ホーム日記はちこの日記(リバイバル新聞)三月

3月×日 愛の確信と平安

いよいよ臨月だ。準備もだいたい整って、陣痛よ、いつでも来い!と思っていた矢先に、次女のミホ(六才)が溶連菌感染症にかかってしまった。頭がひどく痛むらしく、ポケモンのコダックのように両手でこめかみのあたりを押さえている。食欲もなく、この二、三日は薬以外には少量のミルクとおかゆくらいしか口にしていない。溶連菌感染症というといかにも恐ろし気な病名だが、抗生物質を10日も飲めば治るものらしい。とはいえ、目に涙を浮かべて苦しそうに頭を抱えながら横たわっている姿は痛々しい。

「さぁ、お薬よ。ほんのちょっとだけだから、我慢して飲んでね。」小さなカップに入った小さじ一杯分の薬を差し出す。白いドロリとした液状の薬で、臭いは悪くないのだが、飲むと粉っぽくてまずいのだそうだ。ミホはカップを手にしたまま悲しそうにハラハラと涙をこぼす。「飲みたくないよう。」「でも、これを飲まないと良くならないのよ。ごめんね、ほんのちょっとだけなんだから、我慢して。」可哀想と思いつつも、私は心を鬼にして薬を彼女の手に握らせた。

ミホは観念したように白い液体を口に流し込む。吐きそうになる。私は用意しておいた水のコップをすぐに差し出す。水も一気に飲みほす。はぁっと深い溜め息をついて、ソファの上に横たわる。私はすぐ隣のキッチンの流しで薬のカップを洗う。後ろからミホがか細い声で私に言う。

「ママ・・・ 大好きよ・・・」

私は振り向くと、ソファの上のミホに駆け寄って、彼女をそっと抱きしめた。頭を何度も何度もなでた。愛しさが込み上げる。苦しいくせに。薬はまずくてとっても嫌だったくせに。それでもそんな薬を無理矢理飲ませた私のことを、大好きだと言ってくれるの?

実は、四年くらい前にも同じようなことがあった。二才になったばかりのミホは小児喘息で、この日も喘息の発作で息が出来ずに苦しそうにあえいでいた。私の腕の中に抱かれて、喉をゼイゼイならしながらも私を見上げて何かを言いたそうにしている。「助けて!」「何とかして!」そう言いたいに違いない。ミホの顔が赤紫色に変わっていく。私には彼女を膝の上に抱えて背中をさすってあげることしか出来なかった。そのうち咳とともに大量の痰を吐き出し、ようやく息をついだミホは私を見上げてこう言ったのだった。

「ママ、すき。ママ、すきよ。」

ミホの私への愛、全き信頼、そしてそこから来る平安。母親の腕の中に抱かれ守られているという事実を知っていたから、たとえ苦しみの真っただ中にあっても、彼女の口から出てきたのは私への愛の告白だった。

私には出来るだろうか。苦しみの真っただ中にあるとき、死にそうにつらい訓練を通されているとき、自分が主の御腕のなかにしっかりと抱かれていることを自覚し、そこに平安を見出せるだろうか。「主よ、なぜですか?」ではなく、「主よ、あなたを愛しています!」と言えるだろうか?

「私は愛されている」という確信は、人をかくも強くさせる。どんな状況にあっても、揺るぎない平安を与えてくれる。なぜ苦しみを通らなければならないのかはわからない。なぜ時に神様は、私たちの叫びに対して沈黙を保たれるように見えるのかはわからない。でも構わないのだ、「なぜか」なんてことは知らなくても。たとえ神様が説明して下さったとしても、私の理解をはるかに越えているに違いない。結局のところ、私に忍耐と平安を与えてくれるのは、「なぜ」に対する答えではなく、ただ神様は私を愛しておられると知っていることだけなのだから。だから私はただ神様に寄り添いたい。ミホの手が無意識のうちに私を探し、探しあてた私の手をギュッと握るように、私の霊も神様を求める。私がミホの小さい手を私の両手でギュッと包み込むように、神様の御腕もまた私を抱きしめて下さる。私は愛されているのだ。

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。
 私は、神なる主を私の避け所とし、
 あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。
」詩篇72篇28節

BACK

TOP

4gzus@nakamurafamily.net