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(5/4/1999) 先日、ある兄弟から「5/4付の日記はなぜ詩篇46:10なのですか?」というご質問をいただいた。 そんなに深〜い意味があるわけではありませんが、 f(^_^;;; 詩篇46:10は忙しい時、疲れている時の私の処方箋なのです。 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」 この「やめよ」はヘブル語では「(手にもっているものをポトリと)落とす」、「退く、引きこもる」という意味だそうだ。 自分の手の業をとめ、自分が関わっている様々なことから一旦退き、ただじっとして神様がご自身を現わしてくださるのを待つ・・・ 神様が語りかけてくださる御声に耳をすましてみる・・・ 祈祷課題のリストを前にしてガンガン祈るのでなく、注解書やコンコルダンスやハンドブックをひっくり返しながら聖書研究をするのでもなく、ただ神様の前にじっと静まる。あれをしなくちゃ、これも片付けなくちゃ、そういう「今日のto do list」も頭から追い出して、もしかしたら、御言葉がひとつふたつ心に浮かんでくるかもしれない、そしたらその御言葉にそっと思いを巡らしてみる、賛美の歌が湧いてくるかもしれない、そしたらそれをそっと声に出して歌ってみる、もしかしたら泣けてきちゃうかもしれない、そしたら我慢しないで泣いてしまう・・・ 時間を止めて。 静かに。 静かに。 深呼吸。
(5/12/1999) 「霊的戦い」 90年代の初め頃からクリスチャンの間でわりと頻繁に耳にするようになったフレーズではなかろうか。 「霊的戦い」というと、何か「エクソシスト」のような、おどろおどろした「悪霊追い出し」を連想する人が多いかもしれないが、私は実は霊的戦いの一番のバトルフィールドは私たちの心の中であると思っている。 第2コリント10章5節では、霊の戦いにおいて何よりも大切なことは、まずは自分の心の中に浮かぶ一つ一つの思い(新改訳では「はかりごと」と訳されているが、原語では「心の中のこと」というような意味だそうな)をしっかりと捕まえて、それらをキリストに服従させることだと教えている。 人の心の中というものは常にいろいろな思いが浮かんだり消えたり、出たり入ったりし、一つの思いがまた次の思いを呼び起こし・・・と実に複雑なものだと思う。(心理学の先駆者として著名なウィリアム・ジェームスの言葉に「意識の流れ」というのがある。)しかも厄介なことに、自分でもエッと思うようなことが案外しょっちゅう心に浮かんできたりするものではなかろうか。 たまたま視線が合わなかっただけなのに「無視された。」 向こうの方で数人が笑いながら何かしゃべっている。「私のことを噂しているんじゃないか?」 あの人、◯◯って言ったけど、私に当てつけているような気がする。本当は××と言っているんじゃないかというような気がする。 このような心に浮かぶ一つ一つの思いを野放しにしておいたら、私の心の中など、あっという間に真っ黒になる。そしてネガティブな思いはさらにネガティブな思いを引き起こす。 「私なんてクリスチャン失格」 「私なんて、神様からも人からも、誰からも愛されていないんだ。」 「こんな私はいなくなった方がましだ。」 サタンが一番狙っている陣地は私たちの心の中。そこに少しでも自分(サタン)が付け入れそうな隙を見つけると、早速足場を作ってもぐりこんでくる。そしてウホウホ喜びながら私たちの心を煽るのだ。 「そうだ、そうだ!もっと考えろ! もっとネガティブになれ!もっと怒れ!もっと妬め! もっと落ち込め! もっと高ぶれ! アッハッハ!」 カンコンカンコン、敵の「要塞」を私たちの心の中に築き上げる。 「怒り」の要塞、「妬み」の要塞、「情欲」の要塞、「欝」の要塞、「高慢」の要塞・・・ こんな時にこそ急いで神様の御言葉に立ち返らなくてはいけない。 愛や恵みやキリストのからだについて、聖書は何と言っている? 嘘つきサタンの言うことに騙されてたらいけないぞ! 心に浮かんでは消える一つ一つの思いをしっかり捕まえて、イエス様の前に差し出しキリストに服従させる・・・ そしてサタンの要塞を打ち砕こう。 「悪霊追い出し」だけが霊的戦いなのではない。私たちは自分の心の中を聖別しイエス様に明け渡すか、サタンに奪われ敵の欲しいままにされるのか、日々激しい戦いを繰り広げている戦士なのだから。
(5/19/1999) 19日の日記ではちょっと偉そうなことを書いたけど、実はあれは自分自身に言い聞かせるために書いたのでした。 去年の6月、うちの4件先に私と同じ教会に行っている家族が越してきた。子供は男の子と女の子の二人、それぞれエミとみんとおない年。奥さんとご主人もそれぞれ私とぼぼるパパに近い年齢。しかも私たちは同じ聖歌隊で歌っている。その半年前に彼らはシカゴに越してきたばかりで、それまではまだ彼らと親しくなるチャンスがなかったので、うちの近所に家を買って引っ越して来ると聞いたときはとても嬉しかった。共通点も多いことだし、この奥さん(ジュリー)とはきっと仲良しになれる、そう思ってはウキウキしたものだった。 ところが、ジュリーは私とはそこそこには付き合ってくれたものの、他の人達とばかり親しくなって、私とはなんとなく表面上の付き合いしかしてくれなかった(ような気がした)。 越してきた当初、何度も食事に来るよう誘ったのだが、全部何だかんだと理由をつけて断わられ、もう一年近くになるのに、彼女は一度も私の家に来てくれたことがない。 子供同士は仲がよくて、ジョシュアとパティはしょっちゅうわが家に入り浸たっている。勝手に家の中に入ってきては、キッチンの棚の戸をあけて、中のお菓子を食べたりしている。 子供たちがまるで兄妹のように一緒に遊んでいるのはとても嬉しい。でも、ジュリーの方がどことなくよそよそしい(気がする)のが悲しいのだ。お互いの家を親しく行き来して、一緒にお茶したりランチしたり、子育てのことや信仰のことを分かち合えるような友達になれることを期待していたのが大きくはずれてしまったので、私はがっかりしてしまったのだった。 そのうち私はだんだん彼女の顔を見るのもつらく感じるようになってきた。つらいのに、なぜか教会ではいつも彼女の姿を探している私がいた。そして他の人とさも仲よさそうにしている彼女を見るにつけ、私の心の中に苦々しい思いが沸き上がるのを感じずにはおれなかった・・・ そして私ははっきりした根拠もないのに、彼女が私の子育てについて批判的な目を向けているのではないかと、そんなことまで思っては、ますます苦味や怒りを感じているという有様だった。 でも、これらのことは、何もかも全て私の心の中のことなのだ。ジュリーは別に私のことを無視しているつもりも避けているつもりもないに違いないことはよぉくわかっている。 だから、私の心の中に浮かんでくるそのようなネガティブな思いを野放しにすることなく、しっかり捕まえて、イエス様の前に差し出さなくてはいけないのだ。サタンの罠にはまることなく御言葉の上にがっちりと足を踏みしめていなくてはいけないのだ。 だいたい、サタンが攻撃してくる関係というのは、本来神様がその関係を強化して神様のご栄光のために用いられんとしているものであるに違いないのだ。どうでもいい人間関係ならサタンがそんなふうに攻撃してくるはずがない。 その代表的なものが夫婦間、親子間、教会内の人々の間ではなかろうか? ・・・おとといの朝、そんなことを考えながら書いたあの日記だった。 そうしたら・・・ 昨日の夕方になって思いがけないことが起きた。 いつものようにジョシュアとパティが遊びに来ていて、ジョシュアが恐い声を出して「モンスターだぞぉ〜!」とみんとパティを追いかけていたらしいのだが、みんが「モンスター」を追い払おうとして、愚かにもホウキを振り回したら、その柄がジョシュアの頭にあたり、彼は怪我をしてしまったのだ。 私は見ていなかったので事情はあまりよくわからなかったのだが、庭でただごとではないと思わせるものすごい泣き声が聞こえてきたのでびっくりして飛び出したら、泣きながら走って帰って行くジョシュアの後ろ姿が見えた。 ジュリーに電話をしてみたら、みんに棒で叩かれ、後頭部が切れて、血が流れているというではないか! もう、私は真っ青なんてもんじゃなかった。ジュリーは「たいしたことじゃないと思うから、気にしないでね。子供同士ではよくあることよ」と、いたってリラックスした口調だったのだが、私はひどくショックだった。 みんに対しては、私は感情的になることなく、きちんと話しをすることが出来たのだが、問題は私の心の揺れ動きだ。 これでますますジュリーに嫌われるのでないか、批判されるのでないか、うちの子供が悪くいわれるのでないか、もう彼女との関係は決定的に駄目になってしまったのでないか・・・ 最悪の気分だった。 私が日記に「一番のバトルフィールドは心の中だ」なんて書いたものだから、サタンに「それなら『心の中の問題』では済まされないようにしてやろうじゃないか」と反撃されたような気がした。 でも、サタンが反撃しているつもりなら、こっちだって反撃するぞ。心の中に浮かんでくる様々なネガティブな思いをことごとく振り払い、深呼吸。キッチンの床にひざまずき、両手を上げて祈り、神様を賛美した。 それから今朝午前10時過ぎ頃にジョシュアの様子を聞くために再びジュリーに電話。ジョシュアの怪我は結局たいしたことはなく、血が出たので本人はパニックして大泣きして回りを驚かせたけど、全然どうってことはなかったのよと教えてくれた。彼女が私にも気をつかってくれているらしいのが感じられて嬉しかった。そのまましばらく電話でいろいろ話しをしているうちに、私の中にこれまで鬱積していた様々なネガティブな思いが、きれいさっぱり消えていくのが感じられた。 この件を通して二人の仲が急接近した、とは言わないが、なんていうのか、私の中で何かがふっきれたのだ。 ジュリーにとっては私との関係は今まで通り、何ら変わったところはないのだろうが、私は変わったのだ。 私から見たジュリーとの関係が変わったのでなく、私自身が変わったのだ。 それだけでとても嬉しい。今までの苦々しい自分から解放されたと思うと、心が軽い。 神様、ありがとうございます! 明日あたり、ジョシュアの大好物のダンキンドーナツを届けてこよう。(^^) (5/21/1999) この前の日曜日はペンテコステだった。
(5/24/1999) ぼぼるパパの誕生日。最近の彼はものすご〜く忙しくて、もう大変。お祝いに彼の好きなフレッシュストロベリーパイを買ってきた。一人で全部食べてもいいからね! さて、某所で京都のK子さんが「ペンテコステって何?」という質問を発しておられたので、もう少し詳しく説明することにします。 ペンテコステは五旬節ともいい、ユダヤ教の祭日のひとつ。「初穂の祭」とも「刈り入れの祭」とも言われたそうだ。 イエス様が十字架上での死を遂げ、三日後に復活してからちょうど50日めにあたる日が使徒の働きの第2章に出てくる「五旬節」だ。 イエス様はヨハネの福音書の16章7〜14節で、イエス様がこの世を去ったあと(復活後、天に昇られた後)に聖霊様がかわりに私たちのもとに来て下さると語っておられる。 また昨日の日記でも引用したルカ24章45〜49節ではイエス様は弟子たちに「父が約束して下さったもの」(すなわちヨハネ16章で語られた聖霊を)送るので、それを受けて力を得るまでは宣教活動に出ることなくエルサレムに留まっていなさい、と述べられている。 実はこの「聖霊が下る」ということは、すでに旧約聖書のヨエル書(紀元前8世紀か9世紀に書かれた)に預言されていたことだった。 そしてヨエルやイエス様が語られた通り、この五旬節の日、弟子たちを含む約120人の者たちが一つ所に集まっていたとき、天から激しい風が吹くような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現われて、一人一人の上に聖霊が下ったのだった。 この日を境に、弟子たちは変わった。自分が捕まることを恐れてイエス様を3度も否定したペテロも、イエス様が復活したと聞いても自分で見るまでは信じられないと頑固だったトマスも、イエス様が復活し昇天された後もひそひそ隠れて祈っていることしか出来なかった弟子たちが、一変して大胆に福音を宣べ伝える者と変えられたのだ。 彼らの大胆な証を通してどんどん人々が救われ、いわゆる「初代教会」といわれるものが形成されていった(使徒2:41、46、47)。 この出来事を祝うのが、キリスト教で言う「ペンテコステ」なのである。 しかしペンテコステは初代教会の誕生日にとどまるものではない。 ヨエルはその預言書で「主はあなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださる(2:23)」と預言している。 1903年(だと思った)、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のアズサ通りにある小さな教会に、聖霊様の力が強く臨まれたリバイバルが起きた。使徒の働き2章の如く、そこに集まる人達は次々と聖霊様に満たされたそうだ。この噂を聞きつけたクリスチャンたちはアメリカ全土はもちろん、カナダやヨーロッパなどからも噂の真偽を確認するために駆けつけたという。そして多くが聖霊様に満たされ、約束通り力を受けてそれぞれの地に戻っていった。このアズサ通りのリバイバルをルーツにするペンテコステ系の教団に少なくないらしい。私が属するアッセンブリーオブゴッド教団もその一つ。 ・・・な〜んて書いたけど、神学的なことはあまりよくわからない。 私にわかっていることは、聖霊のバプテスマが授けられ、力が与えられるという約束は、「あなたがたと、その子供たち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち私たちの神である主がお召しになっている人々に与えられている」と聖書が語っていること、そして実際、求める人には現在でも与えられているということ・・・ (5/25/1999) ![]() ![]()
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