学がスタートアップで提供し、鳴りもの入りで迎えられた。学会の新人賞はとる、大学の優秀講師賞はとる、月の生成過程に決定的な拘束条件を与えた彼の博士論文にもとづく査読論文は100を超える引用を受ける、NASAのいくつものミッションの審査委員を勤めるなど、どこをどうとってもテニュアは間違いないだろうとみんなが(少なくとも最近まで)思っていただけに、この結果にはうーんと唸らざるをえない。彼の昇進の件について10月の教授会で話しあわれたことはここに書くことはできないが、小生の意見では彼は昇格されてしかるべきだったと思う。わからないものである。テニュアをとれなかった教員は翌年の6月の末をもって大学を去らなければならないのがふつうだ。Mなら他の大学に職を取ることは間違いないだろうが、数カ月の間に職探しをしなければならないのはしんどいし、第一本人には晴天の霹靂だったろう。

毎年12月15日が全学を通じてテニュア審査の結果発表日と決まっている。小生は今日まで知らなかったけれど、きのうMの奥さんと道ですれちがった時にほとんど失念したような表情をしていたのは、そういうことだったのか。今日の午後になって学科長から学科全員にメールがまわってきて、明らかになった。学科長も仕事とはいえ、このようなお知らせを出さなければならないのは辛いことだと思う。しかし、彼のメールは愛に溢れていた。学科全体へMへのモラルサポートを訴えるだけでなく、この件に関して本人以外でも心情のはけ口が必要な者はだれでも話をきくからオフィスへ来るように、と書かれていた。実はMのオフィスは小生の隣なので、一声かけてこようとのぞきにいったが、早々に帰宅したもようでドアが閉っていた。

しかし、と思う。スタートアップはコンピュータ一台、賞とはおよそ無関係、論文はめったに書か(け)ないし、書いても10くらい引用されればいいほう、という小生がテニュアを持っていて、Mみたいなのが取れないのだとしたら、justiceとは一体なんなのだろう。かなり肩身が狭いぞ。神様が何かの理由で小生をシカゴにひきとどめておくために、特別な便宜をはかってくれているとしか思えない。実は今あることでかなり思いきった決断をしようとしているのだが、Mの件に直面し、ちょっと急ぐのをやめてもう少しゆっくり深く祈ってから決めようと気持ちがかわりつつある。

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(箴言16:9)

12/15/2003 これはなんだ?

もうすぐクリスマスである。イエス・キリストの降誕を祝う1年のうちで最も美しい季節だ。秋学期の成績も提出して、本来やっとひと息というところなのだろうが、1年の疲れが蓄積したか、単に歳のせいか、どうも頭がぼけているようだ。教会の礼拝の準備で、賛美歌の歌詞をワープロに入力していた時のこと。タイプしおわって教会のオフィスにemailする前に最後の見直しをしていた小生は、何かがおかしいことに気がついた。よく見ると、"What Child is this?" (「みつかいのたたえ歌う」聖歌129番)とタイプすべきところ、一語抜け落ちて"What is this?"になっている。あぶねーあぶねー。Nativity without the Child is no nativity AT ALL!! それにしても、これには我ながら、笑えました。

ところで、賛美歌の日本語訳って、文語調のものが多いよね。"The first Noel"の日本語タイトルが「ノエルをばはじめに」(聖歌127番)というのは「ノエル」という外来語と「をば」という文語の組み合わせが卓抜で、トニー谷/宮城まり子の「さいざんすマンボ」を彷佛させるものがある。

今日は学科のクリスマス・パーティー。パーティーといってもみんなで食べ物を持ち寄って会議室で一緒に食べるだけで、出し物もゲームもない、いたって質素な集まりである。家内に作ってもらって持参したラーメンサラダが好評だった。そのあと、学科長と流体実験室にわりあてられる候補の教室をいくつか見て回った。4階の旧暗室スイート、3階の旧X線回折実験室、地下2階の元祖流体実験室と中をのぞいたが、どこも物置き状態になっており、まず古い器材を大ゴミに出すところから始めなくてはならない。地下は自分のオフィスから遠いし、暗室は壁を一部とりこわさなければいけない。X線実験室には床面排水溝がないなど、どこも帯に短したすきに長しといったところ。しかし、いずれにしてもスペースは十二分にあるので、うまくいけば実験室兼教室としてMITやテキサス大に勝るとも劣らないものができる可能性がある。楽しみだ。

12/12/2003 Software War

うちの業界は残念ながら(?)テクノロジーの進歩と切り離せない部分があり、まわりがどんどん新しい機材やソフトを投入しているのに、「おれ様はそんなものはいらない」などと強がっていると、いつのまにか浦島太郎になっていたりする。Keeping up with the Jonesesというのはどうも性にあわないのだが、時にはやむをえないこともある。たとえ浦島太郎でなくても、人と違うものを使い続けるというのは、スタンダードからはみ出して損をすることが多い。その昔、製品の質としては優れていたベータ式のビデオがVHSに駆逐されてしまったのも、似たようなダイナミックスによるのであろう。

世の中には、複数のメーカーが同じような機能をそなえているソフトで覇を競っている分野がいくつかある。デスクトップ出版のInDesignとQuark Express、イラストレーションのIllustratorとFreeHand、楽譜作成だったらFinaleとSibeliusといったぐあいである。個人で使う目的でどちらかを選ぶ場合は使い勝手のよさがもちろん第一の基準だが、組織の中では、他のみんながどっちを使っているかというのが重要な要素となる。みんなが使っているソフトにはライセンス料の割り引きがあったり、サポートも充実していることが多いからだ。一人で違うソフトを使っていると、何か問題が起こった時に同僚に聞いても役にたたないことが多いし、下手をすると同僚とファイルの交換することができないか、できてもいろいろと面倒だったりする。

今まで4年間ほどIDLという商業ベースのデータ解析とグラフ作成ソフトを使ってきたが、はじめのうちは学科でもまとまったユーザがいて比較的安価にサイト・ライセンスが買えたのに、最近では小生ともうひとりの同僚が使っているだけで、来年からは1年間のライセンス料も3倍にはねあがることとなった。で、他の同僚達は何をつかっているかというと、MatLabと無料のNCL。とくに国立大気科学研究所という言ってみれば同業者の組合が作って出しているNCLは、コンタープロットの背景に入れる世界地図の投影法も各種揃っているし、HDFやnetCDFなどの共有ファイル・フォーマットにも対応しているなど、IDLと機能的にそう違わない。そこできょうはじめてNCLをダウンロードして試してみた。意外とインストールに時間がかかってしょっぱなから結構くじける。もともとはUNIX用のオープンソース・コードなので、Mac OS Xに運び込むにはfinkを使ってインストールするのだが、finkそのものを最新版にアップデートするのに随分時間がかかった。また、NCLのインストーラがなぜか作動環境を自動的に設定してくれなかったので、.tcshrcファイルに環境設定行を書き足す必要があり、そんなことはマニュアルにひとことも書いてなかったので、試行錯誤をくり返す羽目に。やっと簡単な線グラフのプログラム例を実行するまでに、3時間くらいかかった。道具の梱包を解いて使い方を学ぶのにかかる時間としてはやや長いかんじだ。さすがに無料のソフトだけのことはある。いっぽう、Webをもとにしたサポートやユーザーグループは結構充実しているようだ。

12/11/2003 ウェブページのデザイン

きのうiSightでは画面が左右反転すると書いたが、あのあと調べてみると、反転するのはスクリーンに映る自分自身の画像だけで、相手の画像はちゃんと正しい方向に映っていることがわかった。つまり、自分には自分の鏡像が見えているが、相手にはきちんと正面から見たこちらの顔が見えているのである。なぜこんなややこしいことになっているかというと、ビデオ会議の際にはスクリーンを見ながら机の書類に手をのばすことが多く、自分の右の方に映っている書類に手をのばすときには自然と右手が動くはずで、鏡像ならこれがスムーズに行く。正写像だと左手を動かさねばならず、勘違いしやすいらしい。それなりのロジックに基づいているわけだが、そうと知らずに筆談をしようとした小生は、自分が書いた文字が左右逆になっていることにあわて、紙を裏がえしたりしたもんだから、今度は家内の方が混乱したという次第。どっちにせよ慣れるまではぎこちない。

さて、ようやく数週間の間講義から解放されるので、懸案になっていたオフィスのホームページの改訂にぼちぼち手をつけている。なにせ、最後にまともな内容をアップロードしたのが7年前なので、そろそろ何とかしないと現実をほとんど反映していない。同僚のピカピカのホームページに比べ、あまりにも見劣りがして幽霊屋敷のようだ。日記の更新のようにちゃかちゃかとは行かないところが、苦しいところではあるが。

12/10/2003 情報伝達の手段

きのうの夜は仕事を始める前にうかつにもソファーで眠りこけてしまい、目がさめると明け方の2時だった。この時間はふだんならまだまだ宵の口なので、起きて日記の更新でもしようかと思ったのだが、たまに不規則なことをすると生活のリズムが狂うかもしれぬと思い、そのまま朝まで寝ることにした。しかし、考えてみればこの時間に寝ると言うことの方がはるかに不規則なわけで、ベッドにもぐったものの目はぱっちりさえわたり、いつ眠くなるかと辛抱に辛抱を重ねた結果、朝の5時半に時計を確認したのを最後にようやく夢路をたどる。結局いつもの就寝時間とかわらない。

さて、ウルトラセブンの話題が出たところで。ウルトラ警備隊の隊員はビデオシーバという通信機器を交信に使っていたが、こんにちのテクノロジーはビデオシーバを実用化するまであとどのくらいのところまで来ているのだろうか。カメラ付きの携帯電話は普及しているのだから、そう遠くない将来に実現可能なのではないかと思われる。もっとも、ビデオカメラや発振器そのものを小型化したり、ビデオのような大容量の信号を無線で無理なく送るためのバンド幅の確保など、いくつかの障壁はありそうだが。何といっても相手の表情を見ながら話ができるというのは、コミュニケーションの次元をぐっと広げる。音声だけでは伝えきれない表情のニュアンスとかも伝えられるし、手話とかも使えるようになるし。結果としてミスコミュニケーションも減るであろう。なにしろ地球の安全を預かるウルトラ警備隊が採用していたのだから、効果のほどは実証済みである。

てなことを考えて、ビデオシーバはまだとしても、それに近い路線として、インターネットを使ったビデオチャットに目をつけた。最近家とオフィスのマックにiSightというWeb Camを設置してビデオチャットの試用を開始した。その結果、いろいろな功罪が見えてきた。まず、もちろん最大の利点は家のリビングにいる家内や子供とオフィスにいながら面とむかって話ができること(厳密には、カメラの位置と画面の位置には微妙なずれがあるため、「面とむかって」ではない)。電話で感じる距離感が一気に縮まった感じだ。逆に、プライバシーががんがん外にもれるため、電話と違って、チャットの最中はオフィスのドアを閉めておく必要がある。昼休みとはいえ、カミさんや子供を前に鼻の下を長くしているところを人に見られるのは、なんとなく気恥ずかしい。

今日は、家内とビデオチャットの最中に、家のコンピュータのスピーカーに不具合が生じて、小生の声がむこうに届かなくなってしまった。こうなると、ビデオチャットは逆にいらいらする。こっちが何を大きな声でわめいても、「わかんなーい」「きこえなーい」という返事が帰ってくるばかり。しまいには「6時5分のバスで帰る」と紙に大きな字で書いてカメラに向かって見せ、「ビデオ筆談」を始めるしまつ。ところが、iSightはなぜか画面が左右反転しているため見えるのは「鏡像」であって、筆談の文字を解読するのも時間がかかる。便利なんだか不便なんだかよくわからん。電話の方がよっぽど速い。

12/8/2003 ハイブリッド・ジャーナル

つい最近論文のレビューを頼まれたAtmospheric Chemistry and Physics (EGU)というジャーナルは、新しい試みとしてオンラインと印刷のハイブリッド出版の形態をとっている。まず、編集者がレビューアーに初期採点を依頼する(期限1週間)。ここでは細かいことではなく、題材の適性、手法の新しさやてがたさ、図面の見やすさなどの論文としての大雑把な体裁について採点。これで合格点をもらった論文は、ただちに公開討論の部へ「オンライン出版」される。公開された論文には、それから8週間の間、著者、レビューアー、編集者を含めて、誰でもおおっぴらにコメントをつけ、またコメントに対し返答することができる。一方その間、レビューアーはきちんとした査読をしてレポートをまとめる。8週間の公開討論のあと、著者はレビューアーのレポートと、討論で出てきたコメントに対してきちんと応答して原稿を改定し、4週間以内に最終稿を提出する。そして受理された最終稿は印刷出版される。

目新しいところは公開討論のところである。おそらく編集部の意図としては、原稿の段階で広く研究者の意見を反映させることで、論文の質の向上をはかるとかそんなことなのだろうが、どうも手数がかかるわりには効果のほどは今ひとつという気がするなあ。ためしに公開討論の場に出かけて並んでいる論文を見てみても、ほとんどの論文はコメント数ゼロ、たまに1つとか2つ、多くてもせいぜい5つとかその程度のものである。これではまるで閑古鳥の鳴いている縁日の屋台みたいなもので、きわめて低調という印象をぬぐい得ない。理由として考えられるのは、(1)このジャーナルの存在そのものが知られていない。(2)レビューアーでもないのに人の論文の原稿を読もうと思うからには、よほど面白い論文でなければならず、残念ながら大多数の論文は面白くない。(3)公開されている論文のほとんどが文句ない出来ばえで、ケチをつけるスキがない。まあ、(3)はありそうもないから、(1)と(2)でしょうね。とくに(2)が当たらずといえども遠からず、ということになると、公開討論に出してもコメントが一個も貰えなかった論文の著者は、ふん、誰も自分の論文には目もくれなかったと気落ちすることになるのではないだろうか。そんなことなら、通常の非公開レビューの方が無駄も少ないし、ずっといいと思うのだが。

こういう冗長さって、たとえばウルトラセブンが出てくる前にカプセル怪獣を無理して使うとか、そんな感じかな。

12/5/2003 進化と異時性

学期最後のセミナーはUCLAのMark WebsterとHarvardのAdam Maloof。Markの話は進化論と発生学の接点をさぐる興味深い内容だった。一般に生物の形態変化に関して、発生学的な見地からは、発達率または発達の持続時間が変わる(異時性)、発達のおこる場所や、発生そのもののタイプが変わるなどいくつか原因が考えられるが、最近では異時性がもっぱら脚光を浴びている。たとえば、ある種の三葉虫の成虫は別の種類の三葉虫の幼生に極めて近い形をしていて、これはなんらかの理由により前者が後者から進化したことを示唆している。つまり、ある時、「オレとオレの子孫はこれ以上成長するのをやめた」とピーター・パンみたいなことを言い出したやつがいたわけで、これは成長の期間が短くなった(あるいは、成長期間は変わらなかったが成長率が小さくなった)という意味で異時性が形態の変化を生み出した典型例である。

しかし、どうも異時性は進化のメカニズムとして強調されすぎているようだ、というのがMarkの論点。というのも、異時性を定量化するにあたって、ほとんどの研究が個体のある特徴ひとつだけ(たとえば、体長)を取り出して、その特徴の時間発展を議論している。変数がひとつならば、どのような変化も発達率と発達の持続時間の変化で説明できてしまうので、「異時性」が唯一のメカニズムのように思えてしまうが、もちろん生物の身体的特徴は一つの変数でははかりきれない。したがって、真の異時性は多変数の位相空間内における軌道の長さと軌道上での移動速度で測定されるべきである。もし、軌道速度と長さだけでなく、軌道の向きそのものが変わっている場合は、個体同士の間に相対成長がある(つまり、身体の各部で成長率の差がことなっている。ようするに違う形に育っていくということ)ことになり、これは異時性とは違うメカニズムである。

このことを具体的に示すために、Markは同等の発達段階にある種類の異なる三葉虫の個体を比べるにあたって、共通の身体的特徴を10数カ所の点で表現し、これらの点が両種でどれくらいずれているかを、スプライン関数による展開を用いて数量化した。その結果、異時性のみによって形態変化が説明できるケースは極めてまれであることが立証された。つまるところ、生き物は複雑なのである。

12/4/2003 恒星食によるタイタンの風の測定

本日をもって今学期の講義をすべて終了。今週は「輸送問題」のセミナーコースもGFDも学生の自由発表の時間にわりあてたので、ここ数日でつごう8つの発表を聞いた。なかなか力作ぞろいであった。なんといっても、地球化学から高圧物理、陸水学、大気海洋、天体物理と専門分野の違う学生が集まっているので、話にバラエティーがあって楽しかった。なかでも面白かったのは天体物理のJ君によるタイタンの成層圏循環の話。土星の衛星のひとつであるタイタンは太陽系第2の大きさをほこる衛星で、水星よりも大きい。窒素やメタンを主成分とした大気を持っており、近年水蒸気の存在も確認されたことから、原始地球に似た環境を持っているのではないかと予想されている。(季節によって分布のことなる「もや」も特徴的である。)

大気を持った惑星によって恒星食がおこると、惑星の縁を通過する恒星の光が大気によって屈折され、その掩蔽投影の形を解析することによって惑星大気の等密度面の形が精密に逆算できる。この等密度面の形は重力と大気の総角運動量によって決まっているため、重力の影響をさっぴくことにより、大気の経度方向の風速を見積もることができる。それによると、タイタンの大気は赤道上で西風になっていることがわかった。いわゆるスーパー・ローテーションである。よく知られているように、赤道上で西風を維持するには波動による角運動量の輸送が必要である。波のない、経度方向に一様な子午面循環では角運動量が保存される。したがって子午面循環で角運動量を他の緯度から赤道に輸送してきても、回転軸からもっとも遠い赤道ではすでに角運動量が最大値となっているため、それより速い回転を誘起することはできないからだ。そこで、波による角運動量輸送が必要なのである。(地球の成層圏のQBOが重力波の存在によることも、同じ理由である。)で、現在タイタンのスーパー・ローテーションの原因として考えられているのは、重力波の鉛直伝播または順圧不安定にともなうロスビー波の水平伝播である。現在土星にむかって飛行中のカッシーニ探査機が来年タイタンのいろいろな気象データを収集することになっており、知識の飛躍が期待されている。

12/3/2003 大学のインフラ

もうだいぶ前から調子の悪かった学科のエレベータだが、ここへ来ていよいよガタがきているようだ。1階で乗ってオフィスのある5階まで行くのに、3階と4階の途中でいったん止まってから2階まで逆戻りし、停止。ガタンと30センチ落下してからおもむろに上昇を再開するなど、まったく予想不能な行動パターンをとるようになってしまった。1週間ほど前に大学の施設整備部門の職員がやってきて手直しをし、そのときはいったん正常にもどったかに見えたが、今日出勤してみるとまた元の木阿弥。役に立たない。

で、きょう帰りに電車を待っているとき、施設部門の知り合いのG氏にばったり会ったので、いいかげんエレベータを取り替えてはもらえないか(箱をどうやって取り出すのかは知らないが)と聞いてみた。すると、「お宅のエレベータが不調なのはこちらも十分承知しているが」と前置きしたうえで、現在大学でオーバーホールの必要なエレベータが30あり、わりあてられている予算では1年に3台取り替えるのがやっとなのだそうだ。げ、あと10年もあの気紛れエレベータと付き合えということですか。それとも、健康と足腰の強化のために5階まで歩いて往復しろと?

しかし、と考え直す。小生は知っているのだ。うちの学科はまだましなほうなのである。統計学科など、教室の天井がぼそぼそになっていて月に1枚くらいの割り合いでパネルが落下しているらしい。コンピュータ学科はオフィスの絶対数が足りず、職員と大学院生の多くが窓のない地下の部屋を共有している。物理学演習の大時代な実験設備を見て、自分の高校の設備の方が立派だったと漏らす学生は少なくない。キャンパスのインフラは各所で惨状を呈しているのだ。学費をどっさりとるアメリカの私立大学だから一流の設備が整っているかといえば、大間違い。むしろ、州から助成金の出る州立大学の方がはるかに近代的なインフラを誇っていることが多い。もちろん、インフラが大学の価値を決定するわけじゃないが、大学の構成員が職をまっとうするのに必要な基本的な環境がないがしろにされているというのは、外目にもいい印象を与えない。必要なのはワイヤレス・ネットワークじゃない。エレベータなんだよ。

12/1/2003 なんたらかんたら

先月力づくで掘り起こしたものの、あまりにも重いため家の庭先に放置されたままになっていた古い郵便ポストを、きょう電動丸鋸で3つに切断した。何しろ、ふだんなら古い洗濯機やキッチン・レンジを出しておいても持っていってくれる大ゴミのサービスにまで見放されたのだから、どうしようもない。コンクリ用のグラファイト製の刃を装填して、ガレージからコードを引っ張ってきてガリガリやったが、重いだけでなく、アルミの外枠の中にびっしり詰まったコンクリはまるでコンクリのように固くて手強く、直径20センチくらいのポストであるにもかかわらず、1ケ所切り落とすのに20分以上かかった。はくろう病になりそうだ。この時期外回りの仕事といえばクリスマスの電飾のとりつけと相場が決まっているので、あちこちで屋根に登っている人は見かけるが、庭先でポストと格闘しているなどというのははうちだけだろう。腕がなまってしまったので、クリスマスツリーのセットアップと飾り付けは、家内と子供たちにまかせる。

論文のレビューの依頼が2本入ったが、両方とも断る。プロポーザルのレビューがすでに一本入っているのと、学期末でいろいろと忙しいため、仕事を引き受け過ぎてパンクしないように気をつけなければならない。

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(c) 中村昇  2003