「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」創世記3:18
創作活動や研究に長いことたずさわっている人なら、自分の代表作品というものをひとつやふたつは持っているだろう。小生の場合、ひとつ選ぶとすれば、等価長診断法を開発した1996年の混合問題に関する論文である。この論文にはいろいろと思い入れがあって語り出すとキリがないが、何と言っても感慨深いのは、家内がいなかったらこのアイディアは生まれなかっただろうということだ。
シカゴのうちの学科では毎週金曜日になると教官が全員集まって、昼ごはんをほおばりながら、同僚の最近の研究結果の発表を聞くというならわしになっている。これだけならよくあるbrown
bag seminarだが、異色なのは、発表者は前日まで指名されず、わずか1日で準備をしなければならないという点である。(何でも以前は当日その場で指名されていたらしい。しかしそれはいくらなんでも時間がなさすぎる、ということで前日指名になったそうだ。)しかも、指名された者はことわってはいけない、という決まりになっている。年に1回の持ち回りとはいえ、話す順番を待ち望んでいる者などいないので、木曜日になると指名委員の訪問から逃れるため、みんなオフィスからいなくなって、ビルががらんとなる。発表者が見つからない場合は、指名委員が自ら発表しなければいけない決まりになっているため、指名する側もあの手この手を駆使して、未発表の候補者を追い詰めていく。この両陣営のテンションが見ていて手に汗にぎらせる(というほどのこともない)。
で、忘れもしない1994年12月第1週の木曜日、運悪くオフィスでZ教官の訪問を受けてしまった小生は、デフォルトで次の日の発表を引き受けてしまったものの、はたと困った。ちょうど研究の端境期で、話す価値のある結果が全然ないのだ。翌日の発表計画に暗雲のたれこめはじめたころ、そういえば、講義の教材用に小生が開発した地衡風調節実験のMacintoshソフトがあったっけ、と思い出した。これは数値実験の初期条件や分解能、出力表示の設定などをダイアログ・ウィンドウを使ってインタラクティブに入力でき、出力をアニメーション・ファイルに落としてプレイバックすることもできるという、当時としては画期的な作品で、GUIにもかなり凝った(コードの95パーセントはGUIだった。ちなみに当時はPowerPCプロセッサが出る前で、ビデオカードの処理速度も遅かったので、このソフトを今日の高速Mac上で走らせると、動画の一部が速すぎてややちんけであるが、まだ十分使用に耐える)。演題には何の制約もないので、この「製品」の発表会ということにすればいいや、という結論に落ち着いた。
夕食を食べながらこの計画を家内に話すと、彼女はあまり嬉しそうな顔をしなかった。
「あなたは、サイエンティストでしょう。それなのにコンピュータ・プログラムの実演でお茶を濁そうっていうわけ? これからそれで食べていこうって人が、サイエンスほったらかしにしててどうするのよ。サイエンティストならサイエンティストらしく、自分の分野で正々堂々と勝負したら?」
言われてみれば確かにその通りである。小生はその場で悔い改めて、路線変更することにした。しかし、なにぶん時間がない。明日の発表まで16時間、それまでの間に新しい結果を出すには、大きな数値計算などやってられない。紙とエンピツでできる問題でなければならない。すでに受理されていたラグランジュ的平均物質輸送にかんする論文の中で、かなり一般的な方程式を導いてあったので、それの特殊な場合として流れが水平非発散の場合の移流拡散問題に焦点をしぼってみる。寝室にこもって計算用紙に方程式を書き散らしていくと、面積を座標とする一次元の拡散方程式が得られ、その有効拡散係数はコンターの周囲長(厳密には、等価長)の自乗に比例するという、おどろくほど単純明快な結論が得られた。かき回すとものがよく混ざるということをこれほどずばり表現している方程式は見たことがない。突然美しい結果が現れたので、思わず見とれてしまって、計算のチェックも忘れるほどだった。トレーサーのコンターと面積の関係(混合の度合い)が等価長(かきまわし効果)によって決まるので、等価長を測ることによって混合の速さがわかる。こうして等価長診断法が誕生した。
明け方まで計算の続きをやっていたため、翌日の発表ではややろれつがまわらなかったが、小生は新しい理論の到来に興奮していて、発表のよしあしはもはや問題ではなかった。家内のハッパがなければ、適当にお茶を濁して発表はうまく行ったかもしれないが、新理論の誕生はなかったであろう。
思慮深い妻は主からのもの。箴言19:14