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先月、私の教会を訪れた宣教師の先生が、こんなことをおっしゃっていた。 「宣教は、教会のプログラムではなく教会のパッションです。宣教は、the multitude (大勢)に届こうとするものではなく、the individuals (個々の人々)に届こうとするものなのです。まさに聖書が『That None Perish (ひとりとして滅びることのないように )』と言っているように。」 「一人として滅びることのないように」、これは確かに神様御自身のパッションであり、私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で血を流して死んで下さったイエス様のパッションではないか。 パッション(情熱)・・・ この言葉には燃え盛る感情の渦のようなものを感じさせる。よく、信仰は感情の問題ではない、というようなことを聞く。確かに感情「だけ」の問題ではないだろうが、感情抜きの信仰というのも、私には考えにくい。同様に、愛は感情ではなく意志である、ともよく言われる。これもまた、意志だけで感情の伴わない愛というのは、私にはあまりピンとこない。 聖書を読んでいると、神様ご自身がいかに情熱に満ちた感情的なお方であるかがわかると思う。「万軍の主の熱心(Zeal)がこれをなす」という表現は旧約聖書中繰り返し出てくるし、神様がイスラエルの民を愛し、追い求めておられる様は、まさに情熱的としか言いようがない。さらに「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」というくどいまでの戒めは、信仰を持って神様に従うことが感情抜きでは済まされないことを示唆しているだろう。ジョナサン・エドワーズも「宗教感情論 (Religious
Affections)」という著書のなかで、「真のキリスト教信仰は、その大部分が感情に存する」と論じている。 信仰にしても、愛(結婚)にしても、その始まりは往々にして強い感情を伴う。ただ、人間の感情は時とともにうつろい易いので、感情だけに自分の信仰や結婚のコミットメントの基盤を置くならそれは長続きしないだろう、という危惧が多くの人のなかにあるのだと思う。しかし、本当に大切なのは、最初に燃え上がった感情を意志の力にすり替え、感情を置き忘れてくることではなく、むしろそれをいつまでも燃やし続けていくことではないだろうか。エドワーズも言っていたが、人間とは、愛や恐れ、希望や願望や憎しみといった感情に影響されない限り非常に不活発な存在であり、そのような感情こそ、人間の諸活動の原動力となっているのだ。神様が人間をそのような者として造られたのだ。そのためだろうか、ペテロは自分の使命は人々の心を再び「奮い立たせる」ことであると言っているし(第2ペテロ1:13、3:1)、パウロもその書簡の読者に向かって「霊に燃え」よ、「再び燃え立たせ」よ、と力強く勧めている(ローマ12:11、第2テモテ1:6)。 実際、イエス様の十字架を通して現わされた愛と恵みの広さ深さを知れば知るほど、私たちの信仰はますます感情的にも燃え上がり奮い立たされないだろうか? このような感情は、私たちが日々御言葉と祈りを通して、また日曜日ごとの礼拝を通して、神様と親しい交わりを持ち続けている限り、そう簡単に時とともに薄れていくようなものではないはずだと思う。成熟した安定した関係とは、必ずしも感情による盛り上がりのない、淡々としたものである必要はないのだ。 そういえば、先週私の家で聖研がもたれたのだが、最初に到着したご夫婦を居間に通して、私はキッチンでちょっと用事を済ませてから居間へ顔を出したら、そこではそのご夫婦が抱き合ってキスをしていたのでびっくりしてしまった。20代の新婚さんというならともかく、奥さんは40代後半、御主人は50代半ばで、数年前に結婚25周年を迎えた二人なのだ。いやはや、大変結構ですなぁ。やっぱり、いつまでも感情の伴った愛を夫婦の間でも保ち続けたいものだと思ってしまった。そしてもちろん、私のイエス様への愛も。 |