ホーム信仰、希望、愛p. 18

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

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昨日、ある方からメールでこのような質問をいただきました。

【神=愛】というけれども、命あるものには神は愛と受け止めることが出来るかもしれないが、災害や事故、病気、戦争で亡くなられた人を思うとき、どうしても【神=愛】とは思えない。このあたり、どのように自分の中で調和されているのですか?・・・ 

神が愛であるなら、なぜこの世の中には非情で残酷なことが沢山あるのか・・・ それはきっと人類普遍の疑問でしょうし、私にはそれに対して誰もが納得出来るような明確な答えを出すことはできません。

でも、「私の中で」どのように調和されているのか、ということでしたらお答え出来るかと思います。

一言でいうなら、聖書に「神は愛です」と書いてあるので、私も神は愛であると信じ受け入れているのです。イエス様が私の救い主であり主であると受け入れたとき、私はまた聖書はその原典において誤謬のない神の言葉であると信じ受け入れました。ですから、「神は愛です」と聖書に書いてあるのなら、それは私にとっての真理なのです。

なんて言うと、「だから宗教は恐ろしい。経典に書いてあれば、なんでも無批判に受け入れてしまうのか」という声が聞こえてきそうですね。(^^) でも、聖書はそんじょそこらにある本とはちょっと訳が違うのです。

聖書は世界中で最も(1)よく売れている(年間2億5千冊以上)、(2)翻訳されている(約2000の言語)、(3)迫害を受けた、(4)人類に影響を与えた本なんだそうです。 

聖書がどれだけの年月をかけて書かれたかご存じですか? 聖書の一番古い箇所は今から3500年前に、新しい箇所は1900年前に書かれたといいますから、「新旧約聖書」全体が書き上がるまでに1600年かかったわけですね。1600年と言えば、とてつもなく長い期間ではありませんか? 1600年前の日本といえば、古墳文化の時代です。たとえば古墳文化の頃から現在に至るまでの長い年月をかけて一冊の本が書かれるなんて、ちょっと考えられないことですよね。

1600年もかけて書かれたのですから、一人のひとが全部まとめて書いたというわけではありません。聖書は、身分も職業も時代も違う約40人の人たちによってそれぞれ個別に書かれました。彼らはそれぞれに、書くべきことを神から示されて、神からの啓示のままに書き記し、それらがのちに一つに編纂され現在の聖書となったのです。

不思議なことは、1600年もかけて、違う時代、違う土地に生きた40人ものの人々によって独立に書かれたものでありながら、聖書には、全体を通して完全な調和と統一性があるのです。旧約聖書の一番はじめの「創世記」から新約聖書の一番最後の「黙示録」にいたるまで、聖書には一つのテーマが貫かれています。それはキリストによる罪の贖い(赦し)です。どうしてそんなことがあり得るのでしょうか? 古墳時代の人と戦国時代の人と江戸時代の人と現代の人が同じテーマの統一性のある文書を書くなんてことが可能でしょうか? しかも、それがさらにその後約2000年の間世界中の人々の間で読み継がれるなんて! でも、聖書においてはまさにそれが起きているのです。

聖書はこのように言っています。

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」  第二ペテロ1章20, 21節

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」    第二テモテ3章16節
     

つまり、それぞれの著者が自分の考えを好き勝手に書き留めたのではなく、神から啓示されたことをそのまま書いたからだと聖書は言っています。聖書は神の言葉であると、聖書自身が言っているのですね。

こんな本、ほかにあるでしょうか? この極めて特別で比類なき聖書という本が、「神は愛です」というので私はそれをそのまま受け入れて信じるのです。「イエスは神の子であり人類の救い主である」というので、私はそれを信じるのです。

あまり答えになっていなかったらごめんなさいね。

(2/2/2000)

お返事と、いくつかのご指摘をありがとうございます。

聖書と一口に言っても、ユダヤ教徒にとっての聖書、カトリック教徒にとっての聖書、またプロテスタントの聖書は、含まれている文書の種類が少しずつ微妙に違っていて、プロテスタントがいう66巻からなる「聖書」の形が紀元4世紀になって定まる前には、現在では「外典」扱いされているような文書も含まれていたとのご指摘ですが、それはまさにその通りです。

「神の言葉」であるはずの「聖書」にどの文書が含まれるかを決定したのは、まぎれもない人間たちによる宗教会議であったことは私も否定しませんし、知らなかったふりもしません。可能性としては、本当は神の言葉であるはずの文書が、「外典」扱いされてしまったために「聖書」からはずされてしまったということもあり得る、ということになるのでしょうか・・・

しかしながら、たとえそうだとしても、「外典」を含めても、聖書が長い年月をかけて大勢の著者によって記された書物であることには変わりはないですよね。

また、「神の言葉」のわりには、細かく見ていくと聖書の中には結構いろいろな矛盾があるではないか(という意図だと理解しましたが)というご指摘ですが、それも確かにその通りですよね。印刷技術などなかった当時のことですから、聖書が長い年月に渡り伝承され続けていくためにはオリジナルの文書を手書きで写す(写本)、という方法が取られざるを得ませんでした。写本がさらに別の人によって写され、またさらに写され・・・という過程のうちには、伝言ゲームよろしく、だんだんとその中味が変わってきてしまうことがあったしても少しも不思議ではありませんよね。 実際多少はあったことでしょう。ですから、私は聖書は「原典においては誤謬がない」と言ったのです。なにしろ1600年ですもの。古墳時代から現代に至るまでに相当する年数ですもの。逆に言えば、それにも関わらず、聖書全体を通して読んだときに見事に一貫したテーマが読み取れるということは、本当に驚くべきことだと思うのです。

聖書は科学の教科書でもなければ哲学書でもありません。歴史書としての価値は高いと言われますが、本来歴史書として読まれるために書かれたものでもありません。ですから、聖書の中の記述には科学的に証明出来ないことがあるとか、論理的に筋が通っていないとか、歴史的に不正確な部分があるのではないか(地球や人類のはじまりに関してなど)、という観点からの聖書の批判は、あまり適切ではないだろうと思っています。

実際、科学や理屈や論理では必ずしも説明しきれないことがたくさん出てくるのが聖書です。神様は意図的にそのようになさったのかもしれません。結局神様が私たちに求めているものは「信仰」です。 人間の知恵や理性で考えたとき受け入れられないようなことも、それを神の言葉と信じる信仰によって受け入れることが出来るかどうか、そこが試されているのかもしれません。

以下の御言葉を思い出します。

知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神はこの世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」 

                             第一コリント1章20〜25節

ついでですが、科学者である私の夫が、「科学と信仰」をテーマにして書いたものがありますので、そこにリンクしておきますね。

科学と信仰(by ぼぼるパパ) 

(2/3/2000)

先日アップされたちるりんさんの一番新しい証「生きること、死ぬこと」のなかで、ちるりんさんがこのように書かいておられた。

「『人生最後の1時間に何をするか?』と自問自答したら
 『今 やっている用事を継続しながら 天に帰ります』と
 絶えず語れる「時間の使い方」をさせていただきたい思いです。」

この数日、なぜだかこの3行が頭から離れない。

「限りある命」というと、不治の病に犯されている人にだけ当てはまるかのように思いがちだけれど、考えてみれば、実はこれは生きている人全てに当てはまっているのだなぁ。

私たちは皆「限りある命」を、毎日、毎時間、確実に削りながら生きているんだ。

こんなような詩をどこかで見たことがある。(うろ覚えだけど)

One life to live,             たった一度の人生
Quickly to pass,        あっという間に過ぎ去る
Only the things done for Jesus      ただイエスのためになされたことだけが
Will last forever. 永遠に残る

こんなことを思い出しながら、今日は一日洗面所の壁にペンキ塗りをしていた私だった・・・

                                (2/15/2000)


先週の土曜日に日本でもお馴染みのコミック「ピーナツ(スヌーピー)」の作者であるチャールス・シュルツ氏が亡くなったことは御存じの方も多いと思うが、彼が熱心なクリスチャン(チャーチオブゴッド教団)であったことを御存じの方はどれくらいいるだろうか。

うちの子供たちもスヌーピーが大好きで、ビデオもいくつか持っているが、クリスマスのビデオのなかでライナスが毛布を握りながらクリスマスの本当の意味について語る場面には私も「おや?」と思わされたものだった。決して露骨ではなく、でも明らかに背景には聖書の真理がある・・・ 私はそれを単にキリスト教国アメリカの文化によるものだと思っていたのだが、実は違ったのだ。

今日のシカゴ・トリビューン(シカゴの新聞)の宗教欄のコラムにシュルツ氏の信仰と仕事についてとてもいい記事が書かれていた。そこに書かれていたことで、特に私の心にとまったのは、シュルツ氏がいかに自分の信仰と仕事をうまく両立させ、最高の仕事をするなかで、なおも自然体で聖書の真理を語ることに成功していたということ。

仕事と信仰の両立は、普通の(つまり牧師、伝道師などではない)クリスチャンなら誰でも悩むことであろうが、シュルツ氏のなかではそれが見事に両立し、調和されていたとコラムニストのクローエン氏はいっていた。

ふと映画「炎のランナー」を思い出した。主人公のエリック(だったと思ったが、違うかも)は短距離走の選手で、オリンピック代表にもなるのだが、予選の日が日曜日と重なってしまったため、予選に出ることを拒む。走れば絶対金メダル間違いなしだと言われていたのに彼は礼拝を休んで予選に出るのは間違っていると考え、予選を辞退したのだった。回りは走ってメダルを取ればそれが神の栄光を現わすことになるのだから、別に日曜日の予選に出てもいいのにと思ったのだが、エリックはそうは考えなかった。結果として、彼の友人が自分が出る予定だった中距離の予選の出場権をエリックに譲り、エリックは中距離で見事金メダルを取る。エリックは確かに走ることで神様の栄光を現わした。でも、それは必ずしも「金メダル」のおかげではなかったかもしれない。金メダル間違いなし、と言われていたにもかかわらず、神様を礼拝することを優先させたその彼の決断があればこそ、彼の「走る」ということを神様が祝福し、それによって神様の栄光が現わされたのではないだろうか。もし彼が日曜日の予選に出ていたなら、たとえ短距離で金メダルを取っていたとしても、それは彼の栄光であって、神様のご栄光にはならなかったかもしれないと思うのは私だけ…?

そういえば、札幌オリンピックのフィギュアスケートで銅メダル(だと思った)をとったジャネット・リン。 彼女は当時日本で大変な人気を浴したが、彼女もクリスチャンだった。しかし彼女は本番の演技のとき転倒してしまい、銅メダルに甘んじることになった。彼女は転倒したから神様の栄光を現わすことができなかったのだろうか? そんなことはないと思う。彼女は札幌で出会った多くの人たちに自分のサインと一緒に御言葉をプレゼントし、笑顔でイエス様のことを証ししていたと聞く。

「いい仕事をすること」そのものが神様の栄光を現わすのでなく、その仕事をしている時の姿勢が神様の栄光を現わすのではないだろうか。「いい仕事さえすれば神様に栄光をお帰し出来るから」と日曜日を返上して仕事をしていたら、きっと本末転倒なのだろう。

シュルツ氏のプライベートな部分は何も知らないけれど、きっと彼もいつも神様を優先させる人だったのだろう。神様と共に歩む普段の生活があればこそ、それが仕事のなかにも自然と反映されたに違いない。

(2/18/2000)

覚書:

隠されていることは、私たちの神、主のものである。
しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、
私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

                     申命記29章29節

(2/20/2000)

また興味深いサイトを見つけた。

ドクター・ルークのバイブルクラス

キリスト教の基本的な概念からちょっと深めのトピックまで、幅広い分野にわたって、分かりやすい説明/考察がなされている。

おおっ!と思った記事はたくさんあったのだけれど、そのなかでも特に、「効果的な祈りについて」という項目のなかにあった次の文章・・・

効果的な祈りとは方法論ではなく、神をどれだけ知っているかによります。

あぁ、これは本当にその通りだ。「信仰によって」「信仰にしたがって」よくきくフレーズだけど、これは私たちが信じる時の熱心さとか激しさとかそういう次元のことではなく、「何を」信じているか、「何を(誰を)」知っているか、という次元のことだったんだなぁ・・・
  
目からウロコ。

ほかにも、「徒然なるままに」というコーナーはどの記事も大変興味深かった。ミッション・ラザロの話しには涙ボロボロ。お勧めサイトのいち押しですね。

(2/21/2000)

 (Inspired by Max Lucado)

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群集を帰してしまわれた。群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこにひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。」  マタイによる福音書14章22〜24節

「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。」  ヨハネによる福音書6章16〜18節

あなたは導きを求めて祈りました。何日にも渡って祈り、御言葉を求め、断食もしたかもしれません。そして、主はあなたにその御心を示されました。主が示し、主が導いてくださっている・・・ こんな時、神を愛し神を主とするあなたには、従順をもってその召しにお答えする以外に何をすべきでしょう?そしてあなたは、感謝と喜び、そして何より確信をもって、導かれた方向へと進みました。

「あぁ、それなのに主よ、なぜ今、私はこんなにも苦しみと絶望の淵に立たされているのですか? あなたが示して下さった道ではなかったのですか? イエス様、あなたは一体どこにいるのですか? あなたが私と共に行って下さるのだとばかり思っていました。なぜ私は独りで恐れ、苦しまなくてはならないのでしょう?私はあなたの御声を聞き間違えていたのですか?」

あなたは今、このように祈り叫んでおられるのでしょうか・・・

上記の御言葉はマタイとヨハネのそれぞれの福音書に記されている同一の出来事です。夕方間近になって弟子たちを舟に無理矢理乗り込ませたのは、他でもないイエス様ご自身でした。もうすぐ日が暮れて、風が強くなり湖が荒れ始めるということを、イエス様は御存じなかったのでしょうか? しかも、「イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった」のです! 何と恐ろしいことでしょう! イエス様が導いてくださったのに、肝心のイエス様が一緒にいて下さらないだなんて!

そうか、イエス様って、そういうお方だったのか、導くだけ導いて、あとは荒れ狂う波の狭間に私たちのことをほったらかしにしてしまうような、そういうお方だったのか・・・ あなたはそう言って絶望しますか?

しかし、絶望する前に、ちょっと待ってください。弟子たちを先に舟に乗り込ませたイエス様は、どこで何をしていらしたのでしょう?

イエス様は祈っておられたのです。 誰のために? 何を? 私にはわかりません。でも、イエス様の祈りの中に弟子たちのことが出てこなかった筈がないと思います。

イエス様は今、あなたのためにも祈っておられます。

弟子たちは、漕いで、漕いで、嵐のなかただひたすら漕ぎました。夕暮れから明け方近くまで漕ぎ続けても、わずか4、5キロしか進まなかったとヨハネは書いています。 あなたも同じように感じていますか? 漕いで、漕いで、一生懸命漕いで、でもちっとも前に進まない、今にも波に飲み込まれてしまいそう・・・

でも、思い出して下さい。イエス様は弟子たちの前に姿を現わし、そしてその時、ペテロは荒れ狂う波間を、水の上を、歩いたのです。ペテロが水の上を歩いたのは、嵐が静まる前ではなかったということは興味深いことですね。荒れ狂う波の中、ペテロはイエス様に目をとめて水の上を歩き、それから嵐が静まったのでした。
   
きっともうすぐです。もうすぐ、イエス様があなたのところにも現れて、あなたは水の上を歩くのです。 今はひたすら漕ぐしかないのかもしれない・・・ でも、イエス様はあなたのために祈っておられます。

                                (2/26/2000)

おとといの晩、みんが泣きながら私に言った。

「ママのお誕生日には何か特別なものをあげたいの。ハグとかキスとかラブとかだけじゃなくて、もっと特別なものをあげたいの。でも何をあげたらいいのかわかんない。あたしには何にもあげられるものがない。」

その気持ちだけで十分、とはまさにこのこと。ママの誕生日に普段は出来ないような特別なものを、というみんの気持ちがとっても嬉しかった。

しかし・・・ それではこんなものはどう? と私がいろいろアイディアを出したのだが、「それはいや!」「そんなのはダメ!」どれもこれもみんのお気に召さないらしい。ようやくみんが思いついたのは・・・

「そうだ、ペニヤーダにしよう! ママ、ペニヤーダ買ってきて!」

ペニヤーダとは、子供のパーティーには定版のゲームで、くす玉割りとすいか割りを足して2で割ったようなもの。

「ええ〜、ペニヤーダ? いいよ、ママは別にペニヤーダしなくても。」

口をへの字にして不服そうなみん。 気持ちは嬉しかったんだけど、要するに自分がしたいことをしたかったのね。f(^_^;;;

ママのこと大好きだから、ママのために特別なことをしたい、その気持ちに嘘はないのはよくわかる。でも、ママのことを好きなら、ママが「これをしてくれる?」というものには背を向けて、結局自分のやりたいことを主張するというのは・・・  そんなみんの姿に、神様の前の私自身の姿がだぶった。

「神様、あなたを愛しています! あなたの御名の御栄光のために私に出来る限りのことをしたいのです!」

「そうか、嬉しいよ。それでは、あなたの隣人を愛しなさい。」

「ええ〜〜、隣人を愛する? 嫌です、そんなこと。もっと他のこと、特別なことがしたいのです! 実はね、神様、私、いいアイディアがあるんです。◯◯なんかどうでしょう? 私がこれをすれば、きっとあなたの御名のご栄光を現わすことになると思うんですけど。これが出来るよう、私のために扉を開いてくださいませんか?」

「・・・」

あぁ、身につまされる。

(3/8/2000)

土曜日に、うちの教会のマイロンさんが亡くなられた。2年近くガン他の病で闘病生活を送っておられたのだが、土曜日の朝早く、天の自宅に凱旋なさったのだ。 76歳だった。

今日もたれたお葬式では、別の町で牧師をしている息子さんが司式をされた。

家族を失うのはもちろん悲しいことだけれど、何と力強く希望に満ちたお葬式であったことか。

この2年間というもの、私たちは教会をあげてマイロンさんの癒しのために祈ってきた。ガンが癒されたら、どれだけ神様の栄光が現わされ、どれだけ回りの人々に対しても証しになることか、そう思っていた。しかし、柩のなかで安らかな顔で横たわっているマイロンさんを見て、またその場を満たしている輝かしい「勝利」の香りに包まれて、病の癒し以上にこのお葬式の方が主の御栄光を現わしているのかもしれないと思わされた。

「死」とは、クリスチャンにとって、イエス様が私たちに与えてくださった究極のお約束が成就されたことを意味するのだから。

実は最近、私の母が教会に行き始めた。2年ほど前から教会へ行くことに興味を示し始めていたのだが、直接のきっかけとなったのはぼぼるパパの父の葬儀だったという。
昨日「また教会へ行って来たわよ!」という母と電話で話していたとき、ポロリとそう洩らしたのだ。 彼女にとって、キリスト教式の葬儀に出たのは初めてのことだったらしいが自分にとっては馴染みのある仏式の葬儀と比べ、何かが違うと思ったようだ。「死ぬ時には自分もクリスチャンとして死にたい」 漠然とながらもそんなようなことを感じたらしい。

雨の月曜日。 イエス様の御思いに、自分の心を重ねて祈る。

                                (3/20/2000)


去年の11月だったか、私は日記に「イエス様のための働きとしての翻訳に興味がある」というようなことを書いた。 そしてこのHPにも、少しずつではあるけれど、アンドリュー・マーレイの翻訳を掲載し始めた。しかし、今やネット人口がどんどん増えてきているとはいえ、やはりネットにアクセスのある人は限られている。 御心ならば、私がHPを通して行っている働きがネットに留まるのでなく、さらに新たな扉が開かれることを求めて何となく祈っていた。

「何となく」というのは、自分の心に何か新たな思いが起きたとき、それが自分の肉の思いなのか、神様からのものなのか、すぐにははっきりとわからないことがあるので、勝手な思い込みから神様に対してあらぬ要求をするようなことはしたくない、と思ったからだった。

あれは2週間ほど前のこと、リバイバル新聞の編集部の方からメールをいただいた。私がこの日記に書いているような信仰に関する話しを、「はちこの日記」というタイトルで連載として執筆しませんか、という問い合わせだった。

私はびっくりした。まさに晴天の霹靂。 新聞に連載を執筆するなんて、考えたこともなかった。 これが翻訳の話しだったなら、「おお、神様が扉を開いてくださった!」とすぐに飛びついたことだったろう。でも、翻訳ではなく自分の文章、しかも「はちこの日記」を、というお話しなのだ!

しかし、神様は素晴らしいお方。私が神様の御心を間違えることがないように、私にあらかじめ語って下さっていた。 3/8の日記に書いたことを通して、私が本当に神様のために何かをしたいと願っているのなら、自分がやりたいことを行えるよう求めるのでなく、神様が示して下さることに素直に従うべきだということを教えて下さっていたのだ。

リバイバル新聞の編集部の方からのメールは、私がそのことを教えられた次の日に受け取ったものだった。一瞬とまどったものの、これこそ神様からの私の数カ月の祈りに対する答え、これこそ神様御自身が開いて下さった扉なのだと、私には確信出来た。

考えてみれば、翻訳よりも日記を書く方が私にとっては遥かに楽だし、私が主から語られることをよりダイレクトに表現することが出来る。 神様は私以上に私のことをよく御存じであられるのだなぁ。

そんなわけで、4月から一年間、毎月第一週めに発行されるリバイバル新聞に「はちこの日記」が掲載されることになりました。とはいえ、HPに載せている日記をそのまま流用するのでなく、新聞用に書き下ろすことになるはずです。内容的には普段私が書いていることと変わらないのですが、字数を数えながら文章を書くのは経験がないので緊張します。でも、この一連の流れのなかに神様が介入しておられることがはっきりと感じられたので、その意味ではとても安心して、リラックスしてとりかかれる仕事だと思っています。皆さんにもこの連載のためにお祈りしていだければ感謝です。

4月分の原稿はすでに書いて、オーケーをいただきました。リバイバル新聞を購読しておられる方、どうぞお楽しみに。購読、または一ヶ月の無料試読をしてみたいという方は新聞社の方までメールでお問い合わせ下さい。

                                (3/21/2000)

付記:リバイバル新聞に掲載された「はちこの日記」はこちらのページで読めます。


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