ホーム信仰、希望、愛p. 8

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

[ p.1 | p.2 | p.3 | p.4 | p.5 | p.6 | p.7 | p.8 | p.9 | p.10 | p.11 | p.12 | p.13 | p.14 | p.15 | p.16 | p.17 | p.18 | p.19 | p.20 ]


[ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ]

私の属する地球物理学科の学科長(department chair)が任期中途でこの地位を降りると言い出した。学科の人事をめぐって上司である物理学部長(dean)とソリがあわなかったらしい。辞任理由については言いたいこともあるのだが、辞めるというのを無理やり引き留めることもできないので、とりあえず後任を探さざるを得なくなった。折しも当の学部長から、私も含め学科の6人の準教授あてに「地球物理学科の将来」について話し合いたいので近々集まるようにとの声がかかっている。助教授時代は自分の研究と大学院の講義のことだけを心配していればよかった。しかし今やもっと大局的な展望が求められているようだ。 ところが私、苦手なのである、そういうの。

私たちの通っている教会が現在の場所に引っ越してきて今年で25年になる。この春には建物にかかっていたローンを完済するので、以前の牧師さんも招いて記念礼拝をするという。今までローンの返済分にあてられていた献金がそっくり浮くこともあり、これを機会に教会の今後の方向を見直し、新しいことをどう始めていくかということが、今年の役員会の大きな検討課題となっている。長期的視野のない私などは、せいぜい礼拝堂のじゅうたんを敷きかえるとか、天井の雨漏りを修繕するとか、めいっぱいがんばって青年会用の体育館を増設するとか、それくらいのことしか思いつかない。しかし、牧師さんやベテランの役員たちはもっとずっと先のことまで見ている。「教会を引っ越すことも選択肢に入れて、これから10年先のことを考えてください」と先週の役員会で牧師さんに言われた時は驚いた。引っ越し?何でまた?(そういえば70年代に冬があまりに寒いので、シカゴ大学をキャンパスごとロサンゼルスに引っ越すという話があったそうである。シカゴ大学ロサンゼルス校? 幸か不幸かこの話はたち消えになった。)

牧師さんのビジョンはこうである。コミュニティーの必要によりよく対応し、またより多くの未信者に届いていくためには教会が霊的にも規模の上でも成長しなければならない。過去4年の間に教会員の数はやや増えて200人くらいになったものの、周辺のコミュニティーはほぼ開発が終わっていて人口にあまり変化がなく、教会も既にいくつもある。それに比べ、やや離れた周辺地域では宅地開発が急激に進みつつある一方で、まだそんなに教会の数もない。土地も比較的安い。魂の収穫ということを考えたとき、場所を移す、あるいは新しい教会をそこに設立することは選択肢として十分考慮するに値する。もちろん、近々引っ越すかもしれないという時に、体育館の増設などはあまり賢いお金の使い方ではないわけである。流石はリーダー、全貌を大観しているなあ、と感心した。(もちろん、信徒がそのビジョンに共感するかは別問題だが。)

思えば今までの私の生き方はいきあたりばったりであった。問題が実際に起こってから解決法を考えるタイプなのだ。車だったらハイウェイでエンジンが動かなくなるか、泥棒に盗まれるまで¥乗りつぶすし(両方とも実際におこったことである)、貯蓄のことも面倒くさいのではちこに任せっきりだった。どうもここへ来て、神様が長期的なビジョンを持ちなさいと目覚まし時計を鳴らしておられるような気がしてしょうがないのだ。今から5年後、10年後のわが家はどうなっているのか? 自分の研究室は? もちろん、自分の計画通りにいかないのはわかっている。しかし確かなことは、5年後10年後に私たちがいるところは、そこにいたるまでの過程で私たちがとった選択や決断の積み重ねで決まるということだ。 ひとつひとつの選択が、より大きな神様のご計画とみこころにかなったものとなるよう、ビジョンを求めていきたいと思う。

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、
 主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする
。」(詩篇19:7)

主よ、知恵を与えてください。 (ぼ)

(2/2/1999)

ある方から福音主義とペンテコステ派とはどう違うのですか、というご質問のメールをいただきました。この方は私のHPをよく読んでくださっているらしく、トップページで私は自ら「私達は福音主義のプロテスタントのクリスチャンです」と書いているのに、別の箇所では「ペンテコステです」と言っているではありませんかという、鋭いご指摘もありました。

私は神学者ではないので、正確な定義をすることはできませんが、私が理解している範囲でお答えしたいと思います。

「福音主義」という時、どうも広義の福音主義と狭義の福音主義があるようです。広義の福音主義は、三位一体の神と、その原典において誤謬のない、人間に唯一与えられている神の言葉である聖書を信じているキリスト教信仰のこと、だと思います。(いかんせん私は神学者でも教役者でもないので、表現に足りない部分、不適切な部分があるかもしれませんが、ご了承下さい。)福音主義をこのように定義するのなら、ペンテコステ系もまた福音主義に含まれると考えることができます。実際世界中ほとんどの国で「福音同盟」といえば、その中にペンテコステ系教会も含まれているそうです。 日本でもKGK(キリスト者学生会)という福音主義の大学生ミニストリーでは、ペンテコステ系の学生も一緒に活動しています。私が私のHPのトップページで「福音主義です」と明言しているのは、私は三位一体の神と、神の言葉としての聖書の権威を信じているクリスチャンです、という意味なのです。

それでは「福音主義」と「ペンテコステ系」の間の壁だの溝だのいうのは一体どういうことでしょうか?
  
まずペンテコステ系から説明しますと、この教派の特徴は、新約聖書の「使徒の働き」2章4節に記述されているような「聖霊のバプテスマ」は現代の教会にも与えられると信じていることです。つまり、イエス様を救い主として受け入れ救われた後、求める人にはセカンド・ブレッシング(第2の恵み)としての「聖霊のバプテスマ」を受けることが出来、それを受けた人には異言が与えられると信じているのです。

それに対して、狭義の福音主義は、異言を伴うような聖霊のバプテスマを信じていません。聖霊のバプテスマや異言などは、聖書の時代の初代教会にのみ与えられていたのもので、現代ではそのような聖霊の働きはすでに終わったと考えています。もちろん福音主義のクリスチャンも「聖霊に満たされる」というような表現を使いますが、それはペンテコステ系の教会で一般的に意味しているような(つまり「使徒の働き」2章4節のような)「聖霊のバプテスマ」のことを指すのではありません。(くどいようですが、私は専門家ではないので表現に不適切な部分があったらお許しください)

ここで、誤解のないようはっきりとしておきたいのは、ペンテコステ系も狭義の福音主義も、救いについての理解(つまり、人はどのようにして救われ、救われた人には聖霊様がどのようにして働いてくださるのかということ)は同じだということです。

人は聖霊を受けることや、何か霊的な体験をすることで救われるのではありません。 自分が罪人であることを認め、イエスの十字架による罪の贖いと蘇りを信じ、イエスが自分の個人的な救い主であり主(しゅ)であることを心に受け入れ口で告白して救われるのです。(ローマ10:9,10) そしてそのようにして救われた人々の心の中にはただちに聖霊様が入って来て、御霊によって新たに生まれたものとされます。(ヨハネ3:6) ボーンアゲイン(新生した)クリスチャンという表現はここから来ているのでしょう。そして聖霊様はそのままクリスチャンとなった人の心の内に住んでくださいます(ヨハネ14:16; 第一コリント6:19,20; ローマ8:9)。さらにこの内住なる聖霊様は一時的なものでなく、永久的なものであります。(第二コリント1:22; エペソ1:13; 4:30)私たちの中に住んで下さっている聖霊様はクリスチャンの救いの保証、封印なのです。

これらのことは、イエス様を救い主として受け入れ告白した全てのクリスチャンにあてはまるもので、聖霊のバプテスマを受けているかいないかには関係ありません
この点においては狭義の福音主義もペンテコステ系も一致しています。神様の目には聖霊のバプテスマを受けているクリスチャンもそうでないクリスチャンも、みな等しく愛する神の子供なのです。(さらに言うと、クリスチャンでない人のことも神様は愛しておられます。とてつもなく、いても立ってもいられない程に愛しておられます。)

繰り返しますが、聖霊のバプテスマや異言はクリスチャンに与えられるものですが、だからと言って、それがその人が救われていることの証とだというわけではありません。それは、クリスチャンが力を受けて、さらに大胆で力強い神様の証人、働き人となるために与えられるのです。(使徒1:8)また、そのような経験を持つクリスチャンがそうでないクリスチャンよりも偉いとか、より聖いとか、より霊的に成熟しているということでも全くありません。聖霊のバプテスマは純粋に神様の恵みによるものです。恵みによるとは、私たちが受けるに値するものだからいただいたわけではなく、値しない者であるにもかかわらずいただいた、ということです。

話しを前にもどしますと、福音主義とペンテコステ系の間の溝だの壁だのいうのは、基本的にこの「聖霊のバプテスマ」の解釈の違いによるものです。しかし先日の日記でも触れましたように、感謝なことに今ではこの両者の間の壁が崩されつつあるのです。教義上の相違点に目を奪われるのでなく、究極的な神様の御国の働きのために、互いに尊重しあい受け入れ合って、共に労しようという意識が双方から高まってきているのです。

私は20年あまり前に救われた時から現在に至るまで、ずっとペンテコステ系の教会に行っています。ですからこの日記でもペンテコステ的視野からの発言をしていることが多いと思いますが、それは決して私が福音主義を受け入れていないというわけではありません。私は今までに個人的にペンテコステ系以外のクリスチャンと知り合う機会に多く恵まれてきましたが、実感として、私たちはイエス様という同じ葡萄の木につながり、同じ御霊の実を結ばせていただいているひとつの家族なのだと感じています。 本当に感謝です。

さて、聖霊様の働きについてはまだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、またの機会にということにします。今日はとりあえずこのへんで、ご質問への答えになっいると良いのですが。

(2/5/1999)

今朝の礼拝からいくつか。

隔週金曜日、私たちの家でバイブル・スタディをリードして下さっているアルさんのお父さんが一昨日亡くなられたそうだ。長い癌との戦いだった。彼と家族のためにうちで集まるたびに祈ってきた。お父さんの容態ももちろんだが、アルさんご夫妻もアルさん自身の転勤や娘さんの出産を数ヵ月後に控えていて、そんな中で末期癌患者の看病はさぞかし重荷だったことだろうと思う。しかし、アルさんのお父さんはクリスチャンだった。「He taught me how to live, and he taught me how to die. 」(父はどのように生きるべきかを教えてくれました。そしてどのように人生を閉じるべきかも。)というアルさんの言葉は、クリスチャン・ホームの在り方を証ししていて胸を打たれた。

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい
。」(申命記6:6ー7)

いま私たちの教会には、アルさんたちの他にも、自らや家族に重い病気を持つ人たちが多い。今朝「癒しの必要のある人は前に出てきて下さい。」という牧師の招きに応じた人々の列は、礼拝堂の右から左までびっしり埋めつくした。長老や執事からなる祈り手のチームが、ひとりひとりに手を置き、油を塗って、癒しのためにとりなしていく。その中には、口腔癌の手術を明日にひかえた12歳の少女アマンダもいた。3週間前、歯の定期検診に行ってたまたま見つかったという進行性の癌は、いったい彼女とご家族の上にいかばかりの衝撃と不安を与えたか、私には想像もできない。日頃は快活なアマンダも、今朝は祈りを終わって席にもどるとき、涙でぐっしょりの顔をしていた。しかし、私たちの主イエスはいやし主であられる。 主よ、アマンダの上に、病めるあなたの民に、癒しのことばをお語り下さい

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。」
                                 (第2列王記20:5)

しばらく前にはちこの日記でも紹介した、看護婦エルマさんのルーマニアへの宣教の旅(3年間の予定)がいよいよこの5月にせまり、彼女から教会の会衆にむけて、祈りと、経済的なサポートのお願いがあった。エルマさんが届いていこうとしているのは、5000人とも1万人ともいわれるルーマニアのホームレスの子供たちである。彼女が見せてくれたスライドには、共産主義の歪みの中、実の親から貧困を理由に家を追われた5歳、6歳、7歳という年齢の子供たちが、通りで盗みや物乞いを働き、苦しみをシンナー遊びで紛らすという生活をしているようすが映されていた。彼らに何とかしてキリストの愛の手を、という重荷が彼女に与えられて1年半。メキシコへの短い医療宣教などを通して主はエルマさんを整えてきた。しかし、自分の娘への片腎提供など、その間の歩みが平坦ではなかったことも前に記したとおりである。その彼女が、十字架の上から母マリアを弟子ヨハネに託したイエスの気持ちをひいて語られた言葉が印象的であった。

「30年通った教会をあとにするのは簡単なことではありません。もはや家族のようなものですから。その家族である皆さんを見込んでもうひとつお願いです。この会衆の中には、娘のひとりと孫がいます。私のいない間、どうか彼女たちのことを覚え、励ましてやってください。」

はちこが日本でアメリカ人の宣教師を通して救われたこともあり、宣教の働きは私たちにとって 人ごとではない。今こうして仲間うちから宣教師を送りだす機会にめぐまれ、とても光栄に思う。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」(イザヤ書52:7)

今朝の特別賛美はマリアさんとマロンの母娘デュエットで、「People get ready, Jesus is coming」という歌だった。歌の賜物を持つ人が多いうちの教会でも、この二人の歌声はひとつ抜きんでている。しかし、彼女たちの歌が心に響くのは技術もさることながら、メッセージが、日々の暮らしの中でキリストを証しすることを生きがいとしているふたりのライフスタイルにビシッと裏打ちされているところだ。今朝も、先日デパートのレジで穴のあいた手首のような形をしたスキャナーを使っているのを見て、思わず店員に黙示録のところからイエス様の再臨について証をしてしまったと楽しそうに言っていた。この二人を見ていると、僕ももっとイエスさまのことを伝えたい、という気持ちになってくる。イエス様は戻って来る。その前に、ひとりでも多く、主イエスを救い主と受け入れることができるように。(ぼ)

しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

(2/7/1999)
)

「中村さん、セスナの免許を取ったので乗せてあげますよ。」

私がまだアメリカの東海岸で大学院生をしていたころ、後輩で航空機械科の学生だったS君がにんまりとした顔でやってきた。何事も経験と思った私は、次の週末、S君に連れられて郊外の小さな飛行場に降り立ったのである。オフィスで簡単な記帳をすますと、格納庫の外に停めてある二人乗りのセスナの中から一台を選び、よいしょっとよじのぼる。操縦席と助手席だけのコクピットは思いの外きゅうくつで、計器類が所狭しと並んでいる。小さな風防の向こうに滑走路がまっすぐ伸び、その終点には青空が広がるばかりだ。

と、その時である。操縦席のS君がやおら「飛行教則本」なるものを鞄の中から取り出したのは。何やら低い声で「え〜っと、操縦管はどれだ」とかいいながらページをぺらぺらめくっている。私は途端に来たことを後悔した。(おいおい、大丈夫なんだろうなっ!)私の心配をよそに、S君は始動キーや無線の位置などもいちいち本と照らし合わせているではないか。まだクリスチャンになる前だったが、本気で神様にお祈りしたのはこれが最初だったかもしれない。

実はS君のやっていたことが正しいとわかったのは、ずっと後になってからである。セスナを飛ばすことはたやすいことではない。墜落すれば自分も乗客もさようならである。安全確認はやってやりすぎということはないのだ。機種ごとに微妙にことなるかもしれない操縦装置を出発前に教則本と照らし合わせるということは、基本に忠実な行為であって、自分の勘に頼って飛ぶよりはるかに確実なことだったのである。(私の心臓には悪かったが。)

最近、公私にわたって俄に忙しくなってきた。こういう時、クリスチャンとしての自分の歩みは基本に忠実だろうかとふと思わされる。聖書を学び、祈りのために割いている時間を平均してみれば、1、2年前に比べやや減っている。頭のどこかで「量より質だよ」という声が聞こえるような気がするのだが、これは嘘である。充分時間を割かずに質だけを求めるのが事実上不可能なのは、デボーションだけではない。子育てにしても、サイエンスの論文にしても、しかりである。ある宣教師は言った。「一日30分は祈りなさい。もちろん、忙しい時はこの限りではありません。そういう時は、一日一時間祈りなさい。」うちの牧師もいつも言っている。「祈れないほど忙しいというのであれば、それは忙しすぎです。」

またどこかで「今までの経験でカバーできるよ」という声もするのだが、これも偽りであろう。スキーで怪我をすることが多いのは初心者よりもある程度慣れてきた中級者である。ひとりよがりは、あぶない。

旧約の時代のユダ王国にヨシヤという王様がいた。彼はユダ王国に空前のリバイバルをもたらすのだが(第二歴代誌34ー35章)、そのさなか、紛失していたモーセの五書(つまり、旧約聖書)を発見する。つまり、ヨシヤ王にいたるまで、人々は神のみ言葉をほったらかして、好き勝手なことをやっていたのだ。み言葉に立ち返るという基本的な行為が、ヨシヤ王をして数少ないユダの名君主とした。

セスナのエンジンを停めて、コクピットの機能をおさらいしなおす時期にさしかかっているようだ。 (ぼ)

(2/10/1999)


今日は昼間から寒かったので暖炉に薪をくべて火を焚いた。初めのうちは勢いよく燃えていたのだが、しばらくしたら下火になり、くすぶってしまった。専用の鉄のコテのようなもので薪をつっついたり並べかえたりしながら、フーフーと強く息を吹きかけた。すると「ボッ」と音を立てて大きな炎が再び燃え上がった。

その炎を見たとき、私が昨日JCFNの主事から受け取った一通の祈祷依頼のメールの中で、彼女が熱く語っていた言葉を思い出した。

「・・・私はリバイバルを願います。一人一人の心の中に神様への愛と礼拝の火が燃やされて神様を伝えないではおれないという思いに燃やされることです。倒れているものが立ち上がり、神様の愛に満たされて、信仰の喜びが回復することです。・・・」

一人一人の心の中に神様への愛と礼拝の火が燃やされる・・・倒れているものが立ち上がり、信仰の喜びが回復する・・・

私自身の魂の中に、熱く焼けたコテが突き立てられたかのように心が揺さぶられる。

おお主よ、私もこの姉妹と共に祈ります。
聖霊様、あなたの息吹を私たちの上に吹きかけてください。
くすぶっている火を、あなたがもう一度かき立て、大きな炎へと変わらせてください。

あなたの御子の血潮によって買い戻された者たち一人一人の心の中で、
もう一度あなたへの愛と礼拝の火を燃やしてください。 
主よ、あなたはくすぶる灯芯を消すことがなく、
傷ついた葦を折ることはなさらないお方ですから感謝します。
いま再び、倒れているものの手を取り、立ち上がらせて下さい。
私たちの中に、信仰の喜びを、救いの喜びを、回復させて下さい!

リバイバルの炎を、主よ、どうか日本の地の上に送ってください!

(2/17/1999)

すでに心の中で何か感じていることがあって、それを言葉に現わそうとしてもうまく表現できなかったり、言葉にしてみたら自分が実際に思っていたこととはどこか違っていたり・・・ あるいは心の中では混沌として自分でもよくわからなかったことでも、言葉にしているうちにだんだんはっきりしてきたり・・・ 自分はAのつもりでBと言ったのに、相手にはCと受け取られて困ってしまったり・・・

言葉について語りだしたらきりがないけれど、私が言葉についてどこに一番魅力を感じるかと言えば、それは言葉が持つ「力」。 言葉とは、単に音と意味とが結び付いて特定の概念を表象するためにだけ用いられるのではないのだから。

言葉は人を生かすことも出来るし、殺すことも出来る。言葉は解くことも出来るし、縛ることも出来る。

そのとき、神が『光よ。あれ』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1章3節)

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10章10節)
  

神様は言葉を用いてこの天と地を創造されたのだ。 人は「イエスは主です」と言葉に現わして告白するとき、永遠の命を得るのだ。

人が語る言葉が、外界に、聞き手に、また話し手自身に何かを成すことができる・・・ だから自分が何を語るか、どのような言葉を発するのか、よく気をつけた方がいい。ネガティブな言葉を発すれば、それが聞き手を、あるいは自分自身を縛ることになるだろうし、ポジティブな言葉を発すればそれは聞き手や自分自身に祝福をもたらすのではないだろうか?

たとえ心の底からは思えなくても、感情がついてこない時でさえも、「ありがとう」と声に出して言ってみる。「あなたを信じます」と言ってみる。

呪いではなく祝福を、せめて私の小さな世界にもたらす者になりたい。

(2/27/1999)

>私が言葉についてどこに一番魅力を感じるかと言えば、それは言葉が持つ「力」。

これは、確かにそうですね。聖書には「ことば数が多いところにはそむきの罪がつきもの(箴言10:19)」「舌は火であり、不義の世界です(ヤコブ3:6)」「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します(マタイ15:11)」と、私たちの言葉使いに対してかなり厳しい教えが多いので、そんなことならいっそだんまりを決めこんでいたほうがましだと思ったりもするが、現実にはそうは行かない。何かを語ることによって、私たちはまわりの人々や環境に善かれ悪しかれ影響を与えていく。

言葉には偉大な力がある。重病の部下を持っていた百人隊長は、イエス・キリストにこう言った。

「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にあるものですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」(ルカ7:6ー8)

また、神様がエデンの園で最初にアダムにさせた仕事は、動植物に名前をつけることだった(創世記2:19)。アダムは、自分の言葉で、すべてのものに名前をつけていったのである。

日本にも「鶴のひと声」ということわざがあるが、しかるべき権威をともなって発せられた言葉には、混沌とした状況に秩序を与える力があるようだ。上のアダムの例から考えると、人間が、言葉で宇宙を創造し秩序を生み出した神に似た者として造られている以上、言葉を使って自分をとりまくもやもやとした状況に秩序を与えていくことは、私たちが授かっている可能性であると同時に使命でもないだろうか。

どうしたらいいかわからず「主よ、あなたのみこころは何ですか」と祈って、「こうだよ」とはっきり示されることは、私の場合あまりない(めったにないと言っていい)。こういうとき、どうするか。みこころが示されるまで、あくまで祈り続けるか。あるいは、何がみこころかわからないのだから、とりあえず手あたり次第なんでもやってみるか。しかし、ときどき、主は「どの方向を選んでもそうたいした違いはないのだ。私がおまえに与えている言葉の力を使って、道をひとつ切り開いてみたらどうだい」と言っておられるのじゃないかと思うことがある。(大概そういう返事を期待していないから、みこころが示されないと思ってしまうのかもしれない。)

むずかしい決断であればあるほど、確実にこうだ、という確信が得られるまでは思いとどまってしまいがちだ。誰でも失敗はいやだもんね。でも、「正直いってどちらに行っていいのかわかりません。しかし、主よ、あなたを信頼し、信仰の一歩を踏み出します。」ということも時には必要であろう。このようにして発せられた言葉には、主が力を与えて下さり、そこに何らかの秩序が生まれてくると私は信じたい。 (ぼ)

(2/28/1999)


ご感想などございましたら是非メールを下さい。
はちこは喜びます!



リンク、転載、配付、引用及び免責事項について
(c) 1999, 2003 Sachi Nakamura

このページへのリンクは御自由にどうぞ。
http://nakamurafamily.net/faith/index.html