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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] 今、水曜日の聖研でずっと使徒の働きから学んでいるのだが、昨日は15章から、教会内でのコンフリクトとその対処の仕方、というようなことを学んだ。 15章の前半では、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われないと主張する人々と、救いはただイエス様の恵みによるものだと主張する人々の間で、異邦人の救いに関して生じた対立が描かれている。
およそ教会の中での出来事としてはふさわしくなさそうなことだけれど、聖書にはしっかり記述されている。 さらに15章の後半では、パウロとバルナバの間にコンフリクトが起きている。
実はクリスチャンって、自分たちの間にこのような激しい対立が起きたり、ましてや一致をみずに「別行動」ととるようになることを極端に嫌う傾向がある。 でも、たとえばこのパウロとバルナバの場合をみると、「別行動」を取った結果、ミニストリーの効率が2倍になり福音宣教がスピードアップしたことがわかる。 うちの牧師がよく言うことなのだが、私たちは時には「一致できない、ということについて一致しなくてはいけない(agree to disagree)」ことがある。そしてたとえ別行動をとることになっても、それぞれが主からの召しに忠実に働くのなら、結果的に益々多くの実を結ぶことになる。 そういえば、よく「キリスト教にはなぜそんなに多くの教派/教団があるのですか?」と聞かれる。多くの教派/教団があることが、いかにもクリスチャンの間に一致がないことの象徴のように思われたりする。(実際そう思っているクリスチャンも少なくないかもしれない。) しかし私は、多くの教派/教団が存在していることは、この地上での福音宣教がより効率よくなされるために、大変結構なことなのではないかと思っている。 そもそも、様々な教派/教団が存在しているからといって、必ずしもそれだけ異なる多くの「教義」が存在しているということにはならない。単に歴史的、地理的理由によって新たな団体が「教派/教団」として設立されていることも多いのであって、クリスチャンの間の「不一致」の現われというわけではないのだ。地球上に存在している全ての教派/教団、教会の「頭」はキリストなのだから、そこにはちゃんと「一致」があるのだ。 さらに、これとは違う理由で、教会の中に「分派」が起こるのもやむをえない、と聖書が言っている箇所がある。
以前日記で異端についてちょっと書いたことがあったが、聖書には後の時代(つまり今頃?)になると、誤った教えが入ってきて多くのクリスチャンが信仰から離れるようになるというような預言がなされているが・・・ オー、ノ〜! と書いていたらま〜やが起きて泣き出しちゃった。 もう行かなくちゃ。どうせこのあたりは蛇足かなとも思ってたので、今日はここまで。 (11/4/1999) あるMLで、C.S.ルイスの代表的著作「キリスト教の精髄(Mere Christianity)」のはしがきにちょっと書かれていた「クリスチャン」という言葉の定義/用いられ方について話題になった。 どう話題になったのかはここでははしょるけれど、ひとつ、ふと気付かされたことがあったので、日記に書き留めておこう。 ルイスも指摘しているように、聖書ではじめて「キリスト者(クリスチャン)」という言葉が登場したのは使徒の働き11章26節だ。
この箇所で出てくる「弟子たち」とは、パウロやペテロのような「使徒」ではなく、その使徒たちによって語られる言葉を聞きに集まってきた人々のことだ。 私は今まで、あまり深く考えずに「『クリスチャン』とはイエス様の教えに従う者」と思っていたのだが、この聖書箇所からわかることは、「クリスチャン」ということばは「使徒たちが語る福音を受け入れ、それに従う者」を指して使われたということだ。 これは同じことのようで、微妙に違う。 まず、使徒たちが宣べ伝えた「福音」とは何か? それは第一コリント15章の始めにパウロ自身の言葉で要約されているように、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたこと(vv.3-5)」だ。 これが福音なのだ。 汝の隣人を愛せよとか、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せとか、そういうことが福音なのではないのだ。 世の中にはイエスの教えに共感し、イエスをこよなく愛する人はわりあい多くいると思う。イエスを神の御子と信じていなくても、救い主として受け入れていなくても、それでもイエスの教えには共感し、イエスが教えられた「愛」を実践する人もいるだろう。イエスの教えを(律法ですらなく、イエスの「愛」の教えを!)受け入れ、実践する人、あるいは実践したいと誠実に願っている人は、少なくないような気がする。しかし、そのような人たちがみな、イエスの十字架の死と復活を信じているかといえば、そうでもないのだ。 一方、イエスの十字架の死と復活を信じ受け入れてはいるけれど、「愛」の実践はさっぱり、という人も少なくないはず。(たとえば私とか・・・ f(^_^;; ) ・・・ う〜ん、何だか考えさせられるなぁ。 (11/5/1999) 先日の続き。11/5の日記で「クリスチャン」という言葉の定義についてふれ、結論として、「イエス様の十字架の罪の贖いと復活」という福音のメッセージを信じ受け入れた人が「クリスチャン」なのであり、「愛の実践」というような行いが伴っているかどうかは必ずしも本質ではない、というようなことを示唆してしまったが、その後どうしてもしっくりいかない気がして、考えたり調べたりしてみた。 まず、使徒の働き11章26節で用いられている「キリスト者」の原語「クリスティアーノス」は「キリストに従う者」という意味らしい。そして、この「キリストに従う者」という意味の言葉が誰を指して使われたのかというと、使徒たちが教えていた「福音」を聞き、それを受け入れ、従うようになっていた「弟子たち」だった。 「福音」が何であるかは11/5の日記で書いた通りだが、この「弟子」という言葉が原語ではどういう意味なのかを調べると、「マテーテウオー(弟子):他の人の教義に従う人。単に『師の教えを受ける人』という意味で用いられる『弟子(マテオー)』とは区別され、マテーテウオーはただ教えを受けるだけでなく、その教えに固執し(become attached)、教義のみならずその行い(conduct)においても師に従う者を指す」のだそうだ。 すなわち、「弟子」ひいては「クリスチャン」と呼ばれる人は、単に十字架の贖罪と復活を信じているにとどまらず、実際に使徒の教え(究極的にはイエス様の教え)を自分の行動原理として受け入れ実践している人である、ということになる。 ローマ人への手紙でパウロはこう言った。
つまり、ここでパウロが言っていたのは、福音を信じればあなたは救われます、ということだと思う。しかし、どう考えても、口で告白し心で信じた、という段階ではまだ「弟子」にはなっていないように思える。 とすると、「クリスチャン(弟子)」であるなら誰にでも永遠の命が与えられているが、永遠の命が与えられ天国に行くことが決まっている人がすべて「クリスチャン(弟子)」というのではないのかもしれない。 そういえば、以前マダガスカルへの宣教師がこんなことを言っておられたっけ。 「マダガスカルは霊的にとても開かれた国で、天幕集会を開くと一晩で何百人もの人たちがイエス様を受け入れて救われます。しかし私たち宣教師にとっての本当のチャレンジは、救われた人たちが教会につながるようになり、イエス様の弟子として成長出来るように教え導くことなのです。・・・」 イエス様が復活後、使徒たちの前に現われ、そして再び天に上られる前に使徒に与えた「大宣教命令」で、イエス様はこのようにおっしゃられた。
別に私はすでに救われた人達が「クリスチャン」と呼ばれるにふさわしいグループと、そうでないグループに分けられる、といいたいわけではない。この重箱の隅をつつくような学びをしていて切実に思わされたのは、イエス様は福音を受け入れて救われた人たちがすべて、イエス様の教えに従って「弟子(マテーテウオー)」として歩むようになることを願っておられるということだ。 かのマルチン・ルターはヤコブ書をして「藁の書」と呼んでいたと聞いたことがある。「信仰のみによる救い」を全面に打ち出して宗教改革を行ったルターは、ヤコブ書が「行ないのない信仰は死んだものだ(2:17)」と断言しているのが好きではなかったのだとか。 実際「行ない」が強調されると律法主義におちいり、行ないが伴っている限り自分は「救われている」「清い」などと思ってしまいがちだ。ゆえに行ないが強調されることを嫌うクリスチャンは少なくない。しかし律法を守ること自体は少しも悪いことではなく、むしろイエス様は救われたものたちがイエス様の教えを固く守って生きることを望んでおられたのだ。そしてそのような教えに対する従順は、私たち救われた者のイエス様に対する愛から出てくるべきものなのだ。
主なるイエス様。 私があなたの「マテオー」ではなく、「マテーテウオー」として歩めますよう、どうか助け導いてください。 (11/8/1999) 覚書: イザヤ書58章 神様が好む「断食」について。 特に6節から12節。すっごいパワフル。 何度も読み、思いをめぐらしつつ、祈る。 (11/11/1999) 「『魂の力』」対『霊の力』」それから、「魂と霊」(共にジェシー・ペン-ルイス著)という本を読んだ。 人間は「身体(body)」「魂(soul)」「霊(spirit)」の三つの部分から成ると言われる。 ギリシャ語で「魂」は「プシュケ(psuche)」、「霊」は「プネウマ(pneuma)」といい、聖書のなかでは、この二つははっきりと区別されているのだが、この「魂」と「霊」とは、日本語でも、また英語でも、あまり明確には区別されておらず、しばしば同義語であるかのように用いられている。ペン-ルイスは、魂と霊がはっきり区別されていないおかげで、多くの献身的なクリスチャンでさえも霊的生活において成熟できないでいる、と言っている。 私も、「魂」と「霊」が区別されていることは一応知っていたものの、その区別が何を意味するのかということについては、あまり意識していなかった。 いろいろ書こうと思っていたのだけれど、ま〜やがなかなか寝付いてくれなかったおかげでもう夜中の12時を過ぎてしまった。明日に差し障るから今夜はここまでにしておこう。(最近こればっかり) お時間と興味のある方、是非「オリーブ園」を訪れてみてください。ジェシー・ペン-ルイスの著作のほか、いくつかのキリスト教書の古典ともいえる名著が日本語に訳されて公開されているサイトです。これらは日本語訳が本として出版されていないので、このサイトで読めるというのは大変貴重です。私も今日、ここを見つけてものすごく興奮してしまった。「『魂の力』」対『霊の力』」はそんなに長くないのですぐに読めます。 私がかねてからずっと思っていたこと、思って(感じて)いたけれども、うまく言葉に出来ず、じれったい思いがしていたことが、この本を読んでとても納得できて嬉しかった。 今、アメリカでは「霊性(Spiritualilty)」ということがとても流行っている。流行りのもとは多分ニューエイジなのだろうが、宗教的ということとは別に、ビジネスの世界や心理学の世界、さらには医学などにまで「霊性」ということが浸透してきている。この「霊性」というものは、「霊」という言葉を使ってはいるけれど、実際には「魂」の力のことを指しており、すなわち意思の力であったり、人格の一番奥に潜むものであったり、あるいは宇宙のどこかにある偉大なる「力」であったりする。自己啓発とか、積極的思考なども同様で、これはまさに聖書がいう「魂(soul)」で、そのいきつくところは神様とは正反対なのだ。聖霊様からくる「霊の力」ではなく、自分の中に潜みもともと「肉の人」である自分が持つ「魂の力」を目覚めさせ、それを増長させようというものなのだから。 ところがこの「魂の力」が、どういうわけかキリスト教界にももっともらしく混入してきていて、誠実で熱心なクリスチャンたちまでもが混乱させられているのだからややこしい。 あぁ、眠い頭で書いているからうまくまとまらない。またにしよう。 ●「『魂の力』」対『霊の力』」 (11/14/1999) アンドリュー・マーレイの説教集「Absolute Surrender」の中から表題のメッセージの翻訳が終わった。 こちらです。 「完全な明け渡し」・・・ あぁ、神様は、誰よりも、この私にこのメッセージを伝えたかったに違いない・・・ あんまり「虫ケラ」「虫ケラ」というと、「えぇ〜、でも神様は『わたしの目にはあなたは高価で尊い』とおっしゃって下さっているんじゃなかったっけ?」と思ったりもするけれど、これはあくまでも、「神様の目には」そう見えるというのであって、私たちが実際に高価で尊いわけではないのだよね。 言ってみれば、アバタもエクボ? うちのぼぼるパパは絵を描くだけでなく、陶芸もやるのだけれど、彼が今まで造った作品には奇妙なものが多い。素敵なお茶碗なんかもあるのだけれど、大半は不気味な色や形をした何の役にも立たないようなオブジェばかり。気味の悪い角(つの)が沢山ついた大きなツボだとか、アオミドロが流れているような柄で、穴ボコがたくさんあいている意味不明のものとか、巨大なナメクジが何匹も絡み合って宙に向かって伸びているかのようなものだとか・・・ シカゴに引っ越して来たとき、それらのオブジェを家の中に飾るには抵抗があったので、私は彼にこう提案したのだった。 「ねぇ、『彫刻の森美術館』みたいに、野外にあなたのオブジェを飾ったらどうかしら?」 彼はとっても才能のある陶芸家だと思うけれど、私の目には残念ながらあの作品の数々はあまり「素敵」とは言い難い。でも、彼にしてみたら違うのだ。彼にとっては、あのツノツノも、穴ボコボコも、ナメクジにょろり、も全部愛しくて大切な作品なのだ。彼にとっては二つと同じものはこの世に存在しない、とっても貴重で尊い作品たちなのだ。 あの作品たちも、野外に放置されっぱなしでは、雨水がたまり、コケがつき、ボウフラなんかも湧いたりして、見ためだけではなく、本当に価値のないものになってしまうかもしれないけれど、それをきれいに洗い、中に大判小判をざっくざく、宝石や金塊をたっぷりいれたとしたら・・・? 何だか何が言いたいのか自分でもわからなくなってきたけれど、この数日、虫ケラである自分に目覚めてきたというか・・・ マーレイも言うとおり、今まで、神様に自分を「完全に明け渡す」ということに、ある種の恐れのようなものがあった。「恐れ」というか、「出来っこない」と諦めていたというか、頭ではわかっていても、絶対実現不可能というか、やりたくもなかったというか・・・ でも、虫ケラである自分に目覚めた今、それにもかかわらず、ぼぼるパパがツノツノや穴ボコボコやナメクジにょろりを最高の作品だと思っているように、いや、それ以上に、神様が私を愛してくださっているだなんて、なんて有難いことなんだろう、そして虫ケラである私にとってそんな神様に自分を「完全に明け渡す」以外に一体どんなチョイスがあるというのか、とまで思えるようになって来た・・・ あぁ、何だかすごく幸せな気分。ちょっとお祈りしてこよう。 (11/22/1999) 東京で、2歳の女の子が近所の主婦に殺害されたニュースを聞き、すごくショック。うちのま〜やも2歳だから、何だか人事とは思えない苦しさを感じてしまう。それと同時に、2歳でもう幼稚園の「お受験」なんかさせられているんだなぁと、それにも驚いた。 今日も友人のクラークと話しをしているとき、「日本の初等教育はとても質が高くて、子供たちもとってもよくしつけられているんだって?」と聞かれた。クラークは小学校の体育の先生をしている。「う〜ん、そのはずだったんだけど、最近は『学級崩壊』とかいって、随分様子が変わって来たみたい・・・」「あぁ、その話しも聞いたことがあるよ。しかしどうしてまたそんなことになってしまったんだい?」「う〜ん、よくわからない・・・」 本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう・・・ 日本の国の上に黒い雲が重苦しく覆いかぶさっているかのような、「この世の君」と名乗っている敵の笑い声が聞こえてくるような・・・ あぁでも、イエス様の十字架は、日本のうえにも勝利と解放をもたらす道を備えて下さったはずなのだから・・・ 先日ちらりと言及した、イザヤ書58章が思い出される。
この御言葉、とてつもなくチャレンジングだけれど、読めば読むほど、何ともいえない希望や力が湧き上がってくるのを感じる。 主よ、あなたが望まれるままに、あなたの聖徒たちを導いてください・・・ (11/25/1999) ![]() ![]()
はちこは喜びます!
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