|
加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] 先日、とてもいいサイトを教えていただいた。キャンパスクルセードが出している「豊かな人生のための4つの法則」というトラクトをご存じの方は多いと思うが、その続編ともいうべき、「御霊に満たされたすばらしい喜びの生活」というトラクトがオンライン公開されているサイトだ。(後日談:このサイトは閉鎖されたようです。) このトラクトの中では、まだイエス様を救い主として受け入れていない「生まれながらの人」、イエス様を救い主として受け入れ、喜びと力に満ちた歩みをしている「御霊に属する人」、そしてイエス様を救い主として受け入れていながらも喜びのない歩みをしている「肉に属する人」という3つの分類がなされている。 このトラクトの目的は3つめのカテゴリーに当てはまる人たちが肉の支配から聖霊の支配へと移り、御霊に属するものとなることだ。 興味のある方には是非読んでいただきたいと思う。私もすでに何度も行って何度も読んできてしまった。 ***** 夕べ、久しぶりに「Great I AM」のコーナーを更新した。今回の神様の名前は「エル・シャダイ」だ。「エル・シャダイ」というと、Amy Grant の歌のタイトルにもなっていて、神様の数ある名前のなかではよく知られている方ではないだろうか。 「エル・シャダイ」という名前は日本語では「全能の神」と訳されるのが一般的だが、原語に¥帰ってよく調べてみると、単に何でも出来る神様という意味ではないということがわかる。神様は確かに全能なのだが、「エル・シャダイ」のお名前が示唆するところは、神様は私たちを霊的な祝福で溢れんばかりに豊かに満たして下さることのできるお方だということだ。 上記のトラクトが指摘しているように、喜びや勝利や力のない歩みをしているクリスチャンは決して珍しくない。 私自身、それらのものを失い神様から遠く離れたところで途方にくれてしまうことが少なくない。 クリスチャンであっても、自分の人生の意味や目的がわからず、満たされない思いに悩まされ、苛々したり空しくなったりみじめに感じることがある。 しかし、神様は「エル・シャダイ」なのだ。私たちを霊的な祝福で溢れんばかりに豊かに満たして下さる神なのだ! 空しく感じることがあれば、エル・シャダイの名前を呼ぼう。エル・シャダイの名のもとに飛び込もう。 エル・シャダイなる神様、どうか私を御霊で満たし、日々御霊によって歩むものとして下さい。 (10/3/1998) しばらく前に友人からとても励ましになることをシェアしてもらった。今日はそれを紹介したいと思う。(許可を下さったKさん、ありがとう!) 私たちが自分で何と思おうと、周りが何と言おうとも、We are who GOD SAYS we are! 私たちは神様が私たちについておっしゃって下さっている通りの者だ。 神様が私たちについておっしゃっていることとは・・・
まとめて言えば、私は主キリスト・イエスを信じる信仰により、「新しく造られたもの」となり、「罪を赦され、購われたもの」となり、「勝利者」となり、「神の子供」とされたのだ! 私の感情がそう言うのではない。むしろ感情的にはとても信じられないことだ。でも、もうサタンの嘘には振り回されないぞ。 神の言葉である「聖書」がそう言っているのだから。 (10/12/1998) 悲しくなるとき、切なくなるとき、不安になるとき、心が傷つくとき・・・ そういう時って、どうしてもある。 久しぶりに何だか悲しくなることがあって、ついベッドの中で泣いてしまった。 でも悲しみや痛みの中で泣き寝入りをするのはもっと切ないので、小さい声で歌ってみた。
はじめはとりあえず無理して歌ってみた。 それからもう一度繰り返してみた。 いつの間にか、痛みの涙が喜びの涙に変わっていた。 もうこれ以上、私を悲しくさせるものについて思いを巡らせるのはやめよう。イエスさまのことを考えよう。 イエスさまに思いをはせよう。これで今夜もぐっすり眠れる。 (10/21/1998) 私はよそいきのフォーマルなおもてなしは苦手で、お客が多い時はつい学生寮のおばちゃん風になってしまう。お客さんが到着したその時だけはお茶などをお出しするけれど、そのあとはたいてい何でもセルフサービスで自由にやっていただく。 世の中には自分のキッチンに他人が入ってきてあちこち触られるのは嫌い、という主婦は多いだろうと思うが、私はそんなことはない。うちに来るお客さんには皆自由に冷蔵庫でも棚でも引きだしでも開けて、好きに何でも出して飲み食いしてもらっている。 お客さんの方でもリラックスして下さっているのか、リビングルームやキッチンに彼らのパーソナルな所持品(財布、手帳、カメラ、聖書、脱いだソックスなど)が置きっぱなしにされていることも少なくない。 それを見るとなぜか私はほのぼの、こっそり嬉しくなるのだ。 あるとき友達がこんなことを言っていた。 そういうのっていいなぁ、と思った。 うちも貧乏ったれだし、中村家に行ってもろくな食事は出てこないけど「めっちゃ居心地がいい」と思ってもらえれば最高だなぁと。(まぁ今のところ、ろくな食事が出ないうえに、居心地もたいしてよくない木賃宿のようなところだけれど。f(^_^);;; ) 思えばこのシカゴの家に越して来たとき、まだ3人家族だった私たちにとっては分不相応に大きい家だと思ったものだった。そしてぼぼるパパと二人で祈った。 「神様、この家は私たちに属すものではなくあなたに属すものです。あなたのご栄光が現されるために、あなたがこの家を一時的に私たちの手に任せて下さいました。どうかあなたの働きのために用いて下さい。」 そしてローマ書12章13節から「聖徒の入り用に協力し、旅人をもてなしなさい」の御言葉が私たちに与えられた。 だからお客さんを迎えることが出来るというのは、私たちにとってもこの上もない祝福なのだ。 どうかわが家の門をくぐって下さった方々お一人、お一人の上に神様の豊かな恵みと祝福とがありますように。 (10/23/1998) 今日は昨日の話しの続きを… このシカゴ郊外の家に引っ越して来てから約6年の間に、うちに泊まりに来て下さったお客さんは何人位いるだろう。のべ100人は軽く超すと思う。 夜遅くに到着して朝早くに出発されたお客さんもいれば、ひと月近くの滞在をしていって下さった方もいる。 子供たちはそういう環境の中で育ったからお客様がいらしてもものおじしないし、特別親の関心をひこうとききわけのないことをいうこともない。ただ嬉しそうに自分も環の中に入ったつもりで楽しく遊ぶ。 数多くのお客様のなかで、特に私の印象に残っているのが、3年前の感謝祭のときの事。 感謝祭(サンクスギビング)とは11月の第4木曜日に祝うアメリカの祝日だ。クリスマスや復活祭と並ぶアメリカの大きな祝日で、日本のお正月のように家族や親戚が集まって特別な食卓を囲む。留学生にとっては、招いてくれるホストファミリーやルームメイトがいればいいが、そうでなければとても寂しい休日となりかねない。クリスマスの休日なら長いので旅行に出ることも出来るが、感謝祭は短いのでそうもいかないからだ。 そこで私たちは3年前の感謝祭のとき、JCFNのアメリカ中部地域集会と称して、JCFNのつてをたどって日本人留学生何人かをディナーに招いたのだ。その時集まった日本人学生は20数名だった。イリノイ州はもちろん、遠くはケンタッキーやオハイオ、ヴァージニアからも参加者があった。遠い所からの参加者が多かったため、泊りがけの大パーティーとなった。 20数名におなかいっぱい食べていただくための食事の準備には一週間くらい前から取りかかり、私も思いきり楽しみながら料理をした。だいたいサンクスギビングのディナーといえば、定版のメニューが決まっているものなので、計画さえきちんと立てておけば準備はそんなに大変ではないのだ。 この時のメニューは以下の通り。
デザートには生クリームを添えたパンプキンパイとアップルパイ、アイスクリームにクッキー各種。飲み物はコーヒー、紅茶、ココア、アップルサイダー。 20数名が着席できるような大テーブルなどもちろん持っていないので、それぞれが自分のプレートをもって料理を好きなだけ取り、思い思いの場所に席をとり、わいわいザワザワの楽しいディナーだった。 この日は食事のあとは皆でリビングに集まり賛美、証、それから小グループに別れてお互いのため、また日本のリバイバルのために祈った。 そしてその後は夜食を頬ばりながら明け方まで延々とおしゃべり・・・・・恋の悩みに卒業後の進路、日本人伝道のビジョンに野茂英男投手(この頃はやっていた) (10/24/1998) 子供には何を教えるにしても、教えようとしている特定の問題を文脈から切り離してそれだけを教えるということは難しい。算数にしても、読み書きにしても、マナーにしても、神様のことにしてもそう。そして性についても例外ではないと思う。 では、子供にはどういう文脈の中で性について教えるのが適切だろうか? 植物のおしべとめしべ? テレビでたまたまラブシーンが目に留まった時? ペットが赤ちゃんを生んだ時? 私はそれは「結婚」だと思う。神様がそもそもなぜ人間に「男」と「女」という性を与えたかというと、それは男と女がそれぞれ親から離れて互いに結ばれ、一心同体となるためだった。(創世記2章24節) 夫が妻を自分より弱いものとしていたわり養い、自分のからだのように愛し、また妻は自分が夫の良き助け手となるために造られた者であることを自覚し、全てのことににおいて夫に従うようになる、それこそ神様が本来男と女に与えている特権であり結婚の奥義なのだ。(う…、書きながら心がチクチクと…)そのような文脈を無視して性について子供に教えることは出来ないと思う。 パパとママは愛しあっているのよ。 エミちゃんもね、いつか大人になって結婚するときがくるのよ。 これがわが家の性教育の出発点であり、基だった。とはいえ、これだけではまだまだ不十分で、この世はなおも執拗に、性や結婚についての歪んだ知識をもって子供に襲いかかってくる。 これは去年、エミとエミのお友達のAちゃん(昨日登場した4人兄弟の末っ子)をAちゃんのうちへ送っていったときのこと。Aちゃんの一番上のお姉さん(当時高校3年)が家の前でボーイフレンドと公然とキスをしていた。私たちが来たのに気付いても、慌てずさわがず堂々とそのまま続けていた。実はこの様なことは少しも珍しくなく、うちの前の公園でも中学生とおぼしきカップルが日中どうどうと抱き合っていたりするし、教会ですら高校生のカップルが駐車場でキスをしていたりする。こういう場面を日常的に見ていたら、それでいいのだ、それで当り前だと思うようになっても不思議はない。こういう状況がやたらと目につくようになり、またそれに対するエミの反応が気になりだしたというのが、積極的に性教育を始めよう、と重い腰をあげるに至った原因だった。性について語るとき、親も子供もはずかしがらないで出来る若い年齢のうちに始めないときっと出来なくなる、と思ったのだ。 私はいろいろな育児書や育児雑誌で性教育について情報を集めた。その中で、「God's Design For Sex」(NavPress)という、親と子供が一緒に読むために書かれたとてもいい本があることを知り、早速それを購入した。この本は4部に別れており、3歳から5歳児むけの第1部「The Story of Me」、5ー8歳むけの第2部「Before I was Born」、8ー11歳むけの第3部「What's the Big Deal? Why God Cares About Sex」、そして11ー14歳むけの第4部「Facing the Facts: The Truth About Sex and You」という構成になっている。 最初の2冊をエミと一緒に読んだ。 1冊めは赤ちゃん(つまり一緒に読んでいる子供)がどこから出てきたか、ということについてわかりやすく書かれている。2冊めは、私もややたじろいだのだが、男女のからだの仕組の違いや男女が愛しあって結婚するということ、そしてどういう行為を通して女性のからだの中に赤ちゃんが出来るのか、ということをはっきりと、しかも美しく書いてある。 ヘエ〜、ここまではっきり言っていいんだぁ、というのが正直な私の感想だった。 しかしエミの方としては少しも恥ずかしいという意識はなく、おヘソがどうのとか、胃や心臓がどうの、というのと同じ次元で子宮とか卵巣とか精子とか卵子などについての話しもフンフンと聞いていた。もちろん、生物の時間ではないので、具体的なことにはあまり強調をおかず、それよりもそのような仕組の裏側にある創造者である神様の意図、結婚の意義、神聖さ、また愛しあう男女の愛の行為によって新たな命が造られるという神様のご計画の素晴しさ、そういうことに強調がおかれるようになっている本だった。 私としては、エミが友達から「セックス」という言葉を聞く前に、私の口からその言葉とその意味/意義を教えておきたかったのだ。これは神様が愛しあって結婚した特別の男女の間にだけ与えられた、とても美しく素晴しい行為なのだ、ということを、はっきりと伝えておきたかったのだ。いつか友達同士の間でこのような話題が出てくることは避けられない。その時に、エミがすでに母親から聞いて知っていれば、エミにとっても受け止め方が随分変わるのではないだろうか。 今後もエミとしょっちゅうセックスについて話しをしようとは毛頭思っていないが(私にとってはやっぱり恥ずかしかったのだもん! パパは「僕には絶対出来ない!」と言っていた)、「コソコソした特別の話題」としてではなく、日常生活のなかで様々なことを神様に感謝し神様を誉めたたえるなかで、そういう神様の素晴しい御業、ご計画のひとつとして性についても語りあっていきたいと思っている。 そしてそれと同時に忘れてはいけないのが、子供のためのとりなしの祈り。子供の霊が、魂が、感情が、また身体が、この世の悪から聖め別たれ、守られるようにと日々祈っていくことが何にも増して、大切なのだと信じている。 (10/27/1998)
![]() ![]()
はちこは喜びます!
リンク、転載、配付、引用及び免責事項について http://nakamurafamily.net/faith/index.html |