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完全な明け渡し(Absolute Surrender)
by
アンドリュー・マーレイ(Andrew Murray)
初版:1895年 シカゴ ムーディプレス
「御霊に始まって」(Having Begun In The Spirit)
私が皆さんにお話ししようと思っている箇所は、ガラテヤ人への手紙の3章3節にあります。2節から読んでみましょう。「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。」そして今回の箇所です。「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」
霊的生活を活気づけるとか、深めるとか、強めるといったことについて語るとき、私たちは何か弱々しく、間違っていて罪深いことを思い浮かべています。そして神の御前においてこのように告白するのは素晴しいことです。
「おお神様、私たちの霊的生活はあるべき姿にありません!」
読者の皆さん、神があなた方の心に働いて、それをさせて下さいますように。
教会のなかを見渡してみるとき、そこにはあまりに多くの弱さや失敗、罪や欠点を現わすものが見受けられるものなので、私たちはついこのように自問したくなります。「なぜなのでしょう? キリストの教会たるものが、このように低迷した状態にあっていいのでしょうか? 神の民がいつも神の御力と喜びのなかに生きるということは、実際のところ、可能なのでしょうか?」
信じる心を持つ者はみな、こう答えなさい。「可能です。」
次にこの大きな疑問が出てきます。「なぜ神の教会全体はこんなにも弱々しく、大多数のクリスチャンがその特権にあずかった生活を送っていないのでしょうか? どのように説明したらいいのでしょう。理由があってしかるべきです。神が全能の御子キリストをくださったのは、このお方を全ての信者を保つ者とされるためであり、信者にとっていつまでもなくなることのない現実の存在とされるためであり、私たちがキリストにあって受けているものを全て分け与え、伝達してくださるためではなかったのでしょうか? 神は御自身の御子を与え、また聖霊様を与えてくださいました。信者たちはどうしてその特権に十分に与るものとして歩むことが出来ないのでしょう?
この質問に対する極めて厳粛な答えが、複数の書簡のなかに見られます。たとえばテサロニケ人への第一の手紙などのような書簡では、パウロはクリスチャン達にむかってこのような感じのことを書いています。「私はあなたがたが成長し、豊かにされ、もっともっと満たされるようになることを望んでいます。」 彼らはまだ若く、その信仰は十分ではありませんでしたが、とりあえず及第点のところにあり、パウロは大いに喜んでいました。そして彼は何度もこう書いています。「あなたがたがもっと豊かにされるように、もっと満たされるように、私は神に祈っています。」 しかし、それとはかなり違う口調の手紙を書いている箇所もいくつかあります。特にコリント人への手紙とガラテヤ人への手紙です。パウロはこれらの手紙では、人々がなぜクリスチャンとしてあるべき姿に成長していないのか、様々な表現を用いてその一つの理由を語っています。それは、多くの人達が肉の力のもとにあるということです。前述の御言葉の箇所もその一例です。パウロはガラテヤの人々に、彼らは信仰によって聖霊をいただいたのだということを思い出させようとしています。彼はキリストを宣べ伝えました。そして人々はそのキリストを受け入れ、力ある聖霊をいただいたのです。しかし何が起きましたか? 御霊によって始められたのでありながら、彼らは御霊が肉のうちに始めてくださった御業を、自らの努力によって完成させようとしたのです。これと同じ教えは、コリント人への手紙でも見ることが出来ます。
さて、私たちはここにキリストの教会において何が欠けているのか、厳粛な発見をしました。神はキリストの教会が聖霊の力によって生きるよう召されましたが、それなのに教会はほとんどの部分において、神の霊とは離れたところで人間の肉や意志の力、エネルギーや努力によって生きているのです。これと同じことが多くの個々の信者についても言えるだろうと思います。そして、ああ、神がそのメッセージをあなたがたにお伝えするために私のことを用いてくださるのであれば、私がただ一つお伝えしたいことはこれです。「教会が、聖霊こそその力であり助けであるということをもう一度認め、全てのものを投げうってただ御霊に満たされるために神を待ち望むようになるのであれば、教会本来の美しさや喜びは戻ってくることでしょう、そして神のご栄光が私たちの間に現わされるのを見るようになるでしょう。」全ての個々の信者への私のメッセージはこれです。「あなたは聖霊の御力のもとで日々生きていかなければならないと理解するに至らなければ、何もあなたの助けになるものはありません。」
神は、御霊の力があなたの生活の一瞬一瞬において現わされているような生ける器になることを望んでおられます。そして神様はまさにそのことを可能にしてくださるのです。
では、このガラテヤ人への言葉が何を私たちに教えてくれるのか、見てみましょう。それは極めて単純なことです。まず、(1)クリスチャン生活の始まりは、聖霊を受けることにあり、(2)私たちは肉によって生きるのでなく、御霊によって生きる者であるということを忘れてしまうのが、いかに大きな危険であるのかを示しています。 さらに、(3)私たちが肉における完成を求めていることの証拠や実が何であるのかを示し、(4)そのような状態からの解放への道を教えてくれます。
聖霊を受ける
まず第一に、「御霊に始まって」とパウロは言います。この使徒は単に信仰による義認だけを宣べ伝えたのではないということを忘れないでください。彼はそれ以上のことを教えました。彼が宣べ伝えたのはこれです。この書簡はその教えに満ちています。つまり、義と認められた人は聖霊によって生きるのでなければ生きることが出来ないということ、そしてそれゆえに神は義と認められた全ての人に、封印のための聖霊をお与えになるのだということです。事実、パウロはそのことをガラテヤ人に一度ならずもそれ以上繰り返して言いました。
「あなたはどのようにして聖霊を受けたのですか? 律法を行ったからですか、それとも信仰をもって聞いたからですか?」
パウロは彼の教えのもとで力強いリバイバルが起きたときのことを指しているのかもしれません。神の御力が現され、ガラテヤ人たちはこのように確信を持って告白したのです。
「そうです、私たちは聖霊をいただきました。信仰によりキリストを受け入れ、信仰によって聖霊を受けたのです。」
さて、自分たちが救われたときに聖霊をも受けたのだということをろくに知らないクリスチャンが大勢いるというのは恐るべきことです。圧倒的多数のクリスチャンは「私は赦しを受け、平安をいただいた」と言うことが出来ます。しかしながら、もしあなたがその人たちに「聖霊は受けましたか?」と聞くならば、彼らは躊躇し、そして「はい」と答える人がいるとしてもその多くがためらいながら言うことでしょう。そして彼らは、聖霊を受けた時から自分たちは聖霊の力に満たされて歩むということがどういうことなのか、あまりよく知らなかったと言うことでしょう。それでは、この偉大なる真理をはっきりとさせようじゃありませんか。つまり、真のクリスチャン生活の始まりは、聖霊を受けることであるということです。そして全てのキリスト教の教役者の役目は、パウロの役目がそうであったように、人々に彼らは聖霊を受けたのだということ、そしてそれゆえに聖霊の導きと力に従って生きるべきであると思い出させることなのです。
もし、この力ある聖霊を受けたガラテヤ人たちが御霊に始まったものをなおも肉によって完成させようとする恐るべき危険によって道から迷い出そうになるのであれば、自分が聖霊を受けたとはっきりわかっていないクリスチャン、あるいはそのことを頭ではわかっていても、日々の歩みのなかでそれを思い出すことも、そのことゆえに神に感謝することもないクリスチャンは、どれだけの危険にさらされていることでしょうか!
聖霊をないがしろにして
では次に、その恐るべき危険について考慮してみましょう。
皆さんは鉄道の切り替えが何をするものか御存知ですね。車両を引く機関車はある一定の方向に向かって進みますが、きちんと開くか閉じるかしていないポイントがあると、右か左か、わからない方向に切り替わってしまいます。そしてもしそのようなことが起きると、たとえばの話、暗い夜だったとしましょう、列車が間違った方向へ進んでしまい、人々はかなりの距離を進むまでは間違いに気がつかないかもしれないのです。
神は、日々の歩みのなかで御霊の力の中で生きるようにとクリスチャンに聖霊を与えてくださいます。人は、聖霊の力なしにはたとえ一時間たりとも神の御心に従って生きることは出来ません。それなりに良い、安定した暮らし、いわゆる人に後ろ指を指されるような暮らしではなく、良い行いをし熱心に仕える暮らしをすることは出来るかもしれません。しかしながら、神に受け入れられ、神の救いと愛を喜ぶ、新しいいのちの力に満たされた人生を生きるためには、日々、毎時間、聖霊によって導かれることが必要なのです。
しかし、この危険に耳を傾けてみましょう。ガラテヤ人たちは聖霊を受けました。しかし、御霊に始まったことを彼らは肉によって完成させようとしたのです。どのようにしてですか? 彼らは割礼を受けなくてはいけないというユダヤ教の教師のもとに戻ってしまったのです。彼らは表面的に律法を守ることのなかに自分たちの宗教を見い出そうとし始めたのです。ですからパウロはこれらの割礼を施させた教師たちのことを「彼らは自らの肉のなかに栄光を求めようとした」といったのです。
あなたがたも「宗教的な肉」という表現を時々耳にすることがあるでしょう。これはどういう意味なのでしょうか? 要するに「私の人間的性質、私の人間的意志、そして私の人間的努力は宗教的生活においてきわめて活発であり、私が回心した後も、そして聖霊を受けた後でも、自分自身の力を尽くすことで神に仕えようとしてしまうかもしれない」というようなことを表現しているのです。
私は大変熱心に多くのことを行っていながらも、それでもほとんどの場合、それは神の御霊よりも人間の肉の働きであるかもしれないのです。何と厳粛な思いにさせられることでしょう。人は、自分でも気付かないうちに聖霊の路線から肉の路線へと切り替わってしまっているかもしれないとは。人が熱心に働き、偉大なる犠牲を払い、にも関わらずそれが全て人間の意志の力によるかもしれないとは。あぁ、私たちが自らを省みて神に問うべき大切なことは、私達の信仰生活が、御霊の力のもとによって歩まれているのか、それとも自分の肉の力によるものなのかを神に示していただくことです。たとえば、ある人は牧師かもしれません。彼はそのミニストリーにおいて非常に熱心に努力していることでしょう。またある人はクリスチャンの働き人かもしれません。他の人たちは彼は大いなる犠牲を払って奉仕していると言うかもしれません。それでも、どこかに足りないものがあるとあなたは感じるのです。その人は霊的ではないと感じます。彼の生活には霊性がないのです。誰からも「何と霊的な人だろう!」と言ってもらうことのないクリスチャンがどれだけ多くいることでしょうか。ああ!そこにキリストの教会における弱点があるのです。「肉」-- この一言につきます。
さて、肉はいろいろな形でその姿を現します。肉的な知恵という形で現れるかもしれません。私の心は何よりも宗教に関してたいへんに熱心であるかもしれません。聖書や神の御国に関して説教したり、書いたり、考えたり、瞑想したり、またそれらのことに心を向けることに大きな喜びを感じるかもしれません。にもかかわらず、聖霊の力が明らかに欠落していることがありうるのです。キリストの教会中でなされている説教について、次のような質問をしてみるとしましょう。御言葉の教えのなかに人を変える力がほとんどないのはなぜなのか、こんなにもたくさんの働きがありながら、永遠における結果がほとんど生み出されていないのはなぜなのか、なぜ信者たちを清さと聖別のうちに建て上げる力を御言葉がほとんど持たないのか。嘆かわしいことですが、このような答えが出てくることでしょう。聖霊の力が欠落しているからである、と。 なぜそうなのでしょう? それは、聖霊が本来持つべき場所を、肉と人間のエネルギーが占めてしまったこと以外に理由はないでしょう。ガラテヤ人の場合はそうでした。コリント人の場合もそうでした。パウロがこのように彼らに言ったことをご存じでしょう。「あなたがたには御霊に属する人に対するように話すことができません。あなたがたは御霊に属する人であるべきなのに、肉に属しています。」 パウロは手紙のなかで、彼らの間にある争いや分裂について、どれだけ彼らを戒め、責めなければならなかったことか、あなたもご存じの通りです。
御霊の実の欠如
第三の考えは、「ガラテヤのような教会あるいはクリスチャンが、肉の力において神に仕え、御霊によって始まったものを肉によって完成させていることの証拠や徴候はどのようなものか?」ということです。
答えはいたって簡単です。宗教的な自己による努力は、いつでも罪深い肉に帰結します。ガラテヤ人たちはどのような状態にありましたか? 律法の行ないによって義と認められようと必死になっていましたね。にもかかわらず、彼らは言い争いをしており、互いを食い尽くす危険のなかにいました。 彼らの愛の欠如を指摘するために使徒パウロが用いた表現を数えてみてください。12以上あるでしょう。 うらやみ、妬み、苦み、争い等など、様々な表現が用いられています。4章、5章で、パウロがそのことについて何と言っているか、読んでみて下さい。彼らが自らの力で神に仕えようとしたものの、いかに無惨にも失敗したことか、そこに見ることが出来るでしょう。宗教的な努力というものは全て失敗に終わりました。罪と罪深い肉の力とが彼らを打ち負かし、思いもよらないほどに悲惨な状況に陥ってしまったのです。
これは我々にとって、言葉に現せないほどに厳粛なことです。キリスト教会のなかには、高い標準をもつ誠実さと敬虔さが欠如しているという不満がいたるところで見られます。信仰告白をしている信徒たちの間においてでさえもです。あるとき商業道徳について説教がなされるのを聞きました。しかし、ああ、商業道徳だの不道徳だのについて語るだけでなく、キリスト者の家庭に行き、神がその子供たちを召しておられる生活、神が可能にしてくださる御霊によって歩む生活にも私たちが思いを馳せるのであれば! そしてそれにもかかわらず、愛の欠如や短気や辛辣さや苦みがどれだけ私たちのうちにあることを思い、また信徒たちの間にどれだけ頻繁に争いがあることかを思い、妬みや嫉妬や過敏さやプライドがどれだけあることかを思うのであれば、私たちはこう言わざるを得なくなるでしょう。「神の子羊の御霊の御臨在のしるしはどこにあるのか?」と。 ないのです、悲しいほどに、欠落しているのです!
これはあたかも私たちの弱さの自然な結果であり自分ではどうしようもないことなのだとばかりに語る人たちが大勢います。これらのことは罪であるかのように語り、しかも打ち勝つことに対する希望を諦めてしまった人たちが大勢います。教会のなかで自分たちの周りに見られるこれらのことについて語りはするものの、変化をもたらすことにはわずかながらの見込みも持たない人たちが大勢います。根本的な変化が訪れない限りは、信者のなかにある全ての罪は、肉から、私たちの宗教的な活動のただなかにある肉的な生活から、神に仕えようと自分の努力に邁進するところからやって来るのだということに、神の教会が気付き始めない限りは、見込みはありません。 私たちが告白をすることを学ぶまで、私たちが理解するようになるまで、何とかして力に満ちた神の御霊を教会に取り戻さなくてはなりません。ペンテコステのとき、教会はどこで始まったのでしたか? 御霊にあって始まったのです。しかし、ああ、次世紀の教会はなんと肉に落ちてしまったことか! 彼らは教会を肉にあって完成させようとしたのです。
宗教改革が信仰による義に関する偉大なる教義を回復させたからといって、聖霊の力が完全に回復されたのだとは思わないようにしましょう。この終わりの時に、神が御自身の教会に対して憐れみをかけられるというのが私たちの信仰であるなら、それは聖霊についての真理と教義とを研究するだけでなく、心を尽くしてそれを求めることによるのでしょう。ただ真理を求めるだけでなく、牧師たちと信徒たちとが神の前にひざまずき、深いへりくだりのもとに、ただ一つこう叫ぶことによるのでしょう。「私たちは神の御霊を悲しませました、神の御霊をほとんど持つことなしにキリストの教会を建てようとしてしまいました、聖霊に満たされた教会になることを求めて来ませんでした。」
教会における脆弱さは、すべて教会がその神に従うことを拒んだことに起因するのです。
なぜそうなのでしょうか? あなたの答えはわかっています。こう言うのでしょう、「私たちはあまりにも弱く、あまりにも無力なので、従おうとしたし、従おうと誓ったけれどもなぜか失敗してしまうのです。」
ああ、そうです、あなたがたは神の力を受け入れないから失敗するのです。ただ神のみが、あなたのなかで御自身の御心を成し遂げることがおできになります。あなたには神の御心を成し遂げることは出来ません。神の御霊だけが出来ます。教会が、信者たちが、このことを理解し、人間的な努力によって神の御心を行おうとすることを止め、聖霊がすべての全能で可能にする力をもってやってくるのを待つまでは、教会は神が望んでおられる姿、神が喜んで変えてくださろうとしている姿になることは出来ないでしょう。
聖霊に明け渡して
ここで私の最後の考えをお話しましょう。それは「回復への道は何なのか」という問いかけです。
愛する友よ、答えは単純で簡単です。もし電車が誤った方向へ進んでしまったなら、切り替え地点まで戻ってくる以外に方向修正する方法はありません。ガラテヤ人たちにとっても、自分自身の力による全ての宗教的努力や自らの働きによって何事かを成し得んとしようとすることから立ち返り、へりくだって聖霊に自分自身を委ねる以外に戻って来る道はなかったのです。私たち個人にとっても他に道はありません。
「ああ! 私の人生は聖霊の力のことをろくに知りもしない!」そのように気がついている兄弟姉妹はいますか? 聖霊の力のなかで生きる人生がどのようなものであるか、あなたには考えもつかないような神のメッセージを携えてあなたのところに参りましょう。それは思いも及ばないほどに高く、祝され、素晴らしいものです。 永遠の神の御子がこの世にやって来られ、その奇しき御業をなされたのが真実であるのと同じくらい、カルバリの十字架の上に死なれ、御自身の尊い血潮によってあなたの贖いを達成してくださったのが真実であるのと同じくらい、聖霊はあなたの心にやってきて、その偉大な御力によってあなたを聖別し、神の尊い御心をなさしめ、あなたの心を喜びと力で満たすことがおできになるお方であるというメッセージです。しかし、ああ! 私たちは聖霊のことを忘れ、悲しませ、侮辱して来ました。それゆえに聖霊はその御業をなさることが出来ないでおられたのです。しかしあなたにこのメッセージを伝えましょう。天の御父は、御自身の子供たちを聖霊によって満たすことを喜びとされるのです。神は一人ひとりに個人的に、個別に、聖霊の力を日々の生活のために与えることを願ってやまないのです。その命令は個人的に、また統合的に、私たちに与えられます。神は私たちが神の子供として立ち上がり、神の御前に私たちの罪を置き、憐れみを請うて神に向かって叫ぶことを願っておられます。ああ、あなたはそんなにも愚かな者なのですか? 御霊に始まったものでありながら、御霊に始まったものを肉において完成させようというのですが? 恥じ入って膝を屈めましょう。そして私たちの肉的な宗教、自己による努力、自信がいかにすべての失敗のもととなっていたのか、神の前に告白しましょう。
若いクリスチャンの方々からよくこのように聞かれます。「どうして私はこのように失敗するのでしょう? 私は心から厳粛に誓い、神に仕える願いを持っていたのに、どうして失敗してしまったのでしょう?」
このような人たちには私はいつも次の答えを与えます。「親愛なる友よ、あなたはただキリストのみがあなたのなかで成し遂げることのできることを、自分の力でやろうとしているのですよ。」
そして、彼らが「ただキリストだけが出来るということは分かっていたつもりです。私は自分のことは信頼していませんでした」と言うとき、私の答えはいつもこれです。「あなたは自分自身に信頼していたのですよ。そうでなければ失敗することはなかったはずです。もしもキリストに信頼していたなら、キリストが失敗することなどなかったのですから。」
ああ、この御霊に始まったものが肉によって完成されるということは、私たちが理解している以上にはるかに深く私たちに根付いています。私たちがまったくの恥と空虚のなかに連れて来られたときにこそ高きところからの祝福を受けることが出来るのだということを、私たちに悟らせてくださるよう、神に願おうではありませんか。
そして私はこの二つの質問をしましょう。親愛なる同胞の牧師よ、私は福音の務めをする全ての兄弟にこのことを尋ねるのですが、あなたは聖霊の力のもとに生きていますか? あなたは、油注がれ、御霊に満たされた人として、神の御前にあなたのミニストリーと生活とを生きていますか? ああ、兄弟たちよ、私たちがいるところはひどいところです。神が私たちのために何をなさってくださるのか、人々に示さなくてはなりません。言葉や教えによってではなく、私たちの生活によってです。そうするように神が助けてくださいますように!
私はキリストの教会の全てのメンバーと全ての信徒に次のことを尋ねます。あなたは一日一日を、聖霊の力のもとに生きていますか?それとも、それなしで生きようと試みていますか? そんなことは不可能であると覚えておきなさい。あなたは聖別されていますか? 御霊があなたの中で働き、あなたの中で生きていただくために、明け渡されていますか? ああ、かんしゃくを起こしてしまったこと、どんなに小さいことであっても舌で失敗してしまったことなど、聖霊に明け渡されるかわりに自我の力が存在していたがゆえの全ての失敗を、神の前に出て告白しなさい。あなたは聖別されていますか? 聖霊に明け渡されていますか?
もしあなたの答えがノーであるなら、次の質問をしましょう。あなたは聖別されることを願っていますか? 聖霊の力に自分自身を明け渡してもいいと心から願っていますか?
人間的な聖別では役に立たないことをあなたもよくわかっているでしょう。私は全身全霊をこめて自らを100回聖別するかもしれません、しかしそれでは駄目なのです。 私に必要なのはこのことです。すなわち、天からの神が聖別を受け取り、封印してくださることです。
さあ、聖霊に自分自身を喜んで明け渡しますか? 今することができます。 まだ暗くぼんやりとしていることが多くあるでしょうが、私たちの理解を越え、自分では何も感じないとしても、それはやってきます。神だけが変化をもたらす事ができるのです。聖霊を私たちに与えてくださったお方である神だけが、私たちの生活のなかに聖霊の力を回復させることが出来るのです。神だけが「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くして」くださることができるのです。自らを捧げ、全てを明け渡し,神に向かって叫び祈るための時間をとる全ての待ち望む人々には、答えは必ずやってきます。祝福は遠くありません。私たちの神は喜んで私たちを助けてくださいます。神は、御霊に始まったものを、肉によってではなく、御霊によって完成させることを可能にしてくださいます。
翻訳 中村佐知
Copyright(C) 2004 by Sachi Nakamura
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