ホーム信仰、希望、愛p. 17

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

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明けましておめでとうございます。中村家も無事に2000年を迎えました。本年もよろしくお願いいたします。

Y2K、ニューミレニアムとのからみで、私とぼぼるパパの恩師とも言うべき上沼先生が、興味深い考察をしておられる。先生のホームページのウィークリー瞑想の欄。
(ちなみにこれはお勧めです。私はこのページの存在を最近知ってから、すぐにブックマークしました。)

12月27日分のウィークリー瞑想で、先生はこのように書いておられる。(先生、無断転載ごめんなさい!)

私の思いは、この2000年の移行を乗り越えたあとに、はたして私たちは次の千年を生きていくための指針を持っているのだろうかということです。千年という単位が、私の心に人生という普遍の課題をもう一度問いかけてくれています。おそらく次の千年紀の早い時期に、人生の目的、生き方についての問いが、哲学、宗教の中心課題としてもう一度問われてくると思います。そしてクリスチャンである私たちがその問いに対して聖書からどのように答えを示していくのかが、もっと大きな課題になると思います。

具体的には、今の自分の信仰の姿勢が自分たちの子どもを通して代々に及んでいくだけのものを持っているのかを自問しています。イスラエルの民は十戒で約束されている千代に及ぶ恵みを信じて生きているからです。千年という時間の単位が、私のなかで神の永遠と今の生き方を思い巡らす契機になっています。
  

これは、私にとってもとても大切な問いかけだ。ひとりで、またぼぼるパパと一緒に、時間をとってゆっくり考えてみたい。

                            (1/1/2000)

今週は、アメリカのアッセンブリー教団では「全国祈祷週間」とされている。うちの教会でも今夜を皮切りに、今週は毎晩祈祷会がある。一年の初めにこうして祈ることに優先的に時間を割き、意識的に主の御前に出て静まるというのはとても大切なことだと思う。

そういえば、去年の祈祷週間では、ぼぼるパパが初日に「悔い改めの祈り」についてリードしたのだった。改めて去年の日記を読み返して、せっかく悔い改めるところから一年を始めたのに、一年後の今、相変わらず高慢で砕かれていない自分がここにいることに気付いた・・・

・・・と書いていたら、寝ていたま〜やが起きて泣いたので、添い寝をしながら、どうして悔い改めたはずなのに私はちっとも変わっていないのか、思いを巡らせてみた。

もしかすると、私たちが(少なくとも「私」の場合)「悔い改め」と呼んでいるものの多くが実は「悔い改め」ではなかったのかもしれない。つまり、自分の罪や、そこから派生する自分の様々な言動に関して「悔い」はするものの、改めることがないままで終わってしまっているのかもしれない。

ふと、最近読み始めたC.S. ルイスの「悪魔の手紙」に書いてあったことを思い出す。

4章で、サタンが人間の祈りに関して、こんなようなことを言っていた。(以下は翻訳ではなく、私なりに理解したことを要約したものです。)

クリスチャンが祈らずに済むように仕向けることが出来るならそれに越したことはないが、彼らの祈りのフォーカスを「神」から微妙にずらし、彼ら自身の「感覚」に向けさせることが出来れば、それだけで祈りを台無しにすることが可能である。つまり、赦しを求めて祈っている時には「赦された」かのように「感じる」よう仕向け、勇気を求めて祈っているなら勇気が与えられたかのように「感じる」よう仕向けるのだ。そうすることで、彼らの祈りのフォーカスは神に祈ること自体から、自分が得ようとしている「感覚」を自分の中に意思の力で造り出すよう集中することへとすり替えられてしまうのだ!

ふぅむ。もしも本当にサタンがこのような策略を持って私たちの心に戦いを仕掛けているのであれば、私が祈りの中で「悔い改めた」と思ったことも、実は悔い改めたかのような「感覚」が私の中に作り出されただけのことで、実際には悔い改めていなかったのかもしれない。結局、いくら私たちが自分の罪を悔やみ、悲しみ、罪のゆえに号泣したとしても、その後の私たちの生き方に変化が起こらなければ、「悔い改めた」ことにはならないのだから。

もう一度、去年のぼぼるパパの勧めに従って、祈り直してみよう。

(1/2/2000)

昨日、「グレース・ライブラリー」を更新した。マーレイの説教集、「完全な明け渡し」からの三つめのメッセージで、「御霊の実は愛」。

聖霊に満たされる生活の実際について、より実践的な観点から考察し、聖霊に満たされているということが、私たちの日々の歩みや言動のなかに、いかに現われてくるのかということについてお話ししたいと思います。

という書き出しで始まる。

このメッセージを翻訳する過程で、私の中での聖霊様に対する認識が一新した。

聖書の中でよく知られている御言葉の一つに「神は愛です」というものがあるが、神様とイエス様と聖霊様は三位一体の神であられるのだから、神が愛ということは、聖霊様も愛ということだ。 つまり、聖霊に満たされるとは、とりもなおさず、愛に満たされるということなのだ。自分の肉の姿、すなわち「自我」と、聖霊様の愛が入れ替わる、それが聖霊に満たされるということになる。
  
マーレイは私たちを励まし、こう勧める。

神があなたに愛の御霊のバプテスマを授けて下さるよう求めなさい。

聖霊様、私を、またこのメッセージを読んでくださるお一人お一人を、あなたが深いところで取り扱ってくださり、愛の御霊のバプテスマを授けてくださいますように。

(1/5/2000)


夕べの聖研、お開きの時間まであと5分足らず、という時になって突然バーバラがこんなことを言い出した。(バーバラは小学校の先生をしている)

「ねぇ、私はね、良い先生になりたいと思って出来る限り努力しているし、その努力にふさわしいだけの結果も得ていると思うの。そんな私が、まわりの先生たちから『バーバラはよく頑張っている。いい教師だ。』って思われたいと思っているって、いけないことだと思う?」

私たちは一瞬、バーバラが何を言い出したのかわからずあっけに取られていたが、リーダーのアルが「何だって?」と聞き直すと、バーバラはもう一度同じことを繰り返した。

「君は、それがいけないことだと思うのかい?」

「う〜ん、わからないけど・・・ でも聖書には、自画自賛はいけない、自分のことは他人に褒めさせよ、みたいなことが書いてあったでしょう?(箴言27:2)自分はよく頑張っているなんて思うこと自体、高慢を生む罪なのかなって・・・」

「なるほど、でも別の箇所ではtake a sober look at yourself とも言っているよ。(ローマ12:3)この箇所は実際以上に自分を高く思うことを警告しているけれど、同時に実際以下に低く思ってもいけないということじゃないのかい? もしも君が実際にいい教師であるなら、ことさらに『私はろくでもない教師です』なんて思う必要はないはずだと思うよ。」

「だいたいね、」ゲイルが口をはさむ。「教会の中って、そういう『false humility(誤った謙遜)』が蔓延してない? ああいうのって、イヤ味なだけだと思うのよね。そういう人に限って実はプライドの塊だったりしてね。」相変わらず彼女は辛辣だ。

ゲイルが言った『false humility(誤った謙遜)』というフレーズを聞いて、ふと先日読んだC.S. ルイスの「悪魔の手紙」の一章を思い出した。第14章だ。この章は「悪魔の手紙」の中でも一番強烈に私の印象に残った章でもあった。ここでルイスは神様が私たちに望んでいる「謙遜」について語っている。

ルイスいわく、神が私たちに願っているのは、必ずしも自分を「低く」思うということではなく、自分の「価値」ばかりに自分の注意を集中させて欲しくないということらしい。神は私たちが自分の目を自分の「価値」からそらし、神に向けるようになることを願っておられる。 一方サタンは私たちが自分のことばかり見て、自分のことばかり心配するよう願っている。それが優越感であろうと劣等感であろうと、結局は同じことなのだろう。

神は人間ひとりひとりを、本当に価値あるものに造られた。そして最終的には人がそれを知り、自然の美しさを見たときに人が神の創造の素晴しさを賛えるように、自分の価値、また他者の価値のことも同じように素直に心から認め、それを通して神のご栄光を見るようになることを願っておられる。しかしそうなるためには、自分で自分は何が出来るとか出来ないとか、どれだけすごいとかすごくないとか、そういうことばかりに囚われていてはいけないのだ。

ルイスは悪魔にこう言わせている。「....We must never forget what is the most repellent and inexplicable trait in our Enemy; He really loves the hairless bipeds He has created, and always gives back to them with His right hand what He has taken away with His left. (我々は、この最もいやらしく、かつ不可解な敵 [神] の性質を決して忘れてはいけない。それは、彼 [神] は自分が創造した、あの毛のない二足動物のやつらのことを本当に愛しているのだということ、そしていつだって、自分の左の手でやつらから取り上げたものを右の手で返すということだ。)」

そういえば、マーレイも言っていたなぁ。神様は、ご自身が私たちに返して下さるつもりのないものを、私たちに明け渡すように要求することなどなさらないのだ、と。とすると、神様が私たちに求めている「謙遜」というのは、自我の明け渡しとも関わってくることなのかなぁ・・・

なんてことをつらつら考えていたら、はっと気付くとみんなが立ち上がって帰る準備をしている。あれ、結局バーバラの件はどういう結論になったのかな? 聞き損なってしまった。f(^_^;;

(1/15/2000)


昨日<葡萄の実>ほん訳ミニストリーで、J.C. ライルの「キリスト者の家庭教育」という文書を見つけた。 (まだ翻訳は途中のようで、現在14章までが公開されている。)

とても厳しいけれど、何かものすごく励まされた。 当り前のことのようで、それでいて目からウロコが落ちるような・・・中でも特に「おおっ!」と思わされたのは、「子育てにおいて何よりも考えなくてはならないのは、子どもの魂である。」という第4章。 その章からちょっと引用すると・・・

疑いもなく、幼いわが子は目の中に入れても痛くないほど可愛いであろう。しかし本当に子どもを愛しているというなら、彼らの魂についてしばしば考えなさい。彼らの永遠の利益とはかりにかけるほど重い利益があってはならない。彼らのいかなる部分をも、不死の部分とひきかえにするほど尊んではならない。この世はどれほど華やかに見えても、いつかは過ぎ去る。丘々は溶け去り、天は巻物のように巻き取られ、太陽は輝くことをやめる。しかし、あなたが愛してやまないこの小さな者らのうちに宿る霊は、それらの万象が失せ去った後も存在し続けるのであり、それが至福のうちの永世となるか悲惨のうちの永世となるかは、(人間的に云えば)あなたしだいなのである。

これこそ、子どものため何をするにも常に念頭に置いておくべきことである。子どもについてどんな処置をとるときも、どんな計画や予定を立てるときも、どんな取り決めをするときも、「これは彼らの魂にどのように影響するだろうか」、という重大きわまりない問いを忘れてはならない。

これはもう圧巻だ。 まったくその通りだ! 子育てというのは、大きなことから小さなことまで、親の側に数限りない判断と選び取りが要求される。その一つ一つに親は悩み、迷う。

しかし、「これは彼らの魂にどのように影響するだろうか」という問いかけは、親が直面するであろう多くの判断と選び取りにおいて、確固たる指標となるのではないだろうか。いや、もちろんそれでもなお迷うことはあるだろうけれど、少なくとも、どの悩みは時間をかけて悩むに値すべきもので、どの悩みはどっちにころんでも構わないような、そんなに重要ではない悩みだ、ということくらいは自分の中に見えてくるのではないかと思った。
  
ライルが勧めるような子育てを、私ごときが100%実践することはとても出来ないだろうな、とは思う。耳に痛いこともけっこう書いてあったし、いかんせん、親が不完全なのだからどうして子供に完璧な模範を示してあげることなど出来ようか。でも、大切なことは大切なのだから、耳が痛いと逃げてばかりもいられない。

わが身を振り替えって反省しつつ、でも妙に前向きな気持ちになれた。<葡萄の実>ほん訳ミニストリーの渡部さん、どうもありがとう!

(1/18/2000)

ふう〜っ。年明け早々いろいろな行事が目白押しで、家のマックの前に座っている暇もなかったのが、やっと一段落ついた。皆さん、明けましておめでとうございます。

不思議なもので、3日坊主になるとわかっていても、正月には新年の抱負みたいなことを思わず考えてしまう。とくに去年はいろいろとあって後半は頭がからっぽな状態だったので今年こそは、と決意をあらたにしたところで、ある方から次のようなメールをいただいた。

「皆さんの2000年のゴールは何ですか。去年の失敗を振り返り、改善を誓うことですか。しかし、考えてみてください。私たちは何かよいことをすることで神様に認めていただく必要はないのです。神様はすでにキリストを通して私たちを認めて下さっており、私たちが代価を払っても得られないものをすでに与えて下さっているのです。私たちは、自らをからっぽにして神様の恵みをただ受け取ればそれでいいのです。」

聞き慣れたメッセージのはずなのに、なぜかとても新鮮だった。第一歴代誌のなかで、ダビデ王が主のために家を建てようとすると、主が「いやその必要はない。むしろ私があなたのためにひとつの家を建てよう。」とおっしゃるくだりが思い出された。何かをなしとげるのは自分ではなく神様なのだ、と思いなおしたとたん、頭の中はあいかわらずからっぽだけれど、気持ちの中にちょっぴりゆとりができたように思う。むしろ忙しさのせいで自分自身のことから目をそらすことができて、生活のバランスはよくなっているかもしれない。これも神様の恵みなんだろうね、きっと。 (ぼ)

(1/20/2000)

アメリカにも日本の確定申告に相当するものがあるが、日本との違いは、アメリカでは収入のある人は(確か年間で$5000以上)全て個々に申告しなくてはいけないことになっていることだ。それは外国人にも当てはまり、大学院生の頃はTA(Teaching Assistant)をやることで毎月わずかながらのお給料をもらっていたのだが、それに対してもしっかり税金がかかり、しかも確定申告の時期になるとわけのわからない書類を、文字通り泣きながら準備するのが大変な苦痛だったことが今でも忘れられない。

アメリカでは教会などの非営利団体への献金/寄付は税金控除になる。 そのため、献金を受け取った非営利団体は税務署と献金者にその年度の全献金額を記した書類を提出することになっている。今年も、教会や他の宣教団体から、私たちが去年一年間にどれだけ献金したのかを知らせる通知が送られて来た。

恥ずかしながら、私とぼぼるパパが「什一献金」を実践するようになったのはシカゴに越して来てからだった。それまでは毎週、適当な額を適当に献金していただけだった。しかしある時、ぼぼるパパと私とそれぞれに、「この家庭を神様に捧げ、神様に導いていただこうと真剣に思うなら、私たちはまず『献金』に関しても見直しをしなくてはいけない」という思いが強く与えられたのだ。私たちが心から、「神様が私たちを導き支えて下さることを信じます、神様に信頼します」と告白するのであれば、その告白が正直なものであることを具体的に示すのが献金ではなかろうか、家計というはっきり数字に現われてくる部分で神様を信頼出来ないのであれば、どうしてそれ以外の目に見えにくい部分においても神様を信頼することができようか、私たちはそう思ったのだ。

ちなみに、「什一献金」とは、必ずしも厳密に収入の十分の一を献金することを指すとは思わない。旧約聖書の時代では、「十分の一」は神様がイスラエルの民に示した額であったけれど、イエス様の十字架によって恵みの時代に生きている私たちは、厳密な「十分の一」にこだわる必要はないと思う。しかし、神様ご自身が「十分の一」というガイドラインをくださったのなら、私たちもまた、まずはそこから始めようと、私とぼぼるパパは考えた。

ぼぼるパパのお給料は毎月月末に振り込まれるが、その次の日曜日に振り込まれた額の十分の一を「什一献金」として、そしてさらに毎月特定の金額を「宣教献金」として、私たちが出席している教会に捧げることに決めた。(その後それ以外にも私たちが個人的にサポートしているいくつかのミニストリーにも月々特定金額を献金するようになった。)

正直なところ、始めのうちは、月収の十分の一プラスアルファを月の始めにまとめて捧げるのには緊張した。でも、主にお捧げするものなのだから、毎月残った分からこれくらいなら大丈夫、という金額を捧げるのでなく、月の始めにまず主に捧げる分を取り分けて、残った分で生活すればいいのだと、ぼぼるパパとも二人で話したものだった。

主は忠実なお方。マラキ書3章10節にもこのようにある。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。
 こうしてわたしをためしてみよ。--万軍の主は仰せられる。--
 わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を
 あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

実は、何年か前になるが、毎月の支出が収入を上まってしまい、どう切り詰めても貯金をくずしていかざるを得ないような状況が数ヵ月続いたことがあった。このままだと1年もしないうちに貯金がなくなってしまうわよ、と私は思わずぼぼるパパに愚痴ったことがあるのを覚えている。 しかしぼぼるパパは献金を減らそうとはもちろん言わなかった。

今にして思うと、あれは神様が私たちを試しておられたのかもしれない。神様は什一の捧げ物をもって神様をためしてみよと言われるけれど、一方で、私たちが捧げ物をするときの動機や心の在り方も、ご覧になっておられるのだと思う。

その後、いつの間にか私たちは経済的危機から脱していた。

「月収の十分の一プラスアルファを月の始めにまとめて捧げる」ことを何年も続けるうちにそれが私たちにすっかり染みついて、以前のような緊張や「惜しい」という思いはもはやまったくなくなった。純粋に、捧げることが喜びになった。金額の問題ではない。自分にとっての初物を、あらかじめ心に決めた分、まず主のために取り分け、それを忠実に捧げる、それが大切なんだと思う。第二コリント9章6、7節だ。

今年も教会から送られてきた昨年度の私たちの献金額に関する書類をみながら、この一年も経済面で主に忠実であれたこと、またそれ以上に神様が私たちを全ての面で支え、御言葉の通り「あふれるばかりの祝福」を私たちのうえに注いでくださったことを覚え、ただ感謝。

                                (1/26/2000)

D.L. ムーディ(Moody: 今から100年ほど前にシカゴで大変用いられた伝道師)のメモより

愛からみる御霊の実:

喜びは歓喜する愛
平安は静かな愛
寛容はあきらめることのない愛
親切は耐える愛
善意は行動に移された愛
誠実は戦いにある愛
柔和はしつけられた愛
自制は訓練の途中の愛

(1/29/2000)


わりとよく、というか、まぁ、時々なんだけど、「あぁ、神様は今、私にこのことについて学ばせようとなさっているんだな」と妙にはっきりと感じることがある。

一つの真理に関して、いろんな角度から、これでもか、これでもか、と言わんばかりに、繰り返し同じテーマで何かを示される。

(いや、神様はジェントルなお方だから、「これでもか!」なんていう強い口調ではないのだけれど。) 

いつだったか、神様の「お名前」についてかなり長い間学ばされ続けたことがあった。その時学んだことを、思い出しつつまとめて書いているのが、私のHPのなかで公開している「The Great I Am」のページになっている。また、「神様の御国」について繰り返し学ばされていた時期もあった。

今、学ばされているように感じているのは、う〜ん、うまく言葉に出来ないのだけれど、あえて言えば、

神様=イエス様=聖霊様=愛

ということだろうか。 

今さらのように、「神は愛」であるということ、「イエス様の似姿」に変えられるということ、そして「聖霊に満たされる」ということの意味について思わされている。

どうか、今の私にとって必要なことを、十分に学びとることが出来ますように。

(1/30/2000)


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