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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 ] 宣教師の友人から聞いた話し。 中国内地宣教で有名なハドソン・テーラーという宣教師がいたが、彼は人格的にはかなり妙な人で、まわりからは「変人」と思われていたんだそうだ。彼がプロポーズした女性が、ハドソン・テーラーをよく知っている人に相談したら「あいつは変人だからやめておけ」と忠告されたんだとか。御国のための働きというのは、働き人の能力や人格の偉大さによって成し遂げられるものではなく、ただただ神様の油注ぎと憐れみによって達成されるものなのですね、とそのハドソン・テーラーについての本を書いた人は言っていたとか・・・ ***** 先週だったか、教会での聖書の学びの時間に第一歴代誌4章に出てくるヤベツの祈りから、祈りのなかで祝福を求めることについて学んだ。
聖書でいう「祝福」とは、「possessing the favor of God(神さまからの恩恵をいただいている)」という意味を持つが、うちの牧師さんは次のように説明した。
なるほど、これは素晴らしい! これを聞いたら私はますます神様の祝福が欲しくなった。祝福を求めるとは、単に物質的に豊かにされるとか、仕事がうまくいくようにされるとか、健康が守られるとか、そういう次元のことではなく、神様ご自身を求めることに他ならないのだ。 「祝福をお祈りします!」とか「祝福がありますように!」とか、クリスチャン同士ではわりと決まり文句のようにさらりと言われることが多いけれど、本当はこれはこんなにも素晴らしいことだったんだ。 今、ここで私の日記を読んでくださっているお一人お一人の上に、神さまの祝福が豊かにありますように! (6/3/2001) しばらく前に、「Boys and Girls Playing」というJ.C.ライルが子供向けに書いた説教集を見つけた。 このところライルの「キリスト者の家庭教育」を何度も読み返し、多くのことを示され学ばされていたのでこの本を見つけたのは大変にタイムリーだった。さすがはライルだけあって、子供向けの説教とはいえ、御言葉からストレートに語られていて、しかも焦点は「イエス・キリスト」にビシッと定まっている。ただの道徳的な訓話とは大違いだ。とてもわかりやすく子供にとっても興味深いように、それでいて単に聖書「物語」を語るのに終わらせておらず、神様を喜ばせる歩みはどのようなものか、また神様を喜ばせないような歩みをするとどのような結末が待っているのか、しっかり教えている。 たとえば表題のメッセージ、「Boys and Girls Playing」はゼカリヤ書8章5節「町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう」という箇所からだが、ここから、神さまがいかに子供たちにも目を留めておられるか、神さまにとって子供たちが大切であるか、そして神さまは子供たちの味方でありいかに子供たちが遊ぶことをよしと思っておられるかを語っている。また子供にとっても真の幸せとはイエス様から来るのだということをはっきり語っている。 ちょっと長いけれど引用するとこんな感じ。 「Dear Children, remember all this and do not forget it. You are never too young or too little for God to take notice of you. You are never too young or too little to begin thinking of God. Are you old enought to be naughty? Then be sure that you are old enough to be good. Are you old enough to talk? Then be sure that you are old enough to say your prayers. .... Are you old enough to know and love your mother? Then be sure that you are old enough to know and love Jesus who died to save your souls. ....... I shall now finish my sermon with four bits of advice to boys and girls, which I hope they will think about and not forget: 1. In all your play remember the eye and ear of God. He sees and hears everything. Dear children, say nothing you would not like God to hear; do nothing you would not like God to see. 2. In all your play, keep your temper. Be kind, cheerful, unselfish , and good-natured, even when you lose the game. .... 3. Do not neglect work because of play. Let all your play help you to learn better, and to be a better boy or girl, both at school and home. .... 4. In the last place, never forget, even in your play, that all true happiness comes from Christ. If you want to be happy boys and girls, love Christ and make Him your chief Friend. Christ is the giver of light hearts and peaceful minds. The happiest child is the child who loves Christ most.」 あぁそうか、子供たちにはこんなふうに語るといいんだ、と私にとっても具体的な助けとなった。早速毎晩メッセージを一つづつ読み聞かせ始めたところ、うちの娘達も喜んで耳を傾けている。本当にタイムリーな見つけ物だったなぁ。この本、<葡萄の実>ほん訳ミニストリーの渡部さんが日本語に訳してくださらないかしら・・・・・・・・? (後日談:渡部さんが訳してくださいました。(^^)ありがとうございます!)
(6/5/2001) 先日、子供たちと一緒に「A Little Princess (小公女)」のビデオを見た。映画になるとどうしても原作とは違ってきてしまうのはしょうがないが、でもいい映画だった。みんはクライマックスの場面でわんわん声をあげて泣いていた。(私も泣いた。) お嬢様だったのに、父親が戦死したため召し使いとして屋根裏の汚い部屋に移されたセーラだが、それでも彼女は自分のアイデンティティーを失うことなく、汚い衣服や部屋や召し使いとしての厳しい労働にもかかわらず、内側はプリンセスのまま凛としていた。そんなセーラに意地悪な先生が言う。 「いつまでプリンセスのつもりでいるのよ? 自分が着ている服を見てごらんなさい。あんたのこの部屋を見てごらんなさい。何より、鏡の中をごらんなさい! そこに写っている自分の姿を見れば、もはやあんたはプリンセスでなんかないことがよくわかるでしょうよ!」 「わたしはプリンセスです! たとえどんな服を着せられようと、どんなところに住まわされようと、わたしはプリンセスです! なぜなら、私のお父さまがそう言ったからです!」 このセーラのセリフに私は感動してしまった。 サタンもこの意地悪な先生と同じように私たちに悪態をつく。 「神の子供にされたって? よく言うよ。自分の行いを見てみろよ。自分の心のなかを見てみろよ。 相変わらず醜いじゃないか! 罪の奴隷のままだよ、ちっとも神の子供なんかじゃないさ!」 ならば私たちもセーラと同じように言い返そう。
(6/6/2001) 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。 「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、 クリスチャンになったら全ての苦難苦労から解放されるとは聖書は言っていない。世の中バラ色になり、やることなすこと大成功で、楽な人生を送るようになるとは言っていない。 クリスチャンになっても苦労はある。苦しみはある。クリスチャンになったからこそ受ける試練もある。 イエス様を知っている人とそうでない人の違いは、苦しみがあるかないかではない。 患難があっても平安を持ち、苦しめられても窮することはなく、途方にくれても行き詰まらず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、水の中を通っても押しながされず、火の中を歩いても焼かれることはない・・・ それがクリスチャンに与えられている約束なのだ。 患難はあるさ。苦しめられたりもするさ。途方にもくれる。迫害もされる。倒されたりもする。水のなかに沈められたり、火の中に放りこまれることもある。 それでも。 それにもかかわらず。 それがイエス様を信じ受け入れた人に与えられた約束なのだ。 (6/7/2001) 今日、シカゴトリビューン(新聞)にこんな記事が出ていた。産後のマタニティーブルーで強度の鬱に悩まされていた女性が、ホテルの12階から投身自殺したのだそうだ。マタニティーブルーというのは産後の急激なホルモンの変化や睡眠不足などによって引き起こされる精神的に不安定な状態で、産後の女性の約20%が程度の差こそあれ、それを経験すると言われている。私自身、出産のたびにそのような経験をした。今回も産後四日めだったか、床につっぷして泣いていたし。(苦笑) しかし、この自殺した女性のようなケースは、単なるマタニティーブルー(postpartum blue)ではなく、postpartum psychosisと呼ばれるものなのだそうだ。National Institute of Mental Health によると、産後の女性の1%未満にみられる"very real disorder"で、幻覚、幻聴、激しい興奮状態などを伴い、自分自身あるいは子供を危険にさらす可能性が高い「病気」だとのことだ。 過去数年間にも、生後六週間の我が子を車で轢き殺したり、窒息死させたケースなどが報告されており、それらはいずれも母親が「殺せ殺せ」というような内側の声を聞いていたらしい。(これはトリビューン紙の記事に書かれていたこと。) しかし、これらは本当にただの「病気」なのだろうか? 折しも、昨日もちらりとふれた通り、私は今、「The Seduction of Our Children」という本を読んでいるが、その中でも子供が「内側の声」を聞くケースについて触れられていた。著者のカウンセリングの経験によると、そのような声は100%demonic(悪魔によるもの)なものだとか。 現代の精神医学では、「声を聞く」というのは幻聴であるとし、分裂病などの精神病として診断され、薬の投与などで「治療」されるものらしいが、高い治療費をかけ、長期間に渡る治療を受けても、なかなか病状が回復されない現実は、すでに素人にもよく聞かされていることだ。 様々な精神病の診断が下されるケースのなかには、ケミカル・インバランスや脳障害など、organicな理由によるものもあるだろうが、それ以外に霊的な要因によるものも少なくないかもしれない。 また、アメリカには、ジェイ・アダムスという御言葉オンリーのカウンセリング理論とその実践で有名な牧師/神学者がいるが、彼は基本的にほとんどの精神病はその人の「unforgiven and unaltered sinful behavior」によって引き起こされているのではないかと言っていたと思う(うろ覚えだが)。人が神の御言葉や法則に従わずに歩むことによって様々な問題、障害がおこり、その結果としてreal guilt ( not guilt "feeling")にさいなまされ、言動にも異変がおきるようになる、そしてそれらは薬の投与や他の人のせいにすること、抑圧された感情を吐き出すことなどによっては根本的に解決されることはなく、罪の告白とその赦しを得ることこそが真の解放をもたらす・・・ というようなことを言っていたはず。今の社会では「精神病」と診断されればそれでもう責任能力がないとされ、それ以上は追求されなくなるが、責任を取らせないことがますますその人の「病状」を悪くしているのかもしれない。 前述の「The Seduction of Our Children」の著者ニール・アンダーソンは、人間は霊と魂と肉体で構成されているものであることを認識して、それらの3つの領域を考慮にいれたミニストリーをする必要がある、そうでなければ、霊的な取り扱いを無視した精神医学的/心理学的カウンセリングか、あるいは身体的要因や人が自ら負うべき責任(自分の言動が引き起こした結果には自分で責任を持つこと)といった領域を無視した「悪霊追い出し」ミニストリーの両極端に陥ってしまうと指摘していた。 先週大阪で起きた忌わしい事件。人の堕落、社会の歪み、「盗み、殺し、滅ぼす」(ヨハネ10:10)ことを目的とするサタンの策略、それらのものが絡みあい凝縮した事件・・・ 聖書は人間の取り扱い説明書であるとはよく言われることだが、今こそ聖書に立ち返るべきなのだ。 (6/12/2001) オンラインのリバイバル新聞を読んでいたら、「人間関係においての癒し―― 米ハーベスト・ロック・チャーチでセミナー 」という記事が出ていた。オンラインの新聞なので要約しか読めないのだが、そこにあったこのようなパラグラフに目が止まった。
これは、昨日ふれたジェイ・アダムスの考えと一致していると思った。自分の過ち(罪)の責任を取ること、そして過った行動パターン(罪のある生活パターン)を断ち切ること。 もちろん神さまに対する罪の責任は自分で取ることは出来ない。だからこそイエス様の十字架がある。しかし、人間関係において他者に対して罪を犯した場合、誰も私の身代わりになって償いをしてくれるわけではないのだ。私が自分でその罪の責任を取らなくてはならない。たとえば私がAさんに対して何か罪を犯したとする。そしてそのことで後悔し、神様の前に悔い改めたとする。しかし、そこで私がAさんに向って、「私があなたに対して犯した罪は神さまの御前で告白し、悔い改めたので、もう神さまから赦されました」と言って、Aさんに対しては何の償いもしないとしたらどうだろう? Aさんにしてみれば、「ふざけるな!」ということになるよね。 そういえば、確かにこういうふうにして人間関係がこじれていくのを過去に何度か見たことがある気がする・・・ 自分の過ちの責任を取らないならば、人間関係は損なわれるし、間違った行いは改め、罪は断ち切らなければその人自身の魂や霊性もまた損なわれてしまう、ということか。 ところで、同じ号のリバイバル新聞で、WHO(世界保健機構)が健康を定義するにあたって、「霊的に」という項目を加えたことを知った。(Dr. Luke のHPでもそう書いてある記事を読んだ。)今の時代、確かに霊性(スピリチュアリティ)に対する関心が高まっていると思う。メンタルヘルスだけでなく、スピリチュアルヘルスまで一般的に語られるようになるわけだ。 しかし問題は、どういう状態が「霊的」に「健康」な状態であるのかという定義は、人によってまちまちなのではないかということ。「霊的健康」の名のもとに人々のオカルト的なものへの誘惑が増々強まっていくかもしれない。真に霊的に健康な状態がどのようなものであるのかを知っている(はずの)クリスチャンには、いよいよ責任重大になってくるかも。 (6/13/2000) "The Seduction of Our Children " (by Neil Anderson) を読み進んでいる。(なかなか読む時間がなくて、一週間に一度くらいしか手に取る暇がないのが悲しい。)とても予想外な内容だったのにびっくり。予想外と言っても、悪い方に外れたのでなく、いい方だ。副題が「子供を悪魔主義、ニュー・エイジ、オカルトから守るために」となっているので、悪霊払いとか、何やらおどろおどろしい本なのかな、と思っていたらところがどっこい。子供にとっての霊的必要を視野に入れた、非常にバランスの取れた、とてもプラクティカルな育児の本だ。まだ最後まで読んでいないので、この後どういう展開になるのかわからないが、今読んだところまでで私にとって目からウロコだったのは、育児とは、子供を教えしつけるとは、実は霊的戦いなのだということ。 サタンは子供たちを狙っている。自分達の側に引きずりこんで、離すものか、滅ぼしてやるぞ、と絶え間なく子供たちに攻撃をしかけている。考えたくないことだけど、子供たちはサタンの標的なのだ。おいしい獲物なのだ。そして私たち親の責任は、子供たちを神様の御支配の中に奪回し、その中にとどまらせること。 育児をするなかで、親はしばしば自分を責めたり子供を責めたりするけれど、本当の敵が誰なのか、見失ってはいけない。 (7/2/2001) 今、ちょっと気にかかることがあって、夕食の支度をしながらつらつらと考えていた。 いろいろなことにおいて、私たちの目の前にはいくつもの選択肢があるように思えるけれど、実はいつでも二つに一つなのだということ。 You either accept Jesus, or reject Him. イエス様を受け入れるか、拒絶するか。 You either serve God, or become your own king and perish. 神様に仕えるか、自らの王となり滅びる失せるか。 You either trust God and have peace, or don't trust Him and lose peace. 神様に信頼して平安を得るか、信頼しないで不安に陥るか。 そんなことを考えていたら、聞こえてきた神様の御声。 Do YOU trust Me? Oh, Lord! I'm scared! (7/5/2001) 身体は疲れているが、心には平安と喜びがある。 昨日、少し気落ちするようなことが起きたが、今日、「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。 (マタイ10:26)」の御言葉が与えられて、胸のうえにのっかっていた漬け物石がゴロリと転がり落とされたかのように、すっきりした。 (7/12/2001) そういえば、4月10日の日記でエミが教団主催の子供キャンプに行くよりも、学区主催のサマースクールの方に行きたいと言い出して、私が悩んでしまった、というようなことを書いたが、やはりサマースクールに行かせたのは正解だった。エミはサマースクールを堪能し、しかもチアリーディングのクラスではクリスティと一緒で、ずっと仲良くくっついていたらしい。最終日には二人で抱き合って別れを惜しんでいた。子供キャンプの方もとても祝されたそうだったが、それでも、やっぱりエミの気持ちを尊重してあげてよかったと思う。教会の他のお母さんたちにも、この件について相談してエミのために祈ってもらっていたのだが、みんな私の決断は正解だったと言ってくれたので励まされた。 しかも、例年うちの教会の夏期学校は六月下旬にあるので、サマースクールにいくとキャンプだけでなく夏期学校まで行き損なってしまうことが心苦しかったのだが、なぜだか今年に限って7月に入ってから持たれることになり、おかげでエミは夏期学校にはちゃんと参加することが出来た。 エミもとても喜んで、今日から始まった夏期学校にも意欲的に取り組んでいる。 また、数カ月前から始めた家族全員でのデボーションと学びの時もとても祝されている。小さいま〜やも一緒にお祈りしているし、なぜもっと早くからこれをしなかったんだろうと悔やまれる。最初はJCライルの子供向けの本を使い、それが終わってからは箴言から学んでいる。箴言も終わったら、昨日教会からもらった家族用のデボーションの本を使おう! 神様って、本当に素晴らしいなぁ。四月五月頃はとっても悩んでいたけれど、結果としてエミに必要なものが過不足なく全て与えられた、という感じだ。
の御言葉を、改めて実感。 (7/16/2001) この数日、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです(ローマ5:3、4)」の御言葉を何度も噛みしめている。 ディッシュウォッシャー事件(6/23)に始まって、タイヤをふんづけたり、チケットがなくなったり、体調が悪くなったり、パパのPCが紛失したり、次から次へと忍耐が強いられるような事件が続き、まぁ、これを「患難」と呼ぶのはあまりに不適切だとは思うけれど、ただひたすら忍耐し、そして自分の手のなかに委ねられていることだけはとにかく責任をもってこなしているうちに、だんだん忍耐することが苦痛でなくなってきたというか・・・ (しかし、まだこれくらいの忍耐は序の口なのかも? (^_^;; ) 実は以前の私はこの「練られた品性」というものにあまり興味がなかった。でも、イエス様の似姿に変えられていくには品性が練られることが不可欠だろうし、神様がごらんになっておられるのは、働きや奉仕における私たちの努力や結果ではなく、そのときの態度というか、その背後にある私たちの姿(キャラクター:人格、人柄、品性)なのだと思う。そんなことを考えていたら、私もパウロと一緒に「患難さえも喜んでいます」と言えるかもしれない、という気になってきた。 ***** 数日前にいのちのことば社の出版部の方からメールをいただき、翻訳の仕事の依頼を受けた。「The Prayer of Jabez」という本で、アメリカではすでに500万部以上売れているトップセラーの本だ。今、Amazon.comで調べてみたら、セールスランクが5位だった。 そんな本の翻訳を、私ごときがやらせていただけるなんて信じられない。はっきり言って、私、翻訳ヘタだし。 でも、「ヤベツの祈り」という本は、私の教会でもバイブルスタディのテキストに使って学んだばかりだ。ヤベツとは第一歴代誌4:9,10 のたった二節のだけに登場するほとんど無名の人。この彼が祈った「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」という小さな祈りから、神様が私たちに喜んで与えてくださる大きな祝福について学ぶ本だ。 先日私の日記のなかで、うちの教会の牧師さんによる「祝福」の定義について書いたけれど、それも「ヤベツの祈り」から学んでいる時に牧師さんが言ったことだった。 年内中に出版したいとかで、翻訳の締きりは9月3日。私の現状からするととても厳しい。3日後にはイギリスに向けて出発だし。しかしこの本は私にとっても意味深い本だし、今はここには詳しく書かないけれど、昨日、長年の信仰の友である「せっちゃん」から電話がかかってきて、彼女とこの話しをしているときに彼女が語ってくれた言葉によって、この翻訳の話しが私にまわってきたのは、単なる偶然ではなく神様の御手のなかにあることだと確信出来た。(せっちゃんは「ヤベツの祈り」の翻訳について、日本語に訳されるべきだとの必要を感じており、アメリカ側の出版社にも手紙を書いて、ここ数カ月ずっと祈っていたのだそうだ!) 私の力で出来ることではない。ただただ主の御前にへりくだって、神様から言葉のひとつひとつをいただきながら、油注ぎをいただきながら、委ねながら、やらせていただくだけだ。 本も、翻訳も、主の御手にささげつつ・・・ (7/19/2001) ![]()
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