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はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
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  私の親しい友人が、今大切な決断を迫られ悩んでいる。彼女の事情をこんなところに書くわけにはいかないのだが、彼女はもし自分がクリスチャンでさえなければ、こんなに悩むことはなかっただろうに、と言っていた。

教会の人達は当然 (A) の選択肢を選ぶべきだと言い、彼女の家族は当然 (B) を選ぶべきだと言っているらしい。 本人も (A) を選びたいのはやまやまなのだけれど、いろいろな事を考えるとやはり (B) を選ぶことになってしまいそうだ、と言っていた。 

私も (A) を選ぶべきだとは思ったけれど、今彼女が感じている以上のプレッシャーを与えたくなかったので、「あなたがどちらを選ぶことにしても、私はあなたの決断をサポートするからね。」と伝えた。

つい先週も、別のクリスチャンの友人が「信仰をもっていることが時々かえって負担に感じられることがある」と言っていた。 

頭ではそんなはずではないのにと思いつつも、私の心では彼女の言っていることがとてもよくわかった。思わず大きくうなずいてしまった。(電話で話していたのだけれど)

  赦さなくてはいけないとわかっていても、赦せないとき。

  感謝しなくてはいけないとわかっていても、感謝できないとき。

  待たなくてはいけないとわかっていても、待てないとき。

  愛さなくてはいけないとわかっていても、愛せないとき。

  頭でわかっている通りにしたくても、そうできない自分が嫌になり、

  私はなんて不自由な人間なのだろうと悩んでしまう。

  

聖書には「真理はあなたがたを自由にします」と書いてあるのに、なぜ真理を知っているはずなのにこんなに負担やプレッシャーを感じてしまうのだろう?

聖書を開いてみる。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。

『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」

ヨハネの福音書8章31、2節(日本聖書刊行会 新改訳聖書より 以下、特に断りのない限り同様)

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら…」

ことばを頭で知っているだけでなく、そこに「とどまる」ということが自由への鍵なのかもしれない。

(5/21/1998)

5月21日の日記でふれた友人から連絡があった。(A)の選択肢を選ぶことに決めたらしい。この決断は、彼女や彼女の家族の残りの一生に大きな影響を与えうるものだ。(A)を選ぶべきだと頭でわかっていたからといって、そう簡単に決心できるものではなかっただろうにと思う。彼女は(A)を選ぶことにした理由を話してくれた。

旧約聖書の中に、エジプトから逃げ出してきたイスラエルの民が神様から「ここに住みなさい」といって与えられた「約束の地」を目指して旅をする場面がある。「約束の地」の近くまできて、何人かが偵察にいってみると、そこには体が大きくて強そうなやつらが先に住んでいた。「あんな強そうなやつらと戦っても、勝てるわけがない!『約束の地』になんて、とうてい入れないよ!

神様は私たちをこんな目にあわせるためにわざわざエジプトから連れ出したのか?」イスラエルの民はおじけづいて、神様に文句を言った。偵察にいった者のうち、二人の若者ヨシュアとカレブだけが「神様がついているのだから大丈夫だよ。勝てるよ!あそこは素晴しい土地だ。行って打ち取って来ようよ!」そう言って喜んでいた。

しかしイエスラエルの民はかたくなにそれを拒んだ。

神様は「わたしが共に行くから大丈夫だと言っているのに、私を信じられないのか。それならばいい。おまえたちはこの約束の地に入ることはできない。」と言われた。

イスラエルの民はその後40年間荒野をさまよった後ようやく約束の地に入るのだが、ヨシュアとカレブ以外で当時生きていたものは誰もその地に入ることのないまま死んだ。

私の友人はいった。

「(A)こそ、神様が私に与えて下さった『約束の地』だと思うのよ。確かにそれを選ぶのは困難なことかもしれないけれど、神様が共にいて下さるのなら、きっと大丈夫だと思うの。もしも目の前にある困難を見ておじけづいてしまうなら、イエスラエルの民のように私も祝福を受け損なってしまう。(A)こそ、私にとっての『乳と蜜の流れる地、約束の地』だと思うの。私はイスラエルの民が犯したのと同じ間違いを犯したくない。神様を信じて『約束の地』にむかって進みたい。」

私もそう思う。(A)こそあなたにとっての「約束の地」なんだね!神様が共にいてくださることを信じることが出来るって、素晴しいね!きっと素晴しい祝福が流れ出てくると思うよ!

(6/3/1998)

最近はインターネットを通してのオンラインでの買い物も安全にできるようになったとはいいますが、やはりオンラインで自分のクレジットカード番号を明らかにするのは何となく嫌ですよね。 それに、このクレジットカードの磁気の部分(茶色の)、あそこには膨大な情報がつまっていて、カードを一回使うごとに自分のパーソナルな情報を相手に教えてしまうことになる、という話しも聞いたことがあります。どこで誰にどう悪用されるかもしれない、そう思うとちょっと恐いです。あまり自分のパーソナルな情報はむやみに人に知られたくないですよね。(とか言って、ウェブ日記なんかでベラベラ自分の日々の生活についてしゃべるのは何なんだ!?)

一方、お医者さんに健康診断してもらう時などはその逆で、見落とすことなく隅々まで調べてくださいよ! ぜ〜んぶ、よく見てくださいよ! と思うものです。恐い病気があるのをうっかり見落とされて、手遅れにでもなったら困りますからね。

ダビデは神様に向かってこのように祈っています。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、

私をとこしえの道に導いてください。」 (詩篇139:23、4)

ダビデは神様に自分の全てを知っていただき、神様の御前に正しくないところがあろうものなら即それを指摘していただいて、神様の御前にしみも傷もないものとして立つことができるようにと思っていたのでしょうね。

久しぶりに「Great I am」のコーナーを更新しました。今回の神様の名前は「エル・ロイ(ご覧になる神)」です。

この部分を書き始めた時は「ご覧になる神」というのは私が不当な扱いを受けるようなことがあっても、ちゃんと神様が見ておられるから、いつかはちゃんと報われる、というようなことを書こうと考えていたのですが、書いているうちに、別のことが強く示されたのです。

確かに神様は私の回りの状況もご覧になっておられますが、何よりも神様が一番よく見ておられるのは私の心の内側なのですね。

私のうちに「傷ついた道」があるかどうかをよくご覧になっておられるのですね。傷があるなら、早期発見・早期治療が大切です。霊の傷が見落とされてしまったら大変なことになってしまいます。でも、主の御名はエル・ロイ。私の霊の傷を見落とすことなく、ちゃんとご覧になっておられるのです! そしてハガルの前に現われて(創世記16章)ハガルに語りかけ、彼女がなすべきことを示して下さったように、私の前にも現われ、語りかけ、なすべきことを示してくださるのです!

実際そうでした。長くなるのでここには書きませんが、私の霊に大きな傷があったとき、エル・ロイはそれをしっかりご覧になっていて、私がどうすべきかをはっきりと示して下さいました。 それは、出来ることなら神様の前にも人の前にも隠しておきたいと思うようなことだったのですが、神様はそれを明るみに出すよう私に語られ、私は嫌々ながらも主に従ったのです。 結果は… 解放、赦し、新しくされた人間関係…  私が予想もしない展開でした。

神様がエル・ロイでよかった! 全てのこと、特に私の心の内側を、ご覧になる神様でいてくださってよかった! そうでなければ私は今ごろ、みじめな毎日を送っていたに違いありませんから。

(6/8/1998)

聖書とはまったく不思議な書物で、同じ箇所を何回読んでも、その都度語られること、示されることは違っていたりする。 あるいは、すでに何十回も同じ箇所を読んでいてもうその部分は十分に知り尽くしていると思っていても、ある日突然、今までまったく気にもとめなかったような一節が、あたかもボールド体で書かれているかのように目の前に飛び込んできて、新しい啓示が与えられることもある。

今日もそうだった。 

私は創世記の17章を読んでいた。

この箇所は神様がアブラハムに、約束の子供イサクをサラを通して与えると語っているところである。

「また神はアブラハムに仰せられた。『あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出る。』」(15、6節)

これはものすごい約束である。

ところがアブラハムの心はこれから与えられるイサクよりも、彼が先にハガルに生ませていたイシュマエルの方に向いていた。このアブラハムの心情は、二人目の子供を妊娠したことのある人ならきっとわかるだろう。 一人目を妊娠した時は、まだ生まれる前からその子供が愛しくて、その子のことばかり思っていたものだった。

ところが二人目を妊娠したときは、考えるのは一人目のことばかり。

「今まで親の愛情を一身に受けて育ってきたのに、急に弟か妹ができたりしたら、この子はいじけてしまうのではないかしら。ちゃんとうまく適応できるのかしら…」

アブラハムとしても、サラを通してもう一人の子供が与えられるのは感謝だけれど、やはりすでに生まれているイシュマエルの今後のことが心配だったに違いない。

彼は神様にこのように言った。 

「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(18節)

これに対して神様は、なおもイサクについて執拗に(?)アブラハムに語り続ける。

「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約をたて、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」 (19節)

イサクの誕生というのは今後の全人類にとってとても大切なことなのだ。神様はこのことをはっきりとアブラハムに語らねばならなかった。しかし、続けて神様はこのように言われた。

「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。」(20節)

今日、私の目にボールド体で飛び込んできたのはここである。

イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。

イシュマエルは137歳まで生きて多くの子孫を残した。もしもアブラハムが彼のために神様にとりなしをしていなかったのなら、イシュマエルは若くして死んでいたかもしれない。親が自分の子供を神様の御前に持ち上げて、その子を祝福していただくようお願いするということはものすごく大切で意味のあることなのだ! 神様はそのような親心の祈りをちゃんと聞き届けて下さるのだ! 私の子供たちはビリー・グラハムやチョー・ヨンギ師のように偉大な伝道師や牧師にはならないかもしれない。(まずならないだろう。)そのような形で主に用いられることはないかもしれない。(まずないだろう。)しかし私が娘たちを主の御前にもちあげて、「どうかこの子供たちを祝福して下さい」と祈るなら、きっと神様は「あなたの子供たちについては、あなたの言うことを聞き入れた」と言ってくださるのだ!

だから今日も感謝しつつ、娘たちのために祈ろう。

(6/14/1998)

Happy Father's Day!  

いつの間にか、「お父さん」というと自分の父より夫のことを思いうかべるようになってしまった。

私の父は素晴しい人で、私にとって憧れの的であり、尊敬の対象だった。私はファザコンを自称していたし、父にかわいがってもらうことを何よりの喜びとしていた。

でも、客観的には残念ながら、彼はあまりいい父親ではなかったのかもしれない。私の両親は私が小学生の頃から別居していて、私は年に数回しか父に会うことはなかったのだ。だから私は、家庭の中における父親の役割というものが、本来どういうものであるべきなのかよくわからない。 「父親」と呼ばれるものに、何を期待したらいいのかわからないのだ。

私には私なりの理想の父親像がある。キリスト教関係の家族についての本を読む度、「こういう父親は素敵だなぁ〜」と心の中でどんどん理想を膨らませてきた。私が子供の頃、慕っても慕っても得ることのできなかった「父親」を、私の娘たちには与えてやりたい、そういう思いがどうしても私の思いの底にあるのだ。

その結果、私は主人に対して私の理想の父親像をおしつけるようになってしまった気がする。彼が父親として私の理想通りの言動をとってくれないと、ひどくがっかりしたり苛立ったりしてしまうのだ。 

現実には彼はエミやみんやま〜やにとって、十分理想の素敵なパパであるかもしれないのに、いや、絶対そうであることはわかっているのに、私は自分の中の思いにしがみついて彼を批判してしまう。

数ヵ月前に、教会で家庭内の人間関係について牧師さんがこのようなことをいっていた。

「あなたは自分の理想を受け入れて、現実のその人を破り捨てますか? それとも現実のその人を受け入れて、自分の理想を破り捨てますか?」

ぼぼるパパ、私は今日もう一度、自分のつまらない理想像を破り捨て、今のままのあなたを感謝して受け入れることを決意します。

ぼぼるパパ、いつもありがとう。 Happy Father's Day!

(ちなみに私は私の父をとてもとても愛しています。彼が私のことを深く愛してくれていることもよくわかっているし、私たちは今でも彼が忙しくない限りはよくメールでやりとりをしています。私は父のことのカケラも恨んでいません。素晴しい父で、大好きです。)

(6/21/1998)

今、私には気にかかっていることがあります。以前からずっと心のどこかにあって、そのことを考えると胃が痛くなるような、思わずため息がでてくるような、なんとなく重苦しい気持ちにさせられるのです。

ペテロ第一の手紙4章7節には「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」とあります。

そこで私もこの気にかかっていることを神様にゆだねた… つもりでした。

でも、戻ってくるのです。 何度神様にゆだねたと思っても、戻ってくるのです。

こうなると、心配事があるうえに「私はクリスチャンのくせになんて不信仰なんだ」という罪意識まで加わってきます。 悲惨です。 

今朝、この心配事からくる重苦しさと罪意識からくる重苦しさとの板ばさみになって私は憂鬱の中で主の前に祈っていました。

すると、祈りのなかでふと『ゲツセマネの園』という思いが湧いてきたのです。

(ゲツセマネの園? それが一体どうしたというのだろう?)

そこで私は聖書のその箇所を開いてみました。

マタイによる福音書26章36節から46節まで。ここにはイエス様がつかまって十字架にかけられる直前に、最後に弟子たちと過ごした時のことが記されています。イエスはこの晩ゲツセマネの園で祈っておられました。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、

わたしの願うようにでなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(39節)

  

イエス様はこれから十字架にかかって全人類の罪の身代わりとなって死ぬところでした。それがイエス様に対する神様のご計画でありみこころであるとわかってはいても、イエス様は神様のみこころを喜んで、ウキウキしていたわけではなかったのです。彼は「悲しみのあまり死ぬほど(38節)」でした。 イエス様はご自分の肉の思いと神様のご計画とのはざまで苦しみつつも、あえて御父のみこころ願って祈っておられたのです。

しかし今朝、神様が私の祈りのなかで私に語られたことは、イエス様が何を祈られたか、ということではありませんでした。 36節から46節までを読んでみると、イエス様が苦悩のなかでこの同じ祈りを3度繰り返されたことがわかります。

つまり、イエス様は一度祈ったことによって苦悩から解放されただちに喜びに満たされた、というわけではなかったのです。御父のみこころがなりますようにと一度祈ったもののイエス様の心は恐らくまだ悲しみに満ちておられたのでしょう。そこでもう一度同じ祈りを祈られましたが、それでもまだ苦しかったのでしょう。 イエス様は同じ祈りを3度繰り返されたのです。

それでも、神様はイエス様に「わたしの計画を知っていながら悲しみにもだえるとは、不信仰なやつめ!」などとはおっしゃいませんでした。イエス様でさえ悲しみの中で同じ祈りを何度も祈らねばならなかったのなら、私が同じ心配事のために何度も何度も神様に助けの声をあげたとしても、神様は怒ったりしないに違いありません。このゲツセマネの園での出来事を通して、神様が今朝私に語らんとされたのはこのことだったのです!

私はそう気付いたとき、泣けて泣けて仕方がありませんでした。心配事を神様にゆだねてもゆだねても、なおも不安にさいなまされ、あげくに罪意識を感じてつぶされそうになっていた私に対して、なんという優しい神様の御思いであることでしょうか!

この広大な宇宙の中に生きるこんなにちっぽけな私のために、全てのものの創造主である神様が私の気持ちを汲んでなぐさめの言葉をかけてくださるとは!そう思わされたとき、私は改めて「神があなたがたのことを心配して下さるからです」という御言葉を、私にとっての真実として受け入れることが出来たのです。

神様、ありがとうございます! あなたのことが大好きです!

(6/23/1998)

あれは3年前のちょうど今ごろだった。 友達のダイアンが夫のビルと二人の女の子を後に残して天に召されたのは。

6年半前、ベッキーを出産したばかりだったダイアンが倒れた。脳腫瘍と診断された。その後何回かの手術を繰り返し、彼女は闘病生活を送っていた。 ダイアンもビルも、揺らがされることのない信仰をもって神様は癒すことのできるお方だと信じていた。

私も、他の友人たちも皆そう信じてダイアンの癒しのために祈っていた。「小さな子供が二人もいるのに、まさか神様がダイアンを取られることなどあるまい」 私はそう思っていた。そう信じていた。

でもダイアンは死んだ。 当時ジェシカとベッキーはそれぞれ5歳と3歳だった。受け入れ難い事実だった。

「何がいけなかったのですか? 私たちのうち誰か信仰の足りない者がいたからですか?残された家族はどうなるのですか? ビルは? 子供たちは? あなたを心底信頼していた私たちはこれからどうすればいいのですか?」

祈りの中で神様にむかって叫んだ。

そのとき主が私の心に語られた。「ダビデを思い出しなさい。」

「ダビデ? ダビデが何をしましたっけ?」私はそうつぶやきつつ聖書を開いた。

  

旧約聖書の第二サムエル記12章15節からが目にとまった。 この箇所はダビデの子供が病気になったとき、ダビデが癒しを願って断食をしつつ地に伏して神様に祈り求めていたところである。 しかし、ダビデの子供は死んだ。 その時タビデは何をしたのか?

「するとダビデは身を起こし、からだを洗い、髪をとかし、服を着替え、神の天幕に入って、神様を礼拝したのです。(20節:リビングバイブル)」

  

神様を礼拝した……!

「主よ、あなたは私にあなたを礼拝せよとおっしゃっているのですか?」

あたりが強い神様のご臨在で満たされた。 「ダビデがしたように、あなたもそうしなさい。」 心に痛いほどにはっきりと、しかし優しく、迫ってきた主の御声だった。私はその場に膝まづき、泣きながら神様を礼拝した。

ダイアンが天に召されてから6ヵ月後、ビルは3人の子供をもつ未亡人のクリスチャン女性と再婚した。

あれから3年、7人家族となったビルたちは新しい町に引っ越し、楽しく賑やかに、そして何より幸せに暮らしていると聞く。

天国からダイアンが、満面の笑顔でブイサインを送っているのが目にうかぶようだ。

(7/3/1998)

今日、あるクリスチャンの方からメールをいただきとても嬉しかった。 そのメールを読んで考えたこと。

神様に失望するというのは怖い。

私たちが「神様の御心のままになりますように」と祈るとき、実は自分が願った通り、祈った通りにならないと自分の神様への信頼が揺らいでしまいそうで怖いから、それであえて「御心のままに」と祈っていることがある。 あるいはその件については祈らないですますこともある。

しかし、私たちが信じた通り、期待した通りにならなかった時にこそ、にもかかわらず神様の主権を認め、神様が愛であることを認め、何より神様の存在を認め、「God is good all the time!」と神様の御前に告白し、神様の御名を誉めたたえること、それが神様に全き信頼を置くということなのだろう。

それが出来るようになるためには、一度は思いっきり神様に失望する、ということを経験するのが必要なのかもしれない。

その失望感のどん底の中から初めて学ぶことができるものがあるのかもしれない。 

真っ暗闇になってしまったと思ったときにこそ、初めて見えてくる光があるのかもしれない。

(7/9/1998)





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