ホーム信仰、希望、愛p. 14

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

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おすそわけ。 のこちゃんにシェアしていただいた詩3篇です。(のこちゃんはペトラクラブの関根先生から教えていただいたそうです。)

  「空間があるように」  カール・キブラン

ともに集うあなた方の間に
空間があるようにしなさい
あなた方の間に天国の風を踊らせなさい。

互いに愛し合いなさい。
しかし、
愛のきずなを作らないように
あなたがたの魂の岸辺の間に
揺れ動く海があるようにしなさい。

あなた方の心を捧げなさい。
しかし
お互いに相手の心を自分のものとしてはなりません。
あなたがたの心はいのちの神の御手の中でのみ
安らぐことができるのだから

ともに立ちなさい。
しかし
あまり近くに立ってはいけません。
神殿の柱は離れてこそ立ち
樫の木と糸杉とは
お互いに影になっては育つことができないのだから

*************

 「最大の祈り」 フリッツ・パールズ

私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。

私はあなたの期待に答える為にこの世にいるのではない。
あなたも私の期待に答える為にこの世にいるのではない。
あなたはあなた。私は私。

もしも私達が、たまたまお互いに出会い、助け合えるなら、
それは素晴らしいことだ。
しかし、もしそれができないとしても、それは仕方がないことだ。

*************

「黙って愛するということ」

黙って愛しなさい。
わたしが愛したように、
何も語らずに、しばしば外にさえ表わさずに
黙って愛しなさい。

黙って愛しなさい。
愛が深く本物になるために
誰にも気づかれないように奉仕し
目につかないように善い行為をしなさい。
そして黙って愛することを学びなさい。

黙って愛しなさい。
叱られても言い訳をせず
心を傷つける言葉にも言い返さず
黙って愛することを学びなさい。

あなたの心は、愛が君臨する王国であるように。
その王国を,人への優しい思いやりで満たし
黙って愛することを学びなさい。

人から求められず、却って退けられる時にも
黙って愛しなさい。
手を貸したくても,受け入れてくれないその人たちのために
祈りなさい。
誤解される時にも黙って愛しなさい。
愛が無視されることを忍びながら。

悲しい時、黙って愛することを学びなさい。
喜びを周囲に撒き散らし,人の幸せを増やすよう心掛けなさい。
人の言葉や態度でイラだったなら黙って愛しなさい。
心の奥に秘められた苦しみを,忍耐深く捧げなさい。

あなたの沈黙のうちに
恨みや,焦り,酷評が潜まないように。
いつも兄弟を尊重し、大切にすることを心がけなさい。

                            (10/1/1999)

先週の聖研で、「癒し」の話題が出た。メンバーのひとりが最近30年来のアレルギーを癒されたのだが、別のメンバーはここ7〜8年苦しんでいるある病気が、いくら祈っても癒されない。 またもう一人のメンバーは数年前に脳腫瘍で主の御元に帰っている。どうしてある人は癒され、ある人は癒されないんだろう・・・? という話し。

「そんなのってフェアじゃないわよね。そう思わない?」

「フェアかどうかという問題じゃないんだよ。神様は僕たちに対してフェアでなければならないなんて、そんな義務は負っていないんだから。神様が僕たちを造ったのは、僕たちが神様の栄光を現わすためなんだ。むしろある意味で、僕たちはいかなる状況におかれようとも、自分の命(Life)を通して神様のご栄光を現わすという義務を負っている・・・ そんなふうには考えられないだろうか?」 

「う〜ん・・・ そうねぇ・・・ 言うは易し、行うは難しだけど。」

(10/7/1999)

5000人もの人達がお腹を空かせている。 私の手元にはパンが5切れと魚が2匹あるだけ。これは私の昼食用にとっておいたものだ。 どうしよう。 私のお弁当だけでここにいる人たち全てに食べてもらうことなんて、逆立ちしたって出来やしない。 どうせ焼け石に水なんだから、これは私が食べるとして、ほかの皆さんの食べる分はイエス様にお願いしよう。 なんたって、私たちはイエス様について来たんだから。ここにはイエス様がいるんだから。別に私のお弁当なんか差し出さなくったって、イエス様が素晴しい奇蹟を見せて下さるに決まっている。

信仰だよ、信仰! あぁ神様、ここにいる5000人以上のお腹を空かせた人達が、文句を言うことなく信仰と喜びを持ってあなたの御業を待ち望むことが出来ますように! 主よ、あなたの恵みは彼らには十分ですから感謝します! 彼らも空腹のなかにあってもなお感謝することが出来ますように! ハレルヤ、アーメン!

・・・・・・ 違う。 違う、違う、違う!

もしも誰かがたった5切れのパンと2匹の魚を差し出すことをしなかったなら、イエス様は奇蹟をなさることはなかった。 もしも誰かが「どうせ焼け石に水だから」と何も行動を起こさなかったなら、5000人の人達は飢えたままだった・・・

世の中には、否、私のごく身近にも、私一人の力ではどうしようもないような大きな問題を抱えている人たちが大勢いる。 こんな時、私はどうしたらいいのか? ただ祈っていればいいのか?もちろん祈りがどんなにパワフルで、神様の御手を動かし得るものであるかはよくわかっている。にもかかわらず、私にも何かなすべき具体的なことがあるのではないだろうか・・・

同じ祈るなら、私はまずこう祈りたい。

主よ、私に出来ることは何でしょうか? 私がなすべきことは何でしょうか? 
あなたは今、私に、具体的に何をせよとおっしゃっているのでしょうか?
主よ、お示しください。そしてあなたが示して下さることがなんであろうとも、
私がそれに従うことの出来る従順さをお与え下さい・・・!

もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言ってももしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
                                  ヤコブ2章15ー17節

(10/15/1999)

最近、いろいろなことを通して同じ一つのことを語られ続けているように感じる。事柄はそれぞれに違うシチュエーションなのに、何か一貫したテーマが背後にあるような・・・

実は、今 語られているのと同じようなことを、去年も語られていたのだった。

去年の5月、私は日記にこんなことを書いた。


聖書には「真理はあなたがたを自由にします」と書いてあるのに、なぜ真理を知っているがゆえにこんなに負担やプレッシャーを感じてしまうのだろう?
  
聖書を開いてみる。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。
『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」
                   
                 ヨハネの福音書8章31、2節(新改訳聖書)

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら…」
  
ことばを知っているだけでなく、そこに「とどまる」ということが自由への鍵なのかもしれない。 (5/21/1998の日記より)

確かにイエス様は、私たちがイエス様に「とどまる」ことの大切さを語っておられたっけ・・・

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」  (ヨハネによる福音書15章4〜11節)

  
主よ、私に あなたの御言葉のなかに、また愛のなかに、とどまることを教えてください。
主よ、理屈ではなく、正論でもなく、ただ「真理」であるあなたの御言葉のなかに私がとどまることができますように。あなたの御言葉が私に語って下さいますように・・・

(10/21/1999)

先週、ある人と話しているときに、こんなことを考えさせられた。

私たち人間にとって、(1)科学的/合理的に説明できないような「超自然的」な奇蹟を、神様の御業として信じ受け入れることと、(2)きわめて科学的/合理的に説明のつく、ごく日常的で当り前の事柄を神様の御業として受け入れることと、どちらが容易なことで、どちらがより信仰を要求されることだろうか?

ある人にとっては、非科学的で超自然的な「奇蹟」を受け入れることは非常に難しいことかもしれない。 聖書には素晴しい教えがたくさん書かれていて大変結構なのだけれど、どうもこの「奇蹟」というものに抵抗があって・・・ という人は少なくないだろう。

一方で、人間の知恵や合理性で簡単に説明がついてしまうなら、そんなものをわざわざ「神の御業」だなんて呼ぶ必要はないじゃないか、奇蹟があればこそ、神の偉大さが顕わされるというものだ、そういう人もまた少なくないかもしれない。

私にとっては、(1)も(2)も、どちらも神様の御業として受け入れるためには同様に信仰が要求されると思うし、どちらを神様の御業として受けいれることもそんなに困難なことではないと思う。

以前ぼぼるパパも日記に書いていたが、神様は秩序と調和をもってこの全地宇宙を創造された。(箴言3:19; 8:14) 様々な自然法則はまさに神様の創造の産物であり、私たちの生活の中に見られる各種の現象が科学的/合理的に説明が出来るということは、それ自体、神様がこの世の全ての営みに全知全能の御手をもって介入しておられるということの証であると思う。 別に「超自然的」な「奇蹟」を見ずしても、被造物であるこの世界そのものが神様ご自身の神性を明らかにしているということは、御言葉にもある通りだ。(ローマ書1:19-20)

と同時に、神様は主権を持った「いと高き方」であることも忘れてはならない。

その主権は永遠の主権。 
その国は代々限りなく続く。
地に住むものはみな、無きものとみなされる。
彼は、天の軍勢も、地に住むものも、
みこころのままにあしらう。
御手を差し押さえて
『あなたは何をされるのか。』と言う者もいない。
」  ダニエル書4章34、5節

万軍の主は誓って仰せられた。
『必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、
わたしの計ったとおりに成就する。
万軍の主が立てられたことを、
だれが破りえよう。
御手が伸ばされた。 
だれがそれを引き戻しえよう。』
」  イザヤ書14章24、7節

遠い大昔のことを思い出せ。
わたしが神である。ほかにはいない。
わたしのような神はほかにはいない。
わたしは、終わりの事を初めから告げ、
まだなされていない事を昔から告げ、
『わたしのはかりごとは成就し、
わたしの望むことを全て成し遂げる。』という。
」 イザヤ書46章9、10節

主の御手の業は、御自身が立てられた「法則」にさえ制限されることなどないのだ。主は、なさりたい時に、なさりたい事を、なさりたいやり方で、なさる。私たちを単に喜ばすためではなく、私たちの期待を裏切らないためでもなく、もちろんきまぐれの思いつきで、というのでもなく、神様ご自身の目的と英知をもって、その全能の御手を私たちの中に伸ばされることもあるのだ。

神様は何と偉大なお方なのだろう! ただ主の御前にひれふしたい。

(10/24/1999)

今日は私とぼぼるパパが特別賛美で「My Deliverer」という歌を歌ったのだが、歌っている最中に、とても強い聖霊様のご臨在を感じた。そして歌い終わると会衆みんなが立ち上がり、両手をあげて「主よ、来てください!」とそれぞれに祈り出した。するとそのとき、ある兄弟を通して預言が与えられた。預言の大まかな内容は、「私はすでにあなたがたのうちに来ている。あなたがたを解放するために、すでに来ている。人を見るのではなく、自分の内側を見るのでもなく、ただ私を見上げなさい。私はすでに来ている。サタンの嘘に惑わされてはならない。私はあなたがたに解放を与える主である。・・・」(もっと長かったのだが、忘れてしまった)

預言が与えられたあと、牧師が前に出てきて、「今の預言は、私が歌を聞いているときに主から語られた内容と一致していました。神様は今日、私たちに解放を与えようとしておられるようです。・・・ 罪の習慣、悩みや重荷、病、霊的抑圧その他なんでも、解放を必要としている人は前に出てきて下さい。一緒に祈りましょう・・・」
  
礼拝の式次第を変更し、牧師は説教をせず、そのまま最後までみんなで祈った。ふと気付くと、礼拝堂のあちらこちらに4、5人ずつの輪が出来ており、みんなが肩を抱きあい、手を置きあって、互いのために祈り合っていた。

聖霊様が、私の教会の中でも強く働いておられるのが感じられた・・・

祈っているときにいろいろ示されたことがあったのだけど、今日はもう疲れてきたから、また後日、書けたら書こう。

(10/31/1999)


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