ホーム信仰、希望、愛p. 26

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

[ p.1 | p.2 | p.3 | p.4 | p.5 | p.6 | p.7 | p.8 | p.9 | p.10 | p.11 | p.12 | p.13 | p.14 | p.15 | p.16 | p.17 | p.18 | p.19 | p.20 ]


[ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 ]

今日はエミの10歳の誕生日。十年前のエミは、今のケンスケみたいだったんだなぁ。十年なんて、本当にあっという間だ。でも、ケンスケが10歳になる頃にはエミはもう二十歳になっているなんて、何だか信じられない。 子供を育てるために親に与えられている時間とは、なんて短いのだろう。19世紀の説教者J.C. ライルは、キリスト者の家庭教育の目標は、「わが子を天国に入れるように教育」することである、というようなことを言っているが、責任の重さをずっしりと感じる。 子供がこの世で成功者になればそれはそれで嬉しいだろうし、この世で幸せな人生を送ってくれるならそんな感謝なことはないと思うけれど、子供の魂の永遠の行方こそ、親にまかされた最大の教育目標なのだろう。
  
今この日記を書いている背後で私の母がNHKの「ちゅらさん」をみているのだが、その中で、お墓のようなものに手を合わせて拝んでいたおばあさんが奇しくもこう言った。

人間って、きっと死んでからの方が長いのかもしれないねぇ。

そうなんですよ。 だから、きっとこの世での人生とは、死んでからの後にやってくる「永遠」に向けての準備期間なのだ。
 

                            (4/4/2001)

先日、Dr. Luke のフルコンタクト・ゴスペルを読んでいたら、新発見をした。

「聖書に『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることを信じなければなりません。』(ヘブル十一・6)とあります。ここで『神がおられる』と訳されている言葉は、「存在する・しない」の「おられる」ではなく、神が神たる方であること、すなわち神のアイデンティティーそのものを意味します。出エジプト記で、神はご自身を、「わたしは『わたしはある』という者である(I AM WHAT I AM)」としてモーセに啓示されました(三・14)。」(フルコンタクト・ゴスペル 第4回 信仰の本質(2)より)

このヘブル11章の御言葉は私の好きな箇所の一つだが、「神がおられること」を信じる、というのは、当然のことだと思ってあまり深く考えたことがなく、どちらかといえば、その前後の部分にばかり目を向けていた。この箇所は英語では「...., for he who comesto God must believe that He is, .....」となっている。 この「He is」は、神様ご自身が言われた「I AM WHAT I AM」を受けていたのか! 

つまり、神に近づく者は、神様は神様が御自身で言われた通りのお方であることを信じなくてはいけない、という意味だったのだ。すなわち、神様はエロヒムであり、アドナイ
であり、エル・エルヨンであり、ジェホバであり、エル・シャダイであり、備え主であり癒し主であり・・・(こちらを参照)そのようなお方であることを信じる信仰を持たなければ、神に喜ばれることは出来ないということだったんだ・・・!

こうして言葉にしてみると、当たり前のことでしょ、と言われてしまいそうだが、今まで見落としていたことを一つ発見して、感動。

(4/22/2001)

JCFNのY.S.主事が、最近エリザベス・エリオット師を講師に招いた女性のための修養会に参加したそうだ。(エリザベス・エリオットの著作は日本語にも訳されているので知っている人も多いと思うが、彼女は夫と共にエクアドルで宣教していた。ところがまだ若い頃、現地の人に夫を殺されてしまった。しかし彼女はその地に残り、夫の働きを引き継ぎ、自分の夫を殺した民族への宣教を続けた。後に彼女は再婚したのだが、そのご主人も結婚後わずか四年で亡くなられた。)女性としての生き方、宣教師としての生活など多くのトピックについての講演を聞いた後、最後に質疑応答の時間があり、Y.S.主事曰く、興味深いことに、様々な質問や複雑な悩みが出されるなか、それに対するエリオット師の答えは基本的にたった3つしかなかったのだそうだ。その3つとは、「聖書を読みなさい」、「もっと祈りなさい」、「やらなければならないことは、やりなさい。」

たとえば、今後の進路についてどのように導きを求めたらよいですか、という質問には「聖書を読んで祈りなさい」、夫との夫婦関係をどのように改善していけばよいでしょうか、という質問には「祈りなさい、御言葉を実行しなさい」、ミニストリーと神様との個人的な時間のバランスをどのようにとったらよいでしょうか、という質問には「簡単です。朝早起きして、神様との個人的な時間を毎日しっかり持ちなさい。起きられないと言い訳しないで、起きると決めたら起きなさい。それだけです」という具合に。

エリオット師は、決して順風満帆の人生を送って来られたわけではないだろうが、どんな問題も苦難も、毎日、祈りと御言葉に支えられるなかで生きてこられたのだろう、このシンプル過ぎるのではとも思える3つの答えは、実は彼女の今までの人生をそのまま表しているのだろうとY.S.主事は言っていた。

そういえば、今私が抱えているいくつかの悩みや問題、チャレンジに対しても、その答えはまさにこの3つに集約されると言えよう。なかでも、三番目の「やらなければならないことは、やりなさい」は耳が痛い。御言葉を読み、祈るなかでいろいろなことが神様から示された。神様の側はすでに私に語り、教えてくださっているのだ。あとは私の側がそれに応答し、従順をもって実行に移すかどうかの問題なのだ・・・

あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。
 そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
」  ピリピ4:9

また、みことばを実行する人になりなさい。
 自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
」ヤコブ1:22

                                (4/25/2001)

今週は、日曜日から六晩続けてのリバイバル集会をうちの教会でやっている。メッセンジャーは、ダラス神学校出身の南部バプテストの元牧師、現在巡回伝道師のビル・シャープレス師。
  
アッセンブリーの教会でのリバイバル集会のメッセンジャーに南部バプテストの伝道師が来るなんて、「えっ?」という感じかもしれないけれど、今はもはや教派/教団の違いなど関係なくなってきているんだと思う。聖霊様は私たちが下げている名札には関係なく、飢え乾いて求める者には等しく働いてくださるのだ。

ここしばらく、神様は私に同じことを何度も迫ってきておられるように感じる。神様の側の働きと、私の側の責任/応答、とでも言えばいいだろうか。つい先日(4/25)の日記ではエリザベス・エリオット師のことを書いたが、その時も、「やらなければならないことは、やりなさい」という師の言葉にチャレンジを受けていた。

J.C. ライルの「キリスト者の家庭教育」なかに以下のようなくだりがあった。

「親の力では子どもを回心させられないということは私も知っている。新しく生まれる者らは、人の意欲によってではなく、神によって生まれる[ヨハネ福音書1:13]。そのことも知っている。しかし私は、神がはっきりと『若者をその行く道にふさわしく教育せよ』、と語っておられること、また神が命令されるときには必ずそれを実行するための恵みをお与えになることをも知っているのである。また私たちの義務が、突っ立って論議することにではなく、行って従うことにあることも知っているのである。立ち上がって行動する中でこそ、神は私たちに会ってくださる。従順の道こそ、神が祝福を与えてくださる道である。私たちは、カナの婚礼で水がめを水で満たすように主から命ぜられたしもべらのようにしさえすればよい。その後で水を葡萄酒に変えることは安心して主におゆだねしてよいのである。」

神様の側にしか出来ないことはあるけれど、その一方で、私たちが神様から委ねられた責任として果たさなければならない分もあるということか。

そして今回のリバイバル集会のメッセージでも同様のことが繰り返し語られた。たとえば第2テモテ一章6節「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

私は今まで、不注意にも、私のうちに与えられた賜物を燃え立たせるのは神様の役割、神様にお任せすべきことだと思っていた。しかし、この御言葉をよく読むと、そうではなくて再び燃え立たせるのは私の役目、私の責任でなすべきことなのだということがわかる。

私たちはみな、いずれは神様の御座の前に立ち、自分の行いについて申し開きをしなくてはならない時が来る。自分がしたことについてもそうだが、なすべきことでありながらしなかったことについても、同じように申し開きをしなくてはいけないわけだ。

そんなことを思わされていたら、こんな御言葉がデボーションの時に与えられた。

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。 」(第一コリント4:3、4)

これには大変厳粛な思いにさせられる。

たとえば育児ひとつをとっても、私の育児のやり方について小児科のお医者さんや保健婦さんに何と言われようが、学校の先生やお姑さんに何と言われようが、それくらいでいちいち落ち込んだり悩んだりする必要はない。しかし、神様から委ねられ、語られ、示されたことに関しては、私が責任を持って遂行しなければ、そのことについては他の誰でもない、私自身が神様の前にアカウンタブル(accountable)なのだ。

・・・と書いていたら愛しのケンが「アハンアハン、ウェーン、ヒエッ、ヒエッ」と情けない声で泣き出した。よちよち。お腹がすいちゃったかな。今いくよ〜!

 (5/2/2001)


いのちのことば社から出ている「サイト21」という雑誌の2月号を読んだ。「振り返れば『父』がいる--聖書が語る父親像」という興味深いテーマの特集だった。

ところが、テーマは興味深かったが、内容には必ずしも共感出来なかった。確かに現代風でもっともらしい「21世紀の」父親像を提示していたかもしれないが、残念ながら私にはそれが「聖書が語る父親像」であるとは思えなかったのだ。

たとえば、記事のなかで次のようなくだりがあった。

「・・・日本では、家庭や子どものことは母親任せというケースが多いようだが、『聖書』は明確に、最終責任は家長である夫(父親)にあると教えている。」

えー、そうかなぁ? 「最終」責任は家長である夫(父親)にあるって聖書が「明確」に教えているかなぁ・・・? 

そして「最終」責任が父親にあるということを受けてか、評論家の芹沢俊介氏の近著「ついていく父親」(新潮社)を紹介していた。この本を読んだことはないのでよくわからないけれど、紹介されていた書評によると、父親は後ろに下がって黙って子どもを見守る存在であるべき、『口を挟まず、しかも目を逸らすことなく、信じて黙って見守』ってあげる存在であるべき、すなわち「ふりむけば父がいる」という存在であるべきだ、と主張しているらしい。

芹沢氏による記事もあり、そこで氏はこう言っていた。(8頁)

「父親が出ていって、子どもは引き受けられないことを引き受けるのが、父親の役割だと思います。そのとき以外は、父親は見えていなくてもいい存在なのです。危ういときに出てきて、何も言わずに救い出してくれる。それが終わると、すっと引き下がってしまう存在。」

こうして書きながらもつい首をひねってしまう。要するに、父親の役割は「危機管理」に尽きる、ということらしいが、聖書の語る父親って、そういうものなのだろうか?

もちろん、「最終責任」も「危機管理」も、父親の大切な役割の一部であることは全く否定しないけれど、それだけやっていればいいと思われても困る気がする。育児やしつけと言えば、耳にタコが出来るほど聞かされたかもしれないこの御言葉、

若者をその道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、
 道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

   

これらの御言葉からは、後ろに下がって見守っているだけの父親像というのは浮かんでこないのだけれど・・・

それにこういう御言葉もある。

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。 」  箴言19:18

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。 」 箴言22:15

芹沢氏のいう父親像もわからないではないけれど、でも何かものすごく大切なことが見落とされていると感じるのだ。それは、ある程度必要なことを教え訓練したあとでなら、黙って見守るしかないとき、見守るのがベストなときもあるだろうが、それ以前にまず親が先導して教えてあげなくてはいけないことがたくさんあるはずではないのか、ということ。父親の役割が危機管理に尽きてしまうなら、それ以前のプロセスで子供を教えるという大切な仕事は誰がやると言うのだろう? 

「危機管理」とか「振り向けば父」とか、新しい父親像のキャッチフレーズとしては聞こえがいいけれど、 何だか、父親がそうやって騙されて、自分でも自分を欺いて、子供を教え訓練するという主から委ねられた大切な責任、役目をいつの間にか放棄してしまう方向に進んでいるような気がして心配になった。

そういえば、こういう父親像って人が一般に神様に期待する役割と似ているかもしれない。

普段は自分の好き勝手なことをやらせてもらうが、困ったことが起きたら黙って神様に登場していただいて、自分を危機から救いだしてもらう、そしてそれが終わったらまた神様にはいなくなっていただいて、自分の好きなことをやらせてもらう・・・ でも、それは神さまが人との関係に求めているものではないよね。

ところで、この特集のなかで、編集長の川端光生さんという方が書かれた記事「理想の父親をめざすよりも、良い父子関係を築こう」にはうなずけた。

「人間は関係の生き物である。関係の中でしか生きられない生き物である。/今の社会で失われているのは人間同士の深い交わりである。他人との交わりが怖く、薄っぺらな人間関係しか築けない人が増えているという。/人間は一人で幸せになるのではない。他者との関係の中で幸せになるのである。真の幸福は人間どうしの交わりの外にあるのではない。『孤高の幸福』というのは欺瞞である。自己中心や傲慢なために一人になっていることも多い。/父の役割は、人間の交わりを大切にする子を育てることだと思う。そのほうが子は幸せになれる。」(15頁)

アーメン! 良い父子関係って、本来「振り向けば父」や、昔からよく言われる「父の背中を見ながら」のような、一直線的なものではないはずだとと思う。川端さんはさらにこう言っておられる。

「聖書の神は、人間に道徳的に立派であることを求めるよりも、人間との愛の関係を修復することを第一にされる。人間の父子関係も同じであろう。」(同頁)

父子関係といえば、私とエミの母子関係も最近随分よくなってきた。そのことはまた今度書くことにしよう

(5/8/2001)

Pさん、こんにちは! 書き込みありがとうございます。(^^)

> メルマガに
> 「つりあわぬくびきを負ってはならない」とあり
> ズキンときました。

お気持ちはよくわかります。私も、12年前、当時婚約者だった主人と教会で副牧師先生からそう言われたときのショック、今でも覚えています。これから結婚しようという喜びに溢れている二人に向ってそんな水を注すような、ケチをつけるようなこと、よく言えるわねぇと悲しいやらショックやら、瞬時目の前が真っ暗になりました。

しかし、「 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません(第2コリント6:14)」 というのはその牧師先生の個人的な信条ではなく、聖書そのものが言っている、神さまの御言葉だったのですよね。その先生は、ただ聖書が語っていることを、忠実に、誠実に、若い私たちに 伝えてくださったのでした。

おっしゃる通り、神様の御言葉には、多くの「厳しい」と感じられるものがありますよね。でもそれらの御言葉は、決して私たちを裁いたり責めたりするために語られているのでなく、サタンがほえたけるししのように私たちを食い尽くそうとしているこの地上で、私たちが 主の守りのなかに留まり、平安と喜びに満たされ、祝福と勝利を受けることが出来るようにと 神様が親心から語ってくださっているのだと思います。

ですから、上記の御言葉もこれから結婚しようとする人たちへの厳粛な戒めでありますが、すでに未信者の方と結婚されているクリスチャンの方を裁いたり責めたりするための言葉ではないと思います。

神様の願いはこの世界の全ての人が、一人として滅びることなく永遠の命を得るようになることですよね。そこには当然Pさんの御主人も含まれています。 今、神様がPさんに願っておられることは、Pさんが「私たちの結婚は『つりあわぬくびき』なのか」と落胆することではなく、御主人の救いのために諦めずに祈り続けることではないでしょうか。

私が中学、高校生の頃行っていた教会では、 婦人会の御婦人たちは、ほぼ全員ご主人がノンクリスチャンでした。 毎日曜日にご主人を家において、小さいお子さんを連れて教会へ やってくるのは、決して楽なことではなかったようです。 祈祷会でも伝道集会の時でも、いつでも、ご主人の救いのために 祈っておられました。

そして、あれから20数年たった今・・・  あのときのご婦人たちのご主人は、全員救われてクリスチャンに なっているんですよ! 救われた方法は人それぞれに違いましたし、救われるまでにかかる時間も 長い方では20年以上かかりました。

でも、お子さんたちも救われて、ご主人も救われて、 お子さんたちもクリスチャンのお嫁さん、お婿さんをむかえられて、 素敵なクリスチャンホームを二世代、三世代にわたって築いておられるんです! あの頃、涙を流しながらご主人の救いのために忍耐を持って祈っておられた ご婦人たちのことを思い出すと、私もまたとても励まされるのです。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 (使徒16:31)という御言葉は真実です!

Pさんも、どうか諦めないで、御主人のために祈り続けてください。神様の御心は、御主人も救われて、御家族揃って主の祝福のなかに入っていくことではないでしょうか。

イエス様がPさんを励まし、また御主人の心を柔らかくしてくださいますようお祈りいたします。

                             (5/13/2001)


某掲示板でのはちこの書き込みより:

Hさん、こんにちは! 『ゆるす』ことについて、正直な葛藤をお分かちくださってどうもありがとうございます。ぐちでも何でも分かちあえるのがこの掲示板のいいところだと思っていますから。(^^)『ゆるす』とは、私たちの信仰の歩みにおいて重要な鍵を握っているのでしょうね。だからこそ戦いがあるのでしょうか。

聖書は私たちが人の罪を赦さないならば、天の父も私たちの罪をお赦しにならない、また、神がキリストにおいて私たちを赦してくださったように、互いに赦し合いなさいといっていますが、それを頭ではわかっていても、なかなか赦せないのが私たちの弱さですよね。

時々、「赦す」とはプロセスであり、長い時間をかけて赦していけばいいのだ、という人がいますが、私は違うと思っています。私は、「赦す」とは私たちの意志による決断だと思います。私たちが受けた物理的な傷や精神的な痛みは「赦します」と決めたからといって一発で消えてなくなるわけではありません。その痛みが癒えるにはたいていの場合時間がかかるでしょう。でもだからといって痛みがなくなるまでは赦せないと思っていたら、痛むから赦せない、赦せないからますます痛む、という悪循環でいつまでたっても赦すことは出来ないでしょうし、その痛みもなくなることはないと思います。自分の感情をベースに赦すかどうかを考えるのではなく、意志によって、赦すことを選ぶものだと思うのです。そして、神さまの御前に「○○さんを赦します」と宣言するのです。

しかし、神さまの御前に「赦します」と宣言したはずなのに、傷が痛むことがあります。やっぱり赦せない、赦したくない、という思いが沸き上がってくることもあります。そして、赦したはずなのになぜまだ痛むのか、やはり私には赦せていなかったのか、と悩んでしまうのです。でも、それはサタンの嘘です。傷が痛むのは事実ですが、だから赦せていないというのは嘘なのです。サタンは私たちの肉的な弱さにつけこんで「ほら、おまえはまだ痛んでいる。赦してなどいないのだ。」とささやきます。そんな時私は、イエス様の御名によって「黙れサタン、私はすでに赦したのだ」と宣言します。

サタンのこの世での目的は「盗み、殺し、滅ぼす」(ヨハネ10:10)ことです。サタンは「赦す」ということが私たちにどれだけ大きな祝福をもたらすかわかっているので私たちが人を赦すのを必死になって阻んでくるのでしょう。なにしろ、私たちが人を赦せないならば、私たちもまた天のお父様からの赦しをいただくことが出来なくなってしまうのですから! サタンにしてみれば願ったりかなったりです。

さらに、「結婚」というのもサタンにとっては格好のターゲットでしょう。夫婦に不和があれば、夫婦だけでなくでなく子供にも影響します。家庭が崩されれば社会も崩されます。

私たちの敵は夫(あるいは私たちが「赦せない」と思っている人)ではないのですね。エペソ6:12の通りです。

ところで、40号のVFMで、ミドルトン師はこのようにおっしゃっていました。

>神さまが私たち妻に夫を敬うよう命じておられる理由は、夫に能力があるからとか、
>霊的だからという理由ではありません。夫が私の夫であるという理由だけなのです。
>つまり尊敬に価するかどうかで私たちの行動が決まるのではなく、神さまを愛するゆえに、
>神さまの愛への応答として、私たちは夫を愛し、敬い、従うのです。「私たちは、
>見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。」

これは私にとって、発想の大転換だったのですが、「赦し」についても同じことがいえないでしょうか? 相手が謝罪したから、償ったから、何か赦されるに値することをしたから「赦す」のでなく、御言葉が赦しなさいというから、神さまがイエス様の十字架によってすでに私たちのことを赦してくださっているから、だから私たちも赦すべきなのではないでしょうか。たとえ私たちの感情が痛み、赦せないと叫んでいても、神様への信頼のゆえに、感謝のゆえに、従順のゆえに、「赦します」と宣言するのです。そうすれば、私たちの神さまへの信仰、従順に対して、神様が溢れるばかりの恵みと祝福をくださるでしょうし、サタンもそれ以上私たちの痛む部分を攻撃することは出来なくなると思います。そして痛む部分は無理に否定しないで、神様、ここが痛むのです、と主の前に差し出しましょう。主がご自身の慈しみをもって、ギルアデの油(軟膏)を塗って痛みを癒してくださることでしょう。

そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。 』(第2コリント2:9〜12)」

 (5/26/2001)

まことに我が家は、このように神とともにある。
 とこしえの契約が私に立てられているからだ。
 このすべては備えられ、また守られる。
 まことに神は、私の救いと願いとを、すべて育て上げてくださる。

                         第二サムエル記 23章5節

この数日、エミが人間関係の難しさを通して、大切なことを学んでくれているという手ごたえを感じている。エミにそのことを指摘したら、本人もとても嬉しそうに笑っていた。今となっては、エミがこの試練を通らせていただいたことをただ感謝している。まだしばらくは辛いと感じる日もあるだろうけれど、エミは確かに学んでいる。私も学ばされている。 まことに神は、私の救いと願いとを、すべて育て上げてくださる!

(5/27/2001)

エミのこと。

>まだしばらくは辛いと感じる日もあるだろうけれど

と書いたばかりだが、早速今日はかなり辛い日だったらしい。

子供って、残酷だからなぁ。エミのことを無視するなら無視するで、100%無視すればいいのに3回に1回くらいはいかにも仲良さそうに近づいてきてエミにちょっかい出すらしい。そしてエミが、「この子たちはやっぱり私の友達なんだな」と気を取り直して嬉しくなり始めたところでいきなりガブリと噛みつくような態度をとるようだ。エミは何度も「I'm confused. Do they like me, or not? I'm confused!」と言っていた。かわいそうに。

エミは不愉快そうに、クリスティがあれしたこれしたと事細かに私にグチる。

「ピリピ4:8の御言葉、覚えてる?」

以前、暗唱聖句で覚えた箇所なのでエミはすらすらと答える。

「ね? エミをmiserable で uncomfortableにさせるようなことには目をとめないで、良いこととか、正しいこととか、御言葉がいってるそういうことに目をとめようよ。」

そう励ましてみると、エミは「うん」と言ったが、どうもあれはあまり納得していないな。

イエス様に目を留めようとか、イエス様はエミのベストフレンドだよとか、避け所だよとか、良い羊飼いだよ、といくら教えても、それがエミにとってのリアリティーにならなければ単にクリスチャンのボキャブラリーを振り回しているに過ぎない。 クリスチャンホームに育った強みで、エミのなかには多くの御言葉がすでに貯えられていて、それは感謝なことだけれど、今のままでは冷凍庫に冷凍したまま忘れ去られた食品と同じだ。(うちの冷凍庫には沢山あったりする。f(^_^;; )そのあたり、どのように助け、教えてあげればいいのか。

今度は貯えた御言葉を実行し、応答すること。そしてそれに対して神様がいかなる業を見せて下さるのか、どんな祝福を与えてくださるのか、平安のなかで期待して待つこと・・・ それをエミに体験させてあげなくてはいけないのだろう。

ぼぼるパパとも話して、明日の朝はマタイ5章44節「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」からデボーションをし、クリスティとマイアの祝福のために祈ることを実践することにした。(エミとパパ、ママの三人での朝のデボーションは、しばらく前にJ.C. ライルの「キリスト者の家庭教育」を読んで発奮した(?)パパの提案で始めたこと。)

イエス様、エミのこのレッスンのときを、あなたがエミの手をとって進んでくださいますように。

                                 (5/29/2001)


ご感想などございましたら是非メールを下さい。
はちこは喜びます!



リンク、転載、配付、引用及び免責事項について
(c) 1999,2003 Sachi Nakamura

このページへのリンクは御自由にどうぞ。
http://nakamurafamily.net/faith/index.html