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そういえば、しばらく前に友人が、仕事をするとき何を守るかを考えるのは大切なことだと話していた。自分の業績を守るか、顧客を守るか、上司の立場を守るか、情報を守るか、安全を守るか、効率を守るか・・・ その話しを聞きながら、これは人間関係全般にも当てはまっているかも、と思った。 人と関わっていくときに、私たちは多分いつも何かを守ろうとしながら関わっているんじゃないだろうか? 自分の立場や信用、面目、そして感情、あるいは相手の気持ちや相手の立場。二人の「関係」に関わっている第三者のこと、あるいは自分が属している何か・・・ どれを最優先させてどれを後回しにしてしまうのか。あちらを立てればこちらが立たず、結局何も守りきれずに「関係」は破綻してしまったり。祈りつつ考え、考えつつ祈っていたら、こんな御言葉が示された。 「私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さを持って、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」(第二コリント1:12) 聖さと神から来る誠実さを持って、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動する・・・ 私ははたしていつでもこのような基準で行動していると言えるだろうか? とても言えない。高慢な思いに左右されていたり、パリサイ人よろしく、自分がいかにも「霊的」に見えるようなポーズを取っていたり、自分の浅はかな知恵によって先走っていたり、あるいは自己憐憫にまみれていたり。そんなとき、人との関係がギクシャクしたり自分の中で鬱々と考え込んでしまうことが多いような気がする。 どんなに表向きは立派に見せていても、どんなに自分の考えを正当化してみせても、内側に相応しくない思いを抱えていれば、それらのものはいずれ明らかにされてしまう。崩れかかる自分のイメージを守るために、ぶざまに右往左往している自分を思い知らされ、私は主の御前に打ちのめされてしまった。恥ずかしさで消え入りそうになっている私に、神様は前述の御言葉の続きを示してくださった。 「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。」(第二コリント1:24) 人との関わりのなかで、相手を何らかの形で支配したいという思いから解放されて、むしろ自分はその人の「喜びのために働く協力者」なのだと思えるようになるのなら、そのような関係からはどれだけイエス様の愛が溢れ出てくることだろうか。家庭生活の中でも、御言葉の務めにおいても、相手が主にある喜びを得るようになるための協力者として自分を位置付けるとき、私の行動パターンも思考回路も大いに変わっていくだろう。今回の事件では随分恥ずかしい思いをしたけれど、それを通して神様は大切なことを教えてくださった。ハレルヤ、御名をあがめます! |