ホーム信仰、希望、愛p. 23

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

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 「それはあなたが私の内臓を造り、
  母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
  私は感謝します。
  あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。
  (I praise you because I am fearfully, wonderfully made.)
  私のたましいはそれをよく知っています。
  私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
  私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
  あなたの目は胎児の私を見られ、
  あなたの書物にすべてが書きしるされました。
  私のために作られた日々が、
  しかも、その一日もないうちに。
」 (詩篇139篇13ー6節)

ウルトラサウンドでおなかの中の赤ちゃんの画像を見たとき、この御言葉が頭に浮かんだ。

こんなに小さいのに、手があって足があって、指も5本ずつあって。目があって鼻があって口もあって。脳があって心臓があって胃や腎臓や膀胱などもちゃんとあって。

明らかに、私が造ったわけじゃない。私はどこに何があるべきかなんて、知らないもん。神様がなさったんだ。神様が一つ一つ、fearfully, wonderfully に形造られたのだ。

しみじみとそう思った。

でももしも、この赤ちゃんに手や足が欠けていたら? 指の数が足りなかったら? 脳に余計な亀裂があったら? 心臓に穴が開いていたら? そしたらこの子は神様の失敗作だということになるの?

そんなことは絶対にない。それでもこの子がfearfully, wonderfully に形造られたのには変わりない。一人ひとりの赤ちゃんは、神様のご計画に従って、きっちりと精密に造られているはずだと思う。たとえそれが、この人間社会から見ると「障害」や「異常」に見えるとしても。何が正常で何が異常かなんて、人間が造った基準なんだものね。

ウルトラサウンドの画像で見る限りは、とりあえず元気そうな赤ちゃんだった。それはそれで感謝。心から感謝。

でもそれ以上に、神様がこの子の命を、存在を通して、成し遂げられんとしておられる御計画が、この世において100%成就されますようにと、祈らずにはおれない気持ちだった。そして、私がこの世の価値観に捕われて、神様の御計画を無視してしまうような育児をすることがありませんように、とも。
 
●関連記事 リバ新版はちこの日記より「神様のマスターピース

                            (11/15/2000)


「神の御国は、御霊による義と平安と喜びです。」

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」

クリスチャンは、イエス様を受け入れたとき、サタンの支配下にある暗闇から、神様の支配のもとである光のなかにうつされた。そこにはまさに御霊による義と平安と喜びがある。ところがサタンは、私たちの救いを私たちから奪うことは出来ないが、救いの喜びや平安や義を事あるごとに盗もうとする。

盗まれてなるものか。

(11/28/2000)

久々にドクター・ルークのHPを覗いてみたら、いつの間にか「ダイレクト・カウンセリング」についての項目がたくさんアップされていることに気がついた。

ドクター・ルークは医学博士で、神経症の専門家。クリスチャンとしても私はとても尊敬しているし、一緒にメルマガをやっているクララさんと二人で、「ルークさんは私たちのお兄さんのような存在だね!」と勝手に言っている。(^^) ルークさんのHPには、私が普段から思っていたこと、考えていたこと、日記などにまとまらないままダラダラと書き流していたようなことが、ばっちりまとめてわかりやすく書いてあり、とにかく私にとっては宝物の宝庫のようなサイトなのだ。

私自身心理学で博士号を持っているので、カウンセリングをやるのかとよく人からも聞かれることがあるけれど、とんでもない、私の専門は認知言語心理学で、カウンセリング・臨床心理学はまったくの分野外。とはいえ、興味のない分野ではないので、適当に本を読んだりして聞きかじりの知識だけはいろいろある。(実際のカウンセリングはやりません!)そういうなかで、教会の中でおこなわれている「カウンセリング/心の癒し」のミニストリーについて、いろいろ思うことがあった。危機感に近い思いを抱くことさえあった。

夏に日本でルークさんと直接お会いする機会に恵まれて、ダイレクト・カウンセリングについてわずかながらもお話しを伺うことが出来、私はこれぞクリスチャンカウンセリングのあるべき姿だ!と、大きな喜びを感じたものだった。

ルークさんのHPのなかに掲載されている「対談:『ダイレクト・カウンセリング』とは何か」を読むと、ダイレクト・カウンセリングがいかなるものか、わかりやすく説明されているし、私が抱いていた教会内でのカウンセリングミニストリーに対する危惧がどのようなものであるのかも、ちゃんと書かれている。 感激。

*****

上記の話題と関係があるようなないような・・・

「信仰」について考えていた。

「信仰」というと、真っ先に思いつく御言葉はこれ。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
                               ヘブル11:1

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」                
                               ローマ10:17

ドクター・ルークはそのHPの「効果的な祈りについて」という項目のなかで、信仰とは強く念じたりイメージしたりすることではなく、(信仰の対象である)「その相手の性質・価値観・能力・嗜好などを私たちが知った分だけ、私たちの内側に養われる」ものだ、と語っている。

前述のヘブル書のみことばから、強い信仰というと、何かいただきたいものがある時に「もうすでにいただいた!」と、がむしゃらに信じる強固な思いを持つことであるように誤解されることがあるけれど、それはちょっと違うのだと思う。信仰とは、人間のなかに潜むエネルギーだとか意思の力だとかいうものではないのだから。また、わけのわからないことを、とにかくうのみにして受け入れてしまうことでもない。

私たちはよく、どうやったら強い信仰、試練や困難にも負けないような信仰を持てるようになるのだろうと考えたりすると思う。少なくとも私はそうだ。ローマ書10章の御言葉は、私たちのなかに信仰を成長させるポイントは、まず「聞くこと」、しかも「キリストについてのみことば」を聞くことにあるのだと言っている。ちなみに、英語の聖書ではこの 箇所は「...faith comes from hearing the message, and the message is heard through the word of Christ.」となっている。「キリストについてのみことば」か「キリストの言葉」かでちょっぴりニュアンスが違うけど、まぁ基本は一緒か。 

「がむしゃらに信じる」というのは、所詮自分の(意思の)力や頑張りに頼ることであり、大変なエネルギーを要すると思う。頑張っても頑張っても結局頑張りきれなくて、「あぁ私はなんと信仰の弱い者だろう」と萎えてしまう。自分を責めてしまう。 でもそうじゃなくて、まずはじっとイエス様の言葉に耳を傾けること、イエス様とは、父なる神様とは、聖霊様とは、どういうお方であるのか、まずはそれを学ぶこと・・・ そこから出発するはずのものなのだ。

昨日私がおもむろに(?)「The Great I AM」のコーナーを更新したのも、実はそんなことを考えていたからだった。 この夏からというもの、私はずっと体調が悪い。いつもつわりでのびているか、風邪でひっくりかえっているかのどちらかで、ちっとも気分がすっきりしない。体力にしても、意思にしても、私が持ちうる全ての力の限界を感じてしまっている。今もまたもや咳が止まらない状態で、苦しくて、自然と呻き声が漏れてしまう。結核か肺炎じゃないかと思いたくなる。もう12月になってしまって、毎日慌ただしいし、あああああぁぁぁぁ〜〜〜、もう駄目だぁぁぁぁ〜〜〜、と叫び出したくなってしまったとき、私は父なる神様の前に膝まづいて、「神様、あなたご自身をもう一度私に現わしてください。私の信仰を、もう一度奮い立たせて下さい!」と祈った。その時、「ジェホバ」という神様のお名前が私のなかに響いて来たので、「主よ、あなたが私にとってジェホバなる神であるというのは、どういうことなのでしょう。もう一度教えて下さい」と祈り、「ジェホバ」という神様のお名前についての学びをおさらいしたのだ。
  
疲れているとき、苦しいとき、私はもっともっと神様のことが知りたくなる。神様がどんなお方であるのか知れば知るほど、もう自分の「ど根性」で頑張らなくても、神様がなさってくださる、神様が導いてくださる、神様が守ってくださる・・・ 素直にその事実を受け入れることが出来るようになる。人の思いを超えた平安が私を包む。

主よ、感謝します。

(12/4/2000)


覚書:

  「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。
   あなたの妻エリザベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
   その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
   彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼はぶどう酒も強い酒も飲まず、
   まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、
   彼らの神である主に立ち返らせます。
」 (ルカによる福音書1章13〜16節)

*****

金曜日だったか、デボーションのときルカの福音書1章13〜16節から、母の胎の中にいるうちから聖霊に満たされるなんて、なんて素晴しいのだろう、といろいろ思わされていた。お腹の子が私にとっての「喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜」ぶなんて、こんな祝福はない。そう思って私もこの御言葉をお腹の子のために祈っていた。

そうしたら、日曜日の夕拝のメッセージがまさにこの箇所からだった。内容は子供とは直接関係なく、神様からの召しに答える、ということだったのだが。ザカリヤが最初に御使いから語りかけられたとき、彼は恐れ怯えたけれど、信仰を持って召しに答えるとき、あなたの働き(ミニストリー)はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、また周囲の人たちにとってもそれは喜びをもたらすでしょう、はしょっていうなら(かなりはしょった)、そのようなメッセージだった。

メッセージのあと、お祈りの時間があって、私たち家族が着席したまま祈っていたら、ある兄弟が私たちのところにやってきて、子供たち3人を含む一人一人の上に手を置いて祈ってくれた。私に手をあてて祈ってくれている時、彼はお腹の赤ちゃんのためにも祈ってくれ、そのとき、「この子がバプテスマのヨハネのように、母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、親にとっての喜びとなり楽しみとなり、また多くの人にもその誕生が喜ばれるようになりますように」と祈ったのだ。私はもうびっくり。二日前に私が祈ったのと全く同じ祈りなのだもの。

帰りの車のなかでその話しをぼぼるパパにして、この子のミドルネームは「ジョン」にしよう、ということになった。ケンスケ・ジョン・ナカムラ。

何ていうんだろう、我が子でありながら我が子でないような、不思議な気持ち。末っ子で、しかも初めての男の子だから、うっかりしたらものすごく甘やかしたり、期待過剰になって私のエゴを子供のうえに投影したくなってしまうかもしれないけれど、そうならないよう気をつけなくてはいけないんだな。私の私有物ではなくて、神様からの大切な使命、ご計画を受けていただいた命なのだから。(もちろん、すべでの子供がそうなんだけど。)

                                 (12/12/2000)

親愛なるJCFN祈りの勇士の皆様、
       

尊き主の御名を賛美いたします。
シカゴはここ数日かなりの雪で、気温も氷点下が続いていますが、皆様のところはいかがですか?

先日(といっても数ヵ月前になるのですが)「神様の絵の具」という本を読みました。36歳の若さでガンで亡くなられた能登一郎牧師の闘病中のメッセージを集めた本なのですが、大変励まされる素晴しいものでした。その中に上記の「中国のある殉教者の残した詩」が掲載されており、それぞれの地で何らかの形で神様に仕えておられる祈りの勇士の皆さんにお分かちするのにふさわしいのではないかと突然思わされたので、引用させていただきました。

「自分自身を神にささげるということは、神のために何かの働きをするということではない。
 神ご自身に働いていただくということ。」

特にこの2行にはハッとさせられました。そういえばつい先週にも、私の教会の牧師先生がメッセージのなかで「あなたに任されているミニストリーとは、あなたの働きのことではありません。それは神様の働きのことです」と語っておられました。奉仕する、というとどうしても「私には何が出来るだろうか?」という観点から考えてしまいがちですね。しかし、よく言われることですが、神様が私たちに求めておられるのは私たちのabilityではなく、availabilityなのです。 神様が私たちを何かの働きに召してくださるとき、その働きのために私たちを整えることは神様ご自身がなさってくださるし、同時にその働きを遂行するために必要な権威も神様が与えて下さるのです。

私たちを通して神様に働いていただくために、いつも邪魔になるのが私たちの「肉」ですが、聖書はこの「肉」をコントロールしなさいとか、抑圧しなさいとか、訓練しなさいとは言いませんでした。むしろ「十字架につけて殺しなさい」と言ったのです。私たちが自分の肉を十字架につけるのが可能になったのは、ただイエス様御自身の十字架のゆえでした。イエス様は私たちの罪を贖い、私たちを肉から解放するために約2000年前、神としてのご栄光をいったん破棄されて、人の子としてこの世に生まれて来られたのです。

クリスマスライトが街を飾り、何とも心踊らされる季節になりましたが、なぜ神であられるイエス様が人の子として生まれて来なければならなかったのかを思うとき、あらためて自分の罪の深さ、肉の醜さを思わされます。「仕える者」としても私たちにとって何よりの模範であるイエス様の誕生に思いを巡らせつつ、神様への私たちの献身を再び確認したいものです。

皆さんの祈りにおけるご奉仕を心から感謝しつつ・・・

中村佐知
JCFN祈りの勇士コーディネーター

(JCFN「祈りの勇士」の皆さんに毎月送っているニュースレターの12月15日発行分より)

(12/23/2000)


先日、23日の日記に書いた「肉」についてある方からメールをいただいた。(いつもありがとうございます! なかなか個別にお返事ができなくてごめんなさい。)その方は、自分の肉を、肉の力によってコントロールしようとしていたことに気がついた、というようなことをおっしゃっていた。

これは、私たちが実に陥りやすい、堂々回りの罠なのだと思う。パウロですら例外ではなかった。ローマ書7章での彼の葛藤は、そのまま私たちの葛藤ではないだろうか。

一体どうすればこの堂々回りから抜け出すことが出来るのだろうか?

このあたりについては、アンドリュー・マーレイが「完全な明け渡し」のなかの「私は本当にみじめな人間です」の章で詳しく考察している。また、Dr. Luke のHPのなかにあるダイレクトカウンセリングのページでも同様に詳しく述べられている。(「Dr. ルーク・ミニストリーズのご紹介」というコーナーの「リバイバル新聞連載記事」の、「ダイレクト・カウンセリングB」の記事に特にわかりやすく書かれていると思う。)

マーレイも、Dr. ルークも、鍵は自分から目を離してイエス様を見ることだと言う。

いただいたメールを読みながら、いろいろな思いが浮かんで来た。どうすれば肉を十字架につけることが出来るのか・・ ・ 私の場合、自分の肉の弱さを認め、それを受け入れることこそ「謙遜」だと思いこんでいる節があった。しかしこれは、見当違いもはなはだしいかったかもしれない。主にあって本当に謙遜な人というのは、そもそも自分の弱さや欠点からも解き放たれていて、そんなことをことさら強調したりもしないようだ。私がこんな見当違いをしていたのは、多分世的な心理学の影響かと思う。この世の心理学は「否認(Denial)」は不健全です、自分のありのままの姿を認めましょう、受け入れましょう、と勧める。自分に明らかな問題があるのに、それを認めず、「私には問題などない、大丈夫だ」と言い張るのは確かに不健全だろう。 しかしクリスチャンの場合、すでに「古きは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました」が神様ご自身によって宣言されているのだということを忘れてはいけない。

Dr. ルークは言う、「あなたのあらゆる重荷は、あなた自身が負うべきではありません。イエスがすでに十字架で負って下さり、すでに終わっているのです。トラウマがあり傷ついている自分も終わっています。極端な言い方をすれば、癒される必要もありません。古い人はすでに新しい人と置き換えられているからです。自分は駄目だと言っている人は、大脳の記憶にある自分の痕跡を見ているのです。」

私の真の姿、ありのままの姿とは何なのだろう。肉は私に向かってこう言うかもしれない。「それは高慢であり、自己中心であり、同じ失敗を何度でもくり返す愚かな姿だ」と。

では神様は何と言っているのだろうか? 神様の目には私たちはどのように映っているのだろうか? これは2年以上前の日記にも書いたことだけれど、重複を恐れずもう一度ここに記したい。

  私たちはイエス・キリストの十字架のゆえに

(A)受け入れられている。 I Am Accepted.

  1. 私はイエスの血潮により購い、すなわち罪の赦しを得ている。私が負うべき負債はすでに十字架に釘付けにされ無効にされた。( コロサイ 1:14, 2:14、エペソ 1:7)

  2. 信仰により義と認められ、キリストにより神との平和を持っている。(ローマ 5:1)

  3. 神の子供とされた。 (ヨハネ1:12、ローマ 8:14,15、ガラテヤ 3:26、エペソ1:5)

  4. 他のクリスチャンと共に神の家族の一員である。(エペソ 2:19)

  5. 御前に聖く傷のないものとされるために、世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれていた。(エペソ 1:4)

  6. おりにかなった助けを受け恵みと憐れみをいただくために、大胆に神の恵みの御座に近づくことが出来る。 (ヘブル 4:16)
  
  (B)安全である。 I Am Secure.

  1. 私は神に選ばれた者、聖なる、愛されている者。 (コロサイ3:12、第一テサロニケ 1:4)

  2. 私はすでに死んでおり、私の命はキリストとともに、神のうちに隠されてある。(コロサイ3:1)

  3. 神は、私たちを暗闇の圧制から救い出し、愛する御子のご支配の中に移してくださった。(コロサイ1:13)

  4. 神はイエス・キリストによって、私たちに勝利を与えて下さった。世に勝つ者と された。私たち神から出た者で、私たちのうちにおられるイエスにより反キリストの霊に打ち勝つ者とされた。 (第一コリント15:57、第一ヨハネ5:5、第一ヨハネ4:4)

  5. 私は代価を払って買い取られた。(第一コリント6:20)

  6. 私は神によってキリスト・イエスのうちにある。 (第一コリント1:30)

  7. キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができる。 (エペソ3:12)
   
  8. 福音を信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押され、私たちが御国を受け継ぐことは保証されている。(エペソ1:13,4)

  9. キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理により、罪と死の原理から解放され、罪に定められることはなくなった。(ローマ8:1,2)

  10. 私たちが行き着くとろこは永遠の命である。(ローマ6:22)

  11. 私たちを神の愛から引き離すものは何もない。(ローマ8:35)

  12. キリストのうちにあり、新しく造られた者となった。(第二コリント5:17)

  (C)重要で意義のある存在である。I Am Significant.

  1. 私は世の光である。 (マタイ 5:14)

  2. 私は神の宮であり、神の御霊が私のうちに宿っている。 (第一コリント 3:16、6:19)

  3. 私はキリストの使節である。 (第二コリント5:18, 20)

  4. 私たちは神の作品であって、よい行いをするためにキリストにあって作られた。 (エペソ 2:10)

  5. 私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民である。 (第一ペテロ2:9)

  6. 私は神の目には高価で尊い。 (イザヤ43:4)

  7. 私は私を強くして下さる方によってどんなことでもできる。(ピリピ 4:13)

まとめて言えば、私は主キリスト・イエスを信じる信仰により、「新しく造られたもの」となり、「罪を赦され、購われたもの」となり、「勝利者」となり、「神の子供」とされたのだ!

私の感情がそう言うのではない。むしろ感情的にはとても信じられないことだ。でも、もうサタンの嘘や、古い肉の人の残像に振り回されていてはいけない。  神の言葉である「聖書」がそう言っているのだから。 「信仰」は聞くことから始まる。神様の言葉に聞こう。そしてそれがどんなに信じ難いことだとしても、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」ではないか! 神様がそうおっしゃっているのだから、それを感謝して受け入れ、確信しよう。そしてパウロと一緒にこう叫ぼう。

私たちの主イエス・キリストのゆえに感謝します!」(ローマ7:25)

・・ ・なんだか話しが随分広がってしまったけど・・ ・ いただいたメールを読みながら、こうしていろいろ考えるはちこなのでありました。ほんとになかなかお返事出来なくて恐縮ですが、どうかこれからもどんどんメールくださいね。

(12/27/2000)


昨日の日記でルークさんの言葉を引用させていただいたことについて、事後承諾をもらうような形になってしまったけれど、ルークさんにご報告したところ、引用はplease feel free ということで感謝でした。(^^) そして「蛇足ですが・・ ・」と下記のコメントもいただきました。蛇足どころか、これぞ外してはならない要の部分だと思いましたので早速再び引用させていただきます。(ルークさん、ありがとう!)

  --以下引用--
  1.ローマ書7章の葛藤は3つのlawsの間の葛藤です。神の律法(Law)を行ないたい私の
    思いの法則(law of mind)に対して、肢体にある罪の法則(law of sin)が戦いを挑む
    わけです。その法則に対す対応を誤ったため葛藤しているわけです。あたかも自分の髪
    の毛を引っ張って空を飛ぼうとするが如しです。実はぼくは幼稚園の頃、マジでそれを
    しました。

  2.これに対してガラテヤ5章の葛藤が霊と肉の葛藤です。霊の願うことと肉の願うことが
    対立するわけです。肉を矯正したり、治めたりしようとすればするほど肉はかき立てら
    れます。神の啓示は、「肉を十字架につけなさい」ではなく、「肉もすでにつけて
    しまった(完了形)」(24節)です。これはローマ6:6における2000年前の客観的
    なキリストと共なる「古い人」の磔刑の主観的適用と言えます。「古い人」の磔刑は
    キリストによるものですが、「肉」の磔刑は、私たちの記憶になくても、私たちが
    キリストと同一視された時点で行なってしまったのです。

  3.実際の私たちの経験では、このロマ書の法則間の葛藤と、ガラテヤ書の霊と肉の葛藤が
    複合してややこしくなっているわけですが、パウロはこれを明確に切り分けて分析
    しているわけです。この分析は現代精神科学の知見をはるかに 超える人間に対する
    深い洞察です。

  4.そして解放の鍵はロマの場合は、別の「命の御霊の法則」に乗ることです。ガラテヤの
    場合は「自分から目を離して、キリストへ」です。いずれにせよ、自分から注意
    (attention)をはずすことです。2輪車に乗るときに自分に意識を集中してたら、
    ころびます。「肉」も見つめれば見つめるほど疼きます。しばしばクリスチャンは自分の
    至らなさを自分で分析して、自分はまだまだです・・・、と言いつつ、何となくそれが
    謙遜であるかのように思い込んでいるわけですが、実はそれは罪です。私の師のColin
    Urquhartは「あらゆる自意識は罪である」と言っています。過激な言葉に聞こえますが、
    真理です。パウロも何事も先走って自分で裁くことをしない、と言っています。

  5.私たちの前には2本の木があります:命の木と、善悪の木です。
    自分がどうのこうの・・・と言う姿勢は、たえず自分を測っているのです。それは善悪の
    価値観によります。たとえ善であっても、それは罪です。アダムの罪は悪を知っただけ
    ではなく、善も知ってしまったのです。神の意図は、命の木で生きることです。それは
    一言で「信頼の道」です。自分を信じるのか(善悪の木)、キリストを信じるのか
    (命の木)の選択です。私たちの判断基準は「良いか、悪いか」ではなく、
    「命か、死か」であるべきです。

  6.はちこさんの日記の私たちの"True Identity"のリストは素晴らしいですね。これらが、
    私たちの思いが造り替えられることによって(ロマ12:2)、私たちの血肉になる
    ことを祈ります。キリストの形ができることは、御言葉で再構成されることです。
    ハレルヤ!
  --引用終わり--

「神の啓示は、『肉を十字架につけなさい』ではなく、『肉もすでにつけてしまった(完了形)』(24節)です」、これは本当に大切なポイントだ。ここがずれていると、いつまでたっても「どうすれば肉を殺せるのだろう・・ ・」という悩みから解放されないわけだ。ものすごく納得。あと、五番目の項目も目からウロコですね。神様が考えておられることは、本当に私たちの常識、良識、知恵をはるかに超えたところにあるのだぁとあらためて思った。

それにしても、「真理はあなたがたを自由にします」というのは、本当だなぁ!

(12/28/2000)


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