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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] ある姉妹の癒しのためにずっと祈っていた。(私はこの姉妹のことは直接知らないのだが。)彼女は音楽ミニストリーに従事していて、歌を歌うことを通して主に仕えていた。 ところが、その彼女が甲状腺ガンに犯されていることがわかった。手術をすれば、声帯にも傷がつき、もう歌えなくなるかもしれない・・・ そういう状況だった。 けれども、彼女も彼女のご主人も、もしも主が声をとられるのなら、それはそれでいい、私たちはただ自分達の命をそのまま捧げて主に仕えるのみ、そういう態度であられた。 知人を通して姉妹の病状に関する祈祷課題を受け取るたびに、このご夫婦の信仰に私の方が逆に励まされていた。 姉妹は今月上旬に手術を受け、つい先日退院された。そして今日、姉妹ご本人によるメールが転送されてきた。そこにはこう書かれていた。 「声が出ます! ハレルヤ! 確かに歌が歌えます!」 執刀されたお医者さんは、本当なら三時間で済む手術を6時間かけて、丁寧に丁寧に声のための神経を残してくださったのだという。彼はこう言っていたそうだ。 「僕はこの人の歌を聞くために頑張ったよ。」 「病院のクリスマス会に歌いに来てください。」 姉妹のメールは新たな祈祷課題で締めくくられていた。 主の御名をほめ讃えます! 主はどんなに絶望的と思える状況でさえも、それを御自身のご栄光に満ちたものへと変えることの出来るお方。 この姉妹を通して、ますますあなたの愛が、御力が、多くの人に示されますように! この姉妹のガンは、まだ転移している可能性も残っているそうです。どうか完全な癒しのためにお祈りください。また彼女の声のリハビリのためにもお祈り下さい。 (5/25/2000) (某掲示板に投稿しようと思ったはちこの発言の改定版) こんにちは、はちこです。バックグラウンドや年齢層も様々な皆さんから、中絶問題についていろいろなお考えを聞くことが出来て、とても感謝しています。 さて、この件に関しては、私はもうおしまいにしようと思っていたのですが、みなさんがプロライフの活動や考え方を誤解されたままだったら残念だと思いましたのでおしまいにする前に、もう一言だけ付け加えたいと思います。 私が大学生の頃、クリスチャンの友人が妊娠し中絶をしました。彼女は、友人の誰にも相談せず、相手の男性にも言わず、一人で中絶クリニックに行き、一人で赤ちゃんを処分してきたのです。とてもショックでした。彼女が妊娠し中絶したという事実もショックでしたが、それ以上に、誰にも相談してくれなかったということがショックでした。 でも、彼女にしてみれば、相談出来なかったのも無理はなかったのでしょうね。相談すればきっと「それは罪よ」と言われるだけだと思ったのでしょう。実際当時の私たちにしても、相談されたとしても、何の助けも与えようがなかっただろうとも思います。 私はこの事件をきっかけに考えるようになりました。もしもまた、私のまわりで誰かが望まない妊娠したら私は何をすべきだろうか、何が出来るだろうか、と。 はっきりした答えは出せませんでしたし、今だに出ていないのですが、少なくとも「中絶は罪です!」と叫んでいるだけでは何の解決にもならない、ということだけはわかりました。 確かに、プロライフの活動家の方々を見ていると、「堕胎は罪です! 虐殺行為です!」と声高に叫んでばかりいるかのように思えるかもしれません。レイプによる妊娠とか、その他様々な事情により中絶を選ばざるを得ない場合も必ずしも少なくない現実を無視して、理想論ばかりをふりかざしているかのように見えるかもしれません。でも、プロライフの活動家の方々にとっては、決して断罪することが目的ではないのです。政治的な働きかけやプラカードを掲げてのデモ行進のようなものばかりが目につくかもしれませんが、プロライフの活動の多くはそのようなものではなく、もっとずっと地道なものなのです。 彼らの一番の目的は、望まない妊娠をした女性の重荷を共に分かち合い、お腹の赤ちゃんとお母さんにとってベストの選択が出来るよう助けることです。胎児の命だけ守ってそこでおしまい、というわけではありません。生まれて来た赤ちゃんが健やかに成長出来るように助け、またお母さんのことも様々な面で助けることを目的としているのです。「プロライフ」とは「いのちに賛成」、「いのちを慈しむ」ということなのですから。 そのために、あるプロライフの団体は望まない妊娠をした女性(またそのパートナー)のカウンセリングを主な活動とし、ある団体は法的な胎児の人権保護を呼び掛けることを主な活動とし、ある団体は生まれた子供の里親を探す活動をし、ある団体は 妊娠中の女性が周りの好奇の目から逃れ学校の勉強が遅れることもなく穏やかに過ごせるような施設を提供するような活動をし、またある団体は中学高校などを回って、命を慈しみ性を尊ぶことを教える教育活動をしていたりするのです。(もっとも、日本の場合はこれらの活動がどこまで行われているのか、残念ながら私はよく知らないのですが・・・ 日本のプロライフ活動について御存知の方がいらっしゃいましたら、是非情報をお寄せ下さい。) それから以下は、私が最近知った日本のプロライフの団体のHPです。 ☆小さないのちを守る会 名古屋支部 どちらのサイトでも、相談のある方からのメールを受けておられます。 最後に、私が好きな聖書の言葉を二つ、紹介させてください。
(6/1/2000) 昨日の日記で「プロライフの方々にとって断罪することが目的ではない」と書きましたが、それに関連してもうちょっと書きます。 断罪が目的でないのはプロライフの活動にとってだけでなく、そもそもキリスト教にとって、神様にとって、断罪(罪に定めること)は目的ではないのです。 クリスチャンや教会というとすぐに「○○は罪だ!」「あなたは裁かれます!」とかそんなことばっかり言っていて、なんかヤ〜な感じ、自分を何様だと思ってるの?と思われる方も少なくないかと思います。 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい。」(7節) すると民衆は、ひとりまたひとりとその場を離れ、最後には誰もいなくなってしまったのです。 イエス様は一人残されたこの女性に言いました。 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節) たとえば中絶の場合ですが、中絶を経験したことのない人ならば、その経験者を罪に定めることが出来るのでしょうか? 聖書には「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とあります。中絶はしたことがないかもしれない。行動面では姦淫や不品行も犯したことはないかもしれない。でも、表に現れない心の中のことまで問われた時、はたして自分には「罪はない」と言い切れるでしょうか? あるいは情欲に関してはまったく自由で、一切やましいことはないかもしれない。でもそれ以外の部分ではどうでしょう? 金銭的物質的な欲、名誉欲、ねたみ、そねみ、憤り、敵意、争い・・・聖書のスタンダードから見れば、これらはどれも同じように「罪」なのです。 だとしたら、私たちのなかではたして「罪のない者」などいるでしょうか? 他の人に石を投げられる人などいるでしょうか? 少なくとも、私はアウトです。 そもそもクリスチャンは、一人一人が、姦淫の現場で捕まってイエス様の前に引き出された女性のようだと思います。 しかし、イエス様の十字架の贖いを通して、私たちにもまた「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」という言葉がかけられたのです。ヨハネ8章で赦された女性が、今度は別の姦淫の女性に対して石を投げようとするでしょうか? むしろ逆だと思うのです。もしも他の姦淫の女性を見つけたなら、ヨハネ8章の女性はきっとこういうでしょう。 「罪だ! 罪だ!」と言われれば、誰でも不快な気分になるものでしょう。クリスチャンや教会のそのような言動にうんざりしている人も少なくないかもしれません。またはちこ個人に対してもそのように感じておられる方がいるかもしれません。だとしたら、本当にごめんなさい。 でも、私の本意は決して誰かを罪に定めたり責めたりすることではないのです。どうかそのことはわかってください・・・ 私がイエス様からいただいた「赦し、恵み、愛」をあなたにも受け取って欲しい・・・ それだけなんです。
(6/2/2000) ラインホルド・ニーバーという人の有名な祈りで「平静の祈り(Serenity Prayer)」というのがある。正確に思い出せなかったので、気になって検索してみたら以外な事実を知った。この祈り、4行だけで終わっているのかと思っていたら、実は続きがあったのだ。日本語訳がないかと探してみたが全文を訳しているものが見つからなかったので、自分で訳してみた。
有名な最初の4行、このように祈れること自体がこの人に素晴らしい知恵がある証拠だと唸らされるけれど、その続きもすごいじゃないか。 がむしゃらではなく、投げやりでもなく、まさにセレニティ、「平静」を感じさせる。 自分の本当の希望がどこにあるのかを十分に承知したうえで、神様の主権を受け入れ、かつ自分に任された責任も放棄していない・・・ そんな感じだろうか。 中庸というのとも違う。 いつもがむしゃらか投げやり(諦め?)のどちらかに片寄りがちな私は、このような姿勢からは学ぶところが多い。 この「平静」を得るためのキーワードはやっぱり、「知恵」かな。 (6/5/2000)
(6/18/2000) 今、アンドリュー・マーレーの「完全な明け渡し」第6章の「私はみじめな人間です」を訳している最中。短いのですぐに出来ると思ったのが甘かった。結局先伸ばしにし続けてしまい、今に至っている。本当は、日本に行く前にはこの章を終わらせてアップしておきたかったのだけど、多分無理そう。 それにしても、本当にマーレイのメッセージは奥が深い。「私はみじめな人間です」はローマ人への手紙7章、8章からのメッセージ。 パウロが自分のなかにあるどうしようもない「罪」を嘆き悲しんで、24節においてその悲しみの絶頂に達し「私は本当にみじめな人間です! だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか!」と叫ぶのだが、次の25節では「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」とおもむろに神様に賛美を捧げている、この変化は一体何なのか、というようなあたりを深く深く掘り下げている。 私は果たして24節のパウロのように「私は本当にみじめな人間です!」と叫ぶほどの悲しみやみじめさを自分の罪ゆえに体験したことがあるだろうか? あるような気もするけれど、少なくともその先25節のパウロにまでは至ったことがないと思う。ということは、結局は24節のパウロほどまでには自分で自分の罪の性質を嘆き悲しんだことがないのかもしれない。 人間って、何事にも慣れやすい生き物だと思う。最初は不快で、嫌だなぁと思ったことでも繰り返しその状況にさらされていくうちに、だんだんと慣れて、しまいには何にも感じなくなってしまうものではないだろうか。 罪に対してもそうだ。最初は、こんなことをしたら神様を悲しませる、と全身全霊をこめてある罪に抵抗しても、一回妥協してしまうと、次からはそれほどは抵抗しなくなる。そんなことを繰り返すうちに、抵抗しなくなるどころか癖になって、ついにはそれをせずにはおれなくなる・・・(Desensitization--感度が落ちること-- これはサタンの最も得意とする手口の一つなのだろう。でも、話題がずれてしまうのでそれはちょっと横に置いといて。) いけない、いけない、いけない。神様の言葉に従いたい。イエス様の足跡にならうものになりたい。それなのに・・・ 悩む。絶望する。 ついに叫ぶ。「私は本当にみじめな人間です!」 ここからが分岐点かもしれない。このあと、25節のパウロのように「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と言うところに到達するのか、それとも「神様の力なしには出来ないのだから、私がここから自由になれないのは、要するに神様のせいなんだ。神様が助けて下さらないからいけないんだ」と逆に神様を責めるのか。 どうすれば24節から25節に行けるのか。続く8章はもっとすごい。みじめでみじめでどうしようもなかったパウロが、いきなり解放されているのだから。 さぁて、続きを翻訳しよう。 (6/24/2000) 沖縄のサミットの中心テーマは、IT(Information Technology, 情報技術)だった。たしかに、情報技術の発展は日進月歩であり、世の中あらゆる意味で便利になっているようであるが、はたしてITは私達をしあわせにするのであろうか。生産性が向上した結果、より多くの仕事をより短時間に処理することが期待され、人々は以前にも増して高いプレッシャーの中に置かれているのではなかろうか。私が購入するコンピュータは月単位で高速化して行くが、肝心の私の頭の中の演算速度は年とともにだんだん遅くなっていく。 あるクリスチャンの友人がこんなことを言っていた。一週間で彼女がやろうと思っていることをするのに必要な時間を計算してみた結果、24時間 x 7を10時間オーバーした。つまり、やろうとしていることの少なく見積もっても10時間分は、神様の御心にかなわないことなのだ、というのである。 彼女などはいい方だ。おそらく私には一日が48時間あってもとても足りないであろう。 「いそがしさ」というのは現代の偶像のひとつだと思う。「いやあ、最近忙しくて」などといいつつ、心の底では忙しくしていること自体に充足感を覚えていたりする。忙しいと人にものを頼まれても引き受けるゆとりがないか、無理して引き受けて忙しさに拍車をかけてしまう。それでなくてもノーと言えない私は、最近意識して必要以上のコミットメントをしないようにこころがけている。 しばらく前に、うちの教団がサポートしている宣教師のための祈りのメーリング・リストに参加した。全世界に散らばる宣教師から届く祈りのリクエストをEメールで流すというものである。宣教師のために祈る必要を感じて参加したのだったが、そうしたら、来ること来ること。それまでは私がうけとるメールなど1日にたかだか2-3通だったのが、メーリング・リストからは多いときには一日に10通以上もリクエストが入るようになった。はじめのうちはひとつひとつ祈っていたが、すぐにとてもじゃないが今の自分には処理しきれる量ではないことがはっきりした。どこの宣教師がどんな必要を持っているかを知るにはよい手段でも、肝心の祈りを約束できないのであれば、看板の掛け倒れである。さっさと退会した。 家族と過ごす時間をすこしでも増やすため、どうしても避けられない年に1-2回を除いては、仕事での出張もなるべくしないようにしている。これは、結構馬鹿にならない。出張は旅行している時間だけでなく、その準備(講義の原稿作りなど)や事後処理にどっさり時間をとられるからだ。 今回の旅行でも、日本にいた一週間の間、家族と親戚と一緒にいたほかは、一日だけ高校時代の友人に会いにでかけただけだった。日本には滅多に帰らないのだから、もう少し何かしてもいいかなとは思ったが、これでよかったと思う。自分にとっては時間に追われない休暇が何より必要だったから。 神様との歩みにおいても、自分が神様のためにどれだけ働いているかということよりも、いつもどれだけ用意が出来ているか(神様に対してどれだけavailableか)ということが問題なんだと、うちの牧師がいつも言っていることを思いだす。 (ぼ) (7/23/2000)
こんにち、人々が飢え渇いているものって何だろうか。お金や地位や名声などは表面的なものだ。こういったものを一枚一枚はがして裏にあるものをつきつめていくと、結局「自分(のやってること)を認めてもらいたい。」ということに尽きるのではないだろうか。私の知っている著名な学者が、かつてこう言っていた。 「誰も褒めてくれない日には、自分で自分を褒めます。そうでもしなきゃ、研究なんか続けてられないですよ。」 自分は人の言うことがあまり気にならないという人でも、いいことを言われれば悪い気はしない。歯の浮くようなお世辞は考えものだが。私たちクリスチャンは教会でつねづね「高慢はいけません」と教わっているわけだけれども、誰しも程度の差こそあれ、くすぐられればうれしいプライドを持っているというのは、動かしがたい事実だ。 ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」(使徒の働き3:6)と言った。金銭的な「ほどこし」をすることは万人にできることではないかもしれない。しかし、人の良い点をみて本人に伝えることなら、やろうと思えば誰にでもできるはずだ。聖書の神を信じる群れにあっては、なおさらだ。良い点をほめられることで、人は自分に自信を持ち、揺るぎない人格を築いていけると思う。 私の場合は、残念ながらまだまだ。自分だって 「あなたのやっている仕事など、ゴミである」 と人にいわれれば(よく言われる)どう感じるかよくわかっているくせに、ふっと気がつくと、子供や学生に対して同じことをやっている。 「何でこんなのができないんだ。」 子供たちはこう言われる時、大抵親の顔を見ていない。防衛本能でコミュニケーションをシャットアウトしてしまっている。こんなことでは、かたくなな性格に育ててしまうと時々反省するのだが。せめて、 「よくがんばったな。だが、まだちょっと違うぞ。どこが違うかわかるか」 くらいのことは言えるようにならなくては。「父たちよ。あなたがたも、子供をおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によってそだてなさい。」(エペソ書6:4) 逆に、自分ではまったく意識していなかったのに、仕事の上で "Your kind remarks made my day!" (ご親切なお言葉をいただき、うれしかったです) などといわれると、"No, YOURS did mine!" (こちらこそ!)と言いたくなってしまう。 きょう一日、私は誰かを励ましただろうか。 (ぼ) (7/29/2000) ![]() ![]()
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