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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] おすそわけ。 のこちゃんにシェアしていただいた詩3篇です。(のこちゃんはペトラクラブの関根先生から教えていただいたそうです。) 「空間があるように」 カール・キブラン ともに集うあなた方の間に 互いに愛し合いなさい。 あなた方の心を捧げなさい。 ともに立ちなさい。 ************* 「最大の祈り」 フリッツ・パールズ 私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。 私はあなたの期待に答える為にこの世にいるのではない。 もしも私達が、たまたまお互いに出会い、助け合えるなら、 ************* 「黙って愛するということ」 黙って愛しなさい。 黙って愛しなさい。 黙って愛しなさい。 あなたの心は、愛が君臨する王国であるように。 人から求められず、却って退けられる時にも 悲しい時、黙って愛することを学びなさい。 あなたの沈黙のうちに (10/1/1999) 先週の聖研で、「癒し」の話題が出た。メンバーのひとりが最近30年来のアレルギーを癒されたのだが、別のメンバーはここ7〜8年苦しんでいるある病気が、いくら祈っても癒されない。 またもう一人のメンバーは数年前に脳腫瘍で主の御元に帰っている。どうしてある人は癒され、ある人は癒されないんだろう・・・? という話し。 「そんなのってフェアじゃないわよね。そう思わない?」 「フェアかどうかという問題じゃないんだよ。神様は僕たちに対してフェアでなければならないなんて、そんな義務は負っていないんだから。神様が僕たちを造ったのは、僕たちが神様の栄光を現わすためなんだ。むしろある意味で、僕たちはいかなる状況におかれようとも、自分の命(Life)を通して神様のご栄光を現わすという義務を負っている・・・ そんなふうには考えられないだろうか?」 「う〜ん・・・ そうねぇ・・・ 言うは易し、行うは難しだけど。」 (10/7/1999) 5000人もの人達がお腹を空かせている。 私の手元にはパンが5切れと魚が2匹あるだけ。これは私の昼食用にとっておいたものだ。 どうしよう。 私のお弁当だけでここにいる人たち全てに食べてもらうことなんて、逆立ちしたって出来やしない。 どうせ焼け石に水なんだから、これは私が食べるとして、ほかの皆さんの食べる分はイエス様にお願いしよう。 なんたって、私たちはイエス様について来たんだから。ここにはイエス様がいるんだから。別に私のお弁当なんか差し出さなくったって、イエス様が素晴しい奇蹟を見せて下さるに決まっている。 信仰だよ、信仰! あぁ神様、ここにいる5000人以上のお腹を空かせた人達が、文句を言うことなく信仰と喜びを持ってあなたの御業を待ち望むことが出来ますように! 主よ、あなたの恵みは彼らには十分ですから感謝します! 彼らも空腹のなかにあってもなお感謝することが出来ますように! ハレルヤ、アーメン! ・・・・・・ 違う。 違う、違う、違う! もしも誰かがたった5切れのパンと2匹の魚を差し出すことをしなかったなら、イエス様は奇蹟をなさることはなかった。 もしも誰かが「どうせ焼け石に水だから」と何も行動を起こさなかったなら、5000人の人達は飢えたままだった・・・ 世の中には、否、私のごく身近にも、私一人の力ではどうしようもないような大きな問題を抱えている人たちが大勢いる。 こんな時、私はどうしたらいいのか? ただ祈っていればいいのか?もちろん祈りがどんなにパワフルで、神様の御手を動かし得るものであるかはよくわかっている。にもかかわらず、私にも何かなすべき具体的なことがあるのではないだろうか・・・ 同じ祈るなら、私はまずこう祈りたい。 「主よ、私に出来ることは何でしょうか? 私がなすべきことは何でしょうか?
(10/15/1999) 最近、いろいろなことを通して同じ一つのことを語られ続けているように感じる。事柄はそれぞれに違うシチュエーションなのに、何か一貫したテーマが背後にあるような・・・ 実は、今 語られているのと同じようなことを、去年も語られていたのだった。 去年の5月、私は日記にこんなことを書いた。
確かにイエス様は、私たちがイエス様に「とどまる」ことの大切さを語っておられたっけ・・・
(10/21/1999) 先週、ある人と話しているときに、こんなことを考えさせられた。 私たち人間にとって、(1)科学的/合理的に説明できないような「超自然的」な奇蹟を、神様の御業として信じ受け入れることと、(2)きわめて科学的/合理的に説明のつく、ごく日常的で当り前の事柄を神様の御業として受け入れることと、どちらが容易なことで、どちらがより信仰を要求されることだろうか? ある人にとっては、非科学的で超自然的な「奇蹟」を受け入れることは非常に難しいことかもしれない。 聖書には素晴しい教えがたくさん書かれていて大変結構なのだけれど、どうもこの「奇蹟」というものに抵抗があって・・・ という人は少なくないだろう。 一方で、人間の知恵や合理性で簡単に説明がついてしまうなら、そんなものをわざわざ「神の御業」だなんて呼ぶ必要はないじゃないか、奇蹟があればこそ、神の偉大さが顕わされるというものだ、そういう人もまた少なくないかもしれない。 私にとっては、(1)も(2)も、どちらも神様の御業として受け入れるためには同様に信仰が要求されると思うし、どちらを神様の御業として受けいれることもそんなに困難なことではないと思う。 以前ぼぼるパパも日記に書いていたが、神様は秩序と調和をもってこの全地宇宙を創造された。(箴言3:19; 8:14) 様々な自然法則はまさに神様の創造の産物であり、私たちの生活の中に見られる各種の現象が科学的/合理的に説明が出来るということは、それ自体、神様がこの世の全ての営みに全知全能の御手をもって介入しておられるということの証であると思う。 別に「超自然的」な「奇蹟」を見ずしても、被造物であるこの世界そのものが神様ご自身の神性を明らかにしているということは、御言葉にもある通りだ。(ローマ書1:19-20) と同時に、神様は主権を持った「いと高き方」であることも忘れてはならない。
主の御手の業は、御自身が立てられた「法則」にさえ制限されることなどないのだ。主は、なさりたい時に、なさりたい事を、なさりたいやり方で、なさる。私たちを単に喜ばすためではなく、私たちの期待を裏切らないためでもなく、もちろんきまぐれの思いつきで、というのでもなく、神様ご自身の目的と英知をもって、その全能の御手を私たちの中に伸ばされることもあるのだ。 神様は何と偉大なお方なのだろう! ただ主の御前にひれふしたい。 (10/24/1999) 今日は私とぼぼるパパが特別賛美で「My Deliverer」という歌を歌ったのだが、歌っている最中に、とても強い聖霊様のご臨在を感じた。そして歌い終わると会衆みんなが立ち上がり、両手をあげて「主よ、来てください!」とそれぞれに祈り出した。するとそのとき、ある兄弟を通して預言が与えられた。預言の大まかな内容は、「私はすでにあなたがたのうちに来ている。あなたがたを解放するために、すでに来ている。人を見るのではなく、自分の内側を見るのでもなく、ただ私を見上げなさい。私はすでに来ている。サタンの嘘に惑わされてはならない。私はあなたがたに解放を与える主である。・・・」(もっと長かったのだが、忘れてしまった) 預言が与えられたあと、牧師が前に出てきて、「今の預言は、私が歌を聞いているときに主から語られた内容と一致していました。神様は今日、私たちに解放を与えようとしておられるようです。・・・ 罪の習慣、悩みや重荷、病、霊的抑圧その他なんでも、解放を必要としている人は前に出てきて下さい。一緒に祈りましょう・・・」 聖霊様が、私の教会の中でも強く働いておられるのが感じられた・・・ 祈っているときにいろいろ示されたことがあったのだけど、今日はもう疲れてきたから、また後日、書けたら書こう。 (10/31/1999) ![]() ![]()
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