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はちことぼぼるの日記

エントリーの最後に(ぼ)とあるのはぼぼるパパによる日記です。

2004年9月1日

夏が過ぎていく。ほとんどの学校で、新年度がもう始まっている。うちの子たちはLabor Day Weekend明けの9月8日からだ。大学のほうは27日からなので、「夏休み」もあと4週間となった。日本から帰ってきてまだひと月たっていないが、オフィスの引っ越しに始まって、論文のレビューや実験室の準備などフル操業。家では地下室の絨毯の張り替えと、何と言っても「バウンダリーズ」の校正。ふたりで500ページ一枚一枚に何重にも目を通して誤字脱字や聖句の引用箇所、レイアウトなどにチェックを入れていく。この期に及んでまだ手直しを要するところが少なくなく、翻訳者としての自分たちの力量不足を嘆く。でも、とにかく終わった。できはともかく、入魂の一作だよ、これは。一方、先週届いた私の論文のゲラの方は図面の順番がめちゃくちゃになっている上に図の大きさも不揃いで、かなりめげる。この雑誌には過去20本近く出しているがこんなことは初めてだ。これも大幅に赤を入れてFedexで送り出す。やっと、すこし達成感。

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台風16号のニュースを見て、あらためて日本が地震や台風などの自然災害に富んだ(?)国であることを実感する。慣れていてもあれだけの被害を被るわけだけだから、自然はあなどれない。逆に、めったに自然災害に見舞われない場所では、人々の方に準備が出来ていないので、実際には大したことないのに過剰反応をしたりする。かつて住んでいたワシントン州のシアトルでは、何十年にいっぺんの大雪になるかもしれないという予報がでたとたん、まだ何も降りだす前から臨時休校となり、大学のキャンパスも閉鎖されてしまった。たしかに雪は降ったが、東京に降る雪とさしてかわらず、いささか拍子抜け。それでも、この街のドライバーは雪道の運転経験がほとんどないため、道路交通はマヒ状態に陥った。

いま私たちの住んでいる中西部はめったに地震がない。ところが、さる6月28日未明、イリノイ州北部で19年ぶりに有感地震があった。マグニチュード4.2というから、エネルギー的には日本の地震に比べると問題にならないくらい弱く、実害もほとんど出なかった。それでも、震源に近いところではそれなりに揺れたらしい。土地の新聞の記事を見ると、半分くらいは人々の反応の記述であり、結構おかしい。「家がふっとぶかと思った」「ダイナマイトが爆発したのかと思った」などなど、地震を経験したことがなければ無理もないかもね、というコメントが並んでいる。実は、私たちはそんな地震があったことは知らなかったのだが、先日、うちの教会の牧師婦人が「あの揺れにはたまげた」と言うのを聞いて初めて知ったのである。考え直してみると、6月28日未明と言えば日本に出発する日の朝で、まだいそがしく荷造りをしていた時間だ。全然気がつかなかったのは、大きな荷物をドスドス移動していて最初から家がガタガタ揺れていたからだろう。

いっぽう中西部につきものの災害といえばたつまきである。さいわい私たちの地域はこの12年間で1回も見舞われたことはないが、たつまき警報(サイレン)は春先から夏にかけて一年に数回は鳴る。そのときは地下に避難する。むかし、イリノイ大学のアパートに住んでいた友人が、嵐になってサイレンが鳴り出したので窓から外を見ると、通りの向いの公民館に大勢の人が走って入っていくのが見えた。「きっとあそこが共同避難場所に違いない」と思い、その場にいあわせた友人ととるものもとりあえず外に走り、自分たちも公民館に駆け込んだ。しかし、どうも様子がおかしい。そこで彼らが見たものは…フロアで盛大にダンスパーティーを繰り広げている大勢の黒人たちだった。ちなみに、この夜、その近所では10軒近くの家がたつまきに吹き飛ばされたそうだ。

災いは必ず来る。それに対する準備を怠っては泣きを見る。しかし、何に対してどれだけ準備をすべきなのだろうか。かつて2000年問題でも言われていたけれど、「Prepare for what's at stake, not for what's at risk.」20年にいっぺんの微弱地震のために耐震構造の家を建てる人はいないであろう。聖書が「神のすべての武具を身につけなさい」と言うとき、それは予測される敵の攻撃を防ぐのに必要だからであって、不必要なものを身につけろと言っているわけではないはずだ。ダビデがゴリアテに立ち向かったとき、サウル王の鎧は重すぎて使い物にならず、かなぐり捨てた。投石器ひとつと神への信仰が、彼に取ってのすべての「武具」だった。無駄のない、適切な備え。ううむ、これは、口で言うほどやさしくないぞ。

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おおっ、そうこう言っていたら、浅間山が噴火したぞ。

急に冷やしたぬきうどんが食べたくなった。(ぼ)

2004年9月2日

数週間前の日曜日に写したケンスケの日曜学校のクラスの写真をもらった。ちょっとわかりにくいけど、ケンスケは手にセミの抜け殻を持っている。この朝、みんなでお散歩しているときにケンが目ざとく見つけたのだそうだ。日本でセミが羽化するのを目の当たりに見たばかりだったので、同じのを見つけてきっと嬉しかったんだろうね。でも、他の子たちはみんな気持ち悪がっていたらしい。(笑)

それにしても、ケンも大きくなったなぁ。こんなだったのが、つい昨日のことのようなのに。(ケン生後5ヶ月。ちなみに、この写真のなかでケンがくるまっているピンクのブランケットはエミが赤ちゃんの頃に私が編んだもの。エミに始まり、みん、ま〜や、ケンと使ったのだけど、ケンブリッジの街のどこかに落としてなくしてしまった。残念。とても気に入っていたのに。)そういえば、夕べはラナの生後一週間の赤ちゃんを抱っこさせてもらった。すごく小さくて、とっても可愛い。まだ顔に胎児のおもかげがあって。ラナも産後一週間とはとても思えないほど、元気でピンピンしてた。

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ところで、昨日この記事を見つけて私はびっくりした。

● キリスト教右派の元ミス・アメリカ登場 共和党大会  (アサヒコムより)

この記事に登場する元ミス・アメリカのエリカ・ハロルドさんのことは、以前私も日記に取り上げたことがある。彼女は「結婚前の貞潔を守る」という主張のゆえにミス・アメリカコンテストでもバッシングを受けつつも、聖書の価値観を曲げなかった勇気ある女性だ。その彼女、アサヒコムの記事のなかでは「原理主義的なキリスト教の一派『神の集会』の信者」と紹介されていて、私は読みながら「ええっ、そうなの? 『神の集会』って、何?」と思った。ところが記事を最後まで読んでひっくり返った。「テロ対策の取り締まりに当たるアシュクロフト司法長官が信仰していることでも知られる」とあり、何のことはない、アッセンブリーオブゴッド教団のことではないですか。この記事の書き方だと、いかにも怪しげな宗教集団のように聞こえる。日本でも「アッセンブリーオブゴッド教団」で通っているのにわざわざ「神の集会」と訳したのは、この記事を書いた人が無知だったからなのか、それとも意図的なものなのか。メディアの論調というのは、そのまま鵜呑みにはできないものだなと改めて思った。

それにしても、エリカ・ハロルドさん、ミスの冠を手にした後も、ハーバード・ロースクールに進学した後も、神様から与えられた召命を忘れることなく前進しておられるようで嬉しい。ブッシュはともかくとして、彼女の今後の活躍に私は期待している。

2004年9月3日

今日もケンスケの写真。左はディズニーランドでプリンセスに話しかけられてぽよ〜んとなっているところ。右は那須で茶臼岳の頂上まで登ったときのもの。(画像をクリックすると大きいのが見れます。)

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明日はタミーのところに、あさっての日曜日はラナのところに食事を持っていく。何を作ろうか。タミーのところはご主人が日本食が好きなので、是非日本食を、というリクエストをいただいている。豚肉の味噌漬け焼きにでもしようか。副菜は何がいいかな。いんげんの胡麻和えとか、大丈夫かな。ラナのところは、日曜日の朝に届けることになるので、前日から用意できるものがいい。クロックポットを使って作るホームメイドのスロッピージョーあたりにしようかな。コールスローでもつけて。スロッピージョーとは、牛肉の固まりをBBQソース(もちろんこれもホームメイド)で長時間ゆっくり煮込んでほぐしたもの。パンにはさんで食べます。お正月にJCFNの主事たちが来たときにも作ったら、とても受けが良かったのよね。デザートは久しぶりにGooey Butter cake でも焼こうか。カロリー超高いよ。(笑)バターと卵とクリームチーズがたっぷり入っていて。でも美味しいの!よし、献立を決めたら早速買い物に行ってこよ。

2004年9月4日

夕べから頭が痛い。風邪とかじゃないんだけど。

今日は朝からケーキを焼いて(家中バターの香りが充満!)、それから昼前に豚肉の味噌漬焼きの下ごしらえ。2.5キロ分の豚肉を1センチくらいの厚さに切って、漬け汁に漬ける。それを冷蔵庫に入れておいて、あとは夕方になったら天板に広げてオーブンで焼くだけ。たっぷりあるけど余りそうだったらその分は焼かずに漬け汁ごと冷凍しておけばいい。タミーは今日は病院にいって、お腹を切ったところを留めているホチキスをはずしてもらうことになっている。これをはずすと随分痛みが楽になるらしい。quick recovery のために祈る。

…とここまで書いてから食事を届ける時間の確認のためにタミーに電話した。化膿している部分があったため、ホチキスは全部ははずせなかったそうだ。がっかりしていた。可哀想に。

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今は夜。今度は明日ラナに届ける食事の準備。何だか今日は珍しく、一日中キッチンに立っていたなぁ。(笑)

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感謝をもってささげる祈りと願いとを携えて、みこころのままに私たちのうちに働いて志を立てさせてくださる主の前にでる。

2004年9月5日

今週末はアメリカはLabor day weekend と呼ばれる三連休。夕拝はお休みなので今日の午後はの〜んびりしている。少しお昼寝もした。子供たちの学校は、上の三人が8日から、ケンが15日から。夏の間はお休みだったいろんな活動も、新年度になってまた再開する。エミの地区オーケストラとか、みんのアイススケートとか。隔週のバイブルスタディとか月一のお母さんの会とか。ま〜やは体操教室に通いたいと言っている。一週間のスケジュールにうまくいれられるといいのだけれど。そういえば、十月のお母さんの会で、バウンダリーズについて分かち合って欲しいと頼まれていたのだったっけ。時間は30分だとか。あまり欲張らないで、テーマを絞ろう。

さぁ、また忙しくなって来るぞー。のんびりできるのも今夜だけかも。明日は娘たちと一緒に新学期用の洋服を買いに行き、あさってはタミーの下の子供二人を預かって、みんなまとめてChuckee Chessesという屋内遊戯場のあるピザ屋さんへ連れて行く予定。

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今、すごく祈っていることがある。主に期待して、確信を持って祈っている。現実的には私にはまったく手出しの出来ない問題で、いかにも困難で不可能そうに見える。だけど、この件に関して、ここに至るまでの間に神様がどのようにご介入なさってくださったか、御手を伸ばして導いてくださっていたかを思うとき、どんなに不可能そうな現実も、とてもちっぽけなものに思えてくる。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、
むなしく、わたしのところには帰っては来ない。
必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。 
イザヤ55:11

2004年9月6日

上沼昌雄先生から送られてきた「神学モノローグ」のなかで、Christianity Today の9月号に掲載されているフィリップ・ヤンシーの「Forgetting God -- Why decadence drives out discipline.」という記事が言及されていた。アメリカは「キリスト教国」であるはずなのに、外国の人に「『アメリカ』と聞くと、何を連想しますか?」と尋ねると、「富」「武力」「頽廃」といった答えが多数を占める。「富」も「武力」も「頽廃」も、本来福音の対極にあるはずのものなのに、これは一体なぜなのか。ヤンシーはこの謎の鍵として、人間社会のなかにみられる、ある「サイクル」があげられるのではないかと言う。福音に基づく勤勉と敬虔な訓練は豊かさを生み出すが、一旦豊かになり体制が確立されるようになると、今度は体制維持と保身に執心するようになり、権力や支配が生まれ、やがてはそれが頽廃へと堕ちていく… 富ー力ー頽廃というサイクルである。このサイクルはカトリック教会の歴史にも見られるし、リバイバルにおいても見られる。そして教会だけでなく、個人にも国家においても同様である。 富と力と娯楽とが社会のあらゆる隙間を埋めようとしている今のアメリカにおいて、このようなサイクルをいかにして打破できるかが、今後のアメリカ社会の健康を左右するのではないか… というような記事。

ヤンシーの記事のタイトルがForgetting God となっていることからしても、このサイクルから脱出する鍵は、やはりアメリカが神に立ち返ることだと、ヤンシー自身が思っているのだろうな。

上沼先生も「教会でも、神学校でも、キリスト教団体でも、社会でも、困難を通して立ち上げてきて、経済的にも安定してくると、その体制の維持のために動いてしまう。それが力となり権力となってしまう。自分でミニストリーをしていて、そのような構図を描くことができる。新鮮さがなくなり、神を必要としなくなってしまう。『神を忘れてしまう』」と書かれていたが、御霊によって始められたものを、肉によって完成させてしまおうとする誘惑か。肉の行き着く先は「死」なのに。これはキリスト者一人ひとりにも当てはまる。奉仕においても、日々の歩みにおいても。

朝ごとに新しい恵みと憐れみを下さる神様、朝ごとにその日の分のマナを与えてくださる神様。神様は、私たちとの関係が馴れ合いに陥ることなく日々新鮮でエキサイティングなものであり続けることを願っておられるんだ。日々の困難も試練も、私の目が神様から離れ、神様を忘れてしまうことがないようにとの神様のご配慮なのかもしれない。

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シアトルのKazukoさんが『境界線(バウンダリーズ)』を紹介してくださっている。ご自身の体験を交えての、とてもわかりやすい紹介です。是非ご覧ください。何を隠そう、Kazukoさんこそ、私に初めてこの本を紹介してくださった方だった。そしてこの本を日本語に翻訳したいという思いが与えられた当初から、Kazukoさんは祈りと交わりを通して励ましをくださっていた。Kazukoさん、心から感謝します。

シアトルからこんにちは。9/4の日記「お勧めの本”バウンダリーズ”境界線 」

それから、地引網出版さんで『境界線(バウンダリーズ)』の予約注文を受け付けているようです。御希望の方はメールにて、住所、電話番号、氏名をご記入の上、「『境界線』予約」として ap@revival.co.jp からお申し込み下さい。出版は9月20日前後の予定だそうです。

2004年9月7日

昨日は上の二人の娘を連れて買い物に行った。みんはチビ抜きで、お母さんやお姉ちゃんと一緒に買い物に連れて行ってもらえたのがよほど嬉しかったのか、しきりと「タノシイネ、タノシイネ」を連発していた。それにしても、彼女たちと買い物していると、時間のかかること! この秋から彼女たちが着る服を買いに行ったのだけど、選ぶのに時間がかかる。四時間近くもモールを歩き回った。男性が、女性と買い物に行くのは嫌だという気持ちがよくわかると思った。疲れたけど、娘と一緒にお買い物というのはやっぱり楽しいね。息子とだったらこういう楽しみは味わえないのだろうな。

そういえば、デパートのエスティー・ローダーのカウンターでフレグランスコーナーを覗いたら、Beyond Paradiseの男性用コロンが新発売になっていた。ボトルは可愛かったけど、肝心の香りの方は今ひとつだったな。

今日はタミーの下の子供二人、ドレイク(9歳)とエリザベス(4歳)を預かった。まずみんなでChuckee Cheeseに行って、それから公園で遊んで(さわやかな秋晴れで、外遊びには最高)、今はみんなで日本語のハム太郎のビデオを見ている。(このビデオは遠山じゅごんさんが送ってくださったもの。みんな大喜びです、ありがとう!)そういえば、ドレイクは日本語に興味があるとかで、時々私に「○○って、日本語で何て言うの?」と聞きにきたりするので、日本語のハム太郎も彼にとっては興味シンシンなのかな。

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ワーシップチームの練習から帰って来た。今度の日曜日の夕拝には、一時帰国中の日本への宣教師、ラリー・ブラッドショー師がやって来る。そこで何か日本語でも賛美しようということになり、「注ぎたまえ、主よ」を歌うことにした。もちろん、日本語で歌うのは私とぼぼるパパだけで、二人が一通り日本語で歌ったあとは皆で英語で歌う。それにしてもこの歌の日本語訳は、名訳ですね。メロディーにもよく乗っているし、とてもパワフル。一方オリジナルであるはずの英語の歌詞は、若干もたついている感じがする。もちろんパワフルであるには変わりないけれど。

あー、ブラッドショー師のお話聞くの、すごく楽しみだなー。うちの教会に日本への宣教師さんが来るのは初めてじゃないかな? そんなことないか。十年くらい前に、ジョイス北野さんが来てるし、5年くらい前にはタイ&シーナ・シルバ夫妻も。(彼等は厳密には日本への宣教師じゃないけど、フィリピンを拠点にアジアパシフィック地域全体を視野に入れて学生伝道をしている方たち。)シルバ夫妻は2回くらい来てるかも。2度めにお会いしたとき、「お久しぶりー!」と御挨拶した記憶があるから。それはともかくとして、今度の日曜日も楽しみだなー!

2004年9月8日

うーん、ジェネシス回収失敗。3年かけて集めた太陽風粒子のサンプルが、大気圏再突入時のパラシュートの不具合で砂漠のもくずとなった可能性が高い。うちの学科のAndy Davisを始め、太陽系の歴史を調査するグループにとっては期待が大きかっただけに悔やんでも悔やみきれない結果だろう。(ヘリコプターで捕獲というアメリカらしい舞台劇の準備もシャカになった。)せめて、サンプルの一部でも回収できれば、まだ救いがあるが。

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大学のオフィスに引き続き、家のほうも大片付けを開始している。今までLANサーバを入れていた部屋をケンスケの部屋に改造すべく、古くなったコンピュータやスキャナは全部大学のオフィスに持っていった。また、今までたまっていた雑誌類や古いソフトウェアのマニュアルなどを片っ端から処分する。ようやくスペースが少しあいて子供部屋の体裁が整ってきたかな。とにかく、いらないものが多すぎる。

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今日から娘3人は学校。それぞれに出発の時間がずれていて、7時(エミ)から8時すぎ(みん)まで。初日は半日だったので、午後からシカゴのダウンタウンにある日本総領事館にみんなででかけ、子供たち4人の日本のパスポートを作る。日本から帰ってきてからパスポートを作るというのも変な話だが、実は4人とも日本のパスポートを作るのは今回が初めてなのである。日本へはアメリカのパスポートで帰っていたのであった。親が日本人でも子供がアメリカのパスポートしか持っていないと、成田の入国手続きで全員外国人の列に並ばなければならず、ものすごく時間がかかる。今度は全員日本のパスポートで帰れるようにと、戸籍謄本をとって帰ってきたので、晴れてパスポート申請の運びとなったのである。4人分で占めて227ドルなり(半端だ)。

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あ、ケンスケだ。
ハーイ、ケンスケ!
「お父さんは好きじゃない」
すねて木のむこう側でそっぽを向くケンスケ。
(右側の木に注目)

(ぼ)

2004年9月9日

子供たちの学校が始まって、また朝6時起きの生活が始まった。夏の間、時差ボケの名残りもあってか夜更かし朝寝坊の習慣がついていたので、今はまだちょっと辛い。でもそのわりには今朝は5時すぎに目が覚めてしまったけど。そしてなぜか、ミッショネットの私のクラスの女の子たちの新年度のために祈らされた。(なぜか、ってことはないか。)夏休みをはさんで6月から学んでいた「命の尊厳」という単元が夕べ終わったのだけど、この単元は私が当初思った以上に、彼女たちの生活に密接に関わってくる学びだった。私のクラスの子たちは全員クリスチャンホーム出身で、この世の価値観からは比較的守られた環境のなかで育ってきたと言えるだろうが、13、14歳という年齢は、言わば「世」に目覚め始める年代だ。中絶や自殺、薬物やアルコールの乱用といった問題は、遅かれ早かれ彼女たちが身近に見聞きすることもあるだろう。またこの年代の子供は何かと劣等感を持ちやすく、自虐的な行動も出やすいかもしれない。自分のいのちや人生(life)を創造主なる神様から与えられたものとして尊び、大切にすること、そして他者のいのちや人生のことも同様に尊び大切にすること… みんなで一緒に学びながら、「あなたはいのちを選びなさい(申命30:19)」とおっしゃる神様の御思いと、私の彼女たちに対する願いが重なって、切実に祈らされた。

ところでレッスンの準備をしながら調べものをしている最中にこんなサイトを見つけた。 Vitae Caring Foundation というプロライフの団体が運営しているティーン向けのサイト。なかなかよく出来ていたので、自分への覚書としてリンク。

GravityTeen.com/

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話しはガラリとかわって、昼間、何とはなしに、「技屋」という印刷屋さんのHPを見ていたら、驚くべき画像の数々を発見して息をのんだ。「技屋ギャラリー」と書いてあったから、てっきり技屋さんが手掛けた仕事でも紹介しているのかと思ったら。ここの会社ではどうやらオフィスで人間とネコが共存しているらしい。コピー機やパソコンのモニターの上でネコちゃんが堂々とお昼寝してたりして。いいなぁ、こういう職場。(^^)

●「技屋ギャラリー

ネコ好きの方は必見。興奮します。

2004年9月10日

歳をとるとだんだん頭の切れが悪くなってきて、それほど難しくないはずの手計算がすぐにできない。きょうも、AでもないKでもないとさんざんいじくりまわしたあげく、


という定積分がついに解けず、こういう時のアンチョコであるMathematicaに頼ることにする。瞬時にして


と答えをはじき出してくれるのは、ありがたさ半分、自分でできなかった悔しさ半分というところか。ちなみに上のKは零次の第二種変形ベッセル関数。そういえば、その昔大学院の入試で太鼓の振動についての問題が出た時、ベッセル関数がうろおぼえだったため、丸い太鼓を急遽正方形で近似して正弦関数で解いたことがあったなあ。因縁のベッセル関数である。そう考えると、頭の切れが悪くなったというよりも、当時から進歩していないと言った方が正確かもしれない。ちなみに上の表式は、原点に点源をもつ化学物質"q"に関する2次元の移流拡散反応方程式

の定常解を表している。

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最近読んだ本の中からいくつか。

円の歴史 アーネスト=ゼブロウスキー著 松浦俊輔訳 河出書房新社

数学的な概念(たとえば、円)は頭の中に描くことは出来ても、それを完璧な形で現実の世界には見いだすことはほとんど不可能だ。(コンパスで紙に書いた円も、拡大してみればギザギザしているだろう。)しかし、実際には、数学を用いて現実の世界でおこっていることをかなりよく描写したり、予測することができる。そもそもなぜ、数学は現実を表現できるのか?世の中がもともと数学的にできているのか、それとも、それは人間が頭の中の数学というフィルターを通して見ている仮想現実にすぎないのか?この本は科学と数学の関係や違いについて数多くの歴史的な例をひもとき、平易かつ非常に興味ある読み物に仕上っている。タイトルが示すように底辺に流れるテーマは、幾何学的な物の考え方がいかに近代科学の発達にかかわってきたかという点であり、円周率にはじまり、天文、波動、量子力学にいたるまで、広いトピックがカバーされている。科学とはどういう学問か、また数学とはどういう学問かを考えるのに手頃な、肩のこらない一般教養書。トリビアの泉としても一読の価値あり。

自然科学とキリスト教 ジョン=ポーキングホーン著 本多峰子訳 教文館

ポール=ディラックの愛弟子であり、ケンブリッジ大学の理論物理応用数学科の教授職を47歳でかなぐりすて、英国国教会の司祭となった異色のキャリアの持ち主である著者が、近代科学と神学の関係や相互作用について一般向けに考察する一冊。歴史的な考察もふんだんに盛り込まれており、このテーマの教科書としても充分機能する内容である。著者の先端物理学者としての視点は一貫しており、科学的にはまったく妥協がない。いっぽう、細部において彼の神学的立場は私にはややリベラルかなと思われる部分もあったが、科学と信仰の整合性を提示するモデルとして、同じ科学者/信仰者として大いに学ぶところがあった。科学者は神を信じられないと思っている人には是非読んでもらいたい。不確定性原理やカオス理論が暗示する形而上学的な問題や、奇跡、神義論にいたるまで、幅広く取り扱っている。

奇術師 クリストファー=プリースト著 古沢嘉通訳 ハヤカワ文庫

この夏、日本ではちこ父に「これは最後まで何が本当なのかわからん」と勧められてお借りしたままアメリカに持って来てしまった一冊。私は特にミステリーやファンタジーのファンというわけでもないのだが、わりとハマりやすい性格なのか、これは読み出したら止まらなくなってしまった。舞台は北イングランド。20世紀はじめ、ともに「瞬間移動芸」を目玉としていたふたりの奇術師のあいだの確執が、その子孫にまで影を落としていることが、二人がそれぞれ残した手記から明らかになっていく。基調となっているのはいかにも暗い冬のイギリスの風景。ストーリーは読んでのお楽しみだが、実在の天才発明家ニコラ=テスラがかなり重要な役で登場する。テスラの実生活の一部をかなり史実に忠実に切り取っているようで、ありがちなマッド・サイエンティストとしての役回りよりは実在感を覚えた。手記の中の「奇術の約束事」、すなわち、奇術師も観客もそれは本当のことではないと承知のうえ、だましだまされることに合意する、という記述は考えさせられた。それがいわば奇術の「真実」なのであり、魔術やまやかしとの違いである。私の職業の科学にも約束事はあり、その約束事の一線を越えてしまうと科学が擬科学(まやかし)に変貌する。

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数日前、イラクでの米軍の犠牲者が開戦以来1000人を越えた、というニュースが大々的に流れた。1000人だと大ごとで、10人なら大したことないというのだろうか。また、アメリカ人もイラク人もなかろう。かけがえのない人の命である。この1000人の魂の責任は米国のリーダーシップにある。もちろん派兵などしなければこんなことにはならなかっただろうし、派兵の理由はどうあれ、投入された人員や資源や戦略が不適切だったことは明らかだ。1000人のうち800人が「戦争終結宣言」のあとに亡くなっている。

そういえば聖書にもこれに通じる話があったな、とヨシュア記の7章を思い出した。エリコを陥落させ意気上がるヨシュアは、つぎにアイを討伐すべく偵察隊を送る。アイから戻った偵察隊から2ー3000人の軍隊で充分だと報告を受けたヨシュアはさっそく派兵するが、その時彼はユダ部族のアカンが聖絶のもののことで罪を犯していたことを知らなかった。その結果、神はアイにイスラエルの軍隊をたたかせ、イスラエルは36人の戦死者を出してほうほうのていで逃げ帰る。驚いたヨシュアはここではじめて神に語りかけ、聖絶のものの罪のことを知らされる。

もちろん、ヨシュアの置かれていた状況と今の米国とはいろいろな意味でかけ離れているし、米兵に戦死者が多数出たのは、アメリカ国民のだれか一人が大きな罪を犯したせいであろうなどとは思わない。

むしろ私は、一人の者が犯した罪により36人の無実の命がうばわれるという、一読してなんとも理不尽に思えるヨシュア記7章の顛末の直接の責任は、派兵に先立って神にお伺いを立てなかったリーダーのヨシュア自身にあると思う。もし彼がエリコ攻撃の前と同じように神に語りかけておれば、きっと「戦うよりまず自分のキャンプでの不祥事を始末せよ」という神の声を聞いていたはずである。それを怠って、人の進言に耳を傾けてしまった。ヨシュアには悪いが、これは彼の落ち度だったと思う。

最終的にアカンは石打ちで処刑される。のみならず、アカンの息子や娘まで石打ちにされた(24、25節)。またまた、罪を犯していない子供までどうしてと思うが、おそらくこれらのことから一貫して言えることは、国家であれ家庭であれ、集団はリーダーとともに浮沈するということであろう。リーダーの行いが、下の者に直接影響する。バテ・シェバとの件がもとでダビデは子供を失った。もちろん、新約聖書の時代のいま、イエスさまの十字架により、クリスチャンは神のみ怒りからは救われているわけだけれども、それでもなお、私の不適切な行いの結果が私自身だけでなく私の子供や学生にまで及びかねないという思いには、粛然とさせられる。本当に、イエスさまの血潮による恵みなしにはやっていけない。(ぼ)

2004年9月11日

久しぶりにグレースライブラリーを更新しました。最後にここを更新したのはイギリスに行く前だったから、三年ぶり…?

今回アップしたのは、アンドリュー・マーレイの『完全な明け渡し』のなかの7つめのメッセージ、「御霊に始まって」です。マーレイのメッセージにはいつも、何かこう、原点に戻される思いがする。あれ、いつの間に私、こんなにズレていたんだろう?と気付かされる。

2004年9月12日

今日も一日、神様の恵みと憐れみのなかで、目一杯取り扱われた。…具体的には、書きかけたけど、プライベートなことなのでやめた。 

主は確かに生きておられる。

2004年9月13日

詩篇46篇1〜7節

God is our refuge and strength, a very present help in trouble. (NKJV)

A VERY PRESNT help... まさにそこにある助け。決して遠すぎることなく、遅すぎることなく、苦しむとき、そこにある助け。

主よ、あなたの助けは私たちから遠くなく、まさにそこにあることを感謝します。どうか今、苦しみと痛みのなかにある人をあなたの愛と平安と慰めで満たしてください。

*****

地引網出版さんから、『境界線(バウンダリーズ)』の表紙の画像が送られてきた。(クリックすると大きな画像が見れます。)出版は月末頃になるようです。今の私の祈りは、出版までの行程が最後まで守られるように、それから、キリスト教書店だけでなく、一般の書店にも販路が開かれるように、ということ。

この本の副題は「聖書が語る人間関係の大原則」だけれど、実際は人間関係の改善がこの本の究極のゴールだというわけではない。人間関係の改善は、聖書の真理を自分にとってのリアリティーとして受け入れ、自分の生き方をそれに添わせていくときに得られる副産物だと言えよう。そして、聖書の真理はクリスチャンにだけ当てはまるものではなく、全ての被造物にとっても真理である。クリスチャンであってもノンクリスチャンであっても、神様の言葉に耳を傾け、それを学ぶなら、誰でもそこから得られるものはあるはずだ。だから、クリスチャンの方たちに読んでいただきたいのはもちろんのこと、ノンクリスチャンの方たちにも是非読んでみていただきたいと切に願う。「聖書はクリスチャンの経典だと思っていたけど、なんだ、クリスチャンではない私にも関係のあること、役に立つことが書かれているんじゃないか!」きっと、そう思っていただけるのではないだろうか。

信仰は聞くことから始まると聖書は言っている。福音宣教も、まずはノンクリスチャンの方たちに聞いていただけなければ始まらない。この本を通して聖書が神様ご自身について、また人間について、何と言っているのか耳を傾け、今まで聖書に何の興味もなかった人たちが、聖書を読んだり教会へ行くようになるためのきっかけになればと祈ってやまない。

2004年9月14日

夕べはちょっと夜更かしして、睡眠時間が5時間くらいだったら、昼過ぎくらいから猛烈に眠くなってしまって、古新聞を片付けていたのに気がついたら床に倒れて(?)眠っていた。今日は家で仕事をしていたぼぼるパパに「はちこ、寝るんだったら二階に行ってベッドで寝なさい」と叱られた。今夜はなるべく早めに寝よう。明日はケンスケの幼稚園の初日。初日なので親も一緒に顔合わせのミーティングがあるだけ。この幼稚園は上の3人もお世話になっていて、先生のこともよ〜く知っているので安心。ケンもきっと、幼稚園好きになるよ!

*****

今日のワーシップチームの練習もとても祝された。主にほめ歌を歌う事は楽しく、賛美は麗しいという御言葉の通り(詩篇147:1)、本当に楽しい。今日練習した曲の一つ、「You Are Holy (Prince of Peace)」という曲(マイケルWスミスのWorship Againに入ってる)の中にこういう歌詞があった。

You are Lord of Lords
You are King of Kings
You are mighty God
Lord of Everything
You're Emmanuel
You're the Great I Am
You're the Prince of Peace who is the Lamb
You're the Living God
You're my saving Grace
You will reign forever
You're Ancient of Days
You're Alpha and Omega, Beginning and End
You're my Savior, Messiah, Redeemer and Friend,
You're my Prince of Peace

歌いながら、演奏しながら、みんな顔が紅潮してきて、主の喜びが私たちをすっぽり覆ったかのようになった。こうやって、ただ神様がどういうお方であるかを数え上げているだけで、主の御前で告白しているだけで、心がはちきれそうになってくる。私にどんな問題や困難があるかとか、私が誰だとか誰でないとか、私が何をしたとかできなかったとか、そういうことの一切がちっぽけでどうでもいいことに思えてくる。実際、どうでもいいんだよネ。大切なのは、神様がどういうお方であるかということ。そのことを、私が知っているかどうかということ。主の御名を呼び、告白するとき、その御名の力が私たちのうちに注ぎ込まれる。とても不思議なこと、でもそれは真実。何て素晴らしいミステリー(奥義)だろう!

この歌の次に、今度はDelirious?の「The Happy Song」を練習したら、みんな文字通り幸せになっちゃって、踊るわ、飛び跳ねるわ、ときの声をあげるわ、We had such a good time singing unto the Lord! ああもう、ほんっとに、主にほめ歌を歌う事は楽しく、賛美は麗しい !

主よ、どうかあなたの御名の真実のゆえに、私たちを支えてください。様々な悪や誘惑から助け出して下さい。あなたの御名のなかに固く保ってください。主よ、私たちはあなたの御名を呼びます。全てにまさって高く掲げます。あなたの御名以外に私たちが頼るものはありません! 誉めよ、誉めよ、主の御名を誉めよ。力ある偉大なる御名を、この天地の全てよりも高く掲げられるべき大いなる御名を。聖徒たちよ、主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ! 全地よ、神に向かって喜び叫べ!  御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ!

2004年9月15日

西からは前線が接近中、南からは大型のハリケーン「アイバン」がアラバマ州に上陸間近で、そこから大量の水蒸気を吹き上げてくるため、非常に蒸し暑く、ときどき雷を伴ったスコール性のにわか雨がばらばらと降ってくる。ここ数日ほど、8月に日本から帰ってきたころと比べよっぽど「夏らしい」天気が続いていて、蝉はみんみん鳴くし就寝時に冷房が必要だったりする。今年はハリケーンの当たり年らしく、進路にあたるカリブ海の国々やフロリダ州、メキシコ湾沿いの各州はかなり痛手を被っている模様だ。さいわい今回の「アイバン」のように進路がかなり西に偏った場合でもシカゴまで来ることはまずないので、われわれは直接の風水害の心配はしなくていいのだが。

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きょうは一念発起して論文を10本かたづけた。というとすごいことのように聞こえるが、別に懸案となっていた論文を10本読んだとか、まして書き上げたとかいう意味ではない。文字通り、机の上にうっちゃってあった他人の論文を10本、ファイルキャビネットにしまった、ということである。まだあと200本くらいかたづけなければならない。

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ケンスケはきょうが幼稚園年少さんの初日だった。父兄全体と先生の顔合わせもあるので、今日だけはお母さんと一緒にでかける。最初はちょっとはずかしそうにしていたけれど、教室には面白いものがいっぱいあって、すぐマイペースで遊んでいたそうだ。

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教会の副牧師夫人のラナに赤ちゃんが生まれたと思ったら、こんどはワーシップチームのマネージャーのティナがおめでただそうである。こういうのって、うつるっていうけど、ほんとうなんだな。しばらく前、手術を受けて自宅療養中のタミーのところにはちこが差し入れで持っていった夕食が好評で、ティナのだんなのスティーブが話を聞きつけて、「僕らにはいつポークディナーを持ってきてくれるのかな〜」とはちこにおねだりしたのだそうだ。「こんどあなたたちに赤ちゃんが生まれたらね」とはちこが言うと、「よし、さっそく今晩からがんばるぞ」と気合いを入れていたのだそうだ。効果てきめんだったね。ちなみに、ティナとスティーブにはすでに、3歳になるすんごい器量よしの女の子がいる。その子が今晩、得意そうに「わたし、おねえちゃんになるんだよ!」とみんなに言いふらしていたのがとても印象的だった。(ぼ)

2004年9月16日

今日からみんのアイススケートのレッスンが再開した。数ヶ月ぶりにスケート靴を履いてみると、去年買ったばかりだというのに、もう小さくなっている。今日はレンタルしたけど、1〜2週間以内に新しく買ってくださいと言われた。やれやれ。毎年買い替えるのでは大変だ。でも育っているんだから仕方ない。

みんは学校では今年から合唱部とブラスバンド部に入った。そして今日はバンドの楽器を決めるためのミーティングがあった。第一希望はクラリネットで第二希望がフルート。両方試してみたけれど、いやー、音を出すのって難しいのね。噂には聞いてたけど、これは相当大変そう。特にみんは歯の矯正で口のなかに入っているリテイナーというマウスピースが邪魔で、なかなか音が出せない。大丈夫なんだろうか。それでも本人は一生懸命やるからと涙ながらに訴えるので、クラリネットにトライすることになった。先生には、学校での練習の他にプライベートレッスンもすぐに始めてくださいと言われた。ひゃー、みんのスケジュールもびっしりになりそうね。

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今しがたまで、遠くに住む友人と電話で祈っていた。普段メールでやりとりしていても、やっぱり声を聞いて、そして一緒に祈るというのは格別の喜び。主よ、あなたのなさることは全て時にかなって美しく、私たちの思いをはるかに越えて素晴らしく、真実で公正で確かなものであることを感謝します。私たちはあなたの御手のわざに信頼します。そして御名を誉め讃え、賛美を捧げます!

お祈りの前にいろいろ話しているとき、地引網出版のことに話題が及び、「このネーミングがいいよね、出版社の意気込みが感じられるよね」と、ひとしきり盛り上がった。ロゴも可愛いしネ♪

さあ、そろそろ寝よう。明日の朝も早い。

2004年9月17日

一週間が飛ぶように過ぎていく。もう金曜日だ。今日は子供たちの学校のあと、みんなでシカゴのダウンタウンにある日本領事館へ行って、先日申し込んた子供たちのパスポートを受け取って来た。それから大学の近くにあるアジア系のヌードルハウスで夕食。シカゴ大学のあるハイドパークは、何となくケンブリッジを彷彿とさせる部分がある。ほんのちょっとだけどね。大学街に共通する「空気」みたいなものがあるのかな。食後は大学まで足を伸ばし、新しくなったパパの研究室と建設中の実験室をみんなで見学した。ま〜やとケンは「ラボラトリー」とうまく言えなくて「ラヴァトリー」と言っていた。ラボラトリーとラヴァトリーじゃえらい違いなんだけどな。(笑)

2004年9月18日

今日はケンとま〜やを連れて公園に行ったら、ま〜やがあごをハチに刺されてしまった。公園で知り合った近所の女の子と遊んでいたま〜やが、突然火がついたように泣き出したので何事かと思ったら「ハチに刺されたー!」と叫んでいる。「どこ?」と聞くと「あそこ」とジャングルジムを指さす。違うよー、「どこで」じゃなくて、「どこを」刺されたのかって聞いてるのに。

とにかく急いで家に連れて帰って、患部を洗ってから冷やした。ま〜やがハチに刺されたのはこれで二回めだと思うけど、幸いアレルギー症状がでる気配もなく、また元気に遊び始めたので一安心。でも、あとから調べて知ったのだけど、ハチに刺されて何らかのアレルギー反応を起こす人って、全体の20%くらいいるんだそうな。これって、多くない? 今の時期のシカゴって、スズメバチがものすごくたくさん出るのよね。気をつけなくちゃ。 

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新学期が始まってから、まだペースがつかめていなくてちょっと疲労気味。早く明日、教会へ行きたい。

主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。 イザヤ58:11(口語訳)

2004年9月19日

きのう顔を蜂に刺されたま〜やに、「どうして顔なんか蜂に刺されたの」と聞いたら、「ジャングルジムに蜂がとまっていたので、針がどうなっているのかよく見ようと思って顔を近づけた」のだそうだ。ううむ、不注意というかこわいもの知らずというか。Curiosity killed the catというのをそのまま地で行っている。

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大統領選の投票まであと2ヶ月となり、ブッシュ、ケリー両陣営とも選挙戦の追い込みにかかっている。もともと政治家を揶揄することが文化の一部となっているこの国では、両候補に対し、あちこちであることあらぬことが囁かれている。先日もこんなデマメールがまぎれこんできた。出来すぎな話なので怪しいと思って調べたら、やっぱりデマだった。訳すと、こんな具合。

「ケリー候補と聖書」
主は、ご自身を本当に知る民とそうでない民を明らかにされるものである。考えてもみよ。先週ケリー候補は、彼にとっていかに信仰が「重要」であるかについて大演説をぶった。このとき、アメリカ国民に自分を大統領に推すことを納得させようとして、ケリー氏は、彼の好きな聖句はヨハネの福音書16章3節である、と公言した。もちろん、演説原稿の作成者は3章16節のつもりで書いていたのだが、ケリー陣営には誰もこの間違いに気づくほど聖書に通じている者がいなかったのだ。さて、読者はヨハネの福音書16章3節が何と言っているかご存知だろうか?そこにはこう書かれている。「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」聖霊は不思議なかたちで働かれるものである。このメールを回覧すべし。投票、投票、投票。そして聖霊の導きにしたがおう。

なんでも、このメールは前回の大統領選の時にもアル=ゴア候補に対して、また現職のブッシュ大統領に対しても、全く同じ内容で流れたことがあるらしい。実際は、三者ともこのような失態を演じたということはないという。

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冗談はさておき、大統領選が白熱しているのは周知の事実である。米国の市民権を持たない私たちは投票することはできないが、思うことはいろいろある。アメリカに20年いていまだによくわからないのが、二大政党制。(別に二つでなければいけない、と決まっているわけではないけれど、共和党(保守)と民主党(リベラル)が実質上二大政党として長年君臨している。)大統領候補と言っても、それぞれの政党の指名を受けている以上、党の基本方針から大きく逸脱することはない。したがって、大統領選は個人というより共和党、民主党の間の二者択一の色合いが強い。

アメリカ人は共和党支持派、民主党支持派でけっこうはっきりわかれている。理由は家族やコミュニティーの伝統であったり、職場の風潮であったり、文化宗教的なものであったりといろいろだ。たとえば南部では伝統的に共和党支持が強く、北部東海岸では民主党。キリスト教保守派では共和党、黒人層や教職、マスコミは民主党支持など。たとえば、私の職場はだいたい9割が民主党支持だが、教会員は(はっきり聞いて回ったわけではないが)かなり10割に近い率で共和党支持で、全然違うので面白い。

私などは、共和党の政策にも民主党の政策にも、いいものもあれば悪いものもあるのだから、十把一絡げにしてどっちかを選べというのはずいぶん無茶な話だと思うのだが、アメリカ人には必ずしもそうは映らないらしい。二つの性格の異なる政党が拮抗していることが健全であると考え、むしろ、どっちつかずの有権者(swing voters)ははっきりしないやつと軽蔑すらされる傾向にある。しかし、そこには危険も含まれていると思う。とくに現職のブッシュ大統領のような「アクの強い」大統領が出てきたことによってそれが浮き彫りになった。

大統領選を見ていて気になることがふたつ。ひとつめは、今回の大統領選を見まもる国民の側が、ブッシュ支持か反ブッシュかという点にあまりにもエネルギーをついやしていること。ノンポリ層を政治に引き込んだという点でこれはブッシュ氏の「手柄」ともいえるが、人気投票の域を越えて、これから4年間それぞれの候補がアメリカをどこに引っ張っていくのかを冷静に見極めるような空気があまり感じられない。ケリー氏にしても、ブッシュじゃなければ誰でもいいやと言って選ばれたのでは本望ではあるまい。いまのところ、ケリー氏自身のカラーというものがあまり見えてこない。

ふたつめは、共和党支持者と民主党支持者の間の対話の欠如である。長年の民主党支持者が急に共和党にくらがえすることはなかなかないだろうが、それでも両者が対話することは不可欠だ。今は、お互いに「何を話してもむだだ」とお互いに口をききもしないような断絶が感じられる。敵にもいいところがあり、そこから学ぶという姿勢が見られないのは残念だ。たとえば、私はブッシュ氏(共和党)の外交政策や科学政策はほとんど支持していないが、彼が実施した減税政策や勧誘電話禁止法の施行は、直接目に見える形で我が家の生活の質の向上に貢献したので、高く評価している。国民の三分の一にブーイングを浴びせられつつ平然と職務を続けられる「ツラの厚さ」というのもある面、このような不透明な時代のリーダーには必要な資質かもしれぬ。もし私がアメリカ人で選挙に参加するとしたら、ブッシュかケリーかの選択はかなり考え、祈ることになると思う。

私は科学者としてつねづね、出所を問わず、よい議論には耳を傾ける準備をしている(ready to be persuaded)つもりだ。両陣営から中傷合戦以上のよい議論が出ることを期待しているし、両者がそれぞれに耳をかたむけ、建設的な議論を戦わせてほしい。その結果どちらかが国民の支持をより多くとりつけるならば、それがあるべき民主主義の姿であろう。(ぼ)

2004年9月20日

ぼぼるパパがケンスケのために見つけてきたサイトをご紹介。

かぶと虫の森

これはたくさんのカブト虫の写真や動画が見れる、感動的なサイトです。蛹化(ようか)や羽化の瞬間を捉えた動画もあります。ちなみに私、蛹化(ようか)なんて言葉、知りませんでした。幼虫からさなぎに変わることだそうです。

セミの羽化を目撃したときも思ったけれど、さなぎから成虫が出てくる様子というのは本当に摩訶不思議。あの茶色い殻のなかで一体何が起きて、ぶよぶよの幼虫があんな成虫に変化するのだろうと、ただ感嘆してしまう。 そして思い出すのは「心の一新によって自分を変えなさい」というローマ書12章2節の御言葉。ここの「変えなさい」は原語ではmetamorphoo、昆虫の変態を意味するメタモルフォルシス(metamorphosis )の語源に当たる言葉が使われている。

さなぎから蝶やセミやカブトムシが大変身して出てくるように、私もまた変わりなさいと言われても、しかも「心の一新によって」 だなんて、それは無理ですよ〜と言いたくなる。目で見たくらいではよくわからないくらいにちょっとずつ変わるというのではダメですか?なんて思ってしまう。

ん、ここでちょっと、手元の辞典をよく読んでみたら、こう書いてあるのに気がついた。「...the idea of transformation refers to an invisible process in Christians which takes place or begins to take place already during their life in this age.(下線はちこ)」 ということは、この世で生きている間の私たちというのは、いわばさなぎの状態で、外からは見えないけれども神さまが内側で働いてくださっていて、そして天国に行ったあかつきには見事な成虫(栄光化した姿?)に生まれ変わらせていただく、ということ? metamorphooという単語が示唆するところは、大変身そのものよりも、むしろそのプロセスが目には見えない形で人知れずなされる、ということにあるのだろうか。だとしたら、ほっとするというか、納得というか。そういえば、この「変えなさい」は原語ではただの命令形ではなく、「be transformed」、つまり受身の命令形になっていて、「変えていただきなさい」という意味になるらしい。殻の内側で変身のわざを人知れず行なっておられるのは神さまだから? もちろん、命令形になっている以上、私たちの側にも責任があるわけで、その変身の御わざに自らを委ねるのは、私たち自身の意志的な選び取りによるのだろうが。うーん、このあたり、どなたかご存知の方がいらしたら、是非ご教示ください。

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"What really matters is not who I am, but whose I am." ( 本当に大切なのは、私が誰であるかということではなく、私が誰のものであるかということ。)

2004年9月21日

今、朝の7時20分。エミとま〜やはすでに学校へ行った。みんは朝ごはんを食べている。近所に住むパティがもう迎えに来ていて、キッチンで二人、何やら楽しそうに話している。彼女たちの学校の始業は8:50だけど、二人とも合唱部に入っていて、今日は朝練があるらしい。… と、そうこうしているうちに二人も出かけて行った。Have a good day!  残るはケンスケ。ケンは先週は顔合わせだけだったので、昨日が実質上の幼稚園の初日だった。ケンの幼稚園の始業は8時半から。

初日の昨日は、私と別れて教室に入るとき、ちょっとだけ愚図ったけど、いったん建物のなかに入ったら大丈夫だったみたい。帰って来たときの第一声は「Mama, I liked school!」だった。 あ、そろそろケンを起こそうかと思っていたら、自分で着替えておきて来たぞ。えらい、ケンスケ。さ、朝ごはん食べようか。

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夕方。夕食の支度でラタトゥーユを作っているとき、油がはねて左目に入った。ちゃんと目も開くし、見えているから大丈夫だと思うけど、びっくりした。さっきから片目だけポロポロ涙が出続けている。またはねたら恐いので、その後はサングラスをかけて料理を続けた。私って、料理しているとよく怪我するのよね。火傷なんかしょっちゅうだし、指切ったりとかも。料理って、危険だわね。(私がそそっかしいだけだろうって?)

2004年9月22日

20日の日記で言及したローマ12:2に関して、何人かの方々からメールをいただきました。感謝します。つくづく、御言葉というのは本当に「生きて」いるんだなぁと思いました。私たちが聖書を読むときに必要なのは、「神学的に正しい唯一絶対の解釈」ではなく、その時々の私たちの歩みにとって必要な、生きた神さまからの語りかけなんですね。皆さんのメールを読みながら、それぞれにこの箇所から新しい発見や励ましや解放を得られた様子が伝わってきて、心から主の御名を誉め讃えました。私が書いていたことはかなり的外れでしたのにね。(^_^;; 私自身も、あの後さらにこの箇所を読んだりあちこち調べたりして、新たな発見や語りかけをいただきました。これこそバイブルスタディの醍醐味ですね! 

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昨日の朝、ケンスケが自分で起きて一人で着替えて下に降りてきたので、随分お兄ちゃんになったんだな、偉いな、と感心したのだけれど、あとからその謎が解けた。彼はおもらしをしてしまって、それで目を覚まして自分で着替えたらしい。ケンを送り届けた後で寝室を見てみたら、濡れたパンツとパジャマのズボンが脱ぎ捨ててあった。(苦笑) ま、それでも自分で着替えたのだから良しとしましょう。一方今朝は、おもらしはしなかった代わりになかなか起きられず、泣いて愚図った。

「ダメよ、ダメダメ、No, no, Mommy. Leave me alone! I don't want you anymore! Don't look at me! Go away!」

はちこママ、さんざんな言われよう。(笑) それでもしばらく愚図ったあとは、突然憑きものが落ちたようにケロッとなって、「今日は幼稚園にレモネードを持っていくよ」とかなんとか、何事もなかったかのように言うから笑ってしまう。まったく、この子は。

さぁ、今日も一日忙しいぞ。活動開始。Jesus, this is Your Day. Lead me on.

2004年9月23日

秋分の日を迎え夏はオフィシャルに終了したが、まだ太陽が一杯のゴージャスな日々が続いている。昼は30度近くまで気温があがるものの朝夕は肌寒く、すでに木々の紅葉が始まった。やっと大学の新年度が来週の月曜から始まる。日本に帰っていたのが遠い昔のよう。とこしえに続くような気がした「夏休み」もようやく幕引きを迎え、キャンパスには学生の姿が増えて活気が戻ってきた。

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昨日はエミの、今日はま〜やとケンの学校で新学期恒例のオープンハウス(一般見学)があり、夕方からでかけてきた。子供たちは同じ学区で10年以上お世話になっているので勝手知ったる学校なのではあるが、新しい担任の先生とあいさつをしたり、いろいろな教室や設備の見学、カリキュラムの説明などがあるので父兄は毎年顔を出すことになっており、学校はごったがえしている。今年は大統領選挙の年にあたるので、エミの社会科のクラスでは候補者のテレビ討論会をみんなで鑑賞して話し合ったりするらしい。ま〜ややケンは学校のコンピュータルームや音楽の時間など、さっそくそれぞれお気に入りの場所や時間ができたようだ。

それにしても、驚いたのがエミの時間割。何だ、この分刻みのスケジュールは?(右:クリックすると大きくなります。)山の手線の時刻表じゃあるまいし。時限と時限の間の休み時間(というより移動時間)はわずか3分、昼休みも30分。クラスの時間に遅れると容赦なく居残りを命じられる。「つめこみ」といわれた我々の小中時代でももう少しゆとりがあったと思うが…。夏休みが長い分、学期中に集中して勉強しなければならないとはいえ、これはなかなかハードだ。アメリカの公立校とは言え決して馬鹿にならない。(ぼ)

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今朝は大学病院の眼科で、三月に受けた手術の経過を確認するための検診。良好だそうです。ただ、目を潤すための目薬を頻繁に使わないといけませんと言われた。油がはねたあとも何でもなかったみたいでよかった。

今日の午後は異様に忙しい日で、一人ではどうしようもないのでパパに助っ人を頼んだ。エミのヴァイオリンのレッスンと、みんの歯列矯正のアポイントメント、みんのアイススケート、エミのユースワーシップチームの練習、そしてユースグループの集まりが4時以降に続けざまに集中している。 そして夜には、ま〜やとケンスケの学校のオープンハウスとミッショネットのリーダーミーティング。こんなにいろんなことが集中してしまう日は滅多にないのだけどね。パパに助けてもらえてよかった。(はち)

2004年9月24日

詩篇16:2

今日は一日、この御言葉に思いを巡らせていた。

2004年9月25日

今日は夏に日本から戻って来て以来、初めてミツワに行ってたっぷり日本の食材を買い込んで来た。これで当分楽しめそう。

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アンドリュー・マーレイの「完全な明け渡し」の次のメッセージを読み始めた。今度のは「Kept by the Power of God (神の御力によって守られて)」、第一ペテロ1章5節からのメッセージ。

4節には、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を私たちが受け継ぐように、それが天にたくわえられていると書いてある。そして5節には私たちは信仰により、神の御力によって守られていると書いてある。マーレイは言う。どこの世界に自分の子供のために資産を貯め込み、大切にそれを守っておきながら、肝心の子供のことはほったらかしで教育は受けさせない、躾けはしない、道を踏み外しても危険に瀕してもおかまいなし、なんて親がいるだろうか。御父も同じこと。天に私たちのために素晴らしい資産をたくわえておられる神は、私たちがそれを受け継ぐ日が来るまで、この地上にいる私たちのことをその大能の御力によって完全に守ってくださるのだ、と。

神の守りは全能で、一部だけ守るのでなく全てを完全に守られ、一時的なものではなくいつまでも続く。しかしこの守りは「信仰により」受けるものである。ここに、大能の御手を差し伸べてくださる神の側と、ただ信じて委ねるしかない私たちの側との二つの側面があることに気付く。信仰とは何か、それは神の全能の前における私たちの不能である。自分自身に絶望し、空っぽになり、私には自分の力でできることなど何もないと認め、告白し、私にはできないことを完全に成し遂げることのできるお方に信頼することである。また、信仰とは自分でもがくことを止め、主のお言葉のうえに子供のように安らぐことである。

…とまぁメッセージは続くのだけど、マーレイの言葉はいつもながら熱い。

Kept by the Power of God. 私の能力によるのでもなく、知恵や洞察によるのでもなく、ただ憐れみ深い御父の大能の御力によって守られている… 自分に絶望して自己嫌悪に陥るヒマがあったら、不能な私のうえに臨まれるGreat Keeping Power of Godに信頼して感謝しよう。

2004年9月26日

最近コーヒーを減らすことに努めていて、代わりにペパーミントティーを飲んでいる。朝起き抜けに飲むとすっきりするし、寝る前に飲んでも睡眠が妨げられないからちょうどいい。(といっても、実はコーヒーを寝る前に飲んでも問題なく眠れる人なのですが、私。)今も、寝る前に暖かいものが欲しくなって、ペパーミントティーを煎れたところ。喉元から胸がすーっきり。気持良く眠れそう。ではお休みなさい。そうそう、今日の礼拝のメッセージは、詩篇127:1、2と、詩篇90:17だった。詩篇90:17、これを祈りつつ眠ろう。(はち)

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いっぽう私のコーヒーの消費量は一向に減っていない。カフェインの消費量と文明の発達に正の相関関係があることは、古代文明発祥の地がおしなべてお茶やコーヒーの大生産地であったことからも明らかである。しかし、薬に関しては最近注意するようにしている。いまのところ健康体なのでそんなに薬を飲む機会や必要もないのだが、ちょうど今はブタクサの花粉症の時期で、どうしても耐えられないときにはClaritin-Dという市販の抗ヒスタミン剤を服用している。長年にわたる改良の結果、最近の抗ヒスタミン剤は副作用もずいぶんおだやかになったとはいえ、皆無ではない。説明書きには一日一錠と書いてあるが、一錠飲んだら確かにアレルギーの症状はすっと収まるものの、4日間くらいは口の中がからからして、とても毎日飲もうという気にはなれない。それでも普通にしていれば大したことはないのかもしれないが、このあいだ教会で歌っていたら舌が上あごに張り付いてしまって歌詞がほとんど発音できなくなり、あわてて隣で歌っていたティナにコップに水をくんできてもらうという事件もあった。

インターネットで薬の副作用を報告するサイトをのぞいてみると、アメリカ人でこの薬を飲んだ数百人のコメントが載っていて、それを読んでいたら乾燥感のほかにも思い当たる節のある事例がいくつかあった。たとえば、不眠症(もともと抗ヒスタミン剤には眠くなる傾向があるはずなのだが、どうもこれを抑える成分が逆に効きすぎているようだ)、手足の腱鞘炎(最近ギターを弾くときに左手の指の関節が痛い)、食欲減退(体重減少のためにはプラスだが…)。このほか心拍数の増加、焦燥感、ヒステリーなどを訴えている人もいた。いかに効果のある薬でも飲まずにすむ薬は飲まないにこしたことはない。もっとも薬に対する反応はひとさまざまなので、一概には言えないが。中には、

「この薬は私に全く何の影響も及ぼしませんでした。副作用はひとつもありませんでした。そしてアレルギーにも全然効きませんでした」

という強者もいたが。

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さて、上の詩篇127:1のテーマは「主が家を建てるのでなければ」である。これはもちろん、聖徒の働きについて言っているのであるが、ちょうど講義の準備で目にしたばかりのアイバンをはじめとする数々のハリケーンに倒された家々の写真を思い出さずにはいられなかった。家を失った方々は本当に気の毒だし、秒速70メートルという何十年にいっぺんくるかこないかの暴風雨に対する準備を怠っていたといって彼らや建設業界を非難するわけにはいかない(そのための災害保険である)。ただ、一生に一度という投資の対象である家でさえ、こんなにももろいものであるという事実を改めて思い知らされる。宝はこの地上ではなく、天に積もう。そして、「私たちの手のわざを確かなものにしてください。」というモーセの祈りを私も祈ろう。(ぼ)

2004年9月27日

横浜在住のMさんから、アメリカの一般のメディアや公立の学校では進化論はどのように受け止められているのですか、という質問をいただいた。私とぼぼるパパの間でも時々話題になるトピックでもあったので、Mさんの許可を得て一部を転載します。(若干加筆修正してあります。)

>しばらく前にご主人様が進化論等についてのことを日記に書かれていましたが、
>(そして、その趣旨はよくわかりました!)
>実際には米国の例えば学校では子供たちにどのように教えられているのでしょうか。
>また、一般の人々やメディアの認識は進化論についてどのようなものなのでしょうか。

うちの子たちはまだ小中学生なので、その範囲でのことしかわかりませんが、やはり基本的に、学校では進化論が当然のこととして教えられているように見受けられます。シカゴには自然史博物館があり、幼稚園の頃から何度も学校の遠足で行っていますが、そこにもサルから人間に進化する図解入りの解説(よく教科書などで見かけるアレです)がパネルになって展示されていますし。 クリスチャン以外では、一般の人もメディアも、やはり進化論を受け入れていると思いますよ。

>というのは、以前日本の創造科学研究会のものを読んでいましたら、
>日本は文科省もNHKもひどすぎる等々、世界では進化論はもはや科学者たちからは
>否定されているのが当たり前のように私には読み取れるような記事が多かったのです。
>その創造科学研究会の出版物にはとてもよい物もあると思いますが、同時に、
>あまりにも進化論を攻撃する姿勢が強かったりして、私個人は最近離れ気味になってしまいました。

ふむ、なるほど。 Mさんがひっかかっていること、よくわかる気がします。聖書を信じるクリスチャンが神による創造を信じるのは当然のことだと思いますが、その信仰の根拠として、なぜ「聖書がそう言っているから」だけでは不十分なのか、私にはそれが謎です。世界ではもはや科学者たちから否定されている、と言わないと不安なのでしょうか。

創造は神の業です。一方、科学は人間が作った決まり事に基づく一つの枠組にしか過ぎません。その意味で、「創造科学」と言ってしまうなら、それは神の業を人間の理解の範囲内に押し込めてしまうことになると思います。創造の方が科学よりもずっと大きいのです。科学によって神の創造の一部を説明することは可能でしょうが、全てを説明することは到底不可能でしょう。それで当然です。私たちの神はこの全地宇宙を創られ、時間をも超越する偉大なお方なのですから! 創造の御業を科学で説明しきれないからといって、クリスチャンは何も心配することはないし、聖書に書かれていることはナンセンスなのだろうかと悩むこともないのです。

科学が科学として成り立ち得るのは、「自然」というものが創造主によって秩序を持って創られているからです。科学とは、神がこの世界に生きる私たちに持つことを許された、祝された知識体系だと私は思っています。もちろん人間が科学を通して達成できる事柄には限度がありますし、どんなに祝された賜物であっても、それをお与えになった方を無視して自分の満足のためだけに用いることは可能ですが。

ところで、科学とは決められた約束事の範囲内で、与えられたデータをもとにもっとも整合性の高い理論を打ち出そうとする試みであるといえますが、その科学の範疇内においては、今のところ進化論はこの分野において人間が出せるベストの理論であることには間違いないそうです。(主人談) クリスチャンたちの中には、科学者たちがいかさまな研究を行なって進化論を擁護し続けようとしていると論ずる人たちもいるようですが、主人に言わせるとそれは違うそうです。彼ら(進化論の研究者たち)は彼らなりに、ベストを尽くして誠実に研究しているのです。ですから主人や私は、それはそれとして彼らの研究には敬意を払うべきだと思っています。

ここで強調したいのは、そのように考えているからと言って、私たちの信仰が脅かされる事はないということです。科学の守備範囲を考慮にいれ、人間と神さまの大きさの違いを考えれば、とりあえず現時点で科学が進化論をサポートするように見えたとしても、とりたてて不思議はありません。私たちの信仰は、科学によって裏付けられるものではなく、聖書を神の御言葉と信じることにその基礎があるのですものね。決して、科学は科学、信仰は信仰と、切り離して考えているというのでもありません。創造主である神さまの大きさと、人間の知識体系としての科学の大きさを、正しいパースペクティブに並べて見るのであれば、なんの問題もなくすっきり収まるということです。

>うちの子供たちも小4、小1、3才の3人おり、いずれ学校で進化論と出会うでしょう。
>テレビで動物の出てくる番組を見ると、100%進化論的解説がなされます。
>このような状況の中で子供たちにこのことをどう対処するように導くべきか、もちろん、本人と
>神様の間の問題ではありますが、ホームスクールには導かれていない我が家では、
>まず学校とどうこの問題について付き合うか、親としても祈り備えなければと思っています。

そうですね。これは私にも同じチャレンジがあります。そしてこのチャレンジは、進化論についてだけではなく、日常生活の様々な領域について言えることなんですよね。子供たちは、学校で、社会で、あらゆる場所で、「この世」がつきつけてくる価値観にさらされているのですから。たとえばうちには13歳の娘がいますが、男女交際における基準も、聖書の基準とこの世の基準は違いますよね。学校によっては、結婚の価値や結婚前の貞操という概念には重きをおかず、とにかく妊娠したり性病に罹らなければいいのだ、みたいな性教育を行なうかもしれません。実際、日本の小学校で、避妊具の使い方を高学年の子供たちに教えた学校があるという話しを聞いたこともあります。恐ろしいことですよね。

進化論の件に関して言えば、進化論だけを取り上げてあれこれ議論するよりも、子供たちにまず「科学」がどのような学問体系であるのか、科学を過大評価も過小評価もすることなく、正確に教えてあげるところから始めることが必要かなと思っています。そうすれば、科学における進化論の位置付けや、私たちの信仰との関係についても子供たちをあまり混乱させることなく教えてあげられるのではないでしょうか。

育児はある面、戦いですね。「この世」との間での子供たちを巡る争奪戦のようなものだと感じることがよくあります。でも、昨日の日記にもちょうど書いたのですが、私たちは、子供も含めて、「神の御力によって守られている」のだと信仰をもって告白できることは感謝ですね!

イザヤ54:13」 ハレルヤ!

2004年9月28日

昨日の日記に関連して、結城さんがコメントをくださっていた(28日昼間の日記)。「科学的な学説としての進化論」はキリスト教に相反するものではないと思うが、「進化論的世界観」はキリスト教と相反する(敵対するといってもよい)ものだ、というお話。私もその通りだと思う。

「進化論的世界観」とは、結城さんの言葉を借りると「この世は『偶然』にできたものであって、存在にはまったく意味も意図もない」という世界観で、そこには「創造主」はいない。それは「サイエンス」の範疇を越えた一つのイデオロギーであり、人々の思考パターンや価値観に深い影響を与える。もし私たちの世界観から「創造主」が欠如するなら何が起きるか。結城さんが指摘されているように人々は「虚無への道」に堕ちて行くか、あるいは自らを創造主(神)に仕立ててしまうかのどちらかだろう。そういえば6月に、ミッショネット(教会で私が教えている中学生の女の子のクラス)で「命の尊厳」という単元を学んでいたとき、命の価値という観点から創造論対進化論に話しが及び、子供たちに創造主を教えることの大切さを痛感したことがあった。ソロモンが「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と忠告している通りだ。(伝道者12:1)命がもともとは何かの化学反応で偶然生まれたものであるというなら、命を守ることに何の意義があろうか、ということになってしまう。しかし聖書は、神がいのちの源であり、人間一人ひとりは神の御手によって目的を持って価値あるものとして造られたと言っている。

…と書いていると、どうしても科学と信仰を自分のなかでどう共存させたらいいのかわからなくなるという方がいらっしゃるかもしれませんね。科学はその約束事として、「神」とか「創造主」といった概念をそのなかに持ち込まないことを前提としています。それにも関わらず、科学が成り立ちうるのは創造主が存在してこそなのですね。

ここで、ちょっと結城さんの言葉を引用させていただきます。(これは、雑誌のインタビューだったのでしょうか?)

科学って、いわば「世界をリバースエンジニアリング」しているんですね。 世界を構成しているものを調べたり、物理法則を調べているじゃないですか。 あれって、誰かが作ったプログラムをプログラマが解析しているのと同じようなものですね。 このクラスとこのクラスがこういう関係にあるとか、 テストケースを与えて、振る舞いを調べたりとか。 乱暴な言い方をすれば、科学は世界をリバースエンジニアリングしているみたいだな、と。

それでですね、ここから大事な話なんですが。 リバースエンジニアリングが意味を持つのは、そのシステムを作った設計者が存在するときだけなんです。 だから、もしもデザインした設計者がいないもの、 そもそもデザインなどされていないものはシステムとは呼べないし、 調べてもつまらない。

この世そのものを探っているサイエンティストが、その向こう側にいる本当のデザイナー、 世界をクリエイトしたクリエイターの存在を意識するのは、当然だと私は思います。 だから、科学者が世界の創造主としての神さまを信じるというのは、とても自然なことだと思います。 (「OOエンジニアの輪!」のインタビューより)

それから、ぼぼるパパの過去日記からも引用します。

前に、科学は究極の真理に到達することはできないと書いた。しかしながら、現在の私たちの実生活がいろいろな意味で自然科学の恩恵に浴していることも否定できない。科学の成功の秘密とは何であろうか。それは、摂理の基である神が、自然界をもともと秩序あるものとして創造し治めているからだと私は考える。秩序という前提なしには、一般化された科学理論の余地などない。ひるがえって、科学はそれ自体で究極の真理に到達することはできなくても、科学に携わる者は知性である創造主の摂理を信頼することにより、「信仰によって」真理を宣言することはできると思う。この意味でサイエンスは私にとって「act of worship」たりえるのだ。もちろん、私たちが科学であれなんであれ、創造のみわざを鑑賞し理解することができる理由として、神が私たちをご自身の似姿に造られ、恵みによってその知性のかけらを与えて下さっているという事実も忘れることはできない。

実はこれらのことは300年前にすでにアイザック・ニュートン卿がその主著「プリンキピア」で語っていることである。ニュートンといえば近代科学の父として名高いが、彼は「プリンキピア」の中で実に半分以上のスペースを割いて聖書に基づいた世界観を語り、いかに科学的手法がその理にかなったものかを説いている。近代科学がキリスト教世界であった西欧にまず始まったというのは、あながち偶然ではないようだ。

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このところずっといいお天気が続いていたのに、今日は朝から風が強く、今にも嵐が来そうな空模様。ケンスケを幼稚園に連れて行く時、上着を着せようとしたら、ま〜やの赤いミニーマウスのレインコートを指差して、あれが着たいと言う。ケンスケは実はこのミニーちゃんのレインコートがお気に入りなんだよね。でも、学校に着て行くのはどうかなぁ… 「それは、ガールズのだって、みんなに笑われちゃうかもしれないよ」と言うと、ケンはびっくりしたように「Is it for girls?」 私がうなずくと、彼はしばらく考えてからこう言った。「But, boys can wear it if they want to, you know?」 ふむ。まぁそうとも言えるかもね。じゃあいいよ、あなたが気にしないなら、着てもかまわないですよ。フードにミニーちゃんのお耳と水玉のリボンが付いてるコートだけどね。 ケンは嬉しそうにコートにそでを通し、「I'm a Minnie Mouse!」と満足そう。でも、いざ車に乗り込むときになったら、やはり思うところがあったのか、自分からコートを脱いでいた。 

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夕べの御飯はシーフードカレー。煮込み系のものを作るときは、冷蔵庫のなかの残りものも全部入れてしまう。ちょっとだけ残っていた先日のラタトゥーユとか、皮にシワがよっていてお弁当やサラダには使ってもらえなかったプチトマトとか。でも、そうすると子供たちがやけに目ざとくて、カレーを食べながら「この赤いもの、何?」とか「What's this black thingy?」とか、いろいろ疑問を差し挟む。赤いのはトマト、黒いのはお茄子の皮よ。いいから早く食べなさい。(笑)ついでに緑色の細長いのはインゲンで、丸いのはズッキーニ、黄色いのはイエロースクォッシュ(瓜)、筋っぽいのはセロリで茶色のぷにょっとしたのはマッシュルーム。シーフードカレーと言っても、野菜の方がたくさん入ってるなぁ。

それから、夕べのサラダにはクローバースプラウトなるものを使ってみた。スプラウトとアボカドとトマトのサラダ。クローバースプラウトはアルファルファみたいなんだけど、アルファルファより美味しくて栄養価が高いとパッケージに書いてあったので初トライ。なるほど、確かにアルファルファよりもくせがなくて食べやすかった。またやってみよう。

2004年9月29日

『境界線(バウンダリーズ)』が遂に完成して、出版社さんの方に届いたという連絡をいただいた。嬉しい。主よ、ここまでお守りくださったことを感謝します。予約注文をして下さっていた方々には、明日(日本時間30日)には発送されると思います。長い間お待ちくださっていてどうもありがとう。キリスト教書店には今週末か、来週早々には並ぶことになるでしょう。この本のうえに主の御手が置かれ、一人でも多くの日本の読者に届けられ、キリストの身体の成熟と福音宣教のために用いられますよう、皆さんにもお祈りいただけると嬉しいです。Glory to God!

2004年9月30日

うわー、いよいよ9月も終わり。このままあっという間に年末に突入するのでしょうね。今年こそは11月中にクリスマスカードの準備を済まそうね、とパパと話している。(実は毎年そう言っているんだけど…)でも、実際三ヶ月なんてすぐよね。すぐ年末になるよね。

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エミは学校で合唱部とオーケストラ(と文芸部)に入っているが、合唱部とオーケストラにはそれぞれ、オーディションを受けて、受かった子たちだけで編成される選抜のグループがある。エミは両方ともオーディションを受けて、明日その結果がでるらしい。私はエミなら大丈夫だろうと思っているが、エミに言わせると合唱部のオーディションはものすごく競争率が高く、しかもみんな上手な子たちばかりなので予断を許さない状態らしい。エミは合唱部の選抜グループの練習に出られるようにするために、バイオリンの個人レッスンの時間を変えてもらったほどだったから、これでダメだったら落ち込むだろうなぁ。

それにしても、中学生のクラブ活動にしてもうオーディションがあるなんてすごいね。さすが実力主義のアメリカというか… でも、目標を設置してそこに到達するために努力するって絶対大切なことだから、子供たちにはぜひ頑張ってもらいたいものだと思う。(うちの子たちだけじゃなくて、どの子もみんな、ね。)

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うわー(今日は叫ぶの二度めだ)、驚いた。びっくりした。思いがけないものを発見してしまって、今ちょっと動揺している。いやあ、驚いた。なぜこれが今まで私の目にとまらなかったのだろう? 私だけじゃない。私と一緒にこの件について話していた人たちは、みんな知らなかった。それにしても… うーん。非常に気になる。とにかく、即刻入手して、調査すべし。Lord, so, what is Your plan? How is this supposed to affect me?

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