ホーム日記はちこの日記(リバイバル新聞)八月

8月×日 律法と親心

  
最近ミホ(5歳)はアイススケートを始めた。初心者であるにもかかわらず、いきなりガンガン滑ろうとするから見ている方が緊張する。今日はレッスン日だったが、まぁ転ぶこと転ぶこと。本人はフィギュアスケーターを気取ってか、手を上げたり片足をあげたりスピンの真似事をしたり、そうかと思うとまだ不安定なくせにものすごい勢いで疾走する。嬉しくて興奮しているらしく、ミホの笑い声がリンクに響いている。 ミホが激しく転ぶたびに私は心臓が縮む思いだ。下手な転び方をすれば、どんな大怪我をするかわからない。 あんなにヘラヘラ笑っていては、転んだ時に舌を噛みちぎるかもしれない。観覧席の母親たちの間からは、それぞれの子供が転倒するたびに「ああっ」とか「きゃあっ」という悲鳴があがる。

45分のレッスンが終わってリンクの外に出てきたミホをつかまえると、スケート靴を脱がせながら私は早速ブツブツお説教を始めてしまった。

「いい、ミホ? あんなに早く滑らなくてもいいのよ。転んだら危ないでしょう? それに足はいちいち高く後ろに蹴りあげないの。そういうふうに滑るから転ぶのよ。それから・・・」

ママに褒めてもらえるだろうと意気揚々と出てきたのに、いきなり小言の雨でミホはふてくされてしまった様子。「はい」と返事をしながらも、口がとんがっている。そして小さい声でこう言った。 「でもママ、あたし、自分が好きなように滑りたい。」

ごめんね、ミホ。褒めるのも忘れていきなり小言ばかりで。でもママは心配で心配で、どうしようもないのよ。上手になったらいくらでも好きに滑っていいから、それまではお願いだからママの言うことを聞いてちょうだい。ママはあなたの自由を奪いたくてこんなことを言っているんじゃないの。あなたの安全のためなのよ。 ママにはあなたを指導し、守る義務がある。いずれ上手になったら、意識しなくても安全に滑れるようになるから、それまではママの言うことを聞いてちょうだい・・・

ふと、先日クリスチャンの友人と交わした律法主義についての会話を思い出した。「クリスチャンは自由を得るために召されたのに、いつの間にか律法の奴隷のようになっていて、イエス様の恵みを無にしているわよね!」と私達は話していた。しかしよくよく考えてみると、律法を守ること自体は少しも悪い事ではない。何しろ神様御自身が、私たちがこの世で幸せに長く生きるためにと与えて下さったものなのだから(申命5:32、3)。神様が与える戒めとは、まさに神様の私たちに対する親心の現れなのではなかろうか。つるつる滑る危険に満ちたスケートリンクに愛する娘を送り出す私があれこれ決まりを与えずにはおれないように、神様もまたご自分の愛する民を邪悪なこの世において守るために律法を与えられたのだ。

「おまえたちがこの世で生きている間は、お願いだから私の戒めを守っておくれ。おまえたちが敵によって傷つけられるのを見たくないのだ。私の霊に満たされて歩むうちに、律法は苦でなくなってくる。私は愛する我が子たちを守りたいのだ!」愛に震える神様の御声が聞こえてくるようだ。 私たちが律法主義批判の名のもとに律法そのものを否定してしまうなら、天のお父様はどれだけ悲しまれるだろうか。「わたしを愛する人はわたしのことばを守る」とイエス様も言っておられる。

「ママ、早く〜!」運動靴に履き替えたミホが建物の出口で私を待ち構えている。このせっかちさんを守るために、私の愛の戒めは当分続きそうだ。

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