ホーム日記はちこの日記(リバイバル新聞)二月

2月×日 天の宝物倉

先日友人からこんな証を聞いた。独り暮らしの彼女は長い間失業していて、その間様々な罪を示され悔い改めの日々だったそうだ。長期間に渡る苦しみの後、ついに仕事は与えられたが、それでも什一献金をしないことは神様のものを盗むことであると示され、昨年初めから、什一献金を実践し始めたのだそうだ。マラキ書三章十節で神様は「十分の一の捧げものを携えて来て、わたしが天の窓を開いて溢るるばかりの恵みをあなたに注ぐが否かを試してみよ」とおっしゃっているが、彼女は「神様がどれだけ私に恵みを注いでくださるのか、神様御自身が試してみよとおっしゃっているのだから、私は試してみる」とも言っていた。暮れの押し迫った頃、彼女がマンションを購入したと聞いた。思いがけず希望通りの物件が見つかったうえに、その職に就いて間もなかったので住宅ローンはそう簡単にはおりないだろうと覚悟していたにもかかわらず、あっさりおりたのだそうだ。「什一献金の恵みは物質的、金銭的なことだけじゃなかったわ。それ以外にもずっと祈っていたことが答えられたり、この一年、神様はいろんな面で私を祝福して下さったの。神様は御言葉通り、天の宝物倉からいくらでも私たちを祝福してくださろうと、待ち構えておられるのね。」

恥ずかしながら、私と主人が什一献金を実践するようになったのは、この8年くらいのことだ。それまでは、毎週適当な額を適当に捧げていただけだった。しかしある時、主人と私のそれぞれに、「この家庭を神様に捧げ、神様に導いていただこうと真剣に思うのなら、私たちはまず『献金』においても見直しをしなくてはいけない」という思いが強く与えられたのだ。私たちが心から「神様が私たちを導き支えて下さることを信じます、神様に信頼します」と告白するのであれば、その告白が正直なものであることを具体的に示すのが献金ではなかろうか、家計というはっきり数字に現れてくる部分で神様を信頼出来ないのであれば、どうしてそれ以外の目に見えにくい部分においても神様を信頼することが出来ようか、私たちはそう思ったのだ。

主人の給料は毎月月末に振り込まれるので、その次の日曜日に振り込まれた額の十分の一を什一献金として、そして毎月特定の額を「宣教献金」や「会堂献金」などとして捧げるようにした。またシカゴ大学でのキャンパスミニストリーや他の働きのためにも定期的に献金するようになった。

正直なところ、はじめのうちは、月収の十分の一プラスアルファを月の初めにまとめて捧げるのには緊張した。でも、主に捧げるものなのだから、毎月残った分からこれくらいなら大丈夫という額を捧げるのでなく、月の初めにまず主に捧げる分を「初物」として取り分けて、残った分で生活すればいいのだ、と主人と話したものだった。

什一献金を実践するようになって間もなくの頃、毎月の支出が収入を上回ってしまい、どう切り詰めても貯金を崩していかざるを得ないような状態が数カ月続いたことがあった。「このままだと一年もしないうちに貯金が底をついてしまうわよ」と主人に思わず愚痴ったことがあるのを覚えている。しかし彼は、献金を減らそうとはもちろん言わなかった。

今にして思うと、あれは神様が私たちを試しておられたのかもしれない。神様は什一の捧げ物を持って神様を試してみよと言われるけれど、一方で私たちが捧げ物をするときの動機や心のあり方も御覧になっておられるのかもしれない。

その後、いつの間にか私たちは経済的危機から脱していた。以来、あの時のような危機に瀕したことは一度もない。

前述の友人が言っていたように、什一献金の恵みは経済的なものに留まるものではないと思う。この8年を振り返って、神様はいかに多くの祝福を私たち家族の上に注いでくださっていたことか、ただただ感謝に絶えない

BACK***NEXT

TOP

4gzus@nakamurafamily.net