ホーム信仰、希望、愛p. 2


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

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今日、私の教会に来たある宣教師の人が言っていた。

「あなたの人生の中で何か困ったことが起こった時、
 それを障害物(stumbling blocks)とみるか、
 飛び石(stepping stones)とみるかで
 あなたの人生は随分変わって来るでしょう。」

そういえば以前こんなことがあったっけ。

ぼぼるパパがまだシカゴ大学に来たばかりの頃。
駆け出しの研究者として、研究費を調達してくるのはとてもプレッシャーのかかることだった。米国科学基金に自分の研究のプロポーザルを提出し、厳しい審査にパスすればそこから研究費がおりるが、パスしなければ当然何ももらえない。どれだけ多額の研究費を調達できるかということでも、研究者のしての格付けがかなり決まってくる。 あの頃はアメリカの景気もまだ今一つで、科学研究にかける国家の費用はかなり削られており、研究費を取ってくるのは至難の業だった。

私はみんを妊娠したばかり、つわりで苦しい時期だった。 ぼぼるパパはその頃すでに3本のプロポーザルを提出していたが全滅で、背水の陣で4本目のプロポーザルを提出すべく必死に準備していた。でも私は肉体的に苦しかったせいもあり、忙しい彼をサポートしてあげることも出来なかった。

そういう時に限って、教会からいろいろな奉仕を頼まれたりしていた。しかし彼は何一つ断わることなく、不平不満をもらすこともなく、忍耐を持って自分の出しうる全てを出して努力していた。

そんなある日彼はこういった。

「昨日祈っていたら、神様が『今の大変な時期もわたしに忠実であるなら、わたしはあなたに大いに報いよう。』って語ってくださったんだ。だから僕は頑張るよ。」

苦労の末に仕上げたプロポーザルを提出して数ヵ月たった後、仕事中の彼から電話がかかってきた。

「僕、今日、怒れる人になったんだよ。」
  
「なぁにそれ? 一体どうしたの?」

「この前出したプロポーザルの返事が待てど暮らせど来ないから、プロポーザル・マネージャーに電話してみたんだ。」

「そしたら?」

「そしたらね、彼、動揺してるんだよ。そしてね、『大変申し訳ありませんが、あなたが提出されたプロポーザルは私のデスクの書類の山に埋もれていて、今の今までほったらかしになっていました。今から大急ぎでプロセスしますが、恐らくもう今回の締切には間に合わないと思います。』っていうんだよ!」

「…(絶句)」

「それでね、『あなたのプロポーザルの内容なら、締切が一ヵ月先の別の部門に提出されてみてもいいのではないかと思いますが、そうなさったらどうですか?』だってさ。 だから今から大急ぎでもう一本プロポーザルを書いて、そっちの方にも出してみることにしたよ。」

「ひどい話しじゃないの! あんなに苦労して書いたプロポーザルだったのに! ちゃんと文句言ってやったの?」

「ううん。 腹はたったんだけどさ、別に何も言わなかったよ。でも電話を切ったあと、さすがにやりきれない気持ちになったから、祈ったんだ。そしたら神様が『わたしを賛美しなさい』っておっしゃるから、賛美したんだ。そしたら気持ちは落ち着いたよ。とにかく、これからもう一ヵ月、また忙しくなるけど、ごめんね。」

初めに彼が提出したプロポーザルは1年間分だけの研究費しかリクエストしていなかったのだが、この2本目のプロポーザルでは彼はヤケになったのか、大胆にも3年間分の研究費をリクエストした。そして突貫工事ともいえる超特急で2本目のプロポーザルを仕上げて提出した。

それからさらに数ヵ月後、彼の手元に二つの通知が来た。

プロポーザルは2本とも通ったのだ! 締切に間に合わないと思った方も、大胆に3年分の研究費をリクエストした方も! 

Stumbling Blocks と Stepping Stones・・・

同じ出来事でもそれをどちらに受け止めるかは、私たち次第なのだ。
                                   

 (7/27/1998)

私が愛読しているウェブ日記に「のこちゃんの日記」がある。のこちゃんは1歳4ヵ月になる男の子をもつクリスチャンのママだ。育児のこと、夫婦のこと、信仰のこと、普段の家庭生活のことなど、絶妙な文体でいつも楽しく読ませてくれる。そののこちゃんの日記で先日とても興味深いことを読んだ(1998年7月29日分)。

のこちゃんは最近ハーブを育て始めたらしいのだが、ハーブを元気に大きく育てるためには次の3つが肝心なのだそうだ。(理解が不正確かもしれないので、興味のあるかたは是非のこちゃんの日記をご覧下さい)

(1)芽先を摘芯すること。摘芯とは伸びてきている植物の先端をばっさり切ってしまうことで、そうすると切ったすぐ下の節から新しい2本の枝(側芽)が伸びてきてよく葉が茂るようになる。

(2)大きすぎる鉢に植えないこと。 「植物の根というのは、障害物にぶつかることで、枝分かれし、広がっていく性質を持っているらしい。従って、小さい苗に、はじめから大きい鉢をあてがっ てしまうと、うまく根を張らせることができないので、弱々しく育ってしまう。」

(3)株分けをすること。植えっぱなし、茂らせっぱなしでなく、苗が大きく育ってきたら、丁寧に掘り下げ、株を切り分けていくと花や実のつきが良くなる。

ふ〜む、なるほど。私もハーブを育てているのでとても参考になる話し。 でもこれ、ハーブだけに当てはまることではなさそうね。

クリスチャンの霊的な成長についても同じことが言えないかしら?

私たちの霊的な歩みにおいて、時に高慢の芽を摘み取られたり、自己憐憫の枝を切られたり、神様は時々そういうことをなさる。そのときは痛いものだが、そうすることによって神様が願っておられるような姿により近づいて成長していくことができる。

また霊的にも、障害物がある方が忍耐を学び、一層神様に信頼して歩むことになるので、それだけ根がしっかり張って、結果的には強く逞しく育っていくことができる。

クリスチャン同士の交わりは楽しいものだし、交わりをもつことは神様の命令でもあるけれど、ときには群れのなかから引き離され株分けされて別の場所に植えられることも必要だ。そうすることで自分の信仰もより成長し、また神様の御国も広がり、多くの実を結ぶことになる。

どれもこれも、そのときは自分にとっては好ましくないものだけれど、私達は神様という最高の園芸家の手によって、愛の水と赦しの肥料をいただきつつ丹精こめて育てていただいているのね。

のこちゃん、いいお話をありがとう。

(8/3/1998)

忘れないうちに記録しておこうと思っていたのに、ついのびのびになっていたことがある。 先月、みんがイエス様を救い主として受け入れたのだ!  
  
あれは私たちがカリフォルニアへ出かける前の週のこと。教会ではその週ずっと子供の夏期学校(VBS)をやっていた。夏期学校の終わりの日、「イエス様を救い主として心のなかに受け入れたい人は前に出てきて下さい」というアン先生の招きに、みんはほかの幾人かの大きな子供たちにまざって一緒に前に出ていき、自らひざまづいてお祈りしたのだ。

私やぼぼるパパは「どうせ意味もわからず、他の子供たちの真似をしているだけだよ」と笑って真剣に受けとらなかった。 後に牧師先生からも「ミホちゃんがイエス様を受け入れて、おめでとうございます。何かあればいつでも相談に来てください」というような手紙が来たのだが、その時も笑って済ませていた。

しかし… そういえばあのお祈りをした日以来、みんが変わったのだ。

あの日以来みんは毎日のように、「Mom, do you know that Jesus lives in my heart?」とか「Praise God! I love Jesus! He is my best friend!」と言っている。

そして朝から晩まで神様を賛美する歌を歌っている。以前は自分からお祈りをするということはなかったのに、今では喜んで祈るようになった。

そういえば、イエス様って、幼い子供の単純で純粋な信仰を喜ばれるんだったよね…

私やぼぼるパパは笑っていたけど、イエス様は笑ったりなさらなかったんだ。笑うどころか、喜んでみんの心に入って来てくださったんだ。

イエス様、ありがとう。 これからもうちの娘たちをよろしくお願いいたします。

(8/5/1998)

人間はどういう時に不安を感じるのだろう? 

それは自分にとって先の見通しが立たないとき、何が次に起きるのか分からないとき、何を期待/予測したらいいのか分からないとき、そういうときに一番不安を感じるものではないだろうか。

また何か自分に関わることが、自分のコントロールの外にあり、自分では何もなすすべがないというときに不安を感じないだろうか。

神様の見えざる御手に導かれて歩むとき、人間的には常に不安がつきものだ。 しかし霊的にはそれを「信仰」と呼ぶ。私たちが持ちうる信仰なんて、所詮「不安」と紙一重なのだ。

「見よ。わたしは新しい事をする。
 今、もうそれが起ころうとしている。」 イザヤ43章19節a

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、
 理解を越えた大いなる事
を、あなたに告げよう。」 エレミヤ33章3節

目が見たことのないもの、
 耳が聞いたことのないもの、
 そして、人の心に思い浮かんだことのないもの

 神を愛する者のために、
 神の備えてくださったものは、みなそうである。」 第一コリント2章9節

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に」 エペソ3章20節

ほらね。 神様がなさることというのは、いつでも私たちの思いや理解をはるかに越えた、私たちにとってまったく新しいことなのだ。 分からなくて当然、不安で当然とも言えよう。

どうせ分からないのだから、理解しようともがくのはやめよう。先の先まで計画を立てようとするのはやめよう。 また無理に不安を押し隠すこともない。むしろ静まって、その時々に語って下さっている聖霊様の御声にじっと耳を傾けてみたい。

たとえ分からなくても、神様を信頼し、自分自身をその御手に思いきって委ねてしまうことが出来た時、「不安」は「希望」へ、そして「確信」へ、さらには
「平安」へと昇華されていく。イエス様ご自身の恵と憐れみにより、私たちが持っていた「不安」が神様の御前に「信仰」として 捧げられるのだ。
  

(8/9/1998)

もしそうでなくても」…  聖書の中の人物の言葉で一番信仰が現わされているひとことは何か、そう聞かれたら私はこの言葉を挙げるかもしれない。

旧約聖書のダニエル記の3章にシャデラク、メシャク、アベデネゴという3人の青年についての記述がある。 当時のバビロンの王、ネブガデネザルは全国民に自分が建てた像をひれ伏して拝むよう命令を出した。もしひれ伏して拝まない者がいれば、ただちに火の燃える炉の中へ投げ込まれることになっていた。

しかし、ユダヤ人のシャデラク、メシャク、アベデネゴはひれ伏して拝まなかった。 彼らは即座に王の前に連れ出され、尋問された。

「おまえたちは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、本当か?私が造った像をひれ伏して拝むならよいが、もし拝まないなら、ただちにおまえたちを火の燃える炉の中に投げ込むぞ!どの神が私の手からあなたがたを救い出せよう!」

それに対して3人の若者は断固としてこう答えた。

「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。
 神は私たちをあなたの手から救い出します。
 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。
 私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」 (17,18節)

フィリップ・ヤンシーというひとは「神に失望する時(Disappointment with God) という本の中で信仰には2種類あるようだと論じている。

一つは「幼子のような」信仰。どんなに不可能と思えることでも神様の御名によれば何でも出来る、と信じて疑わない信仰だ。このような信仰は山をも動かすことが出来ると聖書は言っている。

もう一つは「Fidelity(忠誠)」の信仰とヤンシーは呼んでいる。たとえどんなに神様が理不尽に思えても、たとえ神様が耳栓をし、そっぽを向いてしまったかのように思えても、どんなに不公平で私たちには納得がいかなくても、それにもかかわらず、神様が愛と義と主権をもって御座からこの世界を統べ治めておられるのだという確信と信頼を揺るがせない、そういう信仰のことである。 神様がヨブに期待された信仰はまさにこれではなかっただろうか。

どちらのタイプの信仰の方がより勝っている、というのでなく、どちらも必要なのだと思う。神様はそのどちらの信仰をも私たちが持つことを願っておられると思う。

「もしそうでなくても」… 私は3人の若者のこの言葉に、「幼子のような」信仰と「Fidelity」の信仰の両方が凝結されているように感じる。

奇しくも私が先日「インスピレーション」のコーナーで書いた娘のエミの話は、このシャデラク、メシャク、アベデネゴの話と同じことを私に語っていたのかもしれない、と今頃になって気付いた。

                   (8/17/1998)

アメリカ造幣局には偽札鑑定の専門家がいるそうだ。

偽札鑑定の専門家は本物の紙幣と偽札を素早く正確に見分けられるようになるために、どのような訓練を行っているのだろうか? それまでに発見されたありとあらゆる偽札を分析し、その特徴を調べるのだろうか?
  
否。

彼らは偽札には見向きもしないそうである。ただ連日、本物の紙幣に触れその図柄を細かく学び、自分の目に、また指先の感覚に、完全に馴染ませるのだそうである。そうすることで偽札に出くわしたとき、まず直感的に「違う!」と分かるようになるのだそうだ。

クリスチャンもそのようであるべきではないだろうか?

今、ありとあらゆる「新興宗教」「カルト」と呼ばれるものや「異端」と呼ばれる教えが世の中に出回っている。

あるものは誰の目からも明らかにおかしいと思われるようなものだが、あるものはとても微妙だ。ちょっと聞いただけでは「なるほど」と納得してしまうかもしれない。「神」という言葉を用い、「イエス・キリストの教え」を説き、世界平和や隣人愛について語る。 あるいは「最後の審判」を警告し、「ハルマゲドン」を予言する。

そこには虚偽と真理が入り交じっている。

私たちも造幣局の偽札鑑定家のように、日々本物に親しんでいよう。御言葉に聞き、学び、心の中に蓄えよう。

偽物に出会ったとき、惑わされないために。そして真理を求める人にはいつでも説明できるように。

「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。
 御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」 第一ヨハネ2章22節

「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。
 それは反キリストの霊です。 あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、
 今それが世に来ているのです。」  第一ヨハネ4章3節

                                   (8/19/1998)

もし私が急に死んでしまうようなことでもあるなら、私が子供たちに残してあげられるものって一体何だろう。最近そんなことをよく考える。

いろいろあるような気もするし、何もないような気もするし。

以前ある牧師さんが言っていた。「死」とは人生の一番終わりに待っているものではなく、ある日突然人生の途中に割り込んでくるものなのだと。

その時が来たら、私はうろたえるだろうか? きっとうろたえるに違いない。「ちょっと待って! 私はまだ子供たちに何も教えていない! 何も残していない!」

いくら自分は天国に行くのだとわかっていても、後に残す子供たちに対する責任をまだ果たしていないと思ってうろたえるに違いない。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。
 あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、
 これを唱えなさい。
 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」 申命記6章4ー9

その日はいつ来るかわからないのだ。 一日も無駄には出来ない。いずれは朽ちてなくなってしまうこの世の宝ではなく、決して朽ちることのない永遠の命を子供たちに受け継がせたい。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされた
 イエス・キリストとを知ることです。」 ヨハネによる福音書17章3節

あなたは「その日」が突然あなたの人生の途中に割り込んできたら、それを受け入れる準備は出来ていますか? もしもわからないのなら、もしも「永遠のいのち」について
もっと知ってみたいと思われるのなら、この小羊をクリックしてみて下さい。

                 (8/28/1998)



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