ホーム日記2003年>8月

[1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 ]

はちこの日記(2003年8月)

ぼぼるパパの日記はこちら

2003年8月1日

今日は第一金曜日なので、ミルドレッドやヴェラ達と祈り会。教会でいろいろあった後も、こうして一緒に祈り合えるのはとても感謝。特にヴェラとは一時期二人の間のテンションが高まってぎこちなくなっていたけれど、今では何のわだかまりもなく、以前の関係が回復されたのでとても嬉しい。ヴェラの家族は、うちの教会を離れた後、まだどこの教会に集うか決めていなくて、毎週違うところを訪問したり、忙しさに負けて教会に行かなかったり、という状態なのだそうだ。それで私は「もう一度、うちの教会に戻って来てはどう?」と誘ってみた。彼女はちょっと困ったように微笑んで「実は私も、あそこを去ったのはそもそも間違いだったんじゃないか、という気がしないでもないのよね。でも夫がまだ私以上に苦味と怒りのなかにあって、絶対に戻りたくないと言っているのよ。夫婦がバラバラになってはいけないから、今は彼に従いつつ、神様が道をはっきり示してくださるのを待っているの。私たちのために祈っていて」と言った。私は、もちろん、と約束した。

ヴェラとジニーはそれぞれ、秋から大学に進学する子供がいて、二人とも心を注いで子供たちのために祈っていた。どちらの子供も、中西部にある寮制のバイブルカレッジに進学することになっている。それらの大学では男女交際をはじめ、飲酒、薬物、インターネット、その他いろいろなことに関する規律がとても厳しいらしい。違反すれば退学処分を受けることもあるそうだ。しかし、そういう厳しい大学に入れたからといって、子供たちが全ての誘惑から守られるとは限らない。特にジニーは、娘がボーイフレンドと揃って同じ大学に進学するため、親の目の届かないところでも二人の関係が清く保たれるように祈っていた。この二人は教会でも、礼拝の最中に手をつないでいたり肩に腕を回していたりしたので、ジニーが心配するのも無理はないと思った。二人とも本当に主を愛しているとってもいい子たちなんだけどね。ジニーは、もしも二人が誘惑に駆られることがあったら、聖霊が二人をconvictしてくださいますように、彼女らが人目を忍んで罪を犯すことがあれば、どうかそれを光のうちに暴いてください、それによって学校から処分を受けることになってもかまいません、人目を隠れて罪を犯してあなた(主)から裁かれるよりは、たとえ学校から処分を受けても早いうちに罪が明るみに出されて悔い改めに導かれる方が二人にとってはるかに良いことだからです… と祈っていた。もう、目からウロコ。「片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです(マタイ18:9)」のイエス様の言葉を思い出した。こういう先輩ママさんたちの祈りは、私にもとても参考になる。

帰り際、他のみんなが帰ったあと、ヴェラがあることについて個人的に分ち合ってくれた。それは、私もずっと気にかかってはいたもののどうしたら良いかわからず困っていたある件に関連していて、ちょっと考え込んでしまった。うーん、苦しい。

2003年8月2日

うわっ、これは書き留めておかなくては。 今、Kingdom FaithのサイトでキャンプのDaily report を読んで来たところ。木曜日と金曜日になされたJohn Bevere のメッセージの要約が出ていた。 一部(というか、半分以上?)抜粋。(下線ははちこによります。)

John Bevere told us on Thursday evening that he believes that at this time we are on the brink of a move of God such as has never been seen before -- and for that reason God has been exposing His people to trials that build character in preparation for what is ahead! Like eagles we should face the storms so that the wind takes us higher -- each trial takes us higher with God! That is what mounting up with wings like eagles means!

He declared, "God needs an army of believers who don't care about anything except bringing glory to God in their lives". We need to have a passion, a hunger to know Him intimately, a lifelong quest to draw close to Him -- like Isaiah did in chapter 6.
Like Isaiah, we need a fresh vision of Jesus in His glory -- for we change from glory to glory as we behold Him. But verse 1 says that King Uzziah died before Isaiah had the vision of glory. Read 2 Chronicles 26 to discover more about this King of Judah who prospered whilst he sought and depended on God; and whose downfall came when pride entered his heart. God is saying that pride must die in our lives before we can get a fresh vision of God. That is why the humblest believers receive the greatest revelations from the heart of God. ……

On Friday morning 90% of the camp stood in response to John Bevere's confrontational message on submission to authority. Holy Spirit conviction hit the hundreds who repented of wrong attitudes to leaders in the church. The church has been afflicted with the deadly democratic mindset of our society and the rebellion that has plagued mankind since Adam and Eve. Like them, when we resist, criticise or speak against spiritual authority, we bring judgement on ourselves. When we speak against or criticise or rebel against God's delegated authority our own lives will suffer the consequences - sometimes disasterous.

John showed us that those who experienced the greatest intimacy with God were those who understood divine authority. David walked in the fear of the Lord and would not hold his hand against King Saul despite the fact that he was planning his murder. On the other hand, those who were "right" morally in their judgment of leadership that was "wrong" morally, were actually wrong in God's sight. Ham judging Noah, Miriam and Aaron judging Moses. Get the tape -- it will blow out your humanistic mindset and cause you to walk in the fear of the Lord.

Think about this: God will use the sins and faults of your leaders to expose what is in your own heart. Would you rejoice if they fell or would you grieve like David did when Saul was killed? That is the heart of God. ……

ぼぼるパパと私は、今回うちの教会で起きたことを通して神様は一体何を私たちに示したかったのだろう、何をなさりたかったのだろうと、最近よく話している。単に新しい牧師さんを連れて来たかった、とか、私たちワーシップリーダーにたてたかったとか、そんな次元のことではないはずだよね、と二人で首をかしげていた。昨日の祈り会でも、私はみんなにこう言ったばかりだった。神様は何かもっと重要なことを私たちの間でなさりたかったんじゃないかと思うんだけど、私たちは教会内の各種ミニストリーやプロジェクトを存続させることに一生懸命になって、主の前に十分静まって御声を聞こうとすることを怠ってしまった気がする、と。

5月にもたれたJCFNのシカゴコンファレンスの後、神様は私に、このような試練や困難は「愛の訓練」であり、私のキャラクターをイエス様に似たものに変えるために必要なプロセスであるということを教えてくださった。昨日の祈り会でも、神様は私たちの内側や周囲にどのような敵の要塞があるかを知らせるために、私たちをさまざまな困難にあえてexposeする(さらす)のではないかしらね、と話していた。上記のジョン・ビヴェア師の木曜日のメッセージは、同じことを私にもう一度確認してくれた。

そして金曜日のメッセージ… もう絶句。多分うちの教会で起きたようなことは、独特な問題ではなく全国的にいたるところで見られている問題なのだろうけれど、それにしてもうちの教会のことをズバリ言い当てられたようで、言葉もない。下線部分を日本語に訳すとこうなる。「教会は、私たちの社会が持つ恐るべき民主主義的な考え方と、アダブとイブ以来人間を悩ませてきた反抗心とによって冒されて来ました。アダムとイブのように、私たちが霊的な権威に対して抵抗し、批判し、逆らうとき、それは自らに裁きを招くことになるのです。」「道徳的に『間違っている』指導者を裁くとき、裁く人は道徳的には『正しい』としても、神の御前においてはむしろ間違っているのです。」「神は、あなたの心のなかにあるものを露(あらわ)にするために、あなたのリーダーの罪や欠点をも用いるのです。あなたのリーダーが倒れたとしたら、あなたは喜びますか、それともサウル王が殺されたときにダビデが悲しみ嘆いたように、あなたもまた悲しみ嘆きますか?」ビヴェア師は、ダビデのように神を真に恐れる人は、神がお立てになった権威に逆らうようなことはしない、ということも指摘している。

神を真に恐れるということ… 今、私が学ぶべきことは、それなのかもしれない。

2003年8月4日

asahi.comで興味深いコラム発見。

仕事は日本人の生きる歓び<梅原 猛が語る仕事・2>科学技術信仰に魂を売らない

2003年8月5日

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

                         エペソ4:11〜15

2003年8月7日

早い。もう八月も一週間たってしまった。お店ではどこもBack to School Saleなどをやっていて、そろそろ夏も終わりだなぁと感じる。今年の夏はどこにも遠出をしなかったので、とてものんびりしていた。去年はイギリスからアメリカへ、おととしはアメリカからイギリスへ、その前の年は日本に一時帰国したりで、ずっと海を渡る移動が続いていたので、今年はとにかく動きたくなかった。たまにはこういう夏休みもいい。来年の夏は日本へ、再来年はまたイギリスに行きたいな。

*****

私の周囲では子供たちが続々と歯の矯正を始めている。気のせいか、最近は誰と話していても子供の歯の矯正の話題になる。夕べも、友人にエミが矯正のためにもうすぐ奥歯を二本抜くことになっている話しをしたら、彼女の娘ももうすぐ二本抜くのだといっていた。彼女の姪は最近4本抜いたそうだ。さらに、彼女の息子は12本抜かなくちゃいけないと歯医者さんに言われたばかりだと言っていた。12本!!! 十歳の彼は、まだ乳歯がたくさん残っていて永久歯が生えてくる邪魔をしているため、上下左右3本ずつ、一気に抜くのだそうだ。恐ろしい。大丈夫なの、ほんとにそんなことして? アメリカのorthodonticsって、何だか過激じゃない? 日本でも同じなのかしら。

何だか恐ろし気だなぁと思いつつも、エミに続いてみんも昨日矯正の先生に診察してもらってみた。みんもエミと一緒に矯正してもらうことになりそう。どうせなら、二人いっぺんにやってしまう方がお互いに励みになっていいかもしれないし。

エミが診てもらっている歯医者さんはクリスチャンだという話しを以前したけれど、この人はなかなかユニークな歯医者さんだと思う。昨日は、夕方5時から大人の患者さん専門の時間で、うちの子たちはその直前に診てもらったのだけれど、待っている間にどこからともなくいい臭いが漂っていた。何だろうと思っていたら、看護婦さんたちが次々と食べ物を待ち合い室に運び込んでいる。「パーティーでもやるんですか?」と聞くと、「5時からくる大人の患者さんたちに出すんですよ」と言う。さまざまな前菜にコーヒーやワインなどが並べられ、横のカウンターには歯ブラシとコップがたくさん置いてあった。 患者さんは待っている間に食べ物を食べて、その後歯を磨いてから診察してもらう、というわけですね。すごーい。こんな歯医者さん、初めて。しかもそれだけじゃない。子供の時間帯には、歯医者さんや助手さんたちはみんなTシャツにパジャマのズボンみたいなgoofyでラフなスタイルだったのに、大人の時間になったら全員黒いスラックスに白いワイシャツとネクタイに着替えてピシッと決めているではないですか。 いやいや、ほんとに驚きました。

2003年8月11日

あら〜、もう11日。特に忙しくしていたわけでもなく、むしろあまりのんびりしていて日記すら書かなかった、というところでしょうか。

みんとま〜やは今日から私たちの村にあるSt. Paul's という教会のVBS(子供のための夏期聖書学校)に行っている。St. Paul'sは友人のサンディが行っている教会で、今年はうちの教会は人手不足でVBSが持てなかったことを察知して、お誘いの声をかけてくれた。とてもありがたい。イギリスから帰って来て以来、同じコミュニティー内にある他所の教会とも交流を持ちたいという思いが強く与えられていたので、その意味でもタイムリーだった。

ところで、サンディはま〜やのクラスメートのお母さんで、御主人はぼぼるパパと同じくシカゴ大学の準教授。10年近く前に近所の公園で知り合って以来ずっと親しくしていたが、彼女たちがクリスチャンだと知ったのは今年になってからだった。驚いたことに、御主人のリチャード(仮名)は考古学のPh. D. だけれど、それだけでなくM. Div.(Master of Divinity: 牧会学修士)も持っているという。牧師さんでもM. Div.を持っている人はそう多くないと思う。聖書の学びのなかから古代の近東に興味を持つようになり、考古学に進んだのだそうだ。聖書時代の遺跡を発掘をするためにイスラエルやトルコなどによく出向いているらしい。

*****

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 (ガラテヤ6:7)

聖書のなかには、私たちの日常生活に直接的/間接的に当てはめることの出来るさまざまな原則が示されている。というか、逆だな、私たちの生活は、普段あまり意識することがないかもしれないけれど、実は聖書の原則に従って治められている。クリスチャンであるかないかは関係ない、どんな人でも皆、物理的に重力の法則の元に置かれているのと同じように、霊的には聖書の原則の元に置かれている。人は種を蒔けばその刈り取りもすることになるというこのガラテヤ書6章7節も、大切な原則の一つだ。私はある時、ある件に関して罪を犯した。(一回しか罪を犯したことがないという意味ではありません、念のため。)その件に関して主の御前に告白して悔い改めた私を、主は赦してくださり、その罪の記録を永遠においては消し去ってくださったけれど、この世での歩みにおいて私が刈り取るべき「結果(consequence) 」は残った。

たとえば盗みをしたとする。主の前に悔い改めれば神様は赦してくださるけれど、それでもこの社会で受けるべき罰は受けなくてはならない。たとえば自制心を欠いてかんしゃくを起こし、人間関係を壊し信頼を失ってしまったとする。主の前に悔い改めれば神様は赦してくださるけれど、それでも壊れた人間関係と失われた信頼を取り戻すのには時間がかかる。罪のもたらす波紋と結果は、私たちが思っている以上に大きいものなんだと思う。 誘惑にあうことは避けられないかもしれない。だけどそのようなとき、神様は悔い改めれば赦してくださるから、私の弱さを御存じだからと、誘惑にほとんど抵抗することもなく安易に罪に流されることがないように、くれぐれも気をつけたいものだ。イエス様は罪の代価は支払ってくださったけれど、罪がもたらす「結果」に対する代価を支払う責任はなおも私にある。

神様、私は確かに弱いのです、ですからどうか私を誘惑にあわせず、災いから遠ざけ、悪から救い出し、苦しむことがないように助けてください。

2003年8月12日

昨日の夕方、私がキッチンで夕飯の支度をしていたら、履いていたはずの半ズボンを脱いで下半身がおむつだけになったケンスケが、左手の親指を私の方に差し出しながらこう言った。

「マミー、ウンチ。」

見ると、ケンスケの親指の先に茶色いものがネトッとついている。

その茶色いものが何であるのか、確認する勇気もないまま、私は急いでそれをティッシュでふきとった。ケンスケはピチャピチャと舌鼓を打っている。

「ケン、なめちゃったの?」

彼はニコニコしながらゆっくりと答えた。「I think so...」

「I think soって、あなた、なめちゃったの? ええっ? なめちゃったの?」 ショックで声が震える私。

「キャーーーー、ケンスケがウンチなめた〜〜〜!!」そばにいたお姉ちゃんたちが悲鳴をあげた。

私はケンをつまみあげると二階へ連れて行き、まずケンの親指を洗ってきれいにした。爪のなかにも入っていたので、爪も短くきって、よく洗った。それからウンチまみれのおむつを取り替えた。

「汚い」ということがわからないとは恐ろしい。触っても平気、口にいれてなめちゃっても平気なのだから。

夜、寝る時になって、ベッドに横になっていたケンスケが隣の私に親指を差し出しながら、またこう言った。

「マミー、ウンチ?」

「大丈夫よ、ケンちゃん。もうきれいになったの。ママが洗ってあげたから、きれいなお指になったのよ。だけど、これからはウンチに触るのは止めようね。もう、なめたりしないでね。」

「オーケー、マミー」ケンは安心したように言うと、いつものように親指しゃぶりをはじめ、そのまますぐに眠りに落ちた。

2003年8月13日

今日は長い一日だったー! 朝食後にお皿洗いをしていたら流しが詰まってしまい、水道屋さんを呼ばないで自分でなんとかしようと、市販の薬品を使ったりして頑張った。だけど思ったより手強くて、一日かけて八方手を尽くしたけれど結局ダメ。明日は朝一に水道屋さんに電話しないと。やれやれ。流しが使えない状況で食事の支度をするのは至難の業なのに、こういう日に限ってエミの友達が来て夕飯を食べていくことになっていたりする。ラザーニャを作ろうと思って材料を買いに行ったものの、うっかりして肝心のひき肉を買い忘れた。仕方がないので急きょベジタリアンのラザーニャに予定変更。ところが、作っている最中に、絶対に買ったはずのトマトソースが見当たらないことが発覚。きっとスーパーの袋から転がり出て、車の中のどこかに落ちているのだろうとガレージを見に行くと、しまった、パパがみんとま〜やを連れてプールに出かけた後で車がない。結局パパ達が帰って来るまで作りかけのラザーニャを放置する羽目に。しかも、今日はエミが夕方5時からヴァイオリンのレッスンがあるのをすっかり忘れていた。車がないとエミを連れて行けないのに、レッスンのことなど知らないパパたちは4時40分になってもまだ戻って来ない。幸いプールは歩いても行ける距離なので、エミはヴァイオリンを持ってプールまで歩いて行き、そこでパパたちをつかまえてから送ってもらうようにした。エミをレッスンに送り届けてから戻って来たパパは、「プールサイドにヴァイオリンの黒いケースを持ったエミがいきなりヌッと現れて、すごく場違いで面白かったよ。」

エミがレッスンから戻ると夕食。ところがエミの友達(エミの留守中はケンのお守りをしながらうちにいた)は野菜が嫌いだったらしく、ベジタリアンのラザーニャなのに、野菜の部分をほとんど残していた。(^_^;; 子供たちのお友達には肉が嫌いな子とか野菜が嫌いな子とか日本食など試したくもない子とか、いろいろあるので食事を出すのも結構難しい。 

夕食のあとは、水曜日でミッショネットのある日なので全員で教会へ。この時点で私はすでにかなり疲れていたのだけれど、イエス様は本当に憐れみ深いお方。ミッショネットのレッスンがものすごく盛り上がって、私自身とてもリフレッシュされた。今やっている単元はお祈りについてのところで、ゲッセマネでのイエス様の祈りについて話しているとき、私は何だか胸がいっぱいになって涙ぐんでしまった。イエス様の祈りから、自分の願いよりも神様の御心を求めることの大切さを説明しながら、私自身がその件について個人的に教えらた時のことが思い出されて、涙がどうしてもこぼれてしまったのだ。あの時は本当に辛かったけれど、それでも御心を求め、それに従うことにしてよかったなぁと、改めて感謝の思いに溢れた。ところで、今日のレッスンをしながら大発見があった。ルカの福音書にあるゲツセマネの園の箇所。

それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。
そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。 (ルカ22:39〜43)

すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた…!? ゲツセマネのこの箇所は、もう十分知っているところだと思っていたのに、この一節、どうして今まで見落としていたんだろうか? これはすごいよ。御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた!!!

神様の御心を求め、それに従おうとするとき、時には大きな痛みを伴うことがあるかもしれない、自分の力ではとても従い通すことなど出来ないと感じるかもしれない、だけど神様がイエス様のために御使いを天から送ってイエス様を力づけてくださったように、私たちにも助けを送って力づけてくださると信じて間違いないんだよ… と子供たちに語った。

他にも今夜はいつも以上に子供たちが熱心で、いろんな質問が飛び出した。私と、もう一人ヘルパーのベッツィーという婦人がいて、二人で子供たちの質問に答えながら、極上の喜びを感じた。イエス様の御言葉を、聖書の真理を、子供たちに説き明かすことがまかされているなんて、なんて素晴らしい特権だろう。今夜はみんながあまりにも熱心で、普段なら最後の20分はスナックの時間なのに、スナックのことなどみんなすっかり忘れて最後までずっとお話していた。子供たちがおやつよりも御言葉を説き明かしてもらうことを求めるなんて、素晴らしいよねぇ!? おかげで、今日一日の疲れがすっかり癒されてしまった。ハレルヤ!

2003年8月14日

東京で牧会している友人から、先日の日曜日の礼拝メッセージの要約を分ちあっていただいた。掲載許可をいただいたので御紹介します。

「伝道の2つの原則」 ヨハネによる福音書13章

いよいよ主イエスの十字架が間近に迫ったとき、1節にあるように、主は弟子たちを最後まで愛し通されるという行為を取られました。有名な、弟子たちの足を洗った場面です。

しかしこの愛の行動を起こそうというとき、サタンも攻撃を仕掛けてきています。2節にあるように、サタンはユダの心に主を裏切ろうとする思いを入れていました。よく、「霊的戦い」ということが言われますが、それは愛し合うという現場、愛を行おうとするときに最も激しいものがあるわけです。みなさんも、何か愛の行いをしようとするとき、家族を愛そうとするとき、教会の兄弟姉妹を愛そうとするとき、サタンの妨害に遭って、意気消沈してしまったことはありませんか。

しかしイエス様は、そんなことはお構いなしに愛の業を遂行されるお方です。ここで、弟子たちの足を洗ったとありますから、あのユダの足も洗ったことが分かります。自分に好意的な人、あるいは利害関係のない人の足は案外洗えるかもしれません。しかし、まさに自分を死に至らしめようとしている、それも弟子だった人物が裏切りの心を持っていることが分かりながら、その人の足を洗うことができるでしょうか。その後、ユダにはサタンが入り(27節)、事態はより深刻になります。私たちが愛の行為を行っても、より困難な状況になることもあります。しかし、それを続けるところに、神の御心は成就していくのです。

またイエス様は、「私のパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた」「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と語り、その預言の成就を宣言します。主は人の顔色を見るような方ではありません。言うべきことははっきりと言われるのです。

このイエス様の2つの態度から、わたしたちは伝道を行うときの原則を見出すことができます。まず第一は、「愛すること」です。先日田舎に帰って、そこに生きるおばちゃんたちの優しさに触れ、そのことが未だに心に残っています。果たして私たちは、どれほど周りの人々に親切にしてきただろうか、愛の行いをしてきただろうか、出会っても挨拶もしないようなクリスチャンになっていないだろうか、と考えさせられました。

あるおばちゃんは、アイスクリンを3つと注文したのに6つも下さったのですが、その方は、20年以上前にご主人を船の事故で亡くし、息子も20年ほど前から精神的にダメージを受けて、仕事もできない状態が続いています。一般的に見れば不幸な人生です。しかし彼女は、そういった優しさがあるんですね。そこで、そのアイスクリン売り場には、いろんな人が来てしばらくダベって帰っていくのです。私たちも、たとえばいろんな弱さがあるかもしれません。病気だったり、親族が大変なことになったり、失業してしまったり、しかしその弱さにあっても、周囲に愛を現し続けることが必要です。「私は弱いから、みんな私の面倒を見て。私はこんなに大変なのよ」という立場に立ち続けていてはいけないのです。

また第二に、真理をまっすぐに語ることです。ここで妥協してはなりません。この世に受け入れやすいようにと、水増ししてもいけません。イエス様のように、大胆に語る必要があります。

以上の2点が、伝道をする上での重要なポイントです。愛の行為だけを行って、福音を語らないのではだめです。一方、福音は語るのですが、愛の行為を行わない、というのも困ります。愛することは、助けようとする人の煩わしい問題に関わることになります。弟子の足を洗われたイエス様のように、手が汚れるし臭いこともあるのです。サタンの攻撃も受けます。クリスチャンでも、自分を無菌室に置いて福音を語るような人がいますが、たとえその人がどんなに正しいことを語り、間違いのない教理に立っていても、それは主の姿ではありません。主は、泣くものと共に泣き、苦しむものと共に苦しむお方。そして、喜ぶ者と共に喜ばれるお方です。

今日は、この二つの主の姿勢を覚えて帰ってください。「人を愛すること」そして妥協せずに「福音を語ること」この二つが車の両輪のように働いて、救いは人々に届くのです。

「人を愛すること」そして妥協せずに「福音を語ること」… シンプルな真理なのに、なぜか片方ばかりが強調されることが多いかもしれない。 私自身、この両軸のどちらかにいつも偏りがちであったことに気づかされた。「自分を無菌室に置いて福音を語るような人がいますが、たとえその人がどんなに正しいことを語り、間違いのない教理に立っていても、それは主の姿ではありません」の一文にはとても考えさせられた。 東京で牧会しているお友達の方、この忘れられがちな大切な真理を思い出させて下さってどうもありがとうございます。そして掲載を快諾してくださったこともありがとう!

2003年8月16日

今日はこれからシカゴJCFNのバイスタ(バイブルスタディ)。 帰りは夜中になるかな。

*****

子供たちの学校から新年度のクラスの発表が送られて来た。みんは親友のパティと違うクラスになってしまいちょっとがっかり。もう一人の親友のブリジッドも夏にインディアナに引っ越しちゃったし。

新学期が始まるのは9月3日からで、始業時間が去年とは少し変わった。3人ともそれぞれ違う学校で、エミは7時15分、ま〜やは7時20分、みんは7時55分頃に家を出ることになる。エミは徒歩、ま〜やはスクールバス、みんは私が車で送迎。 夏の間にみんな夜更かしのクセがついちゃっているので、そろそろ生活のサイクルを立て直さないと。

2003年8月19日

14日の日記で掲載したメッセージに関して、Viviさんから嬉しいフィードバックをいただいた。転載許可をいただいたので、以下に御紹介します。Viviさん、感謝します。

はちこさん、こんばんは。(こちらは夜中です^^;;)
8月14日の日記を拝見しました。

>愛の行為だけを行って、福音を語らないのではだめです。一方、福音は語るのですが、愛の行為を行わない、というのも困ります。

わたしたちの教会でも8月3日のメッセージで同じ箇所から兄弟姉妹が互いに愛し合うということについて語られ、昨日(17日)はUヨハネからのメッセージの中で「愛と真理」について下記のように語られました。(内容をわたしがまとめてありますので、メッセージは文章のままではありません。)

「愛と真理は不可分。愛のない真理は人を傷つけ、真理のない愛は人を育てない。イエス様は姦淫の女(ヨハネ8章)の罪をあいまいにはされなかった。『罪のない者が最初に石を投げよ』とおっしゃっている。女の罪を明確にした上で『わたしもあなたを罪に定めない。』と愛を示された。」

福音=真理と捉えると、二つのメッセージは同じことを語っているのではないかと思いました。

真理(福音)をふまえながら愛を行うことが、特に家族や兄弟姉妹の間で難しいと感じていましたが、日記を拝見して納得しました。
主が示された新しい戒めであるがゆえに、敵(サタン)もやっきになって阻止しようとするのでしょうね。

兄弟姉妹が愛し合うということも、真理をどこかへ置き忘れてしまえばただお互いの傷の舐めあいになってしまう恐れも出てくるのですね。
罪を告白し、分かち合うというときにも真理を忘れて赦し合うだけに終わってしまわないように、また愛を忘れて裁きあうことのないように…
難しいけれど、わたしたちに与えられている聖霊のか細い声に耳を澄ませたいと思いました。

はちこさんのHPのトップに掲げられている詩篇133篇のことを以前にメールでお話したような気がしますが、わたしの中では「兄弟姉妹が愛し合う」ということがずっと心のうちから離れません。
愛と真理・福音。
伝道にも兄弟姉妹との交わりにおいてもキーポイントになると強く思わされました。

お分かちくださったお友だちに感謝します。牧会の上に、はちこさんとご家族の上に、主の祝福が溢れますようにお祈りします。

Vivi

*****

ケンスケは最近「The Wiggles」という子供番組にすっかりはまっている。これはオーストラリア発の幼児番組で、4人のおじさんたち(お兄さんたちとはとても呼べない(^_^;; )が歌や踊りを披露してくれる。ケンスケはこれが大好きで大好きで、ビデオを見ながら一緒に歌って踊って、もう大変。 そしたらぼぼるパパが、今週末にシカゴでThe Wigglesのコンサートがあることをどこかで聞きつけてきた。早速チケットを手配しようとしたが、知ったのが遅すぎてどのコンサートもすでに完売。しかし彼は諦めず、なんとeBayで金曜日のコンサートのチケット3枚をゲットした。私なんてeBayがオークションサイトだということすら知らなかったのに、よくもまぁeBayをチェックしようと思いついたものだよね。愛するケンスケのため? ケンスケには金曜日にWigglesのコンサートに行くんだよ、と言っているんだけど、もちろん本人はちっともわかっていない。パパにどこかに連れて行かれたと思ったら、本物のWigglesが出てきてきっとケンは喜ぶだろうな♪

2003年8月20日

この前の日曜日、新しいパスターが正式に就任した。パスターが決まるまでの間、ずっと神様に「Give us a new shepherd!(羊飼いを与えて下さい)」と祈っていたら、与えられたパスターは何とその名もパスター・シェパード。(笑) 冗談みたいな本当の話し。次の日曜日にはアッセンブリー教団イリノイ地区のdistrict superintendent (地区最高責任者?)が来て、consecration service がもたれる。日本語で何ていうのかな、献堂式じゃなくて… この教会そのものを、改めてもう一度神様にお捧げし直します、という礼拝。礼拝後はピクニックとお祝いのお祭り。いろんなゲームも用意されているということで、子供たちもとても楽しみにしている。

主任牧師が不在の間、まだ若いユースパスター(先月30歳になったばかり)のパスター・アルが本当によく頑張ってくれていた。朝夕両礼拝のメッセージを受け持ち、ユースグループも通常通り指導し、本当に本当によくやってくれた。教会の大人たちの間でこういうゴタゴタがあるとユースたちにも悪い影響が出ても不思議のないところだが、パスター・アルが見事にユースたちを支えてくれていた。しかも彼の立場は実はとても微妙で、新しい主任牧師が決まった際には、場合によってはパスター・アルはこの教会から解雇される可能性もあったのだ。というのは、新しい主任牧師には、就任の際にもしも自分と一緒に連れて来たいアソシエイトがいれば、連れてくる自由が認められているからだ。大統領が新しくなるときには副大統領以下のキャビネット全員が総入れ替えするのと同じ事? だから、前任の牧師が辞めた時点で、先の状況がわからないこんなリスキーなところにはいられないと、パスター・アルがさっさと去っていったとしても誰も彼を止めることは出来ないと、教会の人たちもみんな無言のうちに了解していた。だけどパスター・アルは踏み止まってくれた。まだ若いながらも、神様から牧師として召されているその召命を、立派に果たしてくれた。今回の件では、苦しい状況のなかでも主に忠実に従い通した人ほど、今、主の祝福と恵みをひしひしと味わっていることだと思うが、パスター・アルはその筆頭だろう。新任のパスターには連れて来たいアソシエイトがおらず、二人が会見した結果お互いに一緒にやっていこうということになったそうで、パスター・アルはこのままうちの教会に留まることになった。神様はこの激動の中もパスター・アルの一家を支え、必要を全て満たして下さった。先日の日曜日の夕拝のとき、いつものように司会をしていたパスター・アルは途中で感極まって、涙で声を詰まらせていた。God is good all the time. All the time, God is good!  主よ、パスター・アルとその御家族を、たくさん、たくさん、たくさん、祝福して下さい!

そして火曜日のワーシップチームの練習のあと、いつもはクールなぼぼるパパが珍しく目を涙でうるませていた。ジョンとベッキーが去ってから二ヶ月足らず、一体どうなることかと思ったワーシップチームだったけれど、神様の憐れみによって、ただ神様の憐れみによって、支えられ、礼拝ごとの務めをさせていただいて来た。素人の寄せ集めで、タイプもばらばら、人数も少なくどうしようもないと思っていたのが、気がつくと、シンガーたちもミュージシャンたちも、ローテーションが組めるほどの大所帯になっていた。こうなると、いろんな年齢やタイプの人がいることが、このワーシップチームの素晴らしいアセット(財産)であることがわかる。この前の日曜日の礼拝では、文字通り老若男女が一つになって喜び踊って主を賛美していた。 こんなことはうちの教会では久しくなかったこと。

過去日記を読み返していたら、新しいワーシップチームが第一歩を踏み出した6月29日の礼拝でこのような預言が与えられていたのを思い出した。

恐れてはならない。ただわたしに忠実であり続けなさい。そうすればあなたも、わたしがどれだけあなたに忠実であるか、見ることになるだろう。

ハレルヤ、主よ、あなたのお言葉通りです。あなたは本当に忠実で真実なお方です! 私たちは膝をかがめてあなたの御名をほめ讃えます。ただあなただけに、全ての栄光と誉れと富みと勢いと賛美とがありますように!

2003年8月21日

今日はものすごく暑かった。気温は36度くらいだったけど、湿度が高くて、体感温度は43度だって。こういう日に限っていろいろ用事があって、車から降りるたびに大変な熱気でフラフラした。

2003年8月22日

shinoちゃんがいよいよ正産期に入った。うー、私まで緊張するなぁ〜! そのうち不規則な陣痛が来るようになって、今日か、明日かと思うようになってからの先が長かったりもするんだけどね。 準備は万端ですか? 安産になるようにお祈りしてますからね! I love you!

*****

今夜は、パパがケンスケとま〜やを連れてWigglesのコンサートに行って来た。ものすごく楽しかったらしい。知っている歌がたくさん出て、ケンスケも元気に踊っていたそう。Wigglesのおじさんたちは、間近で見たら結構お兄さんだったとはパパからの報告。出演者はみんな才能豊かで歌も踊りも上手く、子供向けのショーだといってあなどれない面白さだったらしい。もし来年もまたシカゴでWigglesのコンサートがあったら、今度は6人全員で行こうとエミとみんにせがまれた。うん、そうしようね。(^^)

*****

今週(8/17号)のリバイバル新聞より。

無自覚に侵していないか 自分と他人とのバウンドリー(境界線)

数年前にシアトルのKazukoさんから『Boundaries』(Drs. Cloud & Townsend)という本を紹介されて以来、この「境界線(Boundaries)」というコンセプトが、健全な人間関係を築くうえでも、健全な信仰を持つうえでも、いかに大切であるかに気づかされてきた。アメリカではビデオシリーズもあり、多くの地域教会で用いられているらしいが、日本でも9月から新松戸リバイバルチャーチで「バウンドリー・セミナー」(丸屋真也師:(財)ライフ・プランニング・センター研究教育部長・臨床心理ファミリー相談室長)が開かれるのだそうだ。要チェックですね。

私の献身の証:豊田信行師(ニューライフキリスト教会牧師)

豊田師の証の最終回。私の母教会の前牧師であり、私の信仰の礎石にキリストを据えて下さった方でもあるケニー・カールトン牧師の話しが出てきて、涙がポロポロ溢れてしまった。(ケニーさんは昨年9月に天に召された。)聖書の真理を深い洞察を持って語ることの出来る人は結構いる。でもケニーさんほど愛とへりくだりと権威をもってそれが出来る人に、私はまだ個人的には出会ったことがない。 

風知一筆:教会の女性化は世俗化 仙台ラブリ聖書教会牧師 藤本光悦師

これはすごい。唸らされました。「男性とは、神を第一としたときに光る。その男性を誇りにし、心を尽くして助ける女性は美しい。男性のリーダーシップは、神のために生きようとするリーダーシップだ。女性はそういう男性を探してついて行け。」アーメン!! 

2003年8月24日

22日の日記の「正産期」は、「正期産」の間違いでは?というメールをいただいた。 ん?と思って調べたところ、妊娠37週0日〜41週6日めまでのお産を「正期産」ということを某産科病院のサイトで確認した(ちなみに42週0日以降のお産は「過期産」)。 正期産になる期間中のことを「正産期」と言うのだろうと思っていたのだけれど、そういう言い方は正式にはしないのだろうか?「正産期」という表現を使っている人のページもたくさんヒットしたけど… こういうことって、気になり出すととまらないんですよねー。御存知の方がいらしたら教えてください。メールをくださったHNさん、御指摘ありがとうございました。(^^)

*****

うちの教会の新牧師就任に際して、あるお友達… え〜い、名前出しちゃっていいよね? じゅんぽろちゃんが贈ってくれた御言葉。心からアーメン。感謝します!

どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(ローマ15:5−6)

*****

今日の礼拝はConsecration Service。イリノイ区superintendentのグリズウォル師がメッセージの最後に第一ペテロ5:2〜5を引用して締めくくっていたのが印象的だった。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。 そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

この箇所は長老たちに宛てられているところだけど、この当時は使徒たちが新しい教会を開拓すると、数名の長老を任命して、彼らにその群れを牧させていたらしいので、ここでいう長老たちというのは実質上、現在でいう牧師と同じことなんですね。(ちなみに、私がイギリスで行っていた教会では「牧師(パスター)」という肩書きを持つ人はおらず、三人の「長老(elders)」がいた。そしてその中の最年長者が「Senior Elder」と呼ばれていたっけ。)

礼拝の後はBBQ&ポットラックの昼食、そしてお祭り。天候にも恵まれ、とても楽しかった。目玉のイベントが『ダンクタンク』と呼ばれるゲーム。冷たい水が張られた大きなタンクの上に板があり、犠牲者(?)となる人がそこに座る。タンクの隣には的があり、人々が順番にソフトボールのサイズのボールを的に向かって投げる。的はボタンのようになっていて、うまく的に当たるとタンクの上の板がスライドして座っている人がタンクのなかに落っこちる、という仕掛け。こんな感じのものです。ぼぼるパパも犠牲者の一人に指名され、タンクのなかに落ちるたびにみんなから歓声が上がっていた。(笑) 

ケンスケも小さなプールで水遊びに興じた。ちゃんと水着を用意してあったのに、水着に着替える前にプールに入ってしまい、あわてて水からひっぱり出すと、自分でズボンを脱ぎ、Tシャツを脱ぎ… さらにおむつにまで手をかけたので「ちょっと待って! 今すぐ水着持ってくるから!」と私は着替えを取りに走ったけれど間に合わず、戻って来たときにはプールの周りで他の子供たちやママたちがドッと湧いていて、何ごとかと思ったら「ケンがストリップしちゃったわよ!」 見ると素っ裸のケンが衆人環視の中で嬉しそうにプールで遊んでいた。(^_^;; その後、彼は、「ストリップのケニー」とまことに不名誉なニックネームで呼ばれる羽目に…

*****

火星が肉眼でもくっきり見えるよ、とパパが嬉しそうな声を上げている。 そう? じゃ、私もちょっと見て来ようかな。

2003年8月26日

シカゴは蒸し暑い日が続いている。今日も36度くらい、体感温度は40度近かったらしい。今週末くらいには涼しくなるそうだけど。この暑さのなかで、ケンが夏風邪をひき、声はガラガラで鼻水をたらしている。でも元気はあるからこのまますぐに良くなってくれるといいな。

エミが今日、歯を二本抜いた。抜くまでは大騒ぎだったけど、今では痛み止めを飲むまでもなくわりと普通にしている。ケンと二人で待ち合い室で待っている間、エミの悲痛な叫び声が聞こえてきたときにはどうなるかと思った。ケンまで神妙な表情になって、私が「エミのためにお祈りしよう!」というと、すぐに目を閉じて手を組んで、私と一緒にお祈りしてくれた。その後先生が出てきたので「終わりましたか?」と聞くと、「まだ。麻酔しただけよ。」 麻酔の注射だけであんなに大騒ぎしたのか、エミは。(苦笑) 実際に抜くときはどうってことなかったらしい。

*****

ぼぼるパパが明日から学会でイギリスはケンブリッジに行く。帰宅は月曜日。守られますように。

*****

そういえば、パパに教えてもらって肉眼で見た火星は、ただの一等星みたいに明るい星なだけだった。ニュースサイトで見る写真みたいに、オレンジ色の火星の模様まで肉眼で見えることを期待していた私がバカだった。だって、6万年ぶりの超大接近だって聞いてたし、パパも「くっきり見えるよ」と言ってたから。(くすん)

2003年8月27日

パパはイギリスに行ってしまった。いつものように、出発直前までとても慌ただしかった。午前中は私のグリーンカード(永住権ビザ)を更新するために一緒にインディアナ州に行った。(と言っても、うちから片道20分。)私のグリーンカードは今月末にきれることになっていて、もしも旅行中の彼に何かあって私が国外に出なくてはいけないことになったとき、グリーンカードがきれていると私はアメリカに戻って来れなくなってしまう。まぁそんな非常事態になることはないだろうけど、どうせ更新しておかなくてはならないものなのだから、と出発当日の今朝になって更新しに行った。(苦笑)その後も、直前まで再来週の礼拝の賛美の曲目のセレクションと楽譜の準備など。午後3時には家を出ないと間に合わないというのに、二時頃になって「ちょっと教会へ行って来る」と飛び出して行った。帰って来たのが2時59分。 それから大急ぎで車で空港行きシャトルバスの乗り場まで送っていき、無事バスに乗るのを見届けた。 以前は、もう少しゆとりをもって準備が出来ないのかと、呆れたり苛立ったりしたもしたけれど、最近ではこれが彼のペースなのだと受け入れられるようになった。He knows what he's doing.  ただ、そうは言っても、彼を送り出すといつも何だか脱力してしまう。

そういえば、5月にぼぼる母がシカゴに来ていた時、こんな話しをしてくれた。一人っ子の彼をアメリカ留学に送り出す時、出発直前まで連日のように送別会だ何だとそれは忙しく慌ただしい日々で、別れを惜しんでしんみりしている暇などなかった。出発当日も、彼の「空港までは来なくていいよ」の一言で、結局家の玄関でお別れすることに。とにかく彼を送り出した後はほっとするやら気がぬけるやらだったけれど、それから1週間くらい、毎晩夕食の支度をする時間になるとわけもなく涙が溢れてどうしようもなかったのだとか… 何だかわかる気がする。

2003年8月28日

ケンブリッジに到着したパパから電話あり。ケンブリッジの駅からホテルまでタクシーに乗ったら、何とそのタクシーの運転手さんがぼぼるパパのことを覚えていたそうだ。「Is this your first time in Cambridge?」と聞かれ、去年の夏まで1年間住んでいたこと、毎朝、街の中心部にあるタクシー乗り場からタクシーに乗って娘二人を連れてニューナムにある小学校まで通っていたことなどを話したら、その人は「I remember you! How are your daughters?」と言ったのだそうだ。笑っちゃうね。

パパは1年ぶりのケンブリッジを堪能している様子。土曜日にはケンブリッジの日本語バイブルスタディの人たちと会う予定だそうです。良い交わりの時となりますように。

*****

BBN聖書放送というインターネットを通したラジオ放送局の方からリンクの依頼を受けたので、リンクさせていただきました。

BBN聖書放送は超教派の非営利団体で、「アメリカ東海岸ノースカロライナ州シャーロットに本部を持つ全米第二の規模のクリスチャンラジオ局です。ラジオやインターネットを通して聖書のメッセージやキリスト教音楽を日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語、中国語、そして韓国語で放送しております。日本語では太平洋放送協会の『世の光』、ハーベストタイム、さまざまな教会のメッセージ、そしてクリスチャン ラジオドラマ『この指とまれ』や、また多くのキリスト教音楽を24時間インターネット放送しております」とのことです。早速聞いていたら、米田ひろしさんの歌が流れてきて感動してしまった。

御連絡を下さった広報部の方からは、このHPやはちこの日記に対するコメントもいただいて、とても嬉しかったです。感謝します。(^^)

2003年8月29日

夕方近くになって、「退屈だから遊びに来てもいい?」とエミの友達がひょっこりやって来た。二人で本当に退屈そうにしていたので、「チョコレートチップクッキーでも焼く?」とエミたちに焼かせてみた。インターネットでレシピをダウンロードして(うちにもいろんなのがあるんだけどね)、キッチンの棚をあっちこっち開いて材料と道具を集め、二人で額をつきあわせながらレシピを覗き込む様子は微笑ましかった。調子よくやっていたのだけれど、途中で焼き上がったばかりのクッキーを全部床にぶちまけるというアクシデントあり。ありゃー、と思ったけど、私は何も言わなかったし何もしなかった。子供たちがみんなでアリのように床にむらがり、粉々に砕け散ったクッキーを拾ってお皿に集め、結局それも全部食べたらしい。(笑) チョコレートまみれになった床も、ちゃんと掃除してた。なかなかよろしい。次回は二人に夕飯を作らせようか。(笑)

*****

今日送られてきた、JCFN祈祷課題の9月分の巻頭言より。(ディック・ダーストン総主事による)

19世紀の英国が生んだ偉大な教師であり執筆者でもあるC. H. スポルジョンはこの言葉を残しました。「聖書の全ての約束は、神が書き残したものであり、神の前に『あなたのお言葉通りになりますように』という適切な訴えとともに差し出されるものである。創造主である神は、神の真実に頼る被造物を騙すような方ではなく、そればかりか、天の父は、その子供との約束を破るような方ではない。『どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。』というのは、最も多くの人が口にする神への要求であろう。これには、二段論法が含まれている。『これはあなたの言葉です。あなたがそれを守らないということがありましょうか? もしあなたがそれに忠実でないとしたら、何故その言葉を話されたのですか? あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。あなたは、あなたご自身が私のうちに起こされた望みを失望に終わらせるのですか?』

スポルジョンが言っているのは、主が私たちの祈りに答えると約束されており、主がご自身の言葉に対し真実であることから、私たちが主に声を上げるとき、主は必ず答えられるということです。すなわち、答えてくださると約束された方が信頼に値する故に、私たちは確信を持って祈ることができるのです。答えが与えられた祈りは、私たちが祈りを捧げる方の人格に基づいているのです。主は私たちとは異なり、嘘をついたり、言ったことに責任を持たないような方ではありません。この確信を持ち、心を尽くして、唯一、言葉をたがえることをされない方に向い祈りましょう。民数記23:19参照。

2003年8月31日

ぼぼるパパは明日の夜遅くに戻る予定。無事に帰宅するまでずっと守られますように。

*****

東京で牧会している友人がまたメッセージを分ち合って下さった。前回御紹介させていただいたメッセージに関しても多くの方からフィードバックをいただいたので、きっと今回も多くの方々にとって励ましになるのではないかと思い、御紹介します。(実は、このメッセージの掲載許可はいただいていないのですが(^_^;; 先日、自由に用いていいとおっしゃっていただいたので、お言葉に甘えて早速掲載させていただきます。心から感謝します。)途中、個人名が出てくる箇所があったので、その部分は省略しました。そのため若干つながりが悪くなってしまいましたが、メッセージの内容そのものには差支えないと思います。主が私たちに語ってくださいますように。

「御心を行うために」

神の御心というのは、まず聖書の中に豊かに現されています。先週お話した「互いに愛し合いなさい」という新しいいましめに代表されますが、私たちがクリスチャン生活を送る上で神が願っておられる事柄は、聖書のあらゆるところに記されているのです。もちろんそれらは旧約の律法ではなく、守らないからといって滅びるわけではありませんが、それらの神のお勧めを無視することによって生じる「刈り取り」は私たち自身がしなければなりません。また、キリストの裁きの御座における「報い」にも関わってきます。

そして、聖書とは別に、それぞれに個人的に与えられる神の御心(召し)というものがあります。ある人は牧師になる、音楽伝道をする、文書伝道をする。また、サラリーマン、専業主婦、これも立派な召しだと思います。導きの中で自分に与えられたポジションに忠実であること、自分の分を超えず、野心を持たず、与えられた一日一日を大切に生きること、それは神の御前に非常に価値のあることなのです。有名なブラザー・ローレンスという人は、そういう人だったようですね。

では、現在与えられた場所における召しを全うするためにはどうしたらいいのか。誰もが考え、悩むところです。聖書を見てまいりましょう。ヨハネ13:36‐38。ここでペテロはイエス様がどこに行かれるのかと心配し、どこだって付いていこうと、イエス様のためには命を捨ててもいいとまで言い切ります。しかしこの言葉は、その主ご自身から否定されてしまいます。そして実際、そうなりました。

ペテロの生涯を振り返ってみると、この3年半前、イエス様に「私に付いて来なさい」と言われ、仕事を捨てて付いていっています。まさに生活の糧を捨てたわけですから、今で言うフルタイムの献身者になったわけです。献身者となり、キリストの弟子となって3年半を過ごすわけです。しかし彼は「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問われたとき、「いや、そうではない」と3回否定します。一回なら口が滑ったともいえますが、3回というのは弁解のしようがありません。彼はこのとき、召しを捨ててしまったといえます。

では、なぜペテロはそのような言動を取ってしまったのでしょうか。彼自身の性格的なものや、聖霊の力を受けていなかったとか、いろいろな要素があると思いますが、私が注目するのは、キリストの言葉に対する彼の反応です。ペテロは、この主とのやり取りの前に、二つの言葉をイエス様から聞いています。一つは「あなたがたは私の行く所に来ることはできない」(33節)と、「互いに愛し合いなさい」(34節)です。イエス様はどちらを強調したと思われますか。言うまでもなく、「互いに愛し合いなさい」です。主は「新しい」という言葉を使って、これまで言いたかったことを、厳かに語られたわけです。

しかしペテロは「あなたがたは私の行く所に来ることはできない」の方に反応してしまいます。彼の言葉からは「私」が見て取れます。「他の者は無理でしょうけど、私は命を捨ててもあなたに従いますよ」と言わんばかりです。主が本当に伝えたいことは聞き逃し、自分はこういう人間であると、私はこんなに献身的な人間であると主張するわけです。「互いに愛し合いなさい」に反応するなら、他の弟子たちのことを考え、「これまで影の薄かったタダイに何かお言葉をかけてください」とか、他者のことを考えた言葉が出たはずです。

つまり、「キリストが何を願っているか」より「私は何をしたいか」が優先されているわけです。そのような心のとき、私たちは召しを全うすることができなくなってしまいます。たとえ言っていることがどんなに華々しく、より献身者的に見えても。他から見て、神様のためになっているように見えてもです。イエス様はここで「来ることはできない」と言っておられる訳ですから、「分かりました。今、あなたが行こうとしておられる所に私たちは行けないんですね。あなたが「新しいいましめ」とおっしゃったことを、どのように守ればいいのでしょうか」と答えるべきでしょう。

またペテロは、イエス様と別れなければならないという非常にショックな言葉を聴いて、取り乱してしまったとも言えます。平安を失っているわけです。14章1節を見ると主に「心を騒がせないがよい」と言われています。平安を失うと、肉が表面に出てくるのです。主の十字架を前にした弟子たちは、本当にみっともない姿になっています。

父なる神は、皆さんの生活に何を願っておられるのでしょうか。まず、聖書に書かれてあることに忠実であってください。クリスチャンすべてに向けて書かれた言葉があります。「互いに愛し合いなさい」などですね。また、男である、女である、牧師である、信徒である、上司である、部下である、フリーターである、様々な立場の人に向けた言葉があります。それらの言葉には、神の願いが反映されています。まず、男は男になってください。女は女になってください。牧師は牧師になってください。主婦は主婦になってください。文化的な違いを超えた普遍的な真理を汲み取り、それを自分自身に適用してください。

その上で、個人的な召しを求め、神の導きの中で平安を感じる道に進んでいただきたいと思います。自分の願望を持つことは決して悪いことではありません。しかし、神が私たちの願望を実現してくれる僕なのではなく、私たちが神の僕であることを心に刻んでください。「私が私が」という肉が鎮められ、神の御声を聞くことができますように。そのとき、あなたは神の召しを全うすることができるのです。

今までの日記のインデックス

LAST MONTH | NEXT MONTH

最新の日記

このページへのリンクは御自由にどうぞ。
http://NakamuraFamily.net/diary/diary_current.html

4gzus@nakamurafamily.net