ホーム日記ケンブリッジ日記12月

はちこのケンブリッジ日記

12/31/2001

メールが相変わらず不調の様子。届いているものもあるのに、複数の方から私に出したメールがはじかれて戻ってきましたとの御連絡をいただいた。 はじかれていないのに、それでも私には届いていないというメールもあるみたいだし。どうもメールが届いていないのでは? という疑いのある方は、こちらの方に試してみてください。villageinn2@yahoo.co.jp

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今日は一日、掃除(大掃除というほどではない)と、五日からのスキー旅行の準備でドタバタしていた。そういえば風邪の方は、土曜日一日休んだら、すっかりよくなっていた。感謝。

夕食後には、家族で今年一年を振り返って恵みを数え、感謝のお祈りをする時間をもった。あっという間の一年だったようだけれど、恵みを数え上げてみると、出てくる出てくる・・・

今年はケンが生まれたり、イギリスに来たり、それからファミリーデボーションを始めたこともあって、家族の絆が一層強まったような気がする。

あれも今年の出来事だったっけ、これも今年だったっけと、みんなで大笑いしたりしみじみしたり。振り返ってみれば、確かに苦しかったこと、辛かったこともあった。特にエミの学校でのトラブルには随分しんどい思いをしたものだった。でも神様は確かに私たちのことを、抱きかかえて共に歩いていてくださっていた。

子供の成長にともなって、これからさらなる試練やチャレンジに出会うだろう。

世界の状況を考えても、何が私たちを待ち受けているかわからない。

今、私がこれを書いている隣ではぼぼるパパが来年の確定申告の準備としてレシートの整理を、後ろではエミとみんがモノポリーをやっている。12時過ぎるまで起きているぞと頑張っているらしい。 みんとケンは二階でお寝んね。

当たり前のようなこんなささやかな「幸せ」が、来年も当たり前のこととして享受できるのか、誰にもわからない。

ただ私にとっての希望は、主が私たちに与えて下さる平安は、この世が与えることの出来る平安とは違うということ。

私が持つ平安は、この世の状況には拠らないのだということ。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 (ヨハネ14:27)

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。

あなたがたは、世にあっては患難があります。

しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。 (ヨハネ16:33)

そして、この世の状況がどんなに急激に移り変わろうとも、イエス様だけは昨日も今日も、いつまでも変わらないお方。

ハレルヤ、ただイエス様の御名だけに全ての栄光がありますように。

この日記を読んで下さっている全ての方々も、イエス様の平安のなかにおられますように。

豊かな人生のための4つの法則

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このHPも、すでに四年近く続けさせていただいていることを神様に感謝します。 こんなふうに極私的なHPでありながら、読みに来て下さっている皆さまにも心から感謝です。 そして、多くの方々からたくさんのメールをいただいたことも、私にとってどれだけ大きな励ましになっていたことでしょうか。返事がすぐに出来ないことも多くてごめんなさい。

中村ファミリーのことを覚え、お祈りくださった皆様、本当にありがとうございます。皆様のことも主に感謝し、神様の豊かな祝福があるようにお祈りいたします。

2002年がどのように激動の1年になろうとも、皆様の歩みが神様の御臨在のなかにあっていつも平安と喜びに満たされたものとなりますように!

皆様の地境が広げられ、御手が共にありますように!

皆様が災いから遠ざけられ、苦しむことがありませんように!

2002年もよろしくお願いいたします。

12/30/2001

2001年もあと一日で終わり。毎年同じようなことを言っているかと思うけれど、今年も短かった! でも、今年は例年以上にビッグなことが多かった年かもしれない。

何と言っても、三月には長男が生まれた。 わが家の四人目の子供。そして七月末には家族でイギリスに引っ越して来た。それから「ヤベツの祈り」の翻訳もさせていただいたし。なかなか変化に富んだ賑やかな一年間だったなぁ。

今、隣にいるぼぼるパパに「今年もあと一日で終わるね」と声をかけたら、「うん、一月四日にはディズニークエストに行ったよなぁ」だって。よくそんなこと覚えてるねぇ。(ディズニークエストについては、2001年1月7日の日記を御参照ください。)それにしても、この一年を振り返ったときにまっ先に思い出すのがディズニークエストなわけ?(笑)

今年の一月の日記を見てみたら、冒頭にピリピ3:12〜14の御言葉が掲げられていた。新年、新世紀を迎えるにあたって、2000年12月末に与えられた御言葉らしい。(って、忘れてたの?<自分)

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。

ただ捕えようとして、追求しているのです。

そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。

ただ、この一事に励んでいます。

すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに 前のものに向かって進み、

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる 神の栄冠を得るために、

目標を目指して一心に走っているのです。

今、あらためて読み返してみて、心からアーメンと思った。そして、この中でも特に「そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです」の一節が心に留まった。

子供が高いところにある木の実を取ろうとしている。

子供の手には到底届かないけれど、

お父さんが子供を抱き上げ、

その両腕を木の枝に向かって伸ばし、

子供の手がその実に届くようにと助けてあげている・・・

なんだかそんな場面が浮かんで来た。

鼻先にぶらさげられたニンジンを食べようとして、決して届かないのを知らないで走り続けさせられる競走馬とは違うんだ。神様の目的は、私たちがそれを得ることなのだ。

そのためにイエス様が私を捕らえてくださっているのだから、来年も走り続けよう。走り続けることが出来る。

12/29/2001

風邪をひいてしまった。夕べは39度近い熱があって、ぶるぶる震えていた。今もだるい。

でも実は昨日は、家族でロンドンまで行って、ハロッズでウィンドウショッピングをして来たのでした。朝から具合は今いちだったけれど、行きたかったので無理をしたらこのていたらく。あああ。

12/27/2001

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。 (ローマ12:18)

これは、私がいつもチャレンジを受け、また励まされる御言葉のひとつ。(そういう御言葉はたくさんあるんだけれどね。)

まず、「自分に関する限り」という部分。私には他の人の感情や行動をコントロールすることは出来ない。誰かとトラブルを起こしたとき、私には謝るという行為を選び、それを実行するチョイスがある。『私はあなたを主にあってアガペーします(愛します)』という意思表示をするチョイスがある。

しかしそれに対して相手がどういう反応をするかは、私にはどうしようもない。私の謝罪を受け入れてくれるかもしれないし、拒絶されるかもしれない。

でもそれはかまわないのだ。

主の御前にある私の責任は「自分に関する限り」すべての人と平和を保つことなのだから。

私がやるべきことをやったら、あとは主にお任せすればいいのだから。

次に、「すべての人と」という部分。あの人とは和解できるけど、この人とはしたくない、出来ない・・・ついより好みしたくなってしまうが、この御言葉はそれでいいとは言っていない。出来る人とだけ平和を保てれば、それでいいんですよ、とは言っていない。

すべての人と」平和を保ちなさいと言っているのだ。

すごいチャレンジ。

しかも、第三に、「平和を保ちなさい」という部分。これは命令形だ。してもしなくてもどっちでもいいことではなく、なるべくそうしましょうね、ということでもなく、しなくてはならない、ということだ。うわぁ、それはちょっと・・・ と言いたくなる。

でもここで、第一の部分にもどる。

あなたがたは、自分に関する限りすべての人と平和を保ちなさい・・・

そう、この御言葉は、あくまで主の御前における私の選び取りについて語っているのだ。他の人の選び取りは、その人と神様との間の問題なのだから、私がそのことでくよくよ思い悩む必要はない。そのことで私が自分を責める必要はない。だから、チャレンジを受けるけれど、励まされる。

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昨日へんなモノを食べたらしくて、突然顔が腫れた。顔中痒くて真っ赤になり、目も半分しか開かなくて。

四歳の娘に、「ママのお顔、uglyになっちゃったよ〜」と言うと彼女は「No, Mom. It's not ugly.」

ありがとうね・・・ と頭をなでなでしたら、彼女は真面目な表情で

「It's just......  red. But, I like it red! Red is my favorite color!」

もう大笑い。

(私の顔の方は、今朝になったら落ち着いてほぼ元に戻りました。ああよかった。)

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わが家の長女、 十歳。

思春期予備軍。

第二次反抗期に向かって助走中。

本当に子供って、あっという間に育っていくのですね。

いつまでも赤ちゃんではいてくれない。

私とは異なる人格をもった一人の人間。

あぁ神様。

この愚かな母親に知恵をください。

12/26/2001

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、

この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

これは律法の下にある者を贖い出すだめで、

その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。(ガラテヤ4:4、5)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。

ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 (第一ヨハネ4:9)

神のひとり子であるイエス様が人となってこの世に生まれてくださったおかげで、

罪のもとに閉じ込められていた私が、神の子にしていただけるようになった・・・

何という理不尽。  何という知恵。  何という愛。

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昨日は、予期していなかった形での、とても素敵なクリスマスを祝うことが出来た。

普段私たちが通っている教会は、昨日は市内のアッセンブリー教団の教会と合同クリスマス礼拝を持ったのだが、場所が車を持たない私たちには遠すぎるところだったので、私たちは歩いて行ける近場の教会でクリスマス礼拝を守ることにした。近場の教会といっても、五分くらいで行ける距離にだってよりどりみどりというくらい沢山ある。

イエス様を救い主としている教会ならどこでもよかったので、何となく、マーケットスクエアにあるHoly Trinity Church にしようかな、と思って子供たちを連れて歩き始めた。しかし、途中でSt. Andrews the Great 教会の前を通りかかったら、賛美歌が聞こえて来て、あぁ、こっちの方が近いし、こっちにしようか、と急遽予定を変えてこちらの教会の中に入っていった。

ステンドグラスの美しい築数百年の古めかしい石造りの教会which is very typical for churches in England.ちょうど礼拝が始まったところで、すでに人がいっぱい。私たちは二階のバルコニー席へ案内された。表から見える重々しい雰囲気とは違い、礼拝の雰囲気はとてもカジュアルだった。子供たちも随所でガタガタしており、キャロルの途中では子供用にタンバリンや鈴などをたくさん出してきて皆でシャンシャンやるという一幕も。そしてメッセージが始まると、小さな子供たちを前に呼んで彼らと目線を合わせながらのお話。内容もとてもわかりやすく、しかも深くて非常によかった。

一時間あまりの礼拝後、さあ帰りましょうか、と人の波にもまれながら出口に向かっていたら、

「あっ、来てくれたの!?」と私を呼びとめる人が。振り返ると、エミたちの学校で一度だけ話したことのあるご婦人だった。

12月の初め頃、「クリスマス会をやるのでよかったら来ない?」と突然話しかけられたことがあったのだ。彼女に誘われたから来たというわけでもなかったのだけれど、知った顔を見たら嬉しくなったのでちょっと立ち話。

この後、留学生むけのクリスマスランチョンがあるから是非残って行きなさいよ、と強く勧められたので、素直に御招待を受けて残って行くことにした。

ランチョンの準備が出来るまで、子供たちは別室でクリスマスのビデオの鑑賞。大人たちはホールでとっても美味しいオレンジ風味の暖かい飲み物をいただきながらポテトチップやクラッカーとチーズなどをつまむ。

留学生向けのランチョンというだけあって、いろんな国の人たちがいて、私も学生時代に戻ったような気分でみなさんとのおしゃべりを楽しんだ。子供たちの方も、学校で顔見知りの子たちが何人かいたらしく、全然物おじしないで嬉しそうにしていた。

一時間あまりしてから礼拝堂へ降りていくと、そこは見事にランチョン会場に変身していた。

イギリスのクリスマスの習慣に「クリスマスクラッカー」というのがある。テーブルの各プレートのうえに乗せられていて、食事の前に皆でパーン!と鳴らすらしい。そして鳴らすとクラッカーの中からはパーティーハットとジョークが書いてある紙きれとささやかなおもちゃが出てくる。うちの子供たちはこの習慣がすっかり気にいった様子だった。(笑)

感謝のお祈りをしてからパーンとクラッカーを鳴らし、それからお食事。

私を誘ってくれたご婦人が隣に座り、いろいろ話していたら、何と彼女はご主人のサバティカルのためこの夏にアメリカはミシガンから来たばかりだということがわかった。しかも彼女はスリランカ人でアメリカには15年あまり住んでいるという。私はそれを聞いて目がテン。私とそっくりの境遇ではないですか!

私も夫のサバティカルで夏にシカゴから来たばかりなのよ、と言うと、彼女も口をアングリ。そして二人でプププッと笑ってからお互いの手をとりあい、「これからもずっとよろしくね!」

食事の後はみんなでゲーム。そして留学生たちが各国のクリスマスソングを披露してくれたり、アフリカの踊りを踊ったり、パペットを使ってのお話があったり、午後三時になったらテレビをつけて、エリザベス女王のクリスマスの挨拶に耳を傾けたり。最後にはクリスマスプレゼントまでいただいて、帰宅したのは夕方五時過ぎだった。

私も子供たちも、とても初めて来た教会とは思えないくらいすっかりくつろいでしまった。そのくらい居心地がよくて、愛に溢れていたのだ。留学生のお客さんのほとんどはノンクリスチャンで、彼らのために今後もいろいろなイベントが企画されているらしい。私自身、以前は留学生だったので、クリスマスのようなファミリー中心になりがちの時期に、彼らに居場所や交わりを提供することがどれだけ尊いことかよくわかる。次回は私も是非、ヘルパーとして参加させていただきたいと思った。この教会なら私の家から徒歩五分なので、食事を作って持っていくことも出来るし、後片付けでも事前の準備でも、証しでも日本の歌を歌うのでも(踊りはちょっと・・・(^_^; )、何でもやらせていただきたいものだ。

所属教会を問わず、いわゆる「超教派」というのでもなく、イエス様のためならこだわらずに一緒に何かをさせていただきたい、というこの感覚、私にとってはイギリスに来てから生まれてきたもので、このような気持ちを味わえることを嬉しく思う。

そんなわけで、神様のgenerousな愛をたっぷりと味わうことの出来た素敵なクリスマスを過ごしたのでした。

12/23/2001

はちことケンより皆様へメリークリスマス! 土曜日に近所のショッピングセンターで撮った写真です。

  

12/22/2001

私たちは地上では旅人であり寄留者であるということ・・・ イギリスに来てからそれがものすご〜くピンとくるようになった。

私がイギリスで住んでいる家は借家。一年間しか住まない。その期間が住めば、シカゴの私の本当の家に帰る。 

一年しか住まない借家なのだから、この家のインテリアに凝るとか、改築しようかしらとか、そういう部分に気持ちを傾けるのは無意味だと感じる。

それよりもむしろ、シカゴに持って帰ることの出来るものにもっと心もお金も時間も注ぐ。

しかし、どうせ仮住まいだからといって、ここでの暮らしをいい加減にするわけにはいかない。

掃除はしなくちゃいけない。メンテもきちんとしなくちゃいけない。日々の暮らしは堅実に、地に足をつけてやっていかなくてはいけない。

シカゴに帰る日が来るまで。

私はここでの生活を楽しんでいる。でも、心はシカゴに帰ることを待ち望んでいる。いずれは本当の家に帰ると思えばこそ、ここでの不便も、不都合も、何でも我慢できる。

私は寄留者。

私には、帰るべき本当の家がある。

ハレルヤ、感謝!

12/21/2001  

今日はま〜やはクラスメートのヴィクトリアの誕生日パーティー。ここ数日体調が今いちだったので、行けるかどうか心配だったけれど、何とか持ち直したのでパパに連れていってもらった。

夕食のあと、パパがしみじみと嬉しそうに、「今日はま〜やがヴィクトリアのパーティーにいって楽しく過ごせたから本当によかったよ」と言うのを聞いて、あぁ、私はいい人と結婚したなぁと思った。

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夕方からはイーデンリリーでケンのポートレートを撮ってもらって来た。初めのうちは機嫌がよくて、たくさん可愛い笑顔を見せてくれたけれど、途中からだんだん飽きてきたのか、嫌な顔しかしなくなったのでそこで打ち切りにした。一月の第一週めくらいに出来るとか。楽しみだね。

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最近のケンはよだれがすごい。
まるで牛。

この牛は手につかんだものは何でも口のなかに入れる。
めぼしいものを見つけると
狙いを定めてハイハイしていって、
そしてつかんで口のなかに入れる。

ママがあげる御飯よりも、
自分でひろった紙屑の方がお好きなようだ。

ちょっと油断するとすぐにクエっとかオエっとかなったりする。
紙屑なんか、後生大事に口のなかに入れておいてどうするの?
汚いし、飲み込んじゃったらのどに詰まって危ないのよ。

「ほらっ! 口あけてごらん!」
ケンを膝のうえに逆さまに抱いて
強情そうにキッと閉じている口をこじあける。

抵抗するのなんのって。
涙流して怒る。

それでも私は手をゆるめない。
愛しいわが子の口の中から異物を取り出すまでは。

しばらくもみあって、
ついにくたくたになった紙片を口のなかから引っ張りだすことに成功。

ほ〜ら。
すっきりしたでしょ。

逆さまにされていたわが子をしっかり両腕に抱きかかえる。

本人も嬉しそうに私の胸に頭をすりよせる。

よし、可愛いぞ。

牛から子犬に昇格してあげよう。

12/19/2001

あぁ、今日は朝から頭痛がする。娘3人もみんな咳をしているし、またもや風邪か。

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シカゴの友達から送られてきた御言葉カレンダーをめくっていたみんが私に聞いた。

「Mom, what does "The Lord is my shepherd; I shall not want" mean?」

「それはね、Because the Lord is my shepherd, I have everything I need とか、そんなような意味よ。」

「Oh! I thought it meant "The Lord is my shepherd that I do not want"!!」

ぷはは。 確かに。 間の取り方によってはそういう意味にもとれるかも。

笑っちゃうね、子供ってほんとに面白い。

しかしねぇ・・・

笑いながらふと思ったけど、案外私の日々の歩みも、うっかりすると

The Lord is my shepherd that I don't want.

になってることがあるかもしれないなぁ・・・

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昨日はぼぼるパパがお泊まりで学会出席のため、私は一人で子供達とお留守番だった。イギリスに来てからは初めてのことだったのでちょっぴり心細いかなと思ったけれど、子供たちもよく協力してくれたので全然問題なかった。

今朝はみんな普段より少し早起きして、いつもの時間よりちょっと早く家を出る。

通常はパパがエミとま〜やを、私がケンを連れてみんを、それぞれの学校へ送りとどけるのだが今朝は両方を私がしなくてはいけない。

まず全員を引き連れて近くのタクシー乗り場へ行き、六人乗りのタクシーが来るのを待つ。うまい具合に二台目に来たのが六人乗りだった。このタクシー、サイズはミニバンくらいあり、中は結構ゆったりしていて、ケンはベビーカーごと乗せるようにと指示された。

これで最初にエミたちの学校まで行ってエミとま〜やを降ろし、そのままみんの学校まで回ってもらってみんを送りとどけ、そこからは私は歩いて帰って来る、という算段。

しかしタクシーのなかでま〜やが何度も咳き込み、目もうるんでいてつらそうだったので、急遽学校は休ませることにした。 エミとみんをそれぞれの学校で降ろして、さあ私たちは歩いて帰ろうか、というときに、ま〜やが「歩けない〜」と愚図った。まぁ身体がつらいのではしょうがない。

ま〜やを片腕にだっこしてケンの乗ったベビーカーを押して歩き始めたが、やっぱり重たくてだめ。そこでケンをだっこしてま〜やをベビーカーに乗せることにした。それでもあまり楽ではなかったけれど、家まで15分あまりの道のりだし、ゆっくりのんびり歩いた。幸い今日は快晴で気持ちのいい朝だった。これで雨でも降ってたらつらいものがあっただろうけど。

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主権・・・  私の人生における神様の主権。この天と地と、すべてにおける神様の主権。

それを私がどこまで受け入れることが出来るかで、

私の歩みが勝利と平安に満ちたものになるか、

それともみじめさと不安に侵食されたものになるかが決まると思う。

神に失望するか、

それともますますの希望をおけるようになるか、

それが決まると思う。

○ El Elyon(いと高きお方)

12/18/2001

あれ、もう18日だ。 毎日忙しい。月曜日のエミのクリスマスコンサートはなかなかよかった。エミはヴァイオリン。うまい具合にケンが寝てくれたので、今回は思う存分8ミリをまわすことが出来た。(^^)

さて、あさってから子供たちの学校は冬休み。1日中子供たちが家にいるのは恐ろしいが(^_^;)送り迎えをしなくて済むことを思うとやはりホッとする。

昨日、エミと同じ学校にお子さんが行っている日本人の奥さんと話していたら、「お子さんが四人いて、毎日遠くまで送り迎えしてらして、音をあげていないから偉いわぁ」と言われた。

いや〜、音をあげたいのはヤマヤマなんだけど、こればっかりはそうもいかないしねー。「今日はママ、疲れちゃったから、学校に送っていくのはやめるわ。」とは言えないでしょー。そのかわり、他で手を抜ける部分はたっぷり手抜きしてますから。(笑)

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忙しいと書いた直後にこんなことを言うのも何だけど、今また、翻訳の仕事をやらせていただいている。「ヤベツの祈り」の著者、ブルース・ウィルキンソン師の二冊め、「Secrets of the Vine」という本。タイトルの通り、ヨハネ15章のぶどうの木のたとえの箇所を講解しているもの。

ぶどうの木であるイエス様につながって、ぶどう園の農夫である御父によって入念に手入れされ、枝である私たちが豊かに実を結ぶとはどういうことなのか、シンプルにストレートに教えてくれる。

〆きりが一月末で、四月頃の出版をめどにしているらしい。

忙しいのによくやるね、と言われそうだけど、何ていうのかな、神様が私のところに流れてくる流れの水門を調節してくださっていて、決して私が溺れてしまうような量の水は流れてこないようになっている、というか。

神様の導き、お示しに忠実に従順に従っている限り、絶対に溺れない確信と平安がある。流されているので私は自分で必死に泳ぐ必要はない。でもその流れは早すぎないので、私の頭はちゃんと水面から出ていて、まわりの景色を楽しむゆとりもある。

そんな感じ。 

12/15/2001

昨日の朝食の時のこと。

いつものようにみんとま〜やにオレンジジュースを入れてあげた。みんにはコップ三分の二くらい、ま〜やはいつもそれほど飲まないのでコップに半分くらい。するとみんは自分のコップをま〜やの方に差し出して自慢気にこう言った。「私の方がたくさん入ってるぅ!」明らかにムッとしたま〜やは「私の方がたくさん入ってるもん!」二人はお互いのコップをぐいぐい押し合って、「私の方が!」「私の方が!」ともみあっている。

何とくだらないいがみ合いをすることか。

オレンジジュースならまだ冷蔵庫のなかにたくさんあるのだから、欲しければいくらでもコップに注ぎ足してあげることが出来るのに。私が入れようと思えば、ま〜やのコップにより多くのジュースを入れることも出来るし、みんのコップにおかわりをいれてあげることだって出来る。 どうしていちいち人と比べて「自分の方が!」と思いたがるのか。

第一コリント4:7の御言葉が思い出された。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

最近どうも娘たちの間のケンカが目に余る。分かち合うことさえ学ぶならば。 相手の特技や才能を尊重して、助け合い、教え合うことさえするならば。なぜいちいち張り合うのだろう? 母はとっても悲しいよ。

しかし・・・ う〜ん、神様は実は私にも同じことを語っておられる気がする。

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火曜日、水曜日の全部で四回にわたるエミとま〜やの学校のクリスマス発表会は大成功で、それはそれは素晴らしかった。ま〜やにとっては特に体力的にもかなり厳しかったと思うが、本当によく頑張った。しかしさすがに疲れが出たらしく、木曜日の朝には首のリンパ腺が少し腫れてしまっていた。学校を休ませようと思ったのに、本人はどうしても行きたいとゴネたため行かせたところ、やはり帰宅の頃にはぐったりしていて、その晩は夜六時半にはダウン。朝まで熟睡していた。金曜日の朝には気分爽快!といった様子で起きてきて、また元気に登校。強いね、あの子は。

水曜日の夜のみんの学校のキャロリング礼拝はなかなかよかった。牧師さんのメッセージが子供にもわかりやすくて、公立の小学校なのに教会(英国国教会)の付属で、こうやってイエス様を中心にした本来あるべき姿のクリスマスを学校でも祝うことが出来るなんて、なんと言う幸いだろう。(ちなみにこれはエミたちの学校でもそうだった。教会付属ではないものの、発表会での出し物はどれもこれも、クリスマスの本当の意味--救い主なるイエス様の誕生を祝う--を強調するものばかり。公立の学校ではクリスマスのことを「ウィンターフェスティバル」と呼ばなくてはいけないアメリカから来た私にとっては、感激と驚きの連続だった。)

みんたちの歌声を8ミリに収めるべく早めに行って最前列に座っていたのに、いざ始まったらケンが泣き始めてしまった。私の後ろに座っていたフランス人の御夫妻が「シュブシュブシュブ・・・(フランス語って、知らない人にはシュブシュブと言っているように聞こえません?)」とケンをあやしてくれたのだけれど、ケンはますます泣きわめく。右手に8ミリ、左腕にケンを抱きかかえていたため、カメラが揺れる、揺れる。天井と床を行ったり来たりしていたことだろう。結局どうにもならなくなり、私はケンを連れて泣く泣く中座。 やれやれ。

木曜日の夜はみんの学校でディスコ。エミの学校でも来週あるのだけれど、二人を別々に夜に連れて行くのはあまりに大変なので、二人まとめてみんの学校のディスコに連れていった。PTAが主催で、一人2ポンド(約300円?)の入場料を取るが、収益金はアフガニスタンの援助に送られる。(ちなみに、エミの学校では発表会をビデオに録画し、それを一本8ポンドで父兄に売り、その収益金はヨーロッパの恵まれない子供達を援助する団体に寄付される。)

来週の水曜日が今学期最後の日。毎日忙しかったけれど、子供たちはみんないい経験をしているので本当に感謝。

冬休みにはアルプス(フランス)にスキーに行く予定。といっても、私はケンと一緒にホテルでぬくぬくするだけだけど。(笑)

12/13/2001

イギリスに来てからスーパーに各種の「クリーム」が並んでいるのを見て、これらのクリームは一体何がどう違うんだろうとずっと疑問に思っていた。

そしたら昨日まなさんからこのページを教えてもらって、私のそれまでの疑問が一気に解消した。(まなさん、どうもありがとう! そしてアンディさんもありがとう!)

クリームって何?

そうなんですよ、シングルクリームとかダブルクリームとかcreme fraicheだとかいろいろあって、しかもそれぞれのパッケージにはspooning オーケー、cookingオーケー、 whippingダメ、みたいな表示がしてあり、用途に応じてちゃんと使い分けなくちゃいけないようになっているらしく、気になって仕方がなかったのだ。

要するに、脂肪分の割合の違いによって違う名称がついているのですね。な〜るほど!

ちなみに、ここにも出ている「クロテッドクリーム」というのがそれはそれは美味しい。ジャムと一緒にスコーンにつけて食べるともう夢心地。(ただし、脂肪分55〜63%だそうな。)

上記のページからクロテッドクリームのリンクをたどるとスコーンのページが出てくるが、ここで紹介されている「ボンヌママン」のジャムというのが、これまた大変に美味。フランス製なんだけど、同じジャムでもこんなに美味しいものがあるのか!と驚くほど。ちょっと前にスーパーで安売りしていたときに初めて試してみたら、私はすっかりはまってしまい、今ではほかのジャムが食べられなくなった。

このページで売っているスコーンは5コで800円と随分お高い感じがするが(美味しそうだけどね)、クロテッドクリームとボンヌママンのジャムは試してみる価値ありだと思いますぞ。スコーンの作り方は先月の日記で紹介した通りなので、是非手作りスコーンと一緒に召し上がってみてはいかがです?(^_-)

12/12/2001

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。
(ルカ1:45)

あることがふと気になって、「神様、あなたはこのことについてどのようにおっしゃっているのでしょうか?」と今朝、祈りのなかで神様に聞いてみた。

そしたら、みんを学校に送っていく途中、バギーを押しながらパーカーズピースを横切って歩いている時に突然与えられた御言葉がこれ。

ああ、そうか! もちろんそうですよね!

「主によって語られたこと」が「必ず実現する」と「信じきる」こと。

そういえば、マリアも「おことば通りこの身になりますように」と言っている。

おことば通り」「主によって語られたこと」というのがキーワードだ。

「私の願いが」ではなく、

「私が信仰をもって告白するポジティブな言葉が」ではなく、

「主によって語られたこと」が「おことば通りに」実現する。

私の日本の母教会の前牧師であるケニー・カールトン師が、「信仰とは、いわゆる『積極的思考』とは異なります」と言っていたのを思い出す。

何かが実現すると信じられるのは、私がそれを心から一生懸命信じるからなのではなく、神の御言葉がそう言っているからそうなのだ。

「『信じること』に対する信仰」と、「神の御言葉に対する信仰」というのは、一見すると似ているけれど、実は全然別物。

信じるって、信仰って、神様の言葉に「アーメン(So be it)」と言うことそれを自分にとってのリアリティとして受け入れることそして受け入れた御言葉に基づいて、次の一歩を踏み出すこと、なのかな。(これって、ローマ10:17やヘブル11:1とも矛盾してないよね?)

平野先生が「ヤベツの祈り」のなかでおっしゃっていた、「御心にかなった祈りとは、神様のことばへの応答としての祈りです。」というのもこれに関連しているよね。自分が願うところをがむしゃらに前に押し出すのでなく、すでに語られている神様の言葉に応答し、自分をそこに持っていく祈り。Getting myself --my words and my thought-- in line with His Word.

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昨日のエミとま〜やのクリスマス学芸会はとてもかわいらしかった。午後からと夜六時からの二回の公演があり、特に夜の方は、子供たちも寒いなかもう一度学校まで出向いていって、まったくご苦労さまでした。しかし実は、今日もまた午後からと夜の二度の公演がある。校長先生、気合いが入っている様子だったな〜。(笑)

それにしてもすごいと思ったのが、「イエス様」の名前がバンバン出てくるところ。アメリカの公立小学校では絶対にありえない。公演の一番最後の出し物の一番最後のセリフは「Nativity without Jesus is no nativity at all!」だったんだよ!  アーメンだよねぇ? ハレルヤ!

さて、今夜はみんの学校の方もクリスマス礼拝があって、子供たちがキャロルを歌うことになっている。ウィーン少年合唱団さながらの歌声を聞かせてくれるかな?またもや8ミリ持って、行って来るぞ〜。(パパはエミとま〜やを学校へ連れていかないといけないのでみんの方へは来れないのが残念。)

12/10/2001

さあ、これから冬休みに入るまでの10日間は毎日忙しいぞ〜。子供たちの学校のクリスマスプログラムがめじろ押し。二つの学校に行っているから、行事も二倍だぁ。

行事のなかで面白いのが「クリスマスディスコ」。ええっ、小学校で? と驚いてしまったが、イギリスではどうも普通のことらしい。11月に入った頃からデパートなどでは大人の服も子供の服も、キンキンギラギラの派手なのばかりが出回っていて、こんな服、みんないつどこで着るんだろうといぶかしく思っていたけれど、こういう習慣があったわけなのね。

まず明日とあさっては、エミとま〜やの学校のクリスマス発表会。この日のために、お芝居やら歌やら、学校中をあげて猛練習だったようだ。8ミリ持って、観に行くぞ!

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師走の気ぜわしさのせいだろうか、詩篇27篇4節の御言葉(このページの一番下で紹介している)がずっと頭のなかで響いている。何度も祈りとなって私の口をついて出て来る。

やることの予定はいろいろあるのだけれど(クリスマスカードとかね、汗)、心のなかは結構静か。

12/8/2001

メール、相変わらず不調なり。

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今日のクリスマス礼拝は大変素晴らしかった。大勢の日本人の方たちと、大勢のヘルパーの方たちが来て下さって、ケンブリッジに来させていただいて本当によかったなぁとしみじみ思った。実は昨日の昼間、エミの学校の保健の先生から電話がかかって来て、お昼休みにエミが校庭で転んで、胸を強く打ったらしく呼吸困難になったため救急車を呼びました、お父さんかお母さんが今すぐ来てくださいという連絡を受けた。急いでパパに電話して学校に向かってもらい、私は祈り始めた。救急車を呼ぶほどとは、一体どんな転び方をしたのか、エミのことはもちろん心配だったけれど、それ以上にクリスマス礼拝に私たちが行けなくなるようなことになったらどうしよう、と青くなった。でもそう思ったとき、これはきっとサタンの攻撃だと感じたので、イエス様の御名の権威と血潮の御力によって勝利宣言をした。ぼぼるパパも学校へ向かう道すがら、同じことを感じて同じように祈っていたそうだ。

パパが学校へつくと、ちょうど救急隊員たちが学校を去ろうとしているところで、エミはそこにいなかったため、あぁ、これは大丈夫だったんだ、とわかったという。そして救急隊の人から説明を聞いてから、校舎に入って行くとエミがカフェテリアで食事をしていたのだそうだ。(マルコ五章の12歳の女の子みたい!)

エミから後で聞いたところによると、校庭で遊んでいる時に、鬼ごっこか何かしていた男の子に猛突進され、細くて軽いエミは人間ロケットのごとくふっとばされ、アスファルトの路面に肩とあごと胸を打ったのだそうだ。(現場にいた友達の証言によると"Emi literally flew in the air!"だったそうな。)それでまぁ、エミは多分大泣きしたのだろう。(本人はその辺ははっきりと言わなかったけど。)あたりはあっという間に子供たちとボランティアで来ていた父兄たちとで人だかりになり、地面に横たわったまま起きあがれず呻くエミを見て、友達の数人と下級生の女の子たちまで怯えて泣き出したとか。

そこに先生が慌てて飛び出してきて、エミが動けないとか息が出来ないとか言ったのか、救急車を呼ぶことになったらしい。学校に救急車が来たりしたから、子供たちはますます騒然となり、校内のちょっとした大事件に発展したようだ。(苦笑)

駆け付けた救急隊員に救急車に運び込まれたものの、どうもたいしたことはなさそうだということがわかり、エミはそのまま学校に戻ってお弁当を食べ始めたところにパパが到着したのだった。

いやはや、人騒がせというか、何というか。しかし、打ったところがもしも頭だったりしたら、結構恐いことになっていたかもしれない。きっと神様が守ってくださったのだと思う。サタンの攻撃は空振りに終わったわけだ。 (^_^)v ハレルヤ!

夕べは夕べで、一旦準備が出来た証原稿だったのに、突然こんなのでは駄目だ!という思いに捕われて、苦しくなっていた。どういうわけか、私の証なんか聞いたらノンクリスチャンの人がつまづいてしまう、という脅迫観念のような思いに取り付かれたようになってしまったのだ。ぼぼるパパは、それはサタンの嘘だから騙されちゃいけない、そのままで大丈夫だよ、と励ましてくれたのだが、私は夜中の二時頃まで不安で寝つけなかった。

それでも今朝起きてから祈っているときに平安が戻ってきて、晴れやかな気持ちで礼拝会場へ向かうことが出来た。感謝!

クリスマス礼拝の式次第は、讃美、牧師さんによるメッセージ、私の証、牧師さんによる祝福の祈り、場所を体育館に移動して交わりと軽食、そしてまた礼拝堂に戻ってのキャンドルサービス。

今回の集会のためにはいろいろな御言葉が与えられていたが、その中でも私の印象に強く残っていたのはマタイ28章の大宣教命令の箇所。「弟子としなさい」「教えなさい」という部分から、ただ一回の集会で福音を伝えてそれでおしまいというのでなく、そこから「関係」をつくって長期的に関わっていく必要を語られていると感じていた。そして今日来てくださった日本人の方たちを見て、私はすでにその半数以上の方々と育児の会やインターナショナルウィメンズグループなどを通してコネクションがあるということに気付いた。神様は本当にすべてを御存知なんだなぁ。(疑っていたわけではないが。)今後のフォローアップのためにも祈っていこう。そして「私は出無精だから」なんて言ってないで、なるべくいろんな会に出かけていくぞ〜。

それにしてもすごいなぁと思ったのは、この集会のために、ケンブリッジ市内と近隣の街から8つの教会から30人くらいの人たちがヘルパーとして駆け付けてくれたこと。JCFのメンバーの所属教会以外の教会の人たちも、人づてに日本人への伝道集会があると聞いて続々と駆け付けてくれたのだ!信じられない! よく知らない人たちが集会の始まる二時間くらい前から来て会場整備を手伝ってくれたり、食事を作って持って来てくれたり・・・  そういえば先週の日曜日の晩はCity Praiseという市内の教会の合同讃美&祈祷集会があり私も参加してきたが、大勢の人が集まっていたっけ。こういうのが「教会(エクレシア)」の本当の姿だよねぇとつくづく思う。

12/7/2001

ケンがついにハイハイをするようになった! これでいよいよ目が離せなくなるなぁ・・・

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ケンブリッジJCFのクリスマス礼拝はいよいよ明日。主催は私たちだけれど、人数が少ないし、一回ポッキリの集会だけでは後がつながらないのは目に見えている。そこで私たちは、それぞれが所属しているケンブリッジ市内の教会にヘルプをお願いした。食事の用意や来てくださるお客さんたちの接待(?)など。この機会を通して来て下さった方たちと友達になって、今後もそれぞれの教会でのクリスマス集会や各プログラムに誘っていただくようにするため。そうすれば、今回の集会を通して蒔かれた種が発芽するように、さらなる水や肥料や太陽の光を当てることが出来る。こんなふうに地域教会レベルで単純に「御国のため」に一致協力して働きがなされるのって、素晴らしい。

夕べは私の証の原稿を書いた。原稿を見ながら話すということはないだろうけれど、やはり一通り書いておいた方が安心だから。そして私の証を通訳することになっているぼぼるパパも、その原稿を見て一通り英語に直してみた。気のせいかもとの原稿よりいい感じ。なぜ?(笑)

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いろいろ思うところがあって、今、原稿を大幅に書きかえ中。せっかくぼぼるパパが一旦英語に直してくれたんだけどね。

12/4/2001

<今日のブリティッシュイングリッシュ>

jumper:(名)「セーター」: アメリカ英語ではジャンパーと言えば普通ジャンパースカートのことを指すけれど、イギリス英語ではなんとセーターのことを言う。学校のクリスマス学芸会でま〜やのクラスは聖誕劇をやることになっていて、ま〜やの役はひつじ。先生から「白いジャンパーと白いtrousersを用意して下さい」と言われた。ちなみにtrousersというのはズボンのことで、これはアメリカ英語でもそうなのだけれど、でもアメリカ英語ではズボンのことなら「pants」という方が一般的。一方イギリスではパンツというと下着のことになってしまうので気をつけないとおかしなことになってしまうかも?(アメリカで下着のパンツはunderwearといいまする。)

wicked:(形)「すごい」「素晴らしい」「最高の」: 夕食の時、子供達と会話をしていたら、エミがいきなり「Wicked!」と感激したような声をあげた。「はぁ?」と聞き返すと「That means "cool."」という返事。Cool というのはアメリカ英語の口語で「すごい」「かっこいい」という意味。イギリスではcoolのことをwickedというのかぁ!Wickedの一般的な意味は「邪悪な」なんだけどね。さすがイギリス。After all, it's a country of Bloody Mary, right?

tell off:(句動)「叱る」「意見する」「非難する」: 辞書を見るとちゃんと出ているのだけれど、アメリカではあまり聞かない表現。エミに「I got told off today」と言われて何のことかすぐにわからなかった。同様にアメリカではあまり使わないけれどイギリスで学校に行き始めた初日から子供たちが連発していたのが「cross」。これは「怒った」「不機嫌な」という意味。娘たちが三人ともそれぞれに担任の先生について「She was cross.」と言うのを聞いて、ふ〜ん、イギリスの先生ってすぐに怒るのかなぁと思ったのでありました。

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昨日の朝は霧がとても濃かった。(そういえば、ロンドンといえば霧の街だもんねぇ。)特に、パーカーピースという広〜い公園(というか、ただ芝がダ〜っと広がっているだけのところなんだけど)はものすごくて、前方20メートルくらいまでしか視界がきかないほどだった。みんを学校へ送っていくときにパーカーピースを斜めに横切って行くのだが、まん中くらいまで来たところで後ろを振り返ってみたら、自分達が通って来たところが霧の中に隠れて全然見えなくなっていてびっくり。前を見ても後ろを見ても、もちろん右を見ても左を見ても、霧で白くかすんでいて何も見えない。目をこらしてみると、遠くの方で自転車に乗った人たちが公園を横切っているのが影絵のようにぼんやり見えるのだが、はっきり見えるのは自分が立っている周囲数メートル分だけ。

私たちは公園を斜めに走っている歩道を歩いていたので方角がわからなくなるということはなかったけれど、もしも歩道がなければきっと方向感覚が失われて何もない芝だけの公園で道に迷うということにもなりかねなかっただろう。

時々濃い霧にまかれて遭難する話しを聞いたりするが、なるほど、こういうことなのかと納得してしまった。霧って恐いんだなぁと思いながら歩道に沿って歩きながら、「I am the Way.(わたしは道です)」と言われたイエス様のことを思い出していた。たとえ回りがどんなに霧に覆われていても、歩道に沿って歩いていれば道に迷うことなくちゃんと目的地に到着できる。

人生も同じことなんだ。

12/3/2001

ケンブリッジでの日本人向けバイリンガルクリスマス礼拝はいよいよ今週の土曜日。スタッフも含めて約100人の人たちが集まりそうだとのこと。私は証と、礼拝後の交わり会でのゲーム指導担当。(笑)

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はちこ母がお蕎麦を送ってくれたので、玉ねぎとにんじんとインゲンと桜エビでかき揚げをつくって、今夜は天そばにしました。子供たちにも好評だったよ。

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もう一仕事はいったので、また1月末まで忙しくなりそう。でも、1月上旬には1週間ほどフランスにスキーに行く予定。私はスキーはあまりしない人だけれど、ぼぼるパパが強引に計画したのであった。パパはスキーの達人なのであります。

12/1/2001

エミが習っているというフランス語のキャロルは「ジングルベル」なんだそうな。フランス語でジングルベルって何て言うんだろう?歌って聞かせて〜と何度も頼んでいるのに、エミははずかしがって歌ってくれない。つまんないの。

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みんとま〜やは最近おばあちゃんに「とっとこハム太郎」のおもちゃを買ってもらった。みんはハム太郎の仲間たちの小さな人形7つとその小物セット、ま〜やはハム太郎の「地下ハウス」。ハウスも人形(ハム形?)もそれぞれにかわいいけれど、単品で遊んでも全然つまらない。二人がそれぞれにもらったものをシェアして一緒に遊んでこそ楽しみも倍増するというもの。 買ってあげた側も、当然そのつもりだった。

ところが。

二人ともちっとも仲良くなんか遊びやしない。お互いに相手のものを奪い取ったり、けちらしたり、独占しようとしたり、相手かまわず片付けて隠してしまおうとしたり。 そんなことしたらちっとも面白くないし、それぞれのおもちゃの価値だって全然生かされない。

「仲良くシェアして遊べないなら、ハウスも人形も、おばあちゃんに返してしまいますよ!」

悲しい気持ちでもめている二人の間に仲裁にはいる。そしてふと思った。神様も私たちを見て似たようなため息をついておられるかもしれない。それぞれの人間に、また教会に、神様は御心のままに賜物を分け与えてくださった。それは賜物をいただいた人がそれを独占するためではなく、お互いを建て上げるためであり、皆の益となるためなのだ。

ところが互いに異なる賜物をいただいているもの同士が、相手の賜物を否定したり協力を拒否したり、賜物ゆえに高慢になっていたらどうだろう?せっかくの賜物も生かされることなく、いずれ神様に取り上げられてしまうかもしれない。

ところで、関係ないようなあるような。

ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。{私たちの仲間になろうとしなかったからです。}』

しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。 (マルコ9:38〜40)

このヨハネの「私たちの仲間ではないので」というセリフには何とも苦笑させられる。

人は徒党を組んでいると安心するものなのか、誰が自分の「仲間」で、誰がそうでないのか、常に確認しておきたい欲求を持っているものかもしれない。また、自分自身の判断や考えには自信が持てなくても、誰かビジビリティ(visibility)の高い人のところに寄っていって、自分はその人の「仲間」だと思うことで自らのアイデンティティーを確立しようとすることもあるかもしれない。

ヨハネにしてみれば、自分はイエス様と一緒にいるんだから自分たちこそ正統派だという思いがあったのだろう。自分の仲間でなければ、たとえイエス様の御名によって力ある働きをしていても、そのような働きは阻止されるべきと思ってしまうのだ。自分たちの仲間になるか、さもなくば敵扱いというわけか。

ところがイエス様の反応はそれとは全く異なる。

やめさせることはありません。・・・わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」というイエス様のスタンス! 鷹揚というか、何というか・・・唸らされる。私も見習いたい。

同じ確信を持てない人と安易にひとつのくびきにつながれてはいけないと思う。一方で、自分とピッタリ一致する考えや確信を持っているのでなければ協力も出来ないというなら、それは結局のところ自分の自我が主張しているに過ぎないのではないか。あるいは、ミニストリーを自己実現の手段にしている、と言えるかもしれない。

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「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。

私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。 」詩篇27篇4節

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