金曜日行方不明になった娘はさいわい1時間ほどで歩いて戻ってきた。何のことはない、来ないバスをしぶとく待ったあげくの彼女なりの判断だったらしい。
さて、話は全く飛ぶが、小生が現在滞在中の学部にはスティーブン・ホーキングという著名な宇宙物理学者がいる。残念ながら彼のオフィスは小生のいるビルとは離れた所にあるため、まだ実際に会って話をしたことはない。彼がつい最近還暦を迎えたのを記念して、学部が特別に「理論物理と宇宙論のこれから」というシンポジウムを開催した。これまた残念ながら家族で旅行をしていて聞き損なったのだが、このシンポジウムでホーキング自身が40年の研究歴をふりかえる講演を行ったらしい。その講演の原稿はここで読むことができる。小生はホーキングさんとは分野も違うし彼の業績は詳しく知らない。しかし自分が60歳になったところで誰かがバースデイシンポジウムを開いてくれるとはとても思えないので、いったい彼の科学者としての歩みとはどんなものだったのだろうかと、いささか興味をもって読んでみたのだが、なかなか面白かった。
宇宙の密度が定常状態にあるとする理論が60年代に観測によって崩れ、宇宙の膨張や収縮に関する理論が生まれていく過程、Big
BangやBig Crunch(という単語は使っていないけれど)という数学的な特異性をどう扱うのか、またこの問題とのからみで、一般相対性理論(重力場理論)およびその量子力学との整合性、そしてブラックホールのエントロピーに関する全く新しい知見が得られていく過程がダイナミックに描かれている。まったく門外漢の小生が読んでも、実力と運命的な出会いといくばくかのインスピレーションがキャリアの推進力になっているところが、同じ物理学者としてとても共感できた。(物理学のいとなみ一般のことを言っているのであって、ホーキング氏の主張そのものに賛同する、という意味では必ずしもないですぞ。)寿命を終えブラックホールに収縮していく星の形が完全な球体でなかった場合に、数学的特異性は回避されるだろうかという問題に使われている手法などは、我々が流体力学で日頃使っている手法とさして違わない。かたや時空間にはじめとおわりがあるかという崇高な問題、かたやなぜかきまわすと物はよく混ざるのかという常識の解釈、という応用の違いだけである。宇宙物理学は文字どおり雲の上の学問と思っていたが、あながちそうでもなさそうだな。
それにしても、科学対宗教という対立の図式があちこちにばらまかれているのは、ホーキングさん自身がそうお考えなのであろうか。たとえばホイルの定常宇宙理論やリフシッツ=カラシニコフのバウンスバック理論が当初もちこたえた理由として、宇宙に始まりや終わりがあるならば、物理学があつかえるのはそこまでで、それ以上は創造主たる神をもちださなければならない。それでは困るので、科学者たちは始まりや終わりを含まない宇宙論にこだわった、と述べられている。(とくにリフシッツ=カラシニコフの理論は彼らの生きたマルクス=レーニン唯物主義統制下のソ連には都合がよかったとも。)それともこれは、彼らの扱っている問題が単なる日常の問題を超えた、我々の存在意味にまでかかわる大問題なのだということを強調するためのレトリックなのだろうか。ちなみに、ホーキングさんご自身は「imaginary
time」なるものを導入することで、Big Bangやブラックホールの数学的特異性を回避している。つまり、そこで方程式が崩壊して宇宙論の予知力が失われるという危機から物理学を救っている。しかも、そこから描かれる宇宙には始めも終わりもない。
聖書の神による宇宙創造を信じる者として、小生は近代宇宙論と創世記1章の整合性というような議論はとりあえず置いておくとしても、科学と宗教が対立するとは特に考えていない。それに、もし、ブラックホールの中心で一般相対性理論が崩れたとしても、別にいいじゃないですか。いやそれでは困るんだと言って新しい理論を構築するには、それこそ科学を超えたとてつもない「信仰」が必要だと思うのは小生だけであろうか。