ホーム信仰、希望、愛p. 16

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

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今日のこの感動、また何とも言えない畏敬の念を、何と書き記したらいいのだろう。

夕拝で、エミが聖霊のバプテスマを受けたのだ。

エミに対してだけでなく、私の中でも神様はとても重要な働きをしてくださったが、今夜はとりあえず、記録のために何が起きたのかを客観的に書き留めておこう。

今日の夕拝はいつになく聖霊様のご臨在が強く感じられるものだった。こういうことは時々あるのだけれど、聖霊様のご臨在が強く感じられるとき、うちの牧師は式次第を決して急がない。十分に時間をとって、賛美と祈りをもって神様を待ち望む。神様は、私たちが霊と真理をもって礼拝するにふさわしいお方。自分たちが計画していたことを遂行するよりも、聖霊様がなさろうとしておられる御業のために、私たちのアジェンダを明け渡し委ねることを、うちの牧師は厭わない。今夜も彼は結局説教をしなかった。「私が1時間かけて説教しても出来ないことを、聖霊様は3分ですることが出来るお方です。今夜ここには聖霊様の特別な臨在が感じられます。彼にこの時間を明け渡しましょう。」そう言って。

私たちはみんな心から神様を礼拝した。ある者は立って両手をあげ、ある者はひざまずいて。

そして夕拝が終わりに近づいたかなと思ったとき、ダグ牧師がこのようなことを言った。

「今夜、ここにはお子さんを連れて礼拝に来ている方たちが随分おられますね。神様は子供たちを祝福することを願っておられます。今夜、子供たちのために祈ろうではありませんか。」

そしてダグ牧師は聖霊のバプテスマを受けたいと思う子供たちは前に出て来てくださいと招き、かなり大勢の子供たち(小学生から高校生くらい)が前に出ていった。エミはといえば、実は礼拝中、ずっと本を読んでいて、まわりで起きていることには無関心、といった様子だったのだが、私がエミをつっついて、手を取って前に連れていった。 私は今までエミに聖霊のバプテスマについてはっきりと説明をしたことはない。異言の祈りは、親やほかの大人がしているをいつも見ているので、違和感はなかったろうと思うが、それが自分にも関係があるとは思っていなかっただろう。

前に出てきた子供たちの後ろにはそれぞれの親が立ち、牧師たちが一人一人の子供に油を塗りながら祈り始めた。私はエミの耳元で「手を上げて祈ってごらんよ」とささやいたのだが、彼女は「ええ〜、やだぁ。」まぁいいや、と思いつつ、私もエミの後ろに立ち、エミに手を置いて祈り出す。隣に立っていた11歳のマリアは祈りが始まるや否や、涙をボロボロこぼして泣き出した。身体がガクガクふるえ、聖霊様のご臨在が彼女の上に強く臨んでいるらしいのが、私にもよくわかった。一方エミは、ポケっとそこに突っ立っている様子。私は後ろにいたので、エミの表情などはよくわからないかった。そのうちエミの順番が来て、ロブ主任牧師がエミの額に油を塗り、祈り始める。そしてエミにも「声を出してイエス様を賛美してごらん」と声をかけていた。

「そう、そうだよ。それは聖霊様が言葉を与えて下さっているんだよ。」ロブ牧師がエミに語りかけている。ええっ、うそっ!と思い、そっとエミの顔を覗き込んでみると、エミがポロポロ涙を流しながら、異言で祈っているではないか!!!!

ロブ牧師はそのまま次の子供にうつった。私はエミと一緒にさらに祈っていた。(その最中、神様は私にも多くを示されたのだが、それはまた別の機会に。)次にユースパスターのアル牧師がエミのところに来て祈ってくれた。随分長く祈ってくれていた。そしてその次に、ハワイから来ているダグ牧師がエミの前に立った。しばらく祈ってからおもむろに油を取り出すと、「エミ、これからあなたの手に油を注ぎます。それは、エミのこの手が祈る手となり、病気の人や困っている人、悩んでいる人、励ましの必要な人には手を置いて、あなたが祈る器となるためです。聖霊様がそのように祈りなさいと、今私に示されたのですよ。」そう言ってエミの小さな手のひらに油を塗り、続けて祈って下さった。(;_;)

エミは決してキツネつきのように(!?)恍惚状態になっていたわけではなかったし、かといって単に大人の真似をして異言で祈るふりをしていたわけでもなかったと思う。何だか私にも信じられない。 (超不信仰な親・・・ f(^_^;;;  )

帰宅してきたエミは妙にうきうきしていて、シャワーを浴びながら、鼻歌まじりに「ハレル〜ヤ〜ハレル〜ヤ〜! プレイズザロ〜〜〜ド〜!」と歌っているのが聞こえてきた。聖霊様に満たされ喜びにも満たされているんだなぁ。(^^)

エミが寝る前に一緒に祈った。その時、サムエルの話しをした。神様がサムエルがまだ小さかったとき、サムエルの名前を呼んで、サムエルと親しく交わりいろいろなことを教えて下さったことなどを話しながら、「もしもエミも、神様が『エミ、エミ』と呼ぶ声が聞こえたら、『はい、神様、私はここにおります、お語りください』ってお返事しようね」と励ました。エミはとっても嬉しそうにうなづいていた。

本当はもっと沢山書きたいことがあるのだけれど、とりあえず今日はここまでにしておこう。

                            (12/5/1999)


マーレイの翻訳のふたつめ「聖霊のために聖別される」をアップした。神様の心の叫びが聞こえてくるような、非常に厳粛なメッセージだった。 私が先週これを翻訳したのは偶然だったのだろうか、それとも、聖霊様が私に何かを語るためにそのように導かれたのだろうか・・・

私はここしばらく、子育てのことで、特にエミのことで随分悩んでいた。決してエミが悪い子だとか問題児だというのではない。むしろその逆で、あの子は何でもよく出来るし、素直で従順で、every parent's dream といえるような子供だ。ただ、私とは性格が正反対で、私はエミの行動や反応が理解できず、しばしば苦しい思いをしていた。自分のお腹を痛めて生んだ子供でありながら、その子を理解できないという思いに襲われるのはとてもつらい。みんの行動パターンは私にそっくりなので、何をしても、ある面受け入れ易い部分があるが、エミはたとえ悪いことをしているのでなくても、理解できないというただそれだけで、私の中で彼女を厳しく批判したり拒絶する部分があったような気がする。

夕べもそんな思いが私にはあった。エミは性格的にとてもドライなのだ。みんならともかく、エミが聖霊のバプテスマを受けるなんて、まさかね、そう思いながら前に連れていったのだ。もちろん理屈では聖霊のバプテスマとその人の性格は関係ないとわかっていたけれど、でも何となく、あまり期待していない私がいた。

でも聖霊様はエミに触れてくださった。エミだけでなく、私にも触れてくださった。

エミと一緒に祈っているとき、私の心に強く迫ってきたのは「Separate Emi unto Me!」という聖霊様の御声だった。「私のために、エミを聖別しなさい」これは、私が翻訳し終わったばかりのマーレイのメッセージのテーマでもある。翻訳したばかりだから私の記憶に新しく、それでそんな声が聞こえてきた気がしただけかもしれない。いや、違う。翻訳したメッセージを通して、またその場に強く臨まれた聖霊様のご臨在を通して、私に語られた主の御声はこれだったのだ。

聖霊様は私に示された。私がエミに対して犯してきた数々の罪を・・・ そしてそれはエミに対してだけでなく、神様ご自身への罪であったことも・・・

「私のために、エミを聖別しなさい!」 聖霊様が何度も私に語られた。

「あぁ、主よ!」泣きながら応答する私。「エミをあなたのために聖別いたします。私の自我が今までエミを縛ってきたことをお許しください。エミの知性、エミの才能、エミの性格、エミの存在の全て、あなたのものです。あなたのご栄光のためにエミを用いてください。」

私と聖霊様とのやりとりを知るはずのないアル牧師がその時、私たちの後ろに来てこう祈った。

「束縛から解放してください!」

そしてダグ牧師も来てエミの手に油を注いだ。エミが祈りの器として用いられるようになるようにと。

あぁ、神様が私に示し、語ってくださったこと、とても言葉には言い尽くせない。

今日、私はエミのピアノの先生からエミのことで叱られた。エミの目の前での出来事だった。

「エミは才能はあるのに、忍耐がたりないから困ります。ピアノの上達は、日々の地道な努力の積み重ねによるのです。それなのにエミは、いっきにうまく弾こうとするから、結果として回り道になってしまうのに、それを理解してくれません。先を急ぎ過ぎるのです。もっとゆっくり、基本からしっかり固めていかなくては上達出来ませんよ!」 私は何度も先生に頭を下げた。

他人からは褒められることしか知らなかったエミにとって、結構ショックだったかもしれない。今までの私なら、すぐにカ〜っとなって、こっぴどくエミを叱るところだったろう。

しかし、帰宅途中、先生がエミについて言ったことを心の中で繰り返しているうちに、だんだん笑いがこみあげてきた。

「やだなぁ、エミったら。 私の子供の頃にそっくりじゃないの! 変なところが似て!」

エミは私にそっくりだ、そう気がついたとき、急に聖霊様の優しいご臨在を感じた。

今まで、エミは私に似ていない、私と正反対だという思いに悩まされていた私だったが、その心の鎖が音を立てて解き放たれたようだった。

これらの一連の出来事の背後にある、深い意味を、恐らく私はまだ十分理解出来ていないと思う。

ただ今の私にあるのは、言葉に言い表せない感謝と喜び、解放と自由、そして愛。

あぁ、愛する主よ、私をもっともっとあなたの御元に引き寄せてください・・・

(12/6/1999)

今日の聖研の時間に学んだこと。(相変わらず「使徒の働き」から学んでいる。)

使徒の働き18章24〜6節:「さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。」(ボールド体 はちこによる。 以下同様)

アポロは霊に燃え、イエス様のことを「正確」に語り教えていたけれども、にもかかわらず、彼にはまだ足りないところがあった。このアポロに足りなかったのは何だったのか? 聖書は彼は「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」と言っている。

マタイの3章11節では、バプテスマのヨハネ本人がこう言っている。

「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」

「使徒の働き」に戻り、先に読み進むと19章1〜7節にはこのようにある。

「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか。』と言うと、『ヨハネのバプテスマです。』と答えた。そこでパウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』と行った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々はみなで十二人ほどであった。」

ここに出てくる「弟子」たちは、もちろんいわゆる使徒(十二弟子)ではなく、恐らくアポロがエペソに来たときに、アポロのもとでイエスを信じ、イエスの教えに従うようになった人達のことだと思われる。 ところが、アポロはイエスについて知っていることを正確に語り教えたものの、「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」ため、アポロの働きを通して救われた人々もまた、ヨハネのバプテスマしか受けておらず、「聖霊の与えられることは、聞きもしなかった」という。 パウロがこのエペソに来たときに、そこで出会ったクリスチャンたちにまず「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と質問したという事実は興味深い。 また、前述の18章24〜6節でも、アクラとプリスキラが、イエスについて正確にかつ雄弁に語っていた主のしもべであるアポロに向かって「神の道をもっと正確に」説明したという事実も興味深いと思う。

ここから読みとれることは何だろうか? 一般的なキリスト教の教義では、人はみな、イエス様を救い主として信じ、主として受け入れたときに救われ、そして私たちの中には聖霊様が内住してくださるようになると教えられている。私の教会でもそう教えているし、福音主義の教会ならどこでもそうだと思う。しかし、パウロはすでにイエス様を信じ受け入れ、イエスの「弟子」となった者たち、内住の聖霊様をすでに頂いている者たちに向かって「聖霊を受けましたか」と聞いているのだ・・・

私の教会の主任牧師であるロブ牧師は、今夜、力強くこう語った。

「私たちがイエス様を救い主として、また主(Lord)として信じて受け入れたとき、聖霊様は私たちの内側に入って下さり、新生(regeneration)の働きをしてくださいました。それは、私たちがイエス様を信じた信仰により、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命をいただくようになるためでした。しかし、イエス様が私たちに与えて下さろうとしているのは、そこでおしまいではないのです。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。・・・ 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』(使徒1:4,5, 8)  イエス様は、私たちイエスを信じる者ひとりひとりが力強い主の証人となるために、さらなるお約束をしてくださいました。それが聖霊のバプテスマなのです。『この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』(使徒2:39) もしもあなたがたの中でまだ聖霊のバプテスマを受けていない方々がいるのでしたら、すでに自分がいただいたものだけで満足しないでください。イエス様はもっとお与えになりたいと願っておられるのです。イエス様が下さろうとしているものを、全て受け取ってください!」

あぁ、私も、イエス様が私に下さろうとしているものを、もっともっといただきたい。もっともっと求めたい。聖霊様が私の中で始めて下さった働きが、完成されるその日まで・・・

今夜、パウロと共に、自分自身のために、またこの日記を読んで下さっている全てのクリスチャンの方々のためにこう祈ります。

こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
 また、愛に根差し、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さが
 どれだけであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
 こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。
」  

                                       エペソ人への手紙3章14〜21節

(12/8/1999)

随分前にこんなことがあった。ある宣教団体での話し。(実話)

その宣教団体は、運営のための資金が底をつき、経済的には絶対絶命の大ピンチにあった。職員たちは集まり会議を開いた。

「どうしたらいいでしょうか。このままでは来月からの活動は何も出来ませんよ。」
「やはりここは、大々的に献金のアピールをするしかないでしょうね。」
「そうですね、今までに大口の献金をしてくださったことのある個人や教会、またサポーターの方々に、現状を説明する手紙を書いて、献金していただくようお願いすることにしましょう。」

すると一人の職員が静かにこう言った。

「ちょっと待ってください。 人に頼る前に、まず神様にお願いしようではありませんか。この働きは神様が始められた働きなのですから、神様がこのまま放っておかれるはずがないと私は信じています。 祈りましょう。みんなで断食して祈りましょう。」

皆はシーンとなった。祈りましょうと言われて、嫌です、祈っても無駄です、とは言えない。

「・・・そうですね。 ではまず祈りましょう。」

次の日のお昼休みから、職員たちはみな昼食を抜いて集まり、その時間を祈りに費やすことになった。

祈り始めてほんの数日後、職員の一人が手に封筒をひらめかせながらオフィスにかけこんできた。

「これを! これを見て下さい!」ひらめいていた封筒の中味は数百ドル相当の小切手だった。

それ以降、次々と献金が送られてきたり、出るはずの出費が必要なくなったり、ということが連日のように起こり、いつの間にかその団体は経済的ピンチから脱していた。

                      ***

それから、パプアニューギニアの宣教師の先生から聞いた話し(また聞きだけど)。
  
宣教師の先生と、土地の人二人が小さな船にのり、川下の大きな町に医療品などの買い出しに出かけた。村を出るとき、宣教師は一緒に行く土地の人に何度も念を押してこう言った。

「いいですか、帰りの分の燃料を積み込むのを決して忘れてはいけませんよ。行くときは川を下るだけですから燃料はなくても大丈夫ですが、帰りはそうはいきませんからね。絶対に燃料を忘れないでくださいよ!」「はい、先生。大丈夫です。わかっていますから。」

3人は町へ行き、必要な買い出しを済ませてからまた小船に乗り込んだ。しかし、船を作動させようとしても、ビクとも動かない。宣教師は二人に尋ねた。

「燃料はどうしました?」

二人は顔を見合わせてこういった。 「忘れました。」

「忘れた!?」宣教師は顔を真っ赤にして怒りにふるえながら言った。「あれほど念を押して言ったじゃないですか、絶対に忘れないようにって。どうするんですか、このままでは村に帰れませんよ!」

「先生、どうしてそんなに怒るんですか。先生はいつも言っているでしょう? 天のパパゴッドは私たちが必要なものは何でも与えて下さるって。 パパゴッドにお願いしましょうよ。」

宣教師は真っ赤な顔をふるわせたまま絶句し、しばらくして息をついてからようやく言った。
 
「そうですね。でもあなた方が祈って下さいよ! 私は知りませんからね。」

二人は早速祈りはじめた。

「天にいらっしゃるパパゴッド、私たちが燃料を持って来るのを忘れてしまったので、宣教師の先生が怒ってしまいました。どうか先生の怒りを癒してください。それから、燃料がないと船が動かないので私たちは村に帰れません。でもパパゴッドは何でも出来ますから、この船を動かして下さいますようお願いします。 ありがとうございます。」

それから二人が船のエンジンを入れると、燃料の入っていない船はブルブルと音を立てて動き出した。 三人はそのまま無事村に帰り着くことが出来た。

                      ***
  
・・・どうしてだろう? なぜか今日は、朝からこのような話しばかり次々と思い起こしている。

朝食の置かれていないテーブルとお腹をすかせた大勢の子供たちを前に、食前の感謝の祈りを捧げたら、ガラゴロと音をたてて馬車いっぱいの食料が送り届けられた、というジョージ・ミュラーの証は有名だが、このようなことはジョージ・ミュラーの専売特許ではないのだ。今の時代でも、似たような証はたくさんあるはず。

もしかしたら、今この日記を読んでいる方の中に、神様の奇蹟を必要としておられる方がいるのかもしれない。 だとしたら、私もあなたと一緒に祈ります。神様の奇蹟が、今日あなたに触れて下さいますように。主のご臨在が、御力が、愛が、今日、あなたにとってリアルなものとなりますように。主があなたの必要を満たして下さいますように。イエス様の御名によって祈ります、アーメン!

(12/14/1999)

5歳のみんは、まだ字が読めない。アルファベットはわかるけれど、単語になると、もうお手上げだった。つい二日程前の晩にも、一緒に幼児向けの聖書を読んでいて、とても簡単なので少し読ませてみようかなとトライしてみたのだが、全然できなくて私もちょっとがっかりしていた。

ところが今夜、パパと一緒に聖書を読んでいたみんが、突然かなりスラスラと読み始めたのだ!

「I can read! I can read!」 本人もそう言って興奮しながらキッチンで洗い物をしている私のところに走ってきた。

「どれどれ、読んでみせてよ。」手を拭きながらみんとソファに腰掛け、聖書の最初のページを開く。

「My name is Adam. What do I see? I see the bright sunshine God made. And God says, "It is good!"」

第一ページめに書いてあったその3行を、単語一つ一つを指でおさえつつ、かなりスラスラと読むではないか。 簡単な文章だから、読んでいるのではなく、丸暗記してしまっただけかもしれない、そう思いながら2ページめを開く。

「I see the moon and the stars God made. And God says, "They are good!"」

2ページめもクリア。 またページをめくる。

「I see the flowers and the trees God made. And God says, "They are good!"」

「I see the fish and the birds God made. And God says, "They are good!"
 I see my animal friends God made. And God says, "They are good!
 I see Eve, the woman God made.... I even see the ME God made! And God says,
  "This is all VERY GOOD!" God made you, and God made me, and so many good things to see!」

驚いた! 一つめのお話し、全部読めた!ところどころ詰まりながらも、なんとか読めた! ほんの二日程前までは、全然読めなかったのに!

「どうしたの、みん? どうして急に読めるようになったの?」

「Well, last night when I was sleeping, God said, "I will help you read the Bible!"」
  (あのね、夕べ寝てたらね、神様が「聖書を読めるように手伝ってあげよう」って言ったの)

私が絶句していると、みんは宙に向かってこう言った。

「What, God? Oh, I know! Thank you!!」(なぁに、神様? あぁ、そうね。ありがとう!)

「何、どうしたの?」

「God just said, "I'm very proud of you!"」(神様が今私に、「とても良く出来たね、偉いよ」って言ったの)

もしかしたら二日前にみんが全然読めなかったとき、私があからさまにがっかりした顔をしてしまったので、みんはそれを気にして神様に聖書を読めるように助けてくださいってお願いしたのだろうか。それで神様がみんのお祈りに答えて、みんを助けてくださったのだろうか。神様から「聖書が読めるように助けてあげるよ」と約束をしてもらったみんは、俄然自信がついてそれでこんなに突然読めるようになったのだろうか・・・

なんだかわからないけれど、みんの信仰には本当にいつも驚かされる。 私にとっても、神様がこのくらいリアルなお方であれば・・・

(12/19/1999)

覚書:

「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。
 あなたは神を待つべきなのだ。」  (ヨブ記35章14節 新共同訳聖書)

(12/21/1999)

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、
 永遠の父、平和の君』と呼ばれる。
 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
 さばきと正義によってこれを堅く立て、
 これをささえる。今より、とこしえまで。
 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」 
                    イザヤ9章6、7節

今年の漢字に「末」という字が選ばれたというニュースを先日聞きました。その理由は、1999年という世紀末、ミレニアム末を迎え、「末広がり」「世も末」というところから来たのだとか。「末広がり」はともかく、「世も末」とは何とも暗い連想ではありませんか。

しかし感謝なことに、クリスチャンには希望があります。

神のひとり子であるイエス様が人となってこの地上に来られたのです。今この地上に生きている私たちには、確かにさまざまな患難はありますが、上記の御言葉に記されているように、神様はイエス様をこの世に送られたとき、こんなにも素晴しいお約束を与えてくださったのです。しかもそれは、「万軍の主の熱心」によって成し遂げられる約束なのです。英語の聖書ではその部分は「The zeal of the Lord of hosts will perform this.」となっています。

The zeal of the Lord!!

神様は、約束してしまったから仕方がないと嫌々ながらするのではなく、機械的に義務を果たすのでもなく、zeal(情熱、熱情、熱心)をもってその約束を成し遂げて下さろうとしておられるのです。何と感謝なことでしょう!

クリスマスが素晴しいのは、街中が賑わい美しく飾りつけられるからではなく、パーティー三昧やプレゼント交換の時期だからではなく、家族が集まって一家だんらんを楽しむからでもないのですね。

2000年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋でひっそりと生まれたイエス様。その背後には万軍の主の熱心があった・・・
 
今日、万軍の主の熱心があなたを励まし、力づけ、なぐさめ、希望と喜びと平安を与えてくださいますように。

(12/24/1999)

またマーレイの翻訳を少しずつ始めた。第三弾は「御霊の実は愛」。相変わらずのマーレイ節が効いている。訳していて息苦しくなる。

今日訳していた箇所にこんな部分があった。(まだβ版ですが)

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あなたはヨハネが言ったことをご存じでしょう。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられます。」(訳注 第一ヨハネ4:12)つまり、私たちには神を見ることは出来ないのですが、その代わり、私の兄弟を見ることなら出来、そして私が彼を愛するなら、神は私の中に住まわって下さるのです。それは本当に真実ですか? 私には神を見ることは出来ず、しかし私は兄弟を愛さねばならず、そうすれば神が私の中に住んで下さる? 兄弟を愛することこそ、神との真実の交わりを持つ方法なのです。ヨハネは最も厳粛なテストとして、さらにこのように言いましたね。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(第一ヨハネ4:20)ここに兄弟がいます。最も愛し難いような男です。あなたは彼に会うたびに憂鬱になります。彼はあなたとは正反対の性格で、あなたは彼が苦手だと思っています。しかしあなたは彼と共に主の働きに関わらなくてはなりません。彼は大変ずぼらで、とてもミニストリーには向いていないような人です。あなたは言います。
 
「こんな人は愛せない。」

ああ、友よ。あなたはキリストが何にもましてあなたに教えたいと願っておられるレッスンをまだ学んではいないのです。彼にはありのままの姿でいさせなさい。あなたはそれでもなお彼を愛すべきです。愛はいつでも、一日中、御霊の実であるのです。そうです、お聞きなさい。もしも人が目に見える兄弟を愛することが出来ないのなら、もしもあなたが目に見える到底愛し難いという人を愛することが出来ないのなら、あなたはまだ見たことのない神を、どうやって愛せるというのでしょう? 愛に満ちた神について麗しい思いを抱くことにより、自分で自分を欺くことは出来ます。しかしあなたは主にある兄弟を愛することで、神に対するあなたの愛を証明しなくてはなりません。これこそが、神があなたの神への愛をはかる基準となるものなのです。もしあなたの心の中に神への愛があるのなら、あなたは兄弟をも愛するはずです。御霊の実は愛です。
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教会の中でも外でも、クリスチャンたちが集まって、共に主のために何かを為そうという時、一番のチャレンジはもしかすると、「互いに愛し合う」ということかもしれない。イエス様が私たちに命令した「互いに愛し合いなさい」というのは、一つの目的のためにとりあえず一致して働きなさい、というような表向きのことではなかったと思う。神様がありのままの私を愛し受け入れてくださったように、私もまたありのままの兄弟姉妹を愛し受け入れなさい、そういうことだったのだと思う。しかも、「これは厳しいチャレンジですね」で済ませる問題ではない。もしも私が目に見える兄弟姉妹を愛せないのなら、私の中には神様への愛もないことになるのだと聖書は言っているのだから。

しかしマーレイのメッセージの素晴しいところは、ガガーンとなるような事実を目の前に突きつけておしまいにはならないところ。(続きはお楽しみに)

あぁ主よ、私の心を探ってください。あなたの御前にある、私の真の姿を示してください。
そして私があなたの御心のままに悔い改めをすることが出来ますように。あなたの愛の御霊で私を満たしてください。

(12/28/1999)




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