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はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

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新年明けましておめでとうございます。

今日は新年早々、とても嬉しいメールをいただいた。 半年以上前にネットである求道者の方(Yさん)と知り合った。彼女とは掲示板などで一時期わりと頻繁に話していたのだが、そのうちネットであまりお見かけしなくなりそのまま随分長い間ご無沙汰していた。そのYさんから、今年のイースターに受洗が決まったと連絡が入ったのだ。

私も無責任なもので自分ではすっかり忘れてしまっていたのだが、Yさんがいうには、某掲示板で彼女が「神様に求め続けている」というような発言をしたとき、私が「求めることも大切だけれど、神様からの応答に気をつけてみることも大切ですよ」というようなことを言ったらしい。そしてそれがきっかけで語りかけてくださっている神様の御声に耳を傾けるようになったのですとおっしゃっておられた。

意識して神様からの応答に耳を傾けるようにしてみると、神様は確かに多くの方法でYさんに語り、導いてくださっていることに気付いたそうだ。ある時は聖書の御言葉から、ある時はデボーションテキストから、またある時は教会の友人との何気ない会話や牧会者のメッセージから・・・。

Yさんは神様に求めた。神様はYさんの求めに答えて下さった。そして今度はYさんご自身がへりくだりと従順をもって、神様の応答に対して応答する決心をされ今回の受洗決定に至ったのだ!

何と感謝なことだろう!

Yさんが第2コリント2章15節の御言葉を贈って下さった。

私たちは、主を信じる人々の中でも、主を信じない人々の中でも、
 かぐわしいキリストの香りである。

これから新年を始めるにあたってなんとふさわしい御言葉だろう。オンラインでもオフラインでも、またどのような人の中にあっても、この一年間も私が、また全てのクリスチャンが、かぐわしいキリストの香りであれますようにと、心から祈りたい。

そしてYさん、受洗決定おめでとうございます! Yさんの主にある歩みが守られ、強められ、主の器としてYさんが大いに用いられますよう、お祈りしています。

(1/1/1999)

先日のYさんの受洗決定の知らせに続き、今日はKさんがイエス様を救い主と受け入れ告白されたとのご連絡を受けた。ハレルヤ、ハレルヤ、なんと素晴しいことでしょう!

Kさん、今日あなたがなさった決心は、恐らくあなたが一生の中でしなくてはならない決心の中で一番重要なものであったことでしょう。なぜなら今日Kさんがイエス様を救い主として心に受け入れ口で告白したその瞬間、天国にある子羊の「いのちの書」にKさんの名前が書き記されたからです。その瞬間あなたの過去・現在・未来の全ての罪がイエス様の血潮によって洗い流され、その血潮の代価をもってKさんが神の御国に属する子供として買い戻されたからなのです! 天国では御使いたちがハレルヤの大合唱をし、盛大な祝会がもたれたことでしょう!

Kさん、クリスチャンになったということは、一切の困難や試練や病から解放されるということではありません。この地上に生きている限りは様々な苦しみがついてまわりますし、キリストの弟子となったことにより増し加わる試練もあります。けれども素晴しいことに、イエス様を信じるようになったことで私たちにはそれらの困難や試練に耐え、打ち勝つことの出来る力が与えられるようになったのです! 

これから先もしも、「クリスチャンになったはずなのに今までの自分のちっとも変わっていないじゃないの」とがっかりするようなことがあったら、どうかピリピ人への手紙1章6節の御言葉を思い出してください。イエス様の愛と聖霊様の御力は確実にKさんの中で日々働いて、栄光から栄光へとイエス様の似姿へKさんを変えていってくださっているのですから。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでに
 それを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
」  ピリピ1章6節

いつかシカゴでお会いしましょうね。Kさんにはこの地上にいるうちに直接お会い出来る予感がするのです。 その日を楽しみにしています!

(1/3/1999)

昨日から「全国祈祷週間」が始まった。全国、といってもこれが教派を超えたものなのか、米国アッセンブリーオブゴッド教団内だけのことなのかはよく知らない。(多分後者か?) 祈祷週間の初日のフォーカスは「悔い改めの祈り」。 ぼぼるパパが司会だった。

彼が用意したものが手元にあるので、今日は少しそこからシェアしたい。(パパがいない隙にこっそり?拝借。)

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない
(詩篇66篇18節)」

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
 その耳が遠くて、聞こえないのではない。
 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
 あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ

                            (イザヤ書59章1、2節)」

祈りとは、私たちと神様との間のコミュニケーションの命綱のようなものだが、聖書ではもしも私たちが自分の中に告白していない罪を温存させておくのなら、神は私たちの祈りを聞いては下さらないといっている。だから私たちの祈りを神様に聞いていただきたいのなら、そして答えていただきたいのなら、まずは神様に私たちの心を吟味していただき、ふさわしくないものがあるのならそれをひとつひとつ告白し、聖めていただく必要がある。

キャンパス・クルセードの主幹、ビル・ブライト師が彼の本("Preparing for the Coming Revival")のなかで「高ぶった霊とへりくだった心」というタイトルで高慢で砕かれていない人々の心の有り様と、砕かれた心をもつ人々の有り様について対比するリストを紹介している。 その一部を紹介すると(はちこ訳)・・・

高慢で砕かれていない人々の心

砕かれている人々の心
他人の失敗ばかりを見る。 自分自身の霊的必要をよく認識している。
自分で自分の心は正しいと思う「自己義」に満ち、批判的であら探しをする霊を持つ。人の失敗には厳しく、自分の失敗には甘い。 同情深く、許す心を持つ。他者の中にベストのクオリティを見い出そうとする。
批判されると自分を防御する。 他者からの批判、忠告をへりくだった感謝の心で受けとめる。
他者との間に誤解やコンフリクトがあると、相手が謝りに来るまで自分からは謝らない。 自ら進んで和解する。まず自分を十字架の御前にさし出す。
自分の中には悔い改めるべきことなどないと思っている。 常に悔い改めの心の態度を持つ。
他者から認められるため、感謝されることために奉仕やミニストリーに関り、自分の働きが人に見られることを願う。 自分が取るに足りないものであるとの自覚を持ち、少しでも用いて頂けることを喜びとする。自分で手柄を得ようとはしない。隠れたところで奉仕する。

夕べの祈祷会では特に「砕かれた、悔いた心(詩篇51:17)」に目をとめ、このリストを用い、各々主の御前に出て行き、それぞれの心を吟味し、聖霊様に示されるままに悔い改めた。

パウロは言っている、「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。(第一コリント4:4)」

自分では特に告白すべき罪などないと思っていても、祈り始めてみると、次から次へといろいろなことが示されたりする。もっとも私の場合は、上記のリストを見ただけで、「いてててて・・・」心がチクチク痛み始め、いかに自分が傲慢で砕かれていない者であるかを思い知らされたのだが。

夕べの祈祷会で、悔い改めの祈りをするにあたってぼぼるパパが皆に勧めたことは次のこと。

(1)語っておられる聖霊様の御声によく耳をすまし、聞く。
(2)聖霊様に導かれるまま、自分の中の罪を具体的にひとつひとつ見定め、罪全体としてではなく、個々の罪について告白する。
(3)それらの罪に対する主ご自身の痛みや悲しみを自分の霊が感じるまで、主の御前で静かに待ち、それから赦しを求める。
(4)「悔い改めにふさわしい実(マタイ3:8)」を結ぶことができるよう、主に助けを求める。

実は私、夕べの祈祷会は子供たちと一緒に家で留守番だった。でもこの日記を書きながら、改めて悔い改めの必要を感じている。

聖霊様、助けてください。 

(1/5/1999)

昨日、教会の友人が「日本のことが出ているよ」と言って「カリスマ」という雑誌を貸してくれた。「カリスマ」とはその名の通り、カリスマ/ペンテコステ系のキリスト教雑誌だ。出ていた記事は、昨年9月に武道館でもたれた東京リバイバルミッションのことだった。

記事の内容はほとんどすでに知っているようなことだったが、その中に載っていたR.O.師のインタビューが目に留まった。R.O.師のことは私は学生時代からお名前とお顔だけはよく知っており、私の記憶の中ではピカピカの福音主義の先生、という印象だった(記事には「以前は反カリスマ主義だった」と書いてあった)。記事を読み、そのR.O.師が今回のリバイバルミッションの責任者であられたと知り、まず驚いた。そしてR.O.師は何と1995年に「聖霊様にふれられ」、当時務めておられたJEA(日本福音主義連盟?)での高いポジションも辞任され、積極的に聖霊様の働きの中に入っていかれたというではないか! インタビューでは先生が溢れる涙を抑えつつ、聖霊のバプテスマを受けて以来「言葉に現わすことの出来ない喜びに満たされるようになった」と語っておられたと書いてあった。こういう言い方は失礼になるかもしれないが、先生は現在71歳。何十年もの長い間自分が信じ、また人にも教えてきた立場をひるがえすというのは大変な勇気がいることであり、また非常にへりくだらされることであったろうと察する。私は先生の魂の柔らかさ、謙遜さに感銘を受けた。
  
教義をきちんと理解していることは大切なことだ。キリスト教とは名ばかりのカルト的信仰に惑わされないようにするためにも、自分が何を信じているのかを聖書に基づいてしっかりと知っているべきだと思う。しかしその一方、自分たちで立て上げた神学や教義の枠組みの中にこの天地を造られた全知全能の神様を押し込めてしまうという過ちを犯してしまわないよう、気をつけていることも必要だ。それは福音主義もペンテコステ派も、いかなる教派・教団のクリスチャンでもみな同じこと。

実は私自身、しばらく前に私の貧相な神学が揺るがされるような出来事に遭遇したのだった。それをどう受け止めたらいいのかわからず、頭から否定してしまうべきなのか、あるいはそのまま受け入れてしまってもいいのか、とても混乱していた。(今でもやや混乱している。)

まだよくわからないのだが、R.O.師の記事を読んで思わされたことは、私もR.O.師のように謙遜で柔らかい魂を主の御前に持っていたいということだ。 今はただこう祈る。

主よ、聖霊様よ、私の霊の目と耳を開かせてください。
あなたの御手の業ならば、それを私にはっきりと教えてください。 
私が自我に縛られることによって、
あなたの御業を見逃してしまうようなことがありませんように。
あなたは私たちの思いをはるかに超えた、大いなる業を行って下さる神です。
主よ、私があなたの前に、柔らかくへりくだった魂を持つものであれますように。
 

               (1/11/1999)

私の教会で以前賛美リーダーをしていたスコット牧師は礼拝中の聖霊様の動きにとても敏感な人だった。(彼は今は別の教会で奉仕しておられる。)

何曲か賛美をしているうちに皆が手をあげ声をあげ、エペソ書5章19節(「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」)にあるように一人一人がそれぞれの言葉で神様を礼拝し始める。会衆の心が一つとなって、ただ神様だけに目が向けられる。すると時々、会衆の中の誰かに預言が与えられることがある。 預言は英語で与えられることもあるし、異言で与えられることもある。預言を与えられた人がひときわ大きな声で与えられたメッセージを語り始めると、会衆は静まってそれに耳を傾ける。 異言で与えられた場合は同時に誰か別の人に異言の解き明かしが与えられており、異言でのメッセージのあと、英語での解き明かしが語られる。その内容は励ましの言葉だったり、戒めの言葉だったり、あるいはこれから神様が私たちの教会に何をなさろうとしているかについて語られる言葉だったり、といろいろだ。

このようなことは、礼拝ごとにいつも起こるわけではないが、決して珍しいことでもない。

スコット牧師が礼拝中の聖霊様の動きにどう敏感だったかというと、会衆の誰かに預言が与えられると、その人が語り出す前にスコット牧師は「聖霊様が語ろうとしておられることに耳を傾けましょう。今、静かに主を待ち望みましょう。」と言って会衆を静めるのだった。そして礼拝堂がシーンと静まり、皆の思いが聖霊様に集中していると、預言を与えられた人が静かに語りだす。そしてさらに静まって待っていると、解き明かしを与えられた人が異言で語られた預言を解き明かすのだ。 私など、どうしてスコット牧師は誰かに預言が与えられたとわかったんだろう・・・といつも驚いていたものだった。

*****

1月25ー27日にキャンパスクルセード主幹のビル・ブライト師が本田弘慈師、そして韓国キャンパスクルセードの主幹のJoon Gon Kim師と共に東京で断食祈祷聖会を導かれるときいた。私はブライト師が毎年アメリカで開いておられる同様の断食祈祷聖会に一度参加したことがあるのだが、決して忘れることの出来ない大変素晴しい経験だった。 第2歴代誌の7章14節をテーマにアメリカ及び世界のリバイバルのために祈る大がかりな断食祈祷集会なのだ。文字通り超教派の集会で、バプテスト、メソジスト、ルーテル、ナザレン、フルゴスペル、長老派、アッセンブリーオブゴッド、フォースクエア、等、思いつく限りのさまざまな教派教団のリーダーたち、全国の大きな神学校の学長たち、そして各種のミニストリーの主幹たちがこの断食祈祷集会の賛同者として名前をつらねている。私が参加したのは1995年、ロサンゼルスでもたれた集会。初日、木曜日の午後6時から9時まで、二日めが朝9時から夜9時まで、そして最終日が朝9時から昼12時まで、それぞれオフィシャルな休憩時間をとらず、ぶっ通しで祈るのだ。(途中でトイレなどに行きたい人は適宜自分で休憩をとる。)95年の集会では全米から約3500人の参加者があり、広い広い会場には前方に小さなステージと大きなスクリーンが用意されており、あとは会場中に椅子が10脚ずつ円形にならべられているだけだった。 その時初めて出会った人たちと、ただイエス・キリストの御名のゆえに手をつなぎ、肩を抱きあい、共に涙しながら世界のリバイバルのために祈った。

日本での断食祈祷聖会がどのような形でもたれるのかはわからないが、日本のリバイバルの鍵を握る重要な集会となることだろう。一人でも多くの方々が参加されることを願う。

(1/19/1999)

「科学と信仰はどう両立するのですか」という質問をよく聞く。「この科学の発達した世の中になぜ宗教が必要なのか」という声も。大方は私がサイエンティストでありクリスチャンであると知っていて興味半分に聞いてくるようである。確かに、そういうことは自分でもしょっちゅう考えている。しかし、頭の中で考えているだけでは科学の現場にいるクリスチャンはやっていけない。

InterVarsity(アメリカのキャンパスミニストリー)の学生集会などに招かれていくと、「生物学の教授が無神論者で、聖書的な世界観を頭から馬鹿にした講義をしている。どうしたらいいのでしょう」なんていう質問がぽんぽん出てくる。

このテの苦情に対して私は大概いつも、第一ペテロの3章9節から17節に基づき、まず、講義に対する熱心な姿勢を失わず、先生のいわんとしていることをよく学び、自分のベストを尽くすことを勧める。どんな高名な教授でも、自分の講義をよく理解し、努力して一定の成績を修める学生には一目置くものである(必ずしも天才である必要はない)。 やがて教授と一対一で話しをする機会も生まれてくるかもしれない。クリスチャンの使命はまず人間関係を築くことであって、自分の神学(あるいは科学)を固守することではないのだから。

とはいえ、頭の中がごちゃごちゃしているのは気持ちが悪い。自然科学と信仰の関係についての混乱の多くは、科学がどういう学問かを知らないところからくると思うので、ちょっと整理しておこうと思う。

1.  自然科学は物質世界のできごとだけを対象とする。

価値観、モラル、霊の世界などは守備範囲外であって、これらについては沈黙を保たざるを得ない。なかには人間の精神も分子レベルの物理化学の研究対象と考える科学者もいるが、しかしそれはあくまでひとつのパラダイムであって、霊の世界(そしてもちろん神)の存在そのものを否定することにはならない。科学者にも大勢の宗教家がいる。

2.  自然科学の手法は人間が考え出したルールである。

特に、客観性を重んじるために 
a. 実験や観測によって再現・実証可能な帰結だけを事実として受け入れ、
b. 研究結果は他の研究者たちに厳しく審査されて初めて陽の目をみる。(テレビでよく報道される学会発表というのはこの前段階であって、研究者たちがみな同意した結論とは限らない。)  しかし一方で、
c. どんなに確立したと思われている理論体系も、将来にわたって相反する実験や観測結果が出てきた場合は修正されなければならないという意味で、絶対的普遍性を保証されていない。(そうでなければ科学の進歩はなくなってしまう。)

というわけで、科学というのはなかなか制限の多い、流動的な学問である。コーヒーにクリームを入れてかきまわせば混ざる、というようなあたりまえのことも、上のルールにのっとって記述しようとすれば、ややこしい方程式を大型の計算機で解かなければならない。しかも、計算機の中で起こっていることは調べれば理解できるが、解いている方程式自体は人間が考え出したものだから、答えが本当に現実のコーヒーを現わしているかどうかについては「現時点ではそう思う」としか言えない。科学は「真理を究明する学問」とよくいわれるけれど、厳密には「物質世界のモデルの中の真理」は究明することはできても、現実世界の不変の真理には手が届かないのだ。

私は聖書の記述を科学的な目で評価することをあまりしない。ひとつには聖書は近代科学の興亡にかかわらず永遠の真理だと信じるからであるが、もうひとつは科学が神のみわざをはかる手段としてはあまりにも制限が多すぎると思うからだ。太平洋の水を穴のあいたバケツで量っているような気がする。たとえば、神が特定の目的をもって被造物の摂理に介入する、奇蹟。 科学が客観性を最大公約数とする以上、聖書に書かれている奇蹟を研究対象にすること自体、不毛な試みである。

では、クリスチャンにとってサイエンスは無用の長物なのだろうか? もしそうだったら地球物理学などとっくの昔にやめている。私にとっては研究も立派な「礼拝 (act of worship)」である。これについてはまた次回。  (ぼ)

 (1/23/1999)

(科学と信仰の続き)

神は聖書を通し、キリストによる罪からの救いについて啓示されている。一方で、被造物である自然を通してご自身の永遠の力と神性をも啓示しておられる(ローマ書1:19-20)。私たちの友人で、学生時代北海道の大自然に触れ、背筋がぞくぞくと震えるような感動とともに「神は、いる!」という確信を覚えたという人がいる。彼はその直後に聖書の学びを通してキリストを救い主として受け入れた。今は牧師になっている。

私たちが自然の営みを観察する時に覚える感動とはどんなものだろうか。南アルプスの稜線から見た朝焼けの富士山、八ヶ岳山麓の奇抜な形をした樹氷、イエローストーンの巨大なバイソンの群れ、コロラドの渓流で釣り上げたにじますの鮮やかな体斑。思わず息を呑むような体験もあれば、味噌汁の中に湧き上がる対流やハイビスカスに群がるくまン蜂のように、どうってことはないけれど見ていて飽きない情景もある。その時によって反応はまちまちであっても、私たちがこれらのことに心ひかれるのは、自然界が多様性の中にも不思議な秩序を現わしているからではないだろうか。 この秩序こそ、創造主としての神の性格を証していると私は思う。

主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。」(箴言3:19)
摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。わたしは分別であって、わたしには力がある。」(箴言8:14)

前に、科学は究極の真理に到達することはできないと書いた。しかしながら、現在の私たちの実生活がいろいろな意味で自然科学の恩恵に浴していることも否定できない。科学の成功の秘密とは何であろうか。それは、摂理の基である神が、自然界をもともと秩序あるものとして創造し治めているからだと私は考える。秩序という前提なしには、一般化された科学理論の余地などない。ひるがえって、科学はそれ自体で究極の真理に到達することはできなくても、科学に携わる者は知性である創造主の摂理を信頼することにより、「信仰によって」真理を宣言することはできると思う。この意味でサイエンスは私にとって「act of worship」たりえるのだ。もちろん、私たちが科学であれなんであれ、創造のみわざを鑑賞し理解することができる理由として、神が私たちをご自身の似姿に造られ、恵みによってその知性のかけらを与えて下さっているという事実も忘れることはできない。

実はこれらのことは300年前にすでにアイザック・ニュートン卿がその主著「プリンキピア」で語っていることである。ニュートンといえば近代科学の父として名高いが、彼は「プリンキピア」の中で実に半分以上のスペースを割いて聖書に基づいた世界観を語り、いかに科学的手法がその理にかなったものかを説いている。近代科学がキリスト教世界であった西欧にまず始まったというのは、あながち偶然ではないようだ。

マスコミの報道とは裏腹に、科学者の平均的な一日とはたいへん地味なものである。研究すれば研究するほどいかに自分がものをわかっていないか思い知らされる。数年前に「地震予知連絡会20年の歩み」だったかそんなようなシンポジウムがあって、唯一参加者の意見が一致したのは、「地震予知連絡会20年の成果は、地震予知は20年前にわれわれが思っていたよりずっと難しいということがわかったこと。」たとえクリスチャンでなくても、実験を成功させるにはしばしば祈りが不可欠であることを現場の研究者なら知っている。神の摂理に委ねることができてはじめて科学のさらなる進歩が期待できるのかもしれない。

主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1章7節) (ぼ)

(1/27/1999)


最近ちょっと異端信仰について考えている。

聖書には、キリスト教の歴史のごく初めの頃からにせ使徒たちが出現し、異なるイエスや異なる福音を宣べ伝えていたという記述がある。またこれから先もそのようなにせ教師たちが出現し、ますます異端がもたらされるようになることも預言されている。

「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりする・・・ ・・・こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。」(第2コリント11:4,13節)

「・・・同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。 彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」(第2ペテロ2章1節)

こんなことを書くと、クリスチャンたちは皆、自分の属する教会/教派とは違う教義のことは何でも異端扱いするのではないかという人もいるかもしれないが、そんなことは断じてない。

折しも今週初めに東京で超教派の「東京断食祈祷聖会」という集まりが持たれた。この働きの提唱者は福音主義のビル・ブライト師(国際キャンパスクルセード総裁)だが、先日の日記でもふれたように、アメリカでこの断食祈祷聖会が持たれたときは福音主義もペンテコステ派も、思いつく限りのありとあらゆる教派/教団のリーダーたちが顔をつらねた。東京の聖会でも同様に様々な教派/教団からの参加があり、この聖会を取材された奥田兄も「少しずつ着実に教派・教団間の壁が崩れてキリスト教会が一つになり始めている実感」が感じられたとJ-praise のHPで報告しておられた。
 
たいていのクリスチャンは自分の属す教会/教団の中でしか他のクリスチャンとの交わりがないのが普通だと思うが、それも今はインターネットの普及などによって変わりつつあることを感じる。リーダー間で教派の壁が崩れてきているだけでなく、草の根レベル(?)の一般信徒同士の間でも教派/教団を越えた交わりが頻繁に行われるようになり、「直接知らなかった」ことによるお互いに対する偏見などが取り除かれ、実感として、「あぁ、本当に御霊はひとつ、私たちはイエス様にあって一つの家族、キリストの肢体なのだなぁ」と感じられるようになってきた。私が関わっているJCFN(滞米邦人クリスチャンの超教派ネットワーク)でも、今までに教派の違いで問題がおきたことなどはないと記憶している。このような一致、一体感は本当に素晴しいことだ。 聖書にも「あなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35)とあるが、これぞリバイバルのための最大の鍵となるのではないだろうか。

しかしその一方で、私たちが「超教派」「一致」というときに気をつけなければならないこともあると思う。

聖書が言っているように、世の中にはにせ教師、にせ預言者が出回るようになっているのだ。ひと目ですぐに「にせ」とわかるような教えなら心配はいらないが、彼らが教えるものは「別のイエス」であったり「異なる福音」であったり、また「異なる霊」を授けることもあるというのだ。ヨハネは「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」と忠告している。教派/教団間の壁が崩れつつある今だからこそ、「一致」が必要とされている今だからこそ、キリストの御名による働きの中に「異なる」ものや「別」のものが混入されることのないよう、クリスチャン一人一人が目を覚まし、神の武具を身につけ、御言葉の上にしっかりと立ち、気をつけている必要があるのではなかろうか・・・ そしてもしも「異なる」ものに惑わされている人を見たなら、神様から知恵をいただきつつ、適切に接していきたい・・・

(1/28/1999)



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(c) 1999, 2003 Sachi Nakamura

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