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ぼぼるパパの日記はこちら
2003年11月1日夕べは無事教会には行けたけれど、途中で動悸が激しくなって気分が悪くなったので、一人で早く帰って来てしまった。そういえば過去にも時々こういうことがあったような気がする。ただの疲労と寝不足とかそんなのでしょう。昼間は子供たちの学校にハロウィンのパレードを見に行った。ユニークで楽しいコスチュームの子たちも多いけど、中にはどうしてこんな気持ち悪い格好をしたがるかなー?という子もいて、ああいうのは感心しない。私が気にいったコスチュームは、Dr. Seussの絵本に出てくるキャラクター、二人組の「Thing 1 & Thing 2」 これは可愛かったですね。 カメラを持っていっていくつか写真を撮ったのに、夜になってから気が付くとカメラがない! どこかに落としてきてしまったのかなぁ? 出てくるといいのだけれど。 ***** 今月の28日か29日に、うちでシカゴJCFNのサンクスギビングディナー集会をやる。去年もうちでやったけど、あの頃は日記をお休み中だったので記録は残ってないですね。去年は30〜35人くらい来たのだったかなぁ。私はホストなので当然食事担当になるわけですが、もう一人、私と一緒に担当してくれるのが、シカゴ大学化学科博士課程の大学院生のYくん。ちょっと意外な気がしたけど、なんでも彼は食にこだわりがあるんだそうな。(笑) ***** 昨日の日記を見てお祈りくださった皆さん、どうもありがとうございます。続けてお祈りいただけると感謝です。体調もさることながら、最近心がちょっと不安定気味な気がしているのです。神様が私のうちにすでに与えてくださった「Sound Mind」がフルキャパシティで働いてくれるように。それを妨げているものが明らかにされ、取り除かれるように。はちこがますますイエス様を愛し、イエス様との深い交わりのなかに留まることが出来るように。はちこの霊の目と耳がクリアにされ、語られている言葉をはっきり聞き分け、それに対して御心にかなった応答をすることが出来るように。私にはすでに「力と愛と慎みの霊」が与えられているという真理のうえに堅く立って、信仰をもって進むことができるように。 Lord, I need you now ever so desperately! ***** サルの捕まえ方。9月6日の日記で「神様の御心ではないとわかっているものを握りしめていることほど、私たちにとって不自由なことはない」と書いたけれど、その直後の日曜日のメッセージで、パスターがサルの捕まえ方についてちらっとお話された。手がようやくはいるサイズの穴の開いたカゴのなかにバナナを入れて置いておく。するとサルがやってきて、カゴの中に手を突っ込んでバナナを掴む。ところがバナナを握っている状態では手がカゴから抜けない。サルが自由になるためには手を開いてバナナを放すことが必要なのだけれど、サルはバナナを惜しんで執着するために、カゴにつながれたままになる。そうこうしているうちに人間がやって来て、サルを捕まえてしまう、というお話。どんなに美味しそうなバナナでも、握りしめたまま放置されていればいずれは腐ってしまう。腐ったバナナを手放すことができないで、カゴにつながれたまま自由を失っている姿ほど哀れなものはない。 2003年11月1日夜今朝はあの日記のあと、かなり気持ちが浮上して来た気がして、私って立ち直りが早いな、なんて思っていたのだけれど、午後になってある自分の失敗を思い出してどっと落ち込み、そのまま。何だか、パソコンの画面を見るだけで動悸とめまいがしてくるので、もしかしたら日記をしばらくお休みするかもしれません。大丈夫そうだったら書きますが。それからいくつかメールをいただいているのですが、お返事が出来なくてごめんなさい。お祈り感謝します。 もう一つ、具体的なお祈りのリクエストがあります。(それを書くのが目的で出てきました。)明日の朝の礼拝の後にぼぼるパパがテキサスに向かうことになっていて、夕拝のワーシップのリードは私が一人でしなくてはなりません。普段でも彼がいない時に一人でやるのは心配なのに、このような状態ではなおさらです。多分、こんな状態だからこそ、今の私は主を礼拝することが必要で、そして弱いときにこそ強いとおっしゃってくださる主ですから、きっとその場をtake over してくださると信じているのですが… 夕拝はシカゴ時間の午後6時、日本時間の月曜日の午前9時からです。どうぞよろしくお願いします。 夕方から、ララ・マーティンのDivine Exchange をリピートにしてずっと聴いている。
ああ、書きながら泣いてしまう。主よ、この歌は今の私の祈りそのものです。私の恐れを、あなたの平安と取り替えてください。私の疑いを、あなたの確信と取り替えてください。私の混乱を、あなたの秩序と取り替えてください。私の涙を、あなたの笑いと取り替えてください。主よ、今あなたを礼拝します。私に触れて下さい。 2003年11月3日
昨日は私のためにお祈りくださって、本当にどうもありがとうございました。大勢の方から「祈っています!」「祈りました!」のメールをいただき、もう何といって感謝したらいいのかわかりません。 夕拝が始まる前はやや緊張していたのですが、始まってしまったら、私はただ主の御臨在のなかに立たせていただいていることだけが嬉しくて、他のことは何も考えなくなっていました。めまいも動悸も吐き気も頭痛もありませんでした。不思議と夕べは何もかもがうまくいって、たとえば、モニターの音量もちょうどよく、リードするのがとてもやりやすかったりしました。普段は、自分の声が聞こえなかったり、あるいは自分の声ばかり聞こえてバックで歌っている人の声が聞こえなかったり、ピアノの音が聞こえないとか、ベースの音がうるさすぎるとか、たいてい何かがうまくいっていないことが多いのに、夕べは全てのバランスがよく、テクニカルな面でも満点でした。またリードする時には、歌いながら「もう一度コーラスを繰り返し」「曲の一番始めに戻る」「これでおしまい」といったシグナルを他のチームのメンバーに出さなくてはいけないのですが、普段はタイミングを誤ったりシグナルを出し忘れるという失敗をすることがよくあるのに、夕べはとても落ち着いてちゃんとできました。会衆の人たちも、主の御臨在に敏感に、素直にレスポンドしていて、本当にみんなで一つとなって霊と真をもって心から主を礼拝することができたと思います。みなさんのお祈りのおかげです。本当にどうもありがとうございました。祈っていていただくということが、こんなにも大きな違いをもたらすのですね! ハレルヤ、私たちの祈りを聞かれる主の御名を讃えます。 ワーシップだけでなく、礼拝のメッセージも、朝も夜もとても励まされる内容でした。また夕拝ではメッセージのあと、お祈りしてもらいたい人は前に出てきて祈ってもらう時(alter call) があり、私も出ていって祈ってもらいました。パスターを初め、何人かの人たちが私に手をあてて祈ってくださいました。そして婦人たちはその後私のことをギュッとハグしてくれました。私は平日はいつも一人で礼拝していますが(たいていキッチンで)、やはり教会で、主の御身体と繋がってみんなで礼拝する喜びは格別ですね。キリストの御身体である私たち兄弟姉妹が、互いにミニスターし合うときに働かれる主の御霊、注がれる愛と恵みと慈しみ、癒し、解放… 夕べは特に、私の教会の人たちだけでなく、遠く日本や香港やその他の場所で私のために祈ってくださっていた皆さんの愛と祈りも一緒に紡がれて、本当に素晴らしかったです。 皆さん、本当にどうもありがとうございます。実は、日記には書けないこともあるのですが、今回の落ち込みを通して逆にとても励まされました。そして、主にあって私が得させていただいているものの上に、堅く踏み留まろうという思いを新たにされました。感謝します。 I love you all! 2003年11月6日私の日記を読んでる人で、これに興味のある人っているかな?
2003年11月8日アメリカは全国的に、学校のParent-Teacher Conference (父兄面談)の時期かな? 木曜日は子供たちの学校は休みだったけれど、一日中出たり入ったり忙しかった。9時半からみんのコンファレンス、11時からはま〜や、1時からはエミ。3時からはエミの歯医者さん、4時半からま〜やのアイススケート、5時20分からみんのアイススケート、5時半からエミのユースワーシップチーム練習、7時からはユースグループ。 私は毎年、先生との面談が楽しみ。エミはいつものことながら、ストレートA、みんは体育とサイエンスがB+で、残りは全部A、ま〜やは3段階評価で全部「S」。私は「S」というものは初めてで、「S」が並ぶま〜やの通知表を見て、「なんだこりゃ?」と思ってしまった。「S」というのは「Satisfactory」の略で、「VG:Very Good 」「S:Satisfactory」「I:Need Improvement」の3段階のまん中の評価のこと。先生が「ま〜やの得意なのはReading ですね、とおっしゃる。Readingの成績は「S+」だった。先生はま〜やのことをいろいろとても褒めて下さり、最後に「何か質問はありますか?」 私は思わず「あのー。うちにはま〜やの上に二人の子供がいるのですが、私は今までVGが並んだ成績表しか見たことがなかったので、この『S』の羅列をどう解釈したらいいのかわからないのですけど」と言ってしまった。(笑)先生は慌てたように両手を口をおおい、それから「あっ、いえ、どうかお気になさらないでください。私はいつも厳しく採点しがちなのです。特に学年の初めには辛めの点をつけて、子供たちの今後の上達がはっきりみえるようにしたいので、1学期めにはたいてい『S』しかつけないのですよ」とおっしゃった。さらに「もし御主人が何かおっしゃいましたら、私にお電話ください、私から説明いたしますから」とも。うーん、なるほど。エミやみんの時は、先生は「一学期めは辛めの点をつけるのですが、お宅のお子さんは文句なしにVGです」とおっしゃっていたのよね。(笑) でも、私もパパも全然気にはしてない。ま〜やにはま〜やのペースがあるのさ。ただ、そうね、スポーツでも楽器でも、何か一つは得意なものを見つけるのを手伝ってあげなくちゃ、とは思った。ケンスケと二人で体操教室にでも連れて行こうかな? アトランタオリンピックで銅メダルだったルーマニア人(今は帰化してアメリカ人になってるみたいだけど)の先生がやっている体操教室がうちの近所にあるので。 ***** 今月末に我が家でホストする感謝祭ディナー集会のメニューを考える。考える、と言っても、感謝祭のディナーのメニューなんて、だいたいいつも決まっているのだけどね。私が用意するつもりなのはこんな感じ。 *ターキー (去年は確か27ポンドのものを使ったので、今年もそのくらいかな。) *ディナーロール(市販) *アイスクリームサンデー用アイスクリーム、トッピング各種 あとは、他の方達が適宜持って来て下さるはず予定だけれど、私の方でもう少しバックアップのメニューを考えておいてもいいね。パスタとツナのキャセロールとかブロッコリのコールスローとか。アメリカ在住の方で、用意が簡単かつ日本人の口にもあう美味しいお料理のレシピを御存知の方がいらっしゃいましたら、是非情報をお寄せくださ〜い!(^^) ***** 水曜日だったかな、懸案になっていた壁のペンキ塗りについに着手した。ケンスケが家中のあちこちの壁にクレヨンやマーカーやペンや鉛筆でいたずら描きをしてしまって、見苦しくて気になっていたのだけれど、ケンスケに多少の分別がつくまで塗り直すのを待っていたのでした。だって、せっかく塗り直しても、また描かれちゃったらヤだもん。以前壁を塗るのに使ったペンキの缶を見つけて、お店に行ってまったく同じ色のペンキを調合してもらった。それからStain Killerと呼ばれるプライマーも用意した。プライマーを塗ってからでないと、普通のペンキをクレヨンなどの上から塗っても色が透けて見えてしまうのだ。ケンスケがまだ寝ている早朝からプライマーを塗り始めて、乾いてからペンキも塗って、よし、いいぞ!と思ったのも束の間。私はある大失敗をしてしまったことに気がついた。今まで壁に塗ってあったペンキは「フラットペイント」と呼ばれる光沢のないタイプのもの。ところが私が新しく買って来たのは「セミグロス」と呼ばれる少し光沢のあるタイプのものだった。壁にセミグロスのペイントを塗っても別にかまわないのだけれど、フラットペイントが塗ってある上からセミグロスを塗ると、いくら色はまったく同じでも、その部分だけが光ってしまい目立つ。塗りながら、何となく目立ってるけど、それはまだ乾いていないからで、乾けば大丈夫だよねーと自分に言い聞かせていたのだが、完全に乾いたあとも光っていて、それでようやく自分の失敗に気が付いた。もう、ショック。夕べ、うちに来たバイブルスタディの友人たちにその話しをしたら、みんな「オー、ノー!」と言ってゲラゲラ笑ってた。私が「廊下の壁とか、よく見るとあちこち光ってるのがわかるのよ」と言うと、ゲイルがすかさず「私、気がついてた。どうしたのかなーと思ってたのよ」 いや〜ん、やっぱり目立ってるんだ〜。 もう一度フラットペイントで塗り直すか、腹をくくってセミグロスで壁全体を塗り直すかのどちらかにしないといけないけど、感謝祭ディナーまでに出来るかわからないよ。困ったなー。やれやれ。(笑) ***** 心のなかの霧が晴れていくような、ちょっぴり切ないのだけれど、しみじみと幸せな週末。 Thank you, Jesus. You are the BEST! 2003年11月9日今朝の礼拝のメッセージはマルコによる福音書8章22〜26節より。
パスターは、この箇所から私が今まで気がついたことがなかった点を指摘された。それは、イエスはこの盲人の眼を癒す前に、まず手を取って村の外に連れて行かれたということ。そして眼を癒したあと、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように」と言われたこと。つまり、この盲人の家は、彼がいたその村にあったわけではなかったのだ。その村は彼がいるべき場所ではなかった。 パスターは今朝、私たちにこのようなことを言った。「あなたは今、自分が本来いるべき場所にいますか? あなたが属すはずの『家』にいますか? あなたがもしも何らかの困難を経験していて、神様から触れてもらうことを必要としているなら、まずは差し出されたイエス様の手を取って、主が導き出して下さるところまで共に歩いていってください。Are you willing to be led by Jesus? Touch comes after we are led! 主はそれからあなたの問題に触れてくださるでしょう。 そして主があなたの問題に触れてくださったなら、主はあなたにもこのようにおっしゃるでしょう、『あなたの帰るべき家に帰り、もう村に戻って行ってはいけません。』」 このメッセージ、私個人的には非常にずっしり来た。あることに関して、自分なりに心を決めていたことがあった。それでもほんのちょっとの未練があったのだけれど、今朝のメッセージはそんな私に、「もう振り返ってはいけません」と私を励まし、確信を与えてくれた。感謝。 2003年11月10日9月の初めにパスターがメッセージのなかでぽろっと言っていた言葉。印象に残ったのだけれど、書き留めなかったので正確な表現を忘れてしまっていたのが、夕べ突然思い出されたので、今度こそ書き留めておこう。
***** 今朝目が覚めて、窓の外を見たら芝生のうえに霜がおりて、一面真っ白になっていた。「季節が変わったんだ。」心にはっきりとわかった。 今朝の私の礼拝の歌は、『Jesus, All For Jesus』 すべてはイエス様のために。ただあなたの御心のなかにいてこそ、私は自由であれるからです。 Welcome home... 御父の声が聞こえた。 2003年11月11日「Boundaries」(Cloud/Townsend)をもう一度読み返している。あまりに身につまされて、読みながら嫌になってくる。私はバウンダリー(境界線)は結構しっかりと持っている方だと思っていたのに。前回読んだときはわりと人事っぽく感じていたけれど、今回はキツイ。 ***** アメリカではススキは『ornamental plant(装飾用植物)』と呼ばれ、この近所でもわざわざ庭先にフォーカルポイントとして植えている家が多い。ここ数日、ススキばかりがやけに目につく。 2003年11月12日バウンダリー(境界線)といえば、実話なんだけど面白い話がある。数カ月前のこと、私が外出から戻ってきたら、うちのガレージの前に左右に伸びるヒモが置いてあった。何だろうと車を降りてよく見てみると、それは延長コード(しかも屋内用の)で、右側をずっとつたっていくとうちの家の壁についている屋外用の電源のコンセントにささっており、左側をずっとつたっていくと隣の家の地下室の窓の中へと続いていた。 「何よ、これは?」私は憮然となった。隣の家の住人が、勝手にうちの電源にコードをつないで電気を使っているのだ。「冗談じゃないわ」私はコードを電源から引き抜こうとした。その時、玄関の前に小さな紙キレが落ちているのに気が付いた。 「事情があって電気を切られてしまったので、修復するまでの数日の間、電気を使わせて下さい。質問があれば私に電話して下さい。xxx-xxxxx ジュディ」お隣の奥さんだ。とりあえずコードを引き抜くのはやめて、パパに事情を聞きに行ってもらった。 電気代を滞納して電気を切られてしまったそうで、あと2、3日でまたつながるはずだから、というので、それまでの約束でそのまま電気を使わせてあげることにした。ただし、屋内用の延長コードを3本もつないで屋外で電気を引っ張るのはいかにも危険そうだったので、うちの長い屋外用の延長コードを使ってもらった。 これは物理的な世界でバウンダリーが侵されたいい例だ。困っている人を助けるために、期間限定で電気を使わせてあげることはかまわないと思う。しかし、もしその人が電気代を支払って電気屋さんとの間の問題を解決することをせず、いつまでも私のうちの電源にコードを差したままにしてうちの電気を使い続けるならどうか。それは明らかにあるべき姿ではない。わたしはたとえその人に同情したとしても、そのようなことは許すべきではない。物理的な世界でこのようなことがあれば、どこまでが許容範囲でどこからがそうではないかということはわかりやすい。興味深いのは、このような状況は人間関係においては、精神面でわりと頻繁に起きているのではないかということ。必要のある人を助けているつもりで、本来自分のために貯えておかなければいけないはずのリソースやエネルギーを無制限にその人に注ぎ込むなら、いずれ自分はミイラになってしまう。その人も寄生虫のようになり、自立できなくなってしまう。私たちが本来与えるべき「助け」は、相手がズルズルと自分に依存するのを許すことではなく、その人が自立して一人で歩き出せるように励ましてあげることではないだろうか。これは親子関係にも当てはまる。育児の究極の目標は、子供が親から独立して一人で生きていけるようにすることだ。あるいは、子供が親から独立して、直接神様に依存する生き方が出来るようにしてあげること、とも言えるかもしれない。 2003年11月14日
シカゴ時間の水曜日夜8時頃から、約丸1日、中村家のHP、NakamuraFamily.netがサーバ上からなくなってしまうという事件(?)が起きた。水曜日の夜、いつものようにネットにアクセスすると、夕方にはあったはずの私のサイトが「File Not Found」となっていた。ホスト側のメンテかな、と思ったがメールもはじかれている様子だったので、カリフォルニアにあるホスティング会社のテクニカルサポートに電話をして問い合わせてみた。電話に出た人は、最初は「たいした問題ではなさそうですね」などと言っていたのに、いろいろ調べているうちに、彼の声がだんだん自信なさげになっていくのがわかった。「サーバ上にはもうファイルが残っていないし、そもそもNakamuraFamily.netというドメインは、うちの会社のカスタマーリストからも削除されていますね」と申し訳なさそうに言う。道理でHPがなくなっただけでなく、NakamuraFamily.netのドメインのメールアドレスも使えなくなっているわけだ。彼は言った、「料金を滞納したんじゃないですか?」「2002年の5月の末から、二年分前払いしてあるはずなんですけど… 1年分しか払ってなかったのかなぁ…」「きっとそうでしょう。それで消されてしまったんですよ。会計課の方で確認してみてください」そして私は会計課の担当の人にまわされた。 会計課のララという女性は、とても親切で有能だった。料金が滞納されていたわけではないことを確認すると、ただちに事態の究明に乗り出してくれた。彼女がその場で調べてわかったのは、誰かが今年の8月23日に、私の名前と私のイギリス時代のメールアドレス(つまり私がこのドメインを登録したときに使ったアドレス)を使って、NakamuraFamily.netのドメインを別のドメインに変更するよう申請し、それが受理されていたということだった。つまり、このホスティング会社は、変更の申請をした人が本当に私であることを確認しないままにNakamuraFamily.netをアカウントごと全部削除し、その人に新しいドメインを登録させてしまったわけだ。その変更された「なんとかかんとかナカムラなんとか.com」というドメインも、「これはあなたが自分で変更の申請を出したのではないのですか?」とララが教えてくれたのだけれど、私には当然まったく覚えはなかった。このような不正行為をして立ち上げられたサイトが一体どんなものなのか、非常に興味のあるところなのだが、その時はあまりにびっくりしたのでそのドメインを書き留めるゆとりもなかった。残念。ララも不正行為があったことを知り動揺した様子で、「これからもう少しリサーチして、明日またご連絡さしあげます」と言った。私の方も、whois情報を見ても名前以外の私の個人情報はわからないようにしてあるので、どうして私のイギリス時代のメールアドレス、しかも外に公開したことがなく、今では解約されているような昔のものをその人が調べることができたのか、何とも無気味で嫌だなぁと思った。 思いがけないことに私もびっくりしたけれど、私のサイトが消されてしまったことについてはそれほど動揺しなかった。第一に、私の方に落ち度はないのだから、たとえ時間と手間がかかるとしても、最終的にはちゃんと元通りに復旧できる確信があったし、このサイトはすでに神様に捧げているのだから、主がそれを取られるのであればそれで善し、という思いがあった。ただ、急に何の前触れもなく全部なくなってしまったら、いつも訪問してくださっている皆さんを驚かすことになって申し訳ないなぁと思ってそちらの方が気掛かりだった。特に最近落ち込みモードが続いていたので、私が何か思いつめてHPごと失踪してしまった(F子さん、このフレーズ気にいったので使わせていただきました (^^))と思われても困るし、と。(苦笑) ぼぼるパパは「このような不正行為に対しては徹底的に祈りで交戦すべきだ!」と、なかなか勇ましく、「この件について、神様の目からごらんになったjustice(正義、公正)がなされますように」と祈り始めた。私も、このHPがイエス様の血潮に覆われて邪悪な力から守られるように、また主がこのHPに御手を置き、これからも用いてくださるおつもりならコンテンツがそっくりそのまま戻ってきますように、と祈った。 次の日(昨日)、何度かララと電話で話をした。彼女も随分いろいろ調べてくれた様子で、私の名前を語った人は「ナカムラXXX」という人だと判明したけれど、この人に覚えがありますか?と聞いてきた。ナカムラなんて日本ではよくある名字だし、もちろん私には覚えのない人だった。そして夜8時頃になって再度ララから電話があり、アドミニストレーターとも話し、たった今、あなたのサイトが全部復旧されましたよ、ご確認ください、と連絡してくれた。ハレルヤ! こんなに早く解決するとは思っていなかったし、ファイルを全部アップロードし直すことになる覚悟もしていたので、自分では何もしないままに全てが戻ってきたことに主のご介入を確信し、心から主の御名をほめたたえた。その時心に浮かんだのが上記の御言葉。その後、友人の一人もローマ8:28と37が示されていたと教えてくれた。感激!
アーメン、ハレルヤ! 世の中で起きている多くの重大な出来事とくらべれば、私のHPのことなど本当に些細なこと。でも私たちの髪の毛の数まで御存知だとおっしゃってくださる神様は、確かに私のうえにも視線を注ぎ、関心を寄せてくださっているのですね。喜びや感謝の思いと共に、神様に対する深い畏怖の念を覚えます。この全地宇宙全ての造り主であられ、治め主であられる方の視線が私に注がれているなんて… 主よ、私はただあなただけを怖れます。 その後ナカムラXXXさんと彼のサイトがどうなったのかは聞きそびれてしまったけれど、ホスティング会社の方で適切に対処なさることでしょう。私としては、今回もまた御言葉の真実を身をもって体験することができて、ただ感謝、感謝。それから、私のために駆け回ってくれたララには、御言葉を添えたお礼のメールを送った。彼女のうえにも主の祝福がありますように。 私と一緒にお祈りしてくださった皆さん、心配してくださった皆さん、どうもありがとうございました! 2003年11月15日昨日、ぼぼるパパが「iSight」というビデオカメラをうちのiMacに設置した。これをブロードバンド接続環境で使うと、簡単にビデオコンファレンスやビデオチャットが出来る。パパのオフィスのマックにも設置してあるので、仕事中の彼と話をしたくなったら、これからは電話ではなくビデオチャットで互いの顔を見ながら会話が出来るようになった。ケンスケがすっかり喜んでしまって、昨日は昼間、何度も仕事中のパパにチャットをしかけていた。何しろクリック一つでつながってしまうので、簡単なのだ。パパも何度もケンスケから呼び出されて、仕事にならなかったのでは?(笑)またこれを使うとスナップショットも簡単に写せるので、これからはメールにいつでも最新の写真を添付することもできる。今度からはいただいたメールのお返事にはもれなく「今日のはちこ」の写真を添付することにしましょうか。(笑) そんなものいらないって? はい、そうですね。(^_^;; ***** 明日の礼拝ではユースワーシップチームがワーシップをリードすることになっている。エミも今日は夕方6時から練習に行っている。最低でも二時間、もしかしたらもっとかかるかもしれないから終わったら電話するね、とのこと。しっかりね。(^^) ***** お姉ちゃんたちと一緒におままごとをしていたケン。みんに「What would you like for dessert?(デザートは何が欲しいですか?)」と聞かれてこう答えた。 「おうどん、please!」 みんは、「おうどん!?」と頓狂な声をあげてから、すぐにすましてこう言った。「I'm sorry but we don't serve おうどん for dessert.」 2003年11月16日うわー、もう11月が半分過ぎてしまった。うちでホストする感謝祭ディナーまであと二週間。ノンクリスチャンの友人を是非誘いましょう!という趣向なので、ぼぼるパパも彼の学科にこの秋から新しくやって来た、二人の若き日本人研究者をこのディナーに誘った。今のところ彼らも来てくれる予定。しかしパパ曰く、「でも、俺、クリスチャンの集まりだとは言ってないんだよ。ただ、『シカゴ近郊の日本人を集めてパーティーするんですけど、来ませんか』って誘ったんだ。驚くかな?」 驚くかもね。(笑)でも、いいんじゃない? ***** 気のせいか、この1週間は妙に長く感じられた。1週間前に起きたことが、まるで1年前のことのように感じられる。長かった。しかもこの1週間で白髪がめっきり増えたと思う。今朝ぼぼるパパに「染めてもいいよ」と言われたときはかなりショックだった。染めるなら来年の夏に日本で、と思っていたのに、彼にそう言ったら今度は彼の方が驚いたように「えっ、来年の夏まで待てるの?!」って… そんな、すぐに染めた方がいいくらい目立つようになっちゃったのかなぁ…(涙) でもその一方で、神様の恵みと憐れみがただただ身に沁みた一週間でもあったと思う。たとえばドメインの件とか、私がこんなに不安定な状態にあったときでさえ、神様はご自身のgoodness のゆえに、私にご自身の忠実さを示して下さった。私が霊的に絶好調で確かな歩みをしていたからではなく、ただひとえに、神様がgood でfaithfulで愛と慈しみに満ちたお方だから、そのご自身の麗しい御名のゆえに、私にも触れて下さった。 He does what He does, not because of who I am but because of who He is....
***** 日曜日の祈りのグループに、80代の一人暮らしのおじいさんがいる。一軒家のメンテナンスは彼の年になると辛いので、彼は今、家を売ってコンドミニアム(マンションのようなもの)に引っ越そうとしている。しばらく前にいい物件が見つかったものの、自分の家が売れないことには引っ越せない。それで私たちもここ数カ月、彼のために祈っていた。今朝も、姉妹の一人が彼に「家の件はどうですか?」と声をかけると、彼は寂しそうに首を横にふって「No.... No one came to see the house last week... (先週は誰も家を見に来た人がいませんでした。)」そして辛そうに小さくため息をついてから、彼はこう言ってにっこり微笑んだ。「But, Jesus knows how I am feeling about this. 」なぜだか彼のこのセリフが私の心にズシンときた。そう、Jesus knows how I am feeling... たとえ誰にも分かち合えないような痛みや悲しみを心に抱えていたとしても、イエス様は私の気持ちを全て御存知であられる… イエス様は。イエス様だけは。 2003年11月17日2003年11月19日ぼぼるパパも日記に書いていたが、彼の中高時代の二年後輩が、日曜日に急性心不全で亡くなられたそうだ。私はその方に直接会ったことはなかったけれど、毎年近況がびっしり書かれた律儀な年賀状を下さる方だった。これからはあの年賀状がもう来なくなるのかと思うと私もショックだ。しかも、ぼぼるパパの二年後輩といえば、40歳。40歳の若さで急性心不全だなんて。私のまわりには40歳の友人が大勢いる。皆さん、お互いに健康管理には気をつけましょうね。神様からいただいた大切な身体ですものね。疲れやストレスも溜め込まないように。失礼なことを言う体重計だ、なんて言ってないで、客観的な数字の前にはへりくだって、定期的な運動と、キットカットは控えめに… って、誰に言ってるんだか。あー、私も運動しなくちゃ。心臓も筋肉だから、筋肉は使わないと鍛えられません、息があがるくらいの運動を定期的にしましょう、と以前ファーストエイドのクラスを取ったときに講師の先生が言ってたっけ。 2003年11月21日昨日の日記は消しました。(たいしたこと書いてなかったんですけど。) ***** さあ、次の1週間は、来週末のシカゴJCFNサンクスギビングディナー集会の準備で忙しくなるぞー。まず買い物のリストを作ろう。それからこの一週間の段取りも、紙に書き出しておこう。でもこういう時に限ってちょっと風邪をひきかけてしまった。ビタミンCをのんで吹き飛ばさなくては。 ***** 今朝、あるメールが入っていて、とりあえず祈って考えてみることにした。読んだ瞬間に答えは明白な気がしたが、まぁ、慌てずに。 ***** 下の文章は1年半くらい前に書いたものなのだけれど、私のHPでは公開したことがなかったので、今さらですがこちらにもアップしてみます。ブルース・ウィルキンソン師の『ヴァインの祝福』について。個人的には『ヤベツの祈り』『ヴァインの祝福』『神からの報い』の3冊のなかではこれが一番好きでした。私のまわりにも3冊のうちではこれが一番とおっしゃる方が多いですね。ついでに言うと、『ヤベツの祈り』と『女性のためのヤベツの祈り』では、後者の方が日常的な例が多く、もっと普通の人向けという感じでよかったです。
2003年11月23日礼拝から戻り、昼食にお好み焼きを作るため、キャベツの千切りを刻んでいた。「あ、そういえば、しばらく前にぼぼる母がスライサーを送ってくれたっけ。キャベツの千切りに便利よ、と。早速使ってみましょう。」 シャッ、シャッ、シャッ。おお、これは調子がいい。どんどんキャベツが切れていく。シャッ、シャッ、シャッ。 「ギャー!」ドスッと音をたてて床の上に落ちた指… じゃなくて、キャベツ。「ギャー、切れた、切れた、いた〜い!」大袈裟に叫ぶはちこ。家族が全員私の回りに集まった。 「指、切っちゃったの? 見せて、見せて!」「ほら。」「うわー!」小指の先が3ミリほど削ぎ落とされて、平らになっている。血もドクドクと流れる。 「I'll pray for you!」とま〜や。「Me, too!」と続くケン。二人がすぐにモニョモニョモニョと祈ってくれた。それからパパが絆創膏と薬と包帯を持ってきて、手当てをしてくれた 「指は血が止まるまでしばらく上に持ち上げてろよ。キャベツの残りは俺がやるから。」ん〜、優しい夫。「このスライサーで切ったのか。『刃先に気をつけてください』ってちゃんと書いてあるじゃないか。」 くすん、書いてあるからってすぐに気をつけられるようになるとは限らないのだ。この指先、ちゃんと再生するわよね、トカゲの尻尾みたいに。(笑) 指先は削げちゃったけど、心の中は喜びがフツフツと。主よ、今週も喜びに満たされて、あなたの慈しみと恵みに感謝を捧げつつ過ごすことができますように! 土曜日のJCFNシカゴのサンクスギビング集会のうえに、あなたの豊かな祝福がありますように!
2003年11月24日今日は一日よく働いた。やればできるじゃない、というくらい働いた。壁のペンキの塗り直しも、一部やった。今は全部塗り直すことはとてもできないけど、少しでもやると気持ちがいい。 ***** 食事のとき、ケンスケのお皿に肉を乗せてあげたら、それがサラダにあたってドレッシングがついてしまった。そのくらい何よ、と思うのだけど、ケンスケは「Not dressing!」などと叫びながら、不満そうにその肉のかけらをつまみあげ、自分の服にゴシゴシとこすりつけてドレッシングを落とした。それから「This is good」と言ってそれを口に放り込んだ。ドレッシングがついて汚れてしまったケンの服を見つめながら、この子は神経質なんだか大雑把なんだかよくわからない性格をしているわ、と思った。 ***** 金曜日の件は、祈って考えた結果、今回は見送ることにした。もし御心なら、もう一度違う条件で巡ってくることでしょう。収穫だったのは、この件について祈るなかでいろいろ心を探られ、改めて主に整えていただくことができたこと。一度は自分でも不思議なくらい心が揺れたのだけれど、今は自分の選択に平安あり。 2003年11月27日最近よく境界線(バウンダリー)の話をしているけれど、境界線とは「神様から私たちに委ねられた自己責任の範囲を定義するもの」と言うことができる。人はBody(身体)、 Soul(魂:意志、知性、感情など)、 Spirit(霊:神を知り神と交わることのできる部分)から成り立つことを聖書は明らかにしているが、神様はそれらについて、特定の範囲内においては私たちが自分で管理し、責任を負うようにと定めておられる。その「特定の範囲内」とはもちろん「私という人間」として定義されるところであり、従って先の三つの領域において、どこからどこまでが「私の身体、私の魂、私の霊」であるかを認識する必要がある。 7月に、ある人間関係で自分のなすべきことがわからずに混乱している、という方の話しを少し書いたことがあった。その方は、こじれてしまった人間関係を修復するために和解の手を差し伸べたものの、相手がそれを拒絶し、拒絶されたことによって自分のなかに湧いてくる苦味や怒りにどう対処したらいいのかわからない、というようなことだった。その時私は「神様の前で私たちの責任が問われるのはどこまでか」を明確にし、その範囲内のことについては自分がなすべきことを行ない、範囲外のことについては神様に明け渡しましょう、と書いた。(その時の日記はこちら。)つまり、ローマ12:18にあるように「自分に関する限り」平和を保つために必要な働きかけをするのは「私の責任」、しかしそれに対して相手がどういう反応をするかは「私の責任の範囲外」になる。さらに、相手がどのように反応しようとも、それに対する自分の感情的なリアクションは「私の責任」という具合… 神様の御前における自分の責任の範囲を明確にすると、あたかも自分の手に負えないかのような思えた物事は、実際に自分の手に負う必要のない事柄であるか、あるいは「私と神様」という一対一の関係のなかで取り扱われ、対処されるべき事柄のどちらかであることが多いとわかる。それがわかると、とても自由になる。 しかしこう書いていると、境界線とは自分を他者から切り離して神様との関係だけで定義するもので、私は他者については無関心でいていいのか?と思われるかもしれないが、それはちょっと違う。他者に属する境界線の範囲内のことは「私」には責任を負えないし、負う必要もないけれど、他者とどのように関わっていくかについては、「私」の境界線の内側の問題として「私」にも負うべき責任があるはず。たとえば、愛すること、赦すこと、励ますこと、助けること、上でも触れたように「自分に関する限り、平和を保つ」こと等々… もし「私」がこれらのことについて怠るならば、やはり神様は「私」にその責任を問われるのだと思う。 また、「私」と他者の責任の範囲の区別だけでなく、「私」と神様の責任の範囲の区別を知ることも大切だ。神様が聖書のなかで「〜〜しなさい」とおっしゃることに対して信仰を持って従うのは「私の責任」、私の信仰による行ないに対して神様がどのように働かれるかは「神様の責任」。アドナイでジェホバなる主は、私たちが口先だけでなく、思いと行ないの全てにおいてイエス様を実際に「主」として生きるなら、私たちの人生に対して全面的な責任を負って下さる。しかし「口先だけでなく、思いと行ないの全てにおいてイエス様を実際に『主』とする」ためには私たちの意志によって日々イエス様を主とするための「選択」をしなくてはいけない。先日じゅんぽろちゃんも言っていたけど、私たちは日々、「イエス様の側につくのかつかないのか」「主に仕えるのか仕えないのか」という選び取りを迫られていると言えるのだろう。ヨシュアがこう言ってイスラエルの民に迫ったように。
自分の意志による選択と、それに伴う行動は、私たちの責任の範囲内なのだ。「神に委ねる」ということが、単なる無責任とすり変わらないように気をつけたい。 …ということを考えていたら、ルークさんが11月9日のメッセージで同様のことを、ずっと分かりやすく語っておられるのを発見。
アーメン、その通りですね! 私はルークさんのおっしゃる事に必ずしもいつも100%同意するわけではありませんが(Mature people can disagree with one another at times. Right? (^_-)-☆ )、ここで語られていることは本当にその通りだと思います。人は自分が蒔いたものを刈り取ることになる、という法則は、私もこの数カ月、ずっと思わされていたことでした。(8/11の日記にもちらっとそんなことを書いたっけ。)ガラテヤ6:7の御言葉には厳粛な思いにさせられると同時に、自由と解放を感じます。 さて、境界線についてはまだまだたくさん書きたいことがあるけれど、サンクスギビングの準備をしなくては。「怠惰」の種を蒔いて「間に合わなくなって泣きをみる」ことを刈り取らないで済むように。「周到な用意」を蒔いて、「楽しく祝された集会」を刈り取るために。 2003年11月28日明日のデザート用に焼いているパンプキンスクエアが、オーブンからとってもいい香りを部屋中に放っている。ああ、美味しそう。今すぐにでも食べてしまいたい。(笑) ***** うちの子供たちの日本語は、どうもどこかズレている。みんとま〜やなどは「おかえり〜!」と言いながら学校から帰って来る。そう言われると私もつい「ただいま!」と返事してしまうから困ったものだ。「違うでしょー。あなたは『ただいま』で、ママが『お帰り』って言うのよ」と教えるのだが、本人たちはどっちでもいいんだと思っている様子。ではエミはちゃんとした日本語で挨拶してくれるかというと、確かに「ちゃんと」してはいるけれど、やはりどこかおかしい。彼女は朝、律儀に「さようなら」と挨拶して家を出て行くことがある。家出じゃあるまいし。ちゃんと帰って来てよ、と言いたくなる。 今日のヒットはこれだ。ケンスケのおむつを替えているとき、ふと私と目が合うや彼はこう言った。「こんにちは!」 つられやすい私は、脱力しながらも「こんにちは」と返事せざるをえなかった。 2003年11月30日昨日うちでもたれたJCFNシカゴ主催の感謝祭ディナー集会は、とても祝され楽しいときとなり、文字通り感謝だった。特にシカゴ大学のぼぼるパパの学科から来て下さった二人の若き研究者の方たちが、違和感や疎外感を感じる様子もなく、みんなに溶け込んでリラックスしてくれていたのがとても嬉しかった。始まる前に「この家に今日やって来る人たちがみな、イエス様の御臨在とそこから来る平安を感じることが出来ますように」と祈っていたのだけれど、キッチンにみんなが集まって飲み物片手に歓談していたとき、シカゴ大学から来た一人の方がしみじみと「平和だなぁ、う〜ん、平和だ」とつぶやいているのが聞こえて、私は心の中で手を叩いて喜んだ。(^^) 今回のお客さんは半分近くが初対面の方だったけど、皆さんくつろいでくださっていた。メッセージも分かりやすく、かつインパクトがあって素晴らしかった。(とぼぼるパパが言っていた。私はキッチンでデザートの用意をしていたので聞き損なってしまったのだけど。) 食事の方は、ターキーもハムも程よい具合に焼けて、分量もたっぷりあって、皆さんよく食べて下さった。レフトオーバーもどっさりあって、かなり皆さんに持ち帰ってもらったけれど、それでも当分ターキーとハムが主食の日が続きそう。(^_^;; キッチンで食事の用意をしているとき、BGMにシティプレイズ2「The Land of the Rising Sun」をかけていた。(これを聞くのは3年ぶりくらいだったなぁ。)このCDの最後に入っている曲は「日の昇る国」というスリヤ佐野先生のオリジナル曲なんだけれど、これがどう聞いても演歌。イントロには三味線と尺八が入っていて、もう、日本人泣かせったらない。(ちなみに私、演歌は結構好きです。)スリヤ先生と一緒に「♪滅びるはずのこの国に、義の太陽が昇る それは栄光の神の御子」と、じゃがいもをマッシュしながら唸っていたら、キッチンに入ってきた常連のノンクリスチャンのOさんが、「あれ、これ、演歌?」「うーん、というか、そうねぇ、礼拝の歌なんだけど、演歌だよねぇ」と私。「いいなぁ、こういうの。こういうのだったら聞けるなぁ。」側にいた女の子が「どういうのは聞けないんですか?」Oさんは、天を仰ぎ、両手を上にあげるポーズをとって「こういうの。」なるほど。そうかもしれないねぇ。(^^) ゴスペル演歌といえば、ロサンゼルスの上野五男先生が極めてらっしゃるけど、すごいんだよね。ほんとに演歌なんだけど、内容は福音を語っているの。いつかシカゴでも上野先生をお招きして、伝道コンサートとかやりたいねぇ。 あっ、検索してみたらこんなのが出てきた!これです! さて、来年の1月2日にはシカゴJCFN恒例の「餅食い大会」が開かれる予定だけれど、会場はうちに決まったらしい。(知らないうちにそういう話になっていた。笑)今年はシカゴ郊外で全国学生宣教大会『Urbana2003』が開かれる年なので、シカゴの人たちだけでなく、JCFN本部から来る主事たちも合流することになっている。賑やかなお正月になりそうで嬉しい。 そういえば1ヶ月くらい前だったか、3年前のUrbana大会の後でうちに泊まって行ってくれたある女の子からメールが来た。このHPを偶然見つけて、それで懐かしくなってメールを下さったとか。もう就職したので今回のUrbana大会には来ないけれど、あの時の大会で受けたチャレンジがその後の日本での歩みの支えになり、神様がいろいろな扉を開き、導いてくださっているとのこと。こういうお話を聞かせてもらえるのが何より嬉しい。 そうそう、今回の感謝祭ディナー集会でメッセージを語ってくださったK姉は元イリノイ大学大学院生で、実は11年前にうちで初めて開いた感謝祭ディナーにも来て下さっていた。彼女は大学院を卒業し、宣教師の方と結婚して開拓のために日本へ帰り、今また御主人の神学校での学びのためにアメリカに戻って来ておられる。あの時の学生さんが今こうしてメッセージを語りに来てくれたと思うと、本当に感慨深い。私にとってこれ以上の報酬があるだろうか。Praise God! 私信:Yちゃん、この集会のためにお祈りしてくれていたって? ありがとね。Kさんから聞いたよ。(^^) 主は本当に忠実で素晴らしいお方だね! 二人の可愛いgirlsと御主人にもくれぐれもよろしくね! Blessings! ![]() |