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ウルトラサウンドでおなかの中の赤ちゃんの画像を見たとき、この御言葉が頭に浮かんだ。 こんなに小さいのに、手があって足があって、指も5本ずつあって。目があって鼻があって口もあって。脳があって心臓があって胃や腎臓や膀胱などもちゃんとあって。 明らかに、私が造ったわけじゃない。私はどこに何があるべきかなんて、知らないもん。神様がなさったんだ。神様が一つ一つ、fearfully, wonderfully に形造られたのだ。 しみじみとそう思った。 でももしも、この赤ちゃんに手や足が欠けていたら? 指の数が足りなかったら? 脳に余計な亀裂があったら? 心臓に穴が開いていたら? そしたらこの子は神様の失敗作だということになるの? そんなことは絶対にない。それでもこの子がfearfully, wonderfully に形造られたのには変わりない。一人ひとりの赤ちゃんは、神様のご計画に従って、きっちりと精密に造られているはずだと思う。たとえそれが、この人間社会から見ると「障害」や「異常」に見えるとしても。何が正常で何が異常かなんて、人間が造った基準なんだものね。 ウルトラサウンドの画像で見る限りは、とりあえず元気そうな赤ちゃんだった。それはそれで感謝。心から感謝。 でもそれ以上に、神様がこの子の命を、存在を通して、成し遂げられんとしておられる御計画が、この世において100%成就されますようにと、祈らずにはおれない気持ちだった。そして、私がこの世の価値観に捕われて、神様の御計画を無視してしまうような育児をすることがありませんように、とも。 (11/15/2000)
クリスチャンは、イエス様を受け入れたとき、サタンの支配下にある暗闇から、神様の支配のもとである光のなかにうつされた。そこにはまさに御霊による義と平安と喜びがある。ところがサタンは、私たちの救いを私たちから奪うことは出来ないが、救いの喜びや平安や義を事あるごとに盗もうとする。 盗まれてなるものか。 (11/28/2000) 久々にドクター・ルークのHPを覗いてみたら、いつの間にか「ダイレクト・カウンセリング」についての項目がたくさんアップされていることに気がついた。 ドクター・ルークは医学博士で、神経症の専門家。クリスチャンとしても私はとても尊敬しているし、一緒にメルマガをやっているクララさんと二人で、「ルークさんは私たちのお兄さんのような存在だね!」と勝手に言っている。(^^) ルークさんのHPには、私が普段から思っていたこと、考えていたこと、日記などにまとまらないままダラダラと書き流していたようなことが、ばっちりまとめてわかりやすく書いてあり、とにかく私にとっては宝物の宝庫のようなサイトなのだ。 私自身心理学で博士号を持っているので、カウンセリングをやるのかとよく人からも聞かれることがあるけれど、とんでもない、私の専門は認知言語心理学で、カウンセリング・臨床心理学はまったくの分野外。とはいえ、興味のない分野ではないので、適当に本を読んだりして聞きかじりの知識だけはいろいろある。(実際のカウンセリングはやりません!)そういうなかで、教会の中でおこなわれている「カウンセリング/心の癒し」のミニストリーについて、いろいろ思うことがあった。危機感に近い思いを抱くことさえあった。 夏に日本でルークさんと直接お会いする機会に恵まれて、ダイレクト・カウンセリングについてわずかながらもお話しを伺うことが出来、私はこれぞクリスチャンカウンセリングのあるべき姿だ!と、大きな喜びを感じたものだった。 ルークさんのHPのなかに掲載されている「対談:『ダイレクト・カウンセリング』とは何か」を読むと、ダイレクト・カウンセリングがいかなるものか、わかりやすく説明されているし、私が抱いていた教会内でのカウンセリングミニストリーに対する危惧がどのようなものであるのかも、ちゃんと書かれている。 感激。 上記の話題と関係があるようなないような・・・ 「信仰」について考えていた。 「信仰」というと、真っ先に思いつく御言葉はこれ。
ドクター・ルークはそのHPの「効果的な祈りについて」という項目のなかで、信仰とは強く念じたりイメージしたりすることではなく、(信仰の対象である)「その相手の性質・価値観・能力・嗜好などを私たちが知った分だけ、私たちの内側に養われる」ものだ、と語っている。 前述のヘブル書のみことばから、強い信仰というと、何かいただきたいものがある時に「もうすでにいただいた!」と、がむしゃらに信じる強固な思いを持つことであるように誤解されることがあるけれど、それはちょっと違うのだと思う。信仰とは、人間のなかに潜むエネルギーだとか意思の力だとかいうものではないのだから。また、わけのわからないことを、とにかくうのみにして受け入れてしまうことでもない。 私たちはよく、どうやったら強い信仰、試練や困難にも負けないような信仰を持てるようになるのだろうと考えたりすると思う。少なくとも私はそうだ。ローマ書10章の御言葉は、私たちのなかに信仰を成長させるポイントは、まず「聞くこと」、しかも「キリストについてのみことば」を聞くことにあるのだと言っている。ちなみに、英語の聖書ではこの 箇所は「...faith comes from hearing the message, and the message is heard through the word of Christ.」となっている。「キリストについてのみことば」か「キリストの言葉」かでちょっぴりニュアンスが違うけど、まぁ基本は一緒か。 「がむしゃらに信じる」というのは、所詮自分の(意思の)力や頑張りに頼ることであり、大変なエネルギーを要すると思う。頑張っても頑張っても結局頑張りきれなくて、「あぁ私はなんと信仰の弱い者だろう」と萎えてしまう。自分を責めてしまう。 でもそうじゃなくて、まずはじっとイエス様の言葉に耳を傾けること、イエス様とは、父なる神様とは、聖霊様とは、どういうお方であるのか、まずはそれを学ぶこと・・・ そこから出発するはずのものなのだ。 昨日私がおもむろに(?)「The
Great I AM」のコーナーを更新したのも、実はそんなことを考えていたからだった。 この夏からというもの、私はずっと体調が悪い。いつもつわりでのびているか、風邪でひっくりかえっているかのどちらかで、ちっとも気分がすっきりしない。体力にしても、意思にしても、私が持ちうる全ての力の限界を感じてしまっている。今もまたもや咳が止まらない状態で、苦しくて、自然と呻き声が漏れてしまう。結核か肺炎じゃないかと思いたくなる。もう12月になってしまって、毎日慌ただしいし、あああああぁぁぁぁ〜〜〜、もう駄目だぁぁぁぁ〜〜〜、と叫び出したくなってしまったとき、私は父なる神様の前に膝まづいて、「神様、あなたご自身をもう一度私に現わしてください。私の信仰を、もう一度奮い立たせて下さい!」と祈った。その時、「ジェホバ」という神様のお名前が私のなかに響いて来たので、「主よ、あなたが私にとってジェホバなる神であるというのは、どういうことなのでしょう。もう一度教えて下さい」と祈り、「ジェホバ」という神様のお名前についての学びをおさらいしたのだ。 主よ、感謝します。 (12/4/2000) 覚書:
***** 金曜日だったか、デボーションのときルカの福音書1章13〜16節から、母の胎の中にいるうちから聖霊に満たされるなんて、なんて素晴しいのだろう、といろいろ思わされていた。お腹の子が私にとっての「喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜」ぶなんて、こんな祝福はない。そう思って私もこの御言葉をお腹の子のために祈っていた。 そうしたら、日曜日の夕拝のメッセージがまさにこの箇所からだった。内容は子供とは直接関係なく、神様からの召しに答える、ということだったのだが。ザカリヤが最初に御使いから語りかけられたとき、彼は恐れ怯えたけれど、信仰を持って召しに答えるとき、あなたの働き(ミニストリー)はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、また周囲の人たちにとってもそれは喜びをもたらすでしょう、はしょっていうなら(かなりはしょった)、そのようなメッセージだった。 メッセージのあと、お祈りの時間があって、私たち家族が着席したまま祈っていたら、ある兄弟が私たちのところにやってきて、子供たち3人を含む一人一人の上に手を置いて祈ってくれた。私に手をあてて祈ってくれている時、彼はお腹の赤ちゃんのためにも祈ってくれ、そのとき、「この子がバプテスマのヨハネのように、母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、親にとっての喜びとなり楽しみとなり、また多くの人にもその誕生が喜ばれるようになりますように」と祈ったのだ。私はもうびっくり。二日前に私が祈ったのと全く同じ祈りなのだもの。 帰りの車のなかでその話しをぼぼるパパにして、この子のミドルネームは「ジョン」にしよう、ということになった。ケンスケ・ジョン・ナカムラ。 何ていうんだろう、我が子でありながら我が子でないような、不思議な気持ち。末っ子で、しかも初めての男の子だから、うっかりしたらものすごく甘やかしたり、期待過剰になって私のエゴを子供のうえに投影したくなってしまうかもしれないけれど、そうならないよう気をつけなくてはいけないんだな。私の私有物ではなくて、神様からの大切な使命、ご計画を受けていただいた命なのだから。(もちろん、すべでの子供がそうなんだけど。) (12/12/2000)
(12/23/2000)
先日、23日の日記に書いた「肉」についてある方からメールをいただいた。(いつもありがとうございます! なかなか個別にお返事ができなくてごめんなさい。)その方は、自分の肉を、肉の力によってコントロールしようとしていたことに気がついた、というようなことをおっしゃっていた。 これは、私たちが実に陥りやすい、堂々回りの罠なのだと思う。パウロですら例外ではなかった。ローマ書7章での彼の葛藤は、そのまま私たちの葛藤ではないだろうか。 一体どうすればこの堂々回りから抜け出すことが出来るのだろうか? このあたりについては、アンドリュー・マーレイが「完全な明け渡し」のなかの「私は本当にみじめな人間です」の章で詳しく考察している。また、Dr. Luke のHPのなかにあるダイレクトカウンセリングのページでも同様に詳しく述べられている。(「Dr. ルーク・ミニストリーズのご紹介」というコーナーの「リバイバル新聞連載記事」の、「ダイレクト・カウンセリングB」の記事に特にわかりやすく書かれていると思う。) マーレイも、Dr. ルークも、鍵は自分から目を離してイエス様を見ることだと言う。 いただいたメールを読みながら、いろいろな思いが浮かんで来た。どうすれば肉を十字架につけることが出来るのか・・ ・ 私の場合、自分の肉の弱さを認め、それを受け入れることこそ「謙遜」だと思いこんでいる節があった。しかしこれは、見当違いもはなはだしいかったかもしれない。主にあって本当に謙遜な人というのは、そもそも自分の弱さや欠点からも解き放たれていて、そんなことをことさら強調したりもしないようだ。私がこんな見当違いをしていたのは、多分世的な心理学の影響かと思う。この世の心理学は「否認(Denial)」は不健全です、自分のありのままの姿を認めましょう、受け入れましょう、と勧める。自分に明らかな問題があるのに、それを認めず、「私には問題などない、大丈夫だ」と言い張るのは確かに不健全だろう。 しかしクリスチャンの場合、すでに「古きは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました」が神様ご自身によって宣言されているのだということを忘れてはいけない。 Dr. ルークは言う、「あなたのあらゆる重荷は、あなた自身が負うべきではありません。イエスがすでに十字架で負って下さり、すでに終わっているのです。トラウマがあり傷ついている自分も終わっています。極端な言い方をすれば、癒される必要もありません。古い人はすでに新しい人と置き換えられているからです。自分は駄目だと言っている人は、大脳の記憶にある自分の痕跡を見ているのです。」 私の真の姿、ありのままの姿とは何なのだろう。肉は私に向かってこう言うかもしれない。「それは高慢であり、自己中心であり、同じ失敗を何度でもくり返す愚かな姿だ」と。 では神様は何と言っているのだろうか? 神様の目には私たちはどのように映っているのだろうか? これは2年以上前の日記にも書いたことだけれど、重複を恐れずもう一度ここに記したい。
まとめて言えば、私は主キリスト・イエスを信じる信仰により、「新しく造られたもの」となり、「罪を赦され、購われたもの」となり、「勝利者」となり、「神の子供」とされたのだ! 私の感情がそう言うのではない。むしろ感情的にはとても信じられないことだ。でも、もうサタンの嘘や、古い肉の人の残像に振り回されていてはいけない。 神の言葉である「聖書」がそう言っているのだから。 「信仰」は聞くことから始まる。神様の言葉に聞こう。そしてそれがどんなに信じ難いことだとしても、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」ではないか! 神様がそうおっしゃっているのだから、それを感謝して受け入れ、確信しよう。そしてパウロと一緒にこう叫ぼう。 「私たちの主イエス・キリストのゆえに感謝します!」(ローマ7:25) ・・ ・なんだか話しが随分広がってしまったけど・・ ・ いただいたメールを読みながら、こうしていろいろ考えるはちこなのでありました。ほんとになかなかお返事出来なくて恐縮ですが、どうかこれからもどんどんメールくださいね。 (12/27/2000) 昨日の日記でルークさんの言葉を引用させていただいたことについて、事後承諾をもらうような形になってしまったけれど、ルークさんにご報告したところ、引用はplease feel free ということで感謝でした。(^^) そして「蛇足ですが・・ ・」と下記のコメントもいただきました。蛇足どころか、これぞ外してはならない要の部分だと思いましたので早速再び引用させていただきます。(ルークさん、ありがとう!)
「神の啓示は、『肉を十字架につけなさい』ではなく、『肉もすでにつけてしまった(完了形)』(24節)です」、これは本当に大切なポイントだ。ここがずれていると、いつまでたっても「どうすれば肉を殺せるのだろう・・ ・」という悩みから解放されないわけだ。ものすごく納得。あと、五番目の項目も目からウロコですね。神様が考えておられることは、本当に私たちの常識、良識、知恵をはるかに超えたところにあるのだぁとあらためて思った。 それにしても、「真理はあなたがたを自由にします」というのは、本当だなぁ! (12/28/2000) ![]() ![]()
はちこは喜びます!
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