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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] 先日ものすごく嬉しいことがあった。 7か月くらい前に、ある未婚のクリスチャン女性から「未信者の男性と付き合うことは罪でしょうか」というメールをいただいたことがあった。 で、結局どういうお返事をしたのかは、実は自分ではよく覚えていない・・・ (^_^;; ただ、その方からつい先日またメールをいただいて、そのメールによると、私は私とぼぼるパパのいきさつをその方にシェアし(ぼぼるパパは結婚する4ヵ月前にクリスチャンになっていた)相手の方が「クリスチャンであるあなたを丸ごと受け止め、あなたを愛するがゆえ、あなたが愛してやまないイエス様のことを、真剣に知りたいと思ってくれることが鍵」ではないですか、と言ったらしい。そしてその方はそれに励まされ、お付き合いしていくなかで自分がクリスチャンであることを前面に打ちだし、積極的に証をし、そのことによって自分自身の信仰もさらに強められていったそうだ。 そしてそして! その相手の方は不思議としかいいようのない神様の御業によって救われ、さらにお二人は婚約にまで導かれ、近々結婚されるという。 ハレルヤ、ハレルヤ!このお知らせメールを受け取ったとき、私は飛び上がって喜んでしまった。(^^) 彼がまずクリスチャンになって、それから婚約に導かれたという順番がまた素晴しいではないか。キリスト教や自分の信仰に好意的で理解を示してくれるから、それで十分、と見切り発進して先に婚約/結婚に踏み切ることなく、彼女は忍耐を持って証しながら時を待ったのだ。私には神様がこの姉妹の誠実さを祝福してくださったのではないかと思える。 ぼぼるパパも自分の証のなかで言っていたが、信者と未信者が「釣り合わぬくびきを負ってはならない」という聖書の教えは、ただの窮屈な結婚の条件ではなく、結婚に素晴しい祝福をもたらしてくれる神様の愛から来る原則なのだ。 神様、あなたがこのお二人の結婚を豊かに祝福し、聖別し、油注ぎ、お二人をあなたの器として御国のために大いに用いてくださいますように! (蛇足ですが・・・ 信者が未信者と結婚したら、もうそれで祝福への道が閉ざされてしまうのかといえば、決してそんなことはないと思います。私たちは結婚に限らず、神様の原則に従わない選び取りをしてしまうことがしばしばあるものですが、それに気付いた時にすぐに神様のもとに立ち返り、神様の導きを求めるのなら、神様は私たちに何度でもやり直しのチャンスを与えて下さるのです。あっ、もちろん、離婚して別の人と再婚する、という意味ではないですが。) (2/17/2001) 今、私が参加しているクリスチャンママMLで、シュタイナー教育についての話題が出ている。シュタイナーといえば、モンテッソリと並ぶ幼児教育として、知っている人は知っているという感じだけれど、実はシュタイナーの教育理論は「人智学」というカルト的思想に基づいているらしい。キリスト教とか福音とかいう言葉も出てきて、なかにはキリスト教系の幼稚園でもシュタイナー教育を取り入れていますというところもあるほどの紛らわしさだ。 何だか気になるので私ももう少し詳しく調べたいのだが、ネットでいくつかのHPが見つかった以外にはあまりこれといった資料がない。読者の皆さんで、もしもシュタイナー教育について、特にキリスト教との関連について御存じの方がいらっしゃいましたら、是非教えてください。 (2/21/2001) 昨日の日記のシュタイナー教育の件に関して、早速結城さんが情報を寄せて下さった。結城さんの許可を得て、その内容をMLに投稿。そしてさらに結城さんのメールを転載してある私が投稿した文章をこの日記にも転載していいという許可をいただいたので、こちらにも記録のため転載。 ---以下、はちこの投稿文--- 今日から妊娠37週めに入ります。早く生まれて欲しいなぁ〜。(^^) クリスチャンの観点から見たシュタイナー教育について、もう少し情報が入ったのでメールしています。 以下は、情報をくださった私のクリスチャンの友人からのメールの抜粋です。このMLでシェアしてもかまわないという許可をいただいたのでここにコピーしますね。 > 私は一時期シュタイナーについて詳しく調べていました。 > 何か知りたいことがあれば、結構答えられるかもしれません。 以下は、その人がご自分のHPの日記のなかに書かれたことの抜粋だそうです。 > 先日、シュタイナーのウォルドルフ人形を牧師さんに処分していただく。 > 結城浩 「そしてシュタイナー教育はその技法的な部分を真似てもあまり意味がなくて、根底に流れる人間観を習得(体感・体験?)しないと意味がないように見える。つまり、全体的なかかわりを必要としているようだ。」 という部分、ドキッとします。 私の別のクリスチャンの友人で、同じように一時期シュタイナー教育にかなりはまっていたがやはり信仰面からやめた、という人がいるのですが、彼女いわく、シュタイナーは確かにとてもいいことをたくさん言っていて、現代の迷える母親たちに具体的なアドバイスをしてくれているので魅力的なのは事実だ、と言っていました。 しかし、幼児に対する教育ですから、学校まかせというわけにはいかず、まじめにシュタイナー教育を施そうと思えば思うほど、どうしても親がシュタイナーの理論、つまり人智学を学ばないわけにはいかなくなってきますよね。そうすると、親子ともども影響を受けかねないのですから恐いですね。 それに、外見上は害のない教育に思える部分でも、知らず知らずのうちに、子供が大きくなったとき、イエス様の十字架の福音を受け入れにくくなるような精神的土壌を子供の心のなかに植え付けることになるのかもしれないと思うと、結城さんがおっしゃっていたように、「霊的な意味から、シュタイナーとの関わりを切っておきたかったのだ」という判断をするのはうなずけるな、と思いました。 もちろん、最終的には、聖書の教えと個々の信仰に基づいてそれぞれに判断すべきことだと思います。聖霊様が、いろいろな情報のなかで翻弄されがちな私たちを、正しい方向へ導いてくださいますように! では皆さん、お休みなさい。 (私はこれから一日が始まるのですが・・・ 笑) ---転載終わり--- (2/22/2001)
今朝の礼拝メッセージより。タイトルは「十字架--シンボルかリアリティか」。 以下はそのアウトライン。(最近メッセージのアウトラインがパワーポイントを使ってプロジェクターに写し出されるようになったので、ノートが取りやすくなった。(^^))
(3/4/2001) 昨日送られてきたリバイバル新聞(3/5号)にとても恵まれる記事が出ていた。 日本アグローの会長、テル子・ジュディ・ミドルトンさんが書かれていた文章で、妻は夫に従うということについて。それが聖書に書かれている戒めであることは重々承知してはいるけれど、これがなかなか難しかったりする。ミドルトンさん自身も25年になる結婚生活のなかで、どうしても夫を敬い夫の判断に従うことが出来ずに悩んでいた時期があったのだそうだ。 しかしミドルトンさんは言う。私たち妻が夫を敬い従うのは、決して夫が尊敬するに値するからとか、能力があるからとか、霊的だから、という理由によるのではないのだと。信仰の歩みとは、目に見えるものによるのではない。目に見える夫の能力とか、夫が自分を愛し守ってくれているかどうかに関わらず、妻が神様を愛しているならば、「夫を敬いなさい」という神様の御言葉に従順をもって応答して、信仰の歩みをとるべきであると。 多くの女性(妻たち)は主に二つの恐れのゆえになかなか夫に従えないでいるようだとミドルトンさんは言う。一つは夫の怒りを恐れる恐れ、もう一つは夫の失敗を恐れる恐れ。 ミドルトンさんも、ご主人の感情の爆発が恐ろしくて、長い間爆弾を抱えているような、ビクビクした恐怖のなかで暮らしていたのだそうだ。しかしあるとき神様に「あなたが夫を恐れるのは、わたしを恐れていないからだ、それは罪だ」と語られたそうだ。ミドルトンさんは続ける、「人は恐れるものに支配されてしまいます。私たちを支配するお方は、主イエスさまただお一人であるべきです。」そして彼女は主の前に夫の怒りを恐れていたことを悔い改め、これからは神様だけを恐れて生きていくことを選びます、と祈ったのだそうだ。 もう一つの、夫の失敗を恐れる恐れの方は、私にも覚えがある。私自身、ぼぼるパパの判断をどうしても信頼出来ず、普段から何かと口をはさむ。心のどこかで、いざとなったらこの家庭を支えていくのは私なんだ、という変な思いすら持っている。何か非常事態が起きたとき、ぼぼるパパに助けてもらうのは当てにならない、私が自分で子供たちのことも全て守らなくてはいけないんだ、というような気持ちがどこかに潜んでいる。そして、パパのために祈るときは、いつもまっ先に「彼に知恵を与えてください、正しい判断力や指導力を与えてください」と祈っている。このように祈ること自体は間違っていないだろうが、私のなかの夫に対する信頼感の欠如というのは大きな問題だと自分でも気付いてはいた。彼は正直で真面目な人だから、嘘をつくとかそういうレベルでの不信感ではないのだけれど、なぜか彼が身を入れて家族のことを考えてくれているような気がしないのだ・・・ 家事や育児の手伝いとか、目に見えるところでは確かにいろいろなことをしてくれる。ケンカになると、「これ以上何を求めているんだ、何をして欲しいんだ?」と言われたりする。何が、と問われても困るのだが、愛されているのはよぉくわかるけど、守られている気がせず、どうも頼りないというのか・・・ ミドルトンさんも、同様のところを通ってきたらしい。しかしあるときサラの生き方を学び、悔い改めに導かれたのだそうだ。神様から直接素晴らしい約束を受けながらも何度か失敗してしまったアブラハムだったが、サラはそんな夫を「主と呼んで従った」(第一ペテロ1:3)。彼女の夫に対する従順の秘訣は、人にではなく「神に望みを置くこと」、つまり夫の失敗もその結果をも恐れることなく、神様に望みを置いたのだとミドルトンさんは指摘している。曰く「私はこの時深く悔い改めさせられ、夫が失敗してもいいとして、委ねることを学びました。皆さん、夫の失敗を恐れず、夫の決断に従いましょう。夫が転んだら一緒に転びましょう。私たちは失敗を通して、私たちの失敗や不信仰にもかかわらず約束を成就してくださる真実な神を知るのです。」 これは、夫がクリスチャンノンクリスチャンであるにかかわらず、同じことなのだと思う。神様がクリスチャンの妻たちに「夫を敬い、夫に従いなさい」とおっしゃるとき、この戒めを守った結果に関しては神様御自身が保証してくださるのだ。夫の判断は当てにならないかもしれない(笑)。しかし神様は間違いなく信頼できる! 夫も私も家族も、夫の判断もその結果も、すべて全知全能の神様の御手の上にあるのだ! ハレルヤ、何という解放感だろう! 神様がそうおっしゃるのだから仕方ない、心配だけど夫に従おう、ではなく、今、私は心から夫に従いたいぞ〜という思いに駆られている。それこそ主からの祝福を受ける道なのだと思うと、わくわくしてしまうほどだ。 今まで、心のどこかで夫を敬えず、従いきれなかった私の不従順(夫に対しても神様に対しても)のせいで、夫婦として、家族として、また私個人として、受け損なってしまった多くの祝福、恵みがあったに違いない。また私の不従順は、敵(サタン)に攻撃をさせる恰好のターゲットだったのだろう。 今日このことを悔い改め、新たな一歩を踏み出そう。 主よ、感謝します! (3/7/2001) 「聖書の読み方・御言葉の学び方 〜ミニガイド〜」というページを二週間ほど前から準備中。聖書が神さまの生きた言葉であり、私たちにとって大切なものだとはわかっているけれど、実際に自分が直面する日々の問題に聖書がどう関わってくるのかがピンと来ない、せっかく読んでも聖書からガイダンスを得ているという気がしない、という人は結構少なくないようだ。(私も以前はそうだったし。) そこで、私自身が今までの信仰生活の歩みの中で教えられてきた聖書の読み方などを僭越ながら、ちょっとまとめてみようかな、という気になった。 まだまだ未完成だけど、とりあえず3分の1ほど出来たのでアップしてみます。フィードバック大歓迎です。 (3/12/2000) 今日の礼拝メッセージの概要 「十字架が啓示するもの」 I. Revelation of the Person of Jesus イエス様がどういうお方であるかについての啓示 A. イエス様とはどういうお方か B. どのようにしてそれが私たちに啓示されるか (1)神様の側から (2)人間の側から II. Revelation of the Purpose of Jesus イエス様の目的についての啓示 A. その目的の内容 (1)十字架はイエス様がこの世での定めであり、その成就は御父の御心である B. その目的の結果 (1)人と神との間に新しい契約を結ぶ (2)教会の設立 III. Revelation of the Principle of Jesus イエス様の原理についての啓示 A. 死の原理 B. 弟子の原理 IV. Revelation of the Promise of Jesus イエス様の約束の啓示 ヘブル11章 イエス様の再臨、御国で与えられる永遠のいのち、私たちの行いに応じて与えられる報い、等 (3/18/2001) 暮れに下訳していた、いのちのことば社から出版予定だった本が、無事出来上がったらしい。今日、二冊送られてきた。 日本語のタイトルは「心の渇望〜本当の幸福を求めて」(ジェームス・フーストン著、松本曜 訳)。 翻訳者の後書きの部分に、下訳をした人ということで私の名前も出ていたのでびっくり。おはずかしい。 翻訳者の松本さんは、実は、以前JCFNで一緒に奉仕させていただいたこともある方。「中村さんの下訳はひどいな、これじゃ使い物にならないよ」と思われたのではないかと、もう真っ赤。ひゃ〜。 陣痛がなかなか来ないので、何とか気を紛らわすために早速読みはじめた。 下訳をしていたときは、時間がなかったこともあり、全体を読む機会もないままに割りふられた3章と6章だけしか目を通すことが出来ず、正直なところ、内容的に必ずしもそれほどピンとこなかった。というか、人間が持つ各種の欲望やそれに対する依存症の問題、絶望感や鬱についてなど、確かに興味深いテーマでそれなりに教えられることも少なくなかったが、著者フーストン博士のインテリぶり、博識ぶりはよく伝わってくるものの、そこで分かち合われている知識が聖書の真理とどう結びつくのか、今ひとつ見えなかったのだ。 ところが! 最初から読みはじめてみるとこれが面白いこと、面白いこと! もう、アーメンの連続! フーストン博士はカナダの名門神学校リージェントカレッジの初代学長で、「霊性の神学」のパイオニアと呼ばれているそうだが、さすが、ただのインテリじゃなかったのね。(うっ、フーストン先生、ごめんなさいっ!) 人は皆、心に何らかの渇望を持っており、渇望を持っていること自体は悪いことではなく、それどころか、人はそのような存在として作られているのだと著者は言う。問題は、私たちが何に対して渇望を持ち、どのような形でそれを満たそうとしているかなのだ。 よく、人の心には神様の形をした空白があり、それを埋めることが出来るのは、ただ神様のみである、という。フーストン博士が論じていることも、まさにそういうことなのだが、それを単なる比喩としてではなく、知的に、とてもわかりやすく納得のいく形でそれを説明してくれている。 本の前半では「今日における心の願望のゆがみ」と題して、現代人の心の有り様を分析し、後半ではそれに対する応答として「呪縛を解く--キリスト教の霊性の約束」という題で読者に希望と助けの手を差し伸べている。 この本、クリスチャンだけでなく、全ての「何かを求めている」方たちにお勧めです。きっと読者はこの本の中に、何らかの形で自分自身の姿を見い出し、そしてそのような姿のままではいかに本当の解放、本当の幸福には至らないのであるかを知ることでしょう。そして私たちが求めるべきものが何であるのかを知るようになることでしょう。 ●『心の渇望』(ジェームス・フーストン著 いのちのことば社) (3/21/2001) 大雨の中、床上まで浸水した家の屋根の上で、男が祈っていた。 「主よ。私はあなたが全能の神であり、あわれみの神であることを知っています。どうか助けてください。」 神は答えて言った。 「よろしい。心配することはない。私が君を助けてあげよう。」 そうこうするうちにも水位はどんどん上がり、家の二階まで届いていた。近所の人がボートをこいで通りかかり、「乗ったらどうですか」と声をかけたが、男は 「いや、大丈夫です。神様が助けて下さいますから。」 と断わった。そして大声で神を賛美した。水かさはいよいよ増して、男の立っている屋根を洗い始めた。自衛隊のヘリコプターが空から近づいてロープを降ろし、つかまるよう指示したが、男は笑って首を横にふった。 「ありがとう。しかし、私は大丈夫。神様が助けて下さいますから。」 そうこうするうちに水位はさらに上がり、ついに家は完全に水没した。屋根の上に立っていた男は溺れ、命を落とした。 天国にて。 ### 結局「宣教」はたしかに御心であったが、神様は決してメキシコに行けとは語っておられなかった、ということが飲み込めるまで相当な苦悶があり、何日も神様と格闘した、と彼女は言っていた。このような無駄なエネルギーを使わないためにも、神様の御声を途中まで聞いて結論に飛びつくのではなく、最後まで心を静めて、あなたのために用意されている素晴らしい御計画について神様に充分に語っていただくことが大切です、と彼女は結んだ。 これを聞いて私は悔い改めるところがあった。実はあることで何年も閉ざされたままの扉があり、最近では「今年はどうかな。だめもとだが、やらないことには始まらない。」と、半ば惰性とも、いきあたりばったりともいえる態度で臨んでいたのだ。口では「御心ならうまくいくだろう」といいつつ、実際のところは「それは私の計画ではない」と示されるのが恐くて、「神様、これはあなたのご計画ですか」と祈り求めることすらやめてしまっていた。 もちろん、祈ればいつも「これが道だ。ここを歩め。」と具体的な答えがあたえられるとは限らないし、答えは簡単だという保証もない。しかし、「これが神のご計画でなかった場合」の代替プランとして、いくつもすべりどめを用意する前に、「私のために用意されている、平安を与えてくれる計画(エレミヤ書29:11)」について耳をかたむけることの必要を痛感している。神様の目にはプランはひとつであって、代替プランはないのだから。 **** (3/22/2001) 覚書:「心の渇望」(ジェームス・フーストン著 いのちのことば社)より
(3/31/2001) ![]() ![]()
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