ホーム>日記>2002年>10月 [9月 | 10月 | 11月 ]
最新の日記のページへ
10/2/2002ま〜やは今日の夕方、再び大学病院の小児整形外科へ行った。一週間以内に再検査を受けるようにと言われていたので。ま〜やは--そして私も--骨折した腕はきっと今日までにイエス様が癒してくださって、キャストなしで帰宅できると信じていた。 でも現実は違った。キャストなしで帰宅できるどころか、再びレントゲンを撮ったりしてよく調べた結果、肘のすぐ下の太い方の骨が折れていただけでなく、細い方の骨が脱臼していたことがわかった。脱臼した方の骨も正しい位置に直してから固定しないと、当然後から困ったことになる。そこでキャストをはずして、脱臼していた方の骨を先生が「痛いけど、ごめんね、やらなきゃいけないことだから」と思いきりエイヤッ!とはめ直して、それから改めて新しいキャストをつけてもらった。 幸い、付き添っていたのは私ではなくパパだった。私だったら、とてもいたたまれなかったと思う。ま〜やはものすごい勢いで大泣きしたそうだ。のこぎりでブーンと古いキャストをはずすまでは、面白がって嬉々として元気一杯だったそうだが、お医者さんがはずれた骨に手をふれるところからは、痛みのせいで激しく泣きどおしだったそうだ。(;_;) 帰って来たま〜やは、ぐったりして食事もしないまま、パジャマにも着替えないまま、私のベッドで寝ている。可哀想に。 パパもやっぱり疲れたのね、今、私の後ろでソファに横になって居眠りしている。パパ、御苦労さま。ありがとうね。 ***** この一週間のうちに随分いろいろなことがあったような気がするが、私に与えられ続けている言葉はどれもテーマが一貫している。それは「喜ぶ」ということだ。先日の日記にも書いたように私は伝道者の書5:20とピリピ4:4から語られたし、ケンブリッジのヒロコさんは第一テサロニケ5:16ー18が示されたと国際電話をくださった。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。 さらにじゅんぽろちゃんもゴスペルの『Oh, Happy Day!』から語られたことをシェアしてくださった。喜びなさい、喜びなさい、喜びなさい。四方八方から神様がそのように私を励ましておられる。 でも、状況がこんな時だというのに、なぜ神様は私に喜びなさいと言うのか? なぜ喜ぶことができるのか? Because God is good. いつもメールで励ましてくださるこの日記の愛読者、千葉のM田さんがそのことを私にremindしてくださった。 God is good all the time, all the time, God is good! たとえば。 癒してくださったから、喜び賛美するのか? これからきっと癒してくださると信じるから、喜び賛美するのか? 神様が私になさってくださった過去の全てのことのゆえに喜び賛美するし、これからしてくださる全てのことのゆえにも喜び賛美するけれど、私が喜ぶ一番の理由は、神様を賛美するその一番根底にあるのは、Because God is good まさにその一言に尽きるのではないだろうか? God is good all the time, all the time, God is good! ま〜やのことも、私のことも、そしてこの家族一人一人すべてを、あなたの良い御手のうえにのせ、私はただ喜び、感謝し、あなたを賛美します。 10/3/2002夕べ、昨日の日記をアップロードしたあと、ある場所でこの御言葉を目にした。 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。 He makes all things beautiful in His time. 伝道者の書3:11 今までに何百回となく読んでいる御言葉。だけど夕べはHe makes all things beautiful in His time. という英語でのこの御言葉が、いつになく心にドカーンときた。 ま〜やは昨日病院に行くのをものすごく楽しみにしていた。朝からルンルンで、夕方パパが早く帰って来て、ま〜やを連れて病院に行くときも万歳三唱をせんばかりに浮かれていた。それもそのはず。あの子は信じていたのだ。自分の腕はすでに癒されていて、帰って来る時にはキャストははずれているだろうと。ま〜やにとって、「(1)神様には不可能なことはない;(2)神様に祈った;ゆえに(3)神様は癒してくださった」が完全に成り立っていて、それ以外のオプションはなかったのだから。 ま〜やが文字どおりの幼子の信仰で疑いなく信じているのだから、きっと神様は本当に癒してくださったろう、私も単純にそう思っていた。(う〜ん、正直なところは、七割くらいかな。いや、六割…、五割だったかも。(^_^;;)そもそも骨折してまだ五日しかたっていなかったのだから、癒されたと信じる方がクレイジーだったのかもしれない。だけどま〜やは本当に信じていたんだ。昼間にも近所のおばさんに会ったとき、ま〜やは元気一杯に、「このキャストは今日取れるんだよ!」と宣言していた。私があわてて「もし直ってたらね」とフォローするとま〜やは「What do you mean? Of course I've been healed!」と呆れたように私に言った。そのおばさんは「もうどれだけキャストをつけてたの?」ときくので私は「あ、えーと、まだ五日だけで…」口ごもりながら答えたのだった。ね? ま〜やは本当に信じていたんだよ。イエス様が「幼子のように…」とおっしゃったとき、こういうま〜やのような単純で素直な信仰のことを言っていたんじゃないかったの? それなのにま〜やの腕は癒されてなかった。 子供の骨折なんて珍しいことじゃないし、直りだって早い。それ自体は大騒ぎするようなことではないと思っていた。だけど、ま〜やはあんなに素直に信じていたのに。なぜですか、神様、なぜま〜やの祈りを聞いてくださらなかったのですか…? 私の落ち込みの原因はそこにあった。 それでも、語られていた御言葉のひとつひとつをかき集め、癒されなかったという状況ではなく、神様に目を向けることが出来たとき、私の神様は良い神様です、と告白することが出来た。 上記の御言葉が私の目にとびこんできたのはその直後だった。He makes all things beautiful in His time. この御言葉を見た瞬間、私にはわかった。ま〜やの腕が癒されてなかったのは、まだ神様の時じゃなかったからなのだと。It wasn't His time, yet. But IN HIS TIME, He'll make Maya's arm beautiful. He does things according to His time table, not mine. 不思議だよね。決して初めて耳にした御言葉だというわけではないのに。むしろ、何百回も読んでいるはずの、ものすごくよく知っている御言葉なのに。突然、新たなリアリティをもって私の霊にストンと落ちた。ピタリとはまった。 神様はま〜やの信仰を無視されたわけではなかったんだ。むしろ、大いに喜んでおられたに違いない。神様はま〜やに豊かに報いてくださるに違いない。なんとなく腑に落ちないまま、それでも信仰表明として、喜びます! 感謝します! と叫んでいた私だったが、ベッドのなかにもぐった後もずっとこの御言葉を反芻していたら、本当の感謝と喜びに溢れてきて、泣けて泣けて仕方がなかった。朝、目が覚めた時も、まだ喜びと感謝が溢れていて、シャワーを浴びながらもずっと泣いていた。やっぱりGod is good! は真実だ。God is Goo+d! (Perlの正規表現でo+ はoの一回以上の繰り返し。by 結城さん@プログラマ) 神様が「喜びなさい」とおっしゃったわけが、やっと分かった感じ。 Even when things look rather ugly at the moment, trust Him and be encouraged, for He will make all things beautiful in His time. He will, and He does. ***** 今朝になって、昨日の私の日記を御覧になったルークさんからお見舞いメールが届いた。気張らずに、つらい時には主の足元で泣いてしまっていいんですよ、平安がありますように、という優しいメールだった。ルークさんの御推察の通り、昨日の日記を書いた時点の私は確かに気張っていたと思う。でも今は大丈夫。本当に平安があります。お祈りどうもありがとうございます。(^^) 10/5/2002昨日のJCFNシカゴ集会の聖研はとても楽しかった。場所はやや遠かったけれど、参加できてよかった。ついでにミツワによってお米や豆腐などをどっさり買い込む。旭屋書店でエミとみんとま〜やにミニモニ。のCDを、ケンにはハム太郎の絵本を買ってあげた。(なぜミニモニ。かというと、ハム太郎の映画『ハムハムランド大冒険』の挿入歌をミニモニ。が歌っていて、娘たちはすっかりはまってしまったのでした。)しかも、聖研のために自宅を開放してくださったWさんのお宅になんとミニモニ。のビデオがあり、エミたちは別室でビデオ鑑賞させてもらって御満悦。帰宅は夜中の12時半だった。 ***** 今朝はみんのスイミングレッスン。本当ならま〜やも一緒に行くはずだったけど、骨折のためキャンセル。準備をするみんが羨ましくてクスンクスンしていたま〜やだった。するとちょうどその時電話がなった。クラスメートのお母さんからで、ま〜やを映画に招待してくれた。昨日封切りになったばかりのベジテールズの初の劇場版映画の『ヨナ』。泣き虫カラスがとたんにニコニコ虫に。神様って、優しいなぁ、こんなふうにしてま〜やをなぐさめて下さるなんて。 ***** KFMのキャンプで、主任牧師のコリン・アーカート師が、意外とも思われることを言った。彼の数十年にわたるミニストリーの中で、一番困難を感じたことは「きよい心」を保ち続けることだった、と。 彼ほどのひとが。こんなにも神に近く歩み、神から親しく聞き、従順にそして大胆に歩んできた人が、神の前に「きよい心」を保ち続けることが難しくて葛藤してきたなんて。彼はこうも言った、きよい心を保ち続けるコツを知っている人がいたら、是非教えてもらいたいものです、と。 ***** 『A Life God Rewards (仮題 神が報いる人生)』の翻訳は、昨日の時点で雑訳(大雑把な訳)が7章まで終わった。残るはあと一章。もちろん、雑訳の段階ではぼぼるパパも言っていたように、非常に完成度が低く、とても人様に見せられる代物ではない。だからこれからが正念場とも言える。それでも、とりあえず一通り訳してしまえば、気持ちの上ではかなり楽。締きりは日本時間で今月の21日。御顔を仰ぎつつ。 10/6/2002パパは明日から学会でコロラドへ出張。帰宅は水曜日の夜中。 先週、ついに携帯電話を買った。今までわが家には携帯がなかったのだ。珍しいでしょう? ぼぼるパパは結構ヘソ曲がりで、「みんな持ってるよ」と言うと、「じゃあうちは絶対買わない」とか言う人なのです。人の目は全然気にならないらしいし(おかげでガレージは相変わらず散らかったまま)、ものすごくマイペースな人。 だけど最近いろいろあって、パパとすぐに連絡が取りたい時に連絡が取れなくて困ったり、何かと不便が続いたので、頼み込んでついに買ってもらったのでした。 で、買って来たのはいいんだけど、説明書が分厚い。電話番号は何になるんだろう? 電話器を手にしたものの、それをどうしていいのかわからない。めんどくさくて説明書を読みたくない。しかし、私が自分からお願いした以上、このままお蔵入りにさせてしまうわけにはいかない。 だんだん新しい器械を導入するのがとてもつなくおっくうな年齢になってきた。(?) 10/7/2002永遠、永遠、永遠… 一年半くらい前に、NHKの連ドラ「ちゅらさん」のなかで、おばあさんがお墓の前で「人間って、死んでからの方が長いのかもしれないねぇ」と言う場面があった。
これは本当にその通りなんだ。肉体が死んでからが、人間のいのちの本番なんだ。でもそれなら「今」は関係ないのかと言ったらとんでもない。関係ないどころか、永遠での私たちのいのちの過ごし方は、「今」の私たちの生き方が決定するのだから。『A Life God Rewards』の主題は、まさにそれ。
アーメン、主イエスよ、来てください。 主よ、「その日」あなたからいただくもののゆえに、今、私の目が、肉が、欲するすべてのものを捨て去ることが出来ますように。今、私の心が、身体が、あなたの御名のゆえに受けるすべての痛みを喜んで自分のものにすることが出来ますように。 10/8/2002今日はま〜やが突然、学校へいく直前になって「行きたくない」とグズグズ言い出した。でも行きたくないと言ってるからといって、じゃあ学校は休もうね、というわけにもいかないので、半ば強引にスクールバスに乗せて送り出した。ところがそれから20分もしたら学校のナースから電話がかかってきて、ま〜やがバスのなかで吐いて、今、保健室で泣いているので迎えに来てくださいという。しょうがないので慌てて駆け付けた。 結局そのまま家に連れて帰って来たのだけれど、具合が悪かったわけでもなさそうで、要するに泣きゲボ(激しく泣きすぎて嘔吐すること)だったようだ。どうしたんだろう、急に。いつもなら学校は大好きなのに。昨日だって、学校から帰って来たときは、クリスティンが明日電話番号を紙に書いて持ってきてくれるって言ってたから、そしたらうちに呼ぶんだ!と言って張り切っていたのに。担任の先生のことも、ものすご〜く大好きなのに。学校でいじめにあっているとか、そんなふうにはとても思えないし。パパが留守中だから、気持ちが不安定になっているのかな。一過性のものだといいんだけど。夜寝る前に、明日はちゃんと学校へ行こうね、と言ったら、ニヤニヤしながら身体をくねらせて「だって行きたくないんだもん」とか何とか言っていた。もし明日も泣き出したりするようなことがあれば、担任の先生に電話してみよう。 と書いていたら、ちょうどコロラドのぼぼるパパから電話が。早速ま〜やのことを報告し、一緒に祈った。明日またバスに乗る時にぐずったら、無理矢理乗せないで、車で送っていってあげなさいとのこと。 10/9/2002今夜の夜中頃にパパは帰って来る。ケンスケはパパを恋しがって、パパが日曜日に来ていたYシャツを毎晩抱き締めて寝ていた。カワイイ。(*^_^*) 明日はま〜やが朝8時半に再び病院。骨折って、こんなに何度も通院するものだとは知らなかった。午後からは私。二週間前の検査の結果を聞いてくる。 ***** "A Life God Rewards" の第五章は、デトロイトでもたれた男性集会(プロミスキーパーズでしょう、恐らく)で、ウィルキンソン師が8万人の男性たちと共に体験した、素晴らしい賛美の情景の描写ではじまっている。そこにこんなくだりがある。
ああ、わかる。この気持ち、ものすごくよくわかる。私も、礼拝しながら、何だかいても立ってもいられないような、はがゆいとでもいうような気持ちに襲われることが時折ある。たとえばKFMのキャンプでも、そのワーシップは非常に深く、濃く、自分がどこにいるのかを忘れ、まるで宇宙遊泳にでも出かけていってしまったかのような感覚に陥る経験をした。一つの曲を何度も繰り返し賛美し、そう、ただ一曲だけを30分くらい歌い続けただろうか。いくらひざまづいてもひざまづき足りない。いくら両手を天に向って伸ばしても伸ばし足りない。いくら大声で歌っても、歌い足りない。この地上の身体では、私の霊の奥底から溢れてくる神様への賛美を表現しきれないのだ。 でも、天国に行ったら違う。文字通り全身全霊をこめて主を礼拝することが出来るようになるんだ。御使いたちと共に、全ての聖徒たちと共に。ああ! 私は一つのことを主に願った。 私はそれを求めている。 私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。 主の麗しさを仰ぎ見、 その宮で、思いにふける、そのために。 (詩篇27:4) 万軍の主。あなたのお住まいは なんと、慕わしいことでしょう。 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って 絶え入るばかりです。 私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。 (詩篇84:1、2) 10/10/2002ま〜やの腕は順調。キャストはあと三週間だそうな。ま〜やが学校に行きたくないとごねた理由は、よく聞いてみると、キャストのせいで自由に動けないのが辛かったかららしい。特に休み時間にみんなが校庭で遊ぶとき、自分はお友達と一緒にジャングルジムに上ったりブランコに乗ったり出来ないのが悲しくて、それで行きたくなくなってしまったようだ。やっぱり身体の不自由は精神的な負担になるんだね。わかるよ、ま〜や。あと三週間、長いように感じられるかもしれないけど、腕が完全に直るまで頑張ろうね。ま〜やはいい子だ。 そして私の検査結果は、「良性」「正常の範囲」。 六ヵ月後にもう一度チェックしましょう、とのこと。ハレルヤ、感謝します! お祈りくださっていた皆さん、本当に本当にありがとうございました! 皆さんのお祈りのおかげで、この二週間も平安のなかで過ごすことが出来ました。心から感謝します。 ***** 不思議なもので、回りに嵐が吹き荒れれば荒れるほど、御言葉が心に近くなり、内側には平静が広がっていくようだ。きっと、荒れるときほど深く深く、錨を下ろすからなんだろうな。 ***** 夕べま〜やの腕のために祈っているとき、私はつい神様に聞いてしまった。神様の時って、いつですか? もしかして明日ですか、と。(私もけっこうしつこい。(^_^;; )その時示されたのは、う〜ん、上手く言葉に表現できるかな、神様が人間を創造したとき、DNAのひとつひとつ、細胞のふるまいのひとつひとつ、何もかも、神様の秩序のなかで創造されたのだ、ということ。壊れた細胞がどのようなプロセスで回復するか、そういったことも、すべて神様の秩序のなかで定められている。ま〜やの腕の癒しも、その秩序のなかで神様があらかじめ定めた通りになされる。"His time" doesn't mean it is unexpected or erratic. It may not be known to us, but it has been already established as ordered by God. 私たちの神は秩序の神。I need to learn to submit myself to His order. 神様が定められた秩序に自らを差し出し、それに従わせることを学ぶ必要がある… 午後、病院から帰ってくる途中でも、good report に感謝しつつ、このことに再び思いを巡らせていた。 そうか、私の生活のなかで、もっと神様の秩序が回復される必要があるんだ、すべての領域において… そしてそのなかで、私は従順と忍耐を学ぶ… あ、そうだ。うちに『My First Body Book』という子供向けの人体の仕組に関する本があるんだけど、明日それをま〜やと一緒に読もう。そして身体をこんなに素晴らしく、精密に造ったのは神様で、怪我をしたときや骨が折れたときも、それが自然に治るように、神様があらかじめ全部人間の身体の仕組のなかに組み込んでくださっていたんだよ、ってお話ししよう。キャストをつけて一ヵ月待つだけで、折れてあんなに痛かった骨が元通りに治るのも、何もかも神様の素晴らしい御業によるんだよ、って。I'll make Maya's arm beautiful in My timeって、神様が約束してくださった通りに。 10/12/2002夕べはみんが教会でスリープオーバー(お泊まり会)。今朝9時前に迎えに行って、そのまますぐに水泳教室に連れていく。一旦家に帰ってきてから、その後は10時半から12時過ぎまでワーシップチームの練習。一年ちょっとぶりだ。ぼぼるパパは明日、ついに教会でコンガデビューする。 帰ってきてお昼におそばをゆでて、昼食の後は翻訳の続き。雑訳は一通り全部終わっているけれど、それに手を入れて文章を整えていくプロセスというのが結構時間がかかる。ぼぼるパパにも読んでもらっていろいろコメントをもらっているので、それがとても役に立つ。第三者の目が入ると全然違うから。(そういえば、『ヤベツ』を訳していたとき、「Bless me a lot」という文章を、パパが「ここは『私をしこたま祝福して下さい』としたらどうかい?」とコメントをくれて、私が「ええーっ、『しこたま』なんか、ヤダー!」ともめたことがあったっけ。) 翻訳しているときの一番のチャレンジは、どこまで意訳するか、どこまで原文を崩して、日本語として自然な構造に組み換えてしまうか、というあたり。原文通りに訳しても、日本語としてスッとおさまってくれれば有り難いのだが、いつもそううまくいくとは限らない。以前、<葡萄の実>ほん訳ミニストリーの渡部さんから『翻訳英文法』という参考書をプレゼントしていただいたことがあり(渡部さん、その節は本当にありがとうございました、とても参考になりました)、これを読むと、原文を読みほぐして、かなり思いきった組み換えが必要になる場合もあるのだとわかる。それから意外だったのは、いい翻訳(わかりやすい翻訳)になればなるほど、原文より訳文の方が長くなってしまうのは仕方のないことだと、この参考書の著者が言っていたこと。簡潔であるに越したことはないと思うけど、時には原文より長くなるのもアリ、という程度に心に留めておこうと思った。ああ、それにしても、もっときちんと翻訳の勉強もしたいな。 そう、そういうわけで午後はケンスケがお昼寝をしている隙に翻訳をやって、夕方になったら突然猛烈に眠気が襲ってきたので、ついベッドにもぐり込んだ。パパは昼食後にケンと一緒に寝ていたが、どうも私と入れ違いになった様子。私の目が覚めたときはすでに夜の七時頃で、夕飯はパパがピザをテイクアウトしてくれていた。ううう、ごめんなさい<家族。明日はちゃんと作りますから。(^_^;; 10/13/2002カレンダーを見ると今日は10月13日。おおっ、おばあちゃんの誕生日ではないか、日本はもう14日になっちゃったけど、このくらいの誤差はありということにしよう。というわけで早速子供たちに電話をかけさせた。ひとりひとり交代で「おばあちゃん、お誕生日おめでとう!」の御挨拶。それぞれがしばらくお話した後に私が電話を受け取って、私からもお祝いを、と思ったところでおばあちゃんは言った。 「孫たちがおめでとう、おめでとうって言ってくれたのはとっても嬉しかったけど、私の誕生日は11月よ。」 えっ… ああっ、しまった、間違えた。10月生まれは妹のけめこだったっ! おばあちゃんも私も電話でゲラゲラ大笑い。 毎年お祝が遅れてしまうので、今年こそはと思ったら、大フライング。いや〜ん。ごめんねー、おばあちゃーん。(^_^;A ***** ガリラヤ湖と死海。 どちらもヨルダン川の水が流れ込んでいる。ところが、ガリラヤ湖は20種類以上ものの魚が棲む自然の宝庫であるのに対し、死海には一匹の魚も棲息していない。同じ川の水が流れ込んでいるのに。死海の水は塩分の濃度が濃すぎるのだ。 ガリラヤ湖には水が豊かに注ぎ込み、またそこから豊かに流れ出している。しかし死海に流れ込んだ水はどこへも流れていかない。蒸発するまでただそこによどんでいるだけだ。 ケンブリッジにいた頃、この話しをたてつづけに二度聞いたことがあった。一度は教会の礼拝で、一度はジョン・ビヴェアのメッセージビデオで。どちらの説教者も言った、霊的にも同じなのです、と。神様から受けた豊かな恵み、豊かな憐れみ、豊かな愛、豊かな賜物を、自分の中にためこまないで、まわりに溢れ出させましょう、そうすれば、あなたもあなたに関わる人たちも、いのちに満たされることが出来るのです、と。あなたが召されたのは、死海のようにいのちを窒息させるためではなく、ガリラヤ湖のように豊かないのちを持つ者になるためなのです、と。 あのときこの話しはとても印象に残ったのだけど、なぜだか書き留める機会を逸したままだった。 どうしてだろう、今日また、ふとこの話しを思い出した。 10/15/2002疲れたー。〆きりは日本時間の次の月曜日の朝。つまりシカゴ時間の日曜日の夕方には送付が完了してないといけない。全部で8章あるうち、5章までは送付済み。残る3章も雑訳に手を加えてとりあえず整えるところまでは終わった。でもまだまだ改良の余地あり。〆きりギリギリまでは何度でも読み直して、結城さん風に言うなら、「ザラザラ」を取り除く努力をするつもり。 本文全8章の他に、今回は巻末に歴史上の著名なクリスチャンによる、天国の報いに関するコメントが集めてある。それも訳さないといけない…だろうなぁ、やっぱり。その中にJustin Martyr という人のコメントがあって、私は何も考えずにその名前を「ジャスティン・マーター」と訳した。変わった名前だなぁ、マーター(殉教者)だなんて、と思いながら。でもふっと胸騒ぎがしたのでネットで検索してみたら、ジャスティン・マーターではなく、「殉教者ユスティヌス」という人だということが発覚した。ヒュー、危ない、危ない。恥ずかしいミスをするところだった。私ってば、無知だから… (^_^;A そういえば高校生の時のこと。英語の授業で予習をしていかなかった日に限って(というわけでもないけど)、英訳をするよう当てられて、その文章がGarbage is collected every other Monday. とかなんとかいうものだった。予習をしていなかったので、Garbageの意味がわからず、私はしどろもどろで「ガーベッジさんは…」と訳しはじめると、先生が一言、「ゴミ!」 「えっ?」 「ゴミ! Garbageはゴミだよ。」教室は爆笑の渦、穴があったら入りたいとはまさにこの時の私でした。 そんな私が、今、翻訳なんかやらせてもらっているなんて。人生わからないものですね。もっとも、ジャスティン・マーターなんて訳しているようじゃ、高校生の頃とちっともレベルが変わってないけど。(^_^;; ***** 今夜は無性にメンチカツが食べたくなって、揚げ物は面倒なんだけど頑張った。子供にも食べさせるんだから栄養たっぷりに、と冷蔵庫にあったいろんな野菜も細かく刻んでひき肉に混ぜたところ、タネが柔らかくなりすぎて、うまくまとまらなくなってしまった。おかげで爆発したすごいメンチカツになっちゃって、はちこママはしょんぼり。まぁ、子供たちはブツブツいいながらも味は美味しかったのか、たくさん食べてくれたけど。次は普通のコロッケにしてね、だって。はぁい、わかりましたー! 10/16/2002しばらく前の日記で、うちの教会の牧師一家は今、三世帯が一つの家に同居している話しを書いたが、やはり相当厳しいらしい。 今夜、教会でのバイブルスタディのあと、牧師夫人が疲れた顔で座っていたので、ぼぼるパパが「御家庭の状態はうまくいってますか?」と声をかけたら、彼女は「No」と答えて、あとは堰を切ったようにいろいろなことをぼぼるパパに打ち明けたらしい。 詳しいことは書かないけれど、どれもこれも無理もない、というようなことばかり。かねてから私は、彼女は本当によくやっていると思っていた。もちろん今でもそう思っている。彼女のことは尊敬してやまない。 ぼぼるパパは、彼らが近所に越して来たのには、神様のはからいがあったんじゃないか、たまには電話でもして励ましてあげたらどうだ、と私に言う。でも私なんか、彼女より10歳も年下の若造だし、何て言ったらいいのかわかんないよ、と言うと、年下だということは関係ないよ、彼女は今、励ましや話し相手を必要としてると思うよ、と言う。うーん。そうなんだろうけど… イザヤ50:4を祈り求めよう。 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。 10/17/2002今日ま〜やをスクールバスに乗せたとき、このところ彼女が学校に行くのを嫌がっていたその理由がわかったような気がした。ま〜やが乗り込んだとき、最前列に座っていた男の子がま〜やに向って「Is your arm broken again?」と野次を飛ばしたのだ。そういえばこの子は昨日もま〜やに向ってベイビーがどうの、と叫んでいた。男の子の言葉を聞いたとき、恐らく私は憮然とした顔をしたのだろう、バスの運転手さんが困ったような顔で申し訳なさそうに首を横に振ってみせた。 ま〜やに、学校の何が嫌なの?と聞いたとき、休み時間が嫌なんだと言っていた。休み時間に外に出て遊ぶのが嫌なんだ、と。私はそれは、腕が不自由で走り回れないからなんだろうと思っていたが、そうじゃなかったのかもしれない。この野次を飛ばした男の子とはクラスは違うが、休み時間になればみんな一緒に校庭に出る。もしかしたらこの子は校庭でもま〜やをからかっていたのかもしれない。昨日は雨降りで、ま〜やは学校に行くとき「雨だから校庭で遊ばないですむ、ばんざーい!」と喜んでいた。 だけど今日のま〜やは偉かった。男の子のことなど無視して、さっさとバスの奥に乗り込んで、素知らぬ顔で座っていた。 イエス様、ま〜やと共にいてください。そして彼女の心を励まし、強めてください。 ***** エミは中学生になって宿題の量が格段に増えた。毎日というわけではないが、多いときには4つくらい、次の日が〆きりの宿題が重なったりする。そしてそういう日に限って、ヴァイオリンのレッスンがあったり、ミッショネット(ガールスカウトの教会版)があったり、ユースグループ(青年会)があったりする。 昨日もそういう日だった。学校から帰ってきて休む間もなく部屋にこもって宿題に取り組む。五時からはヴァイオリン、夜七時からはミッショネット。しかも夕べはパパが帰り際に牧師夫人と話し込んだりしたから、帰宅は9時過ぎだった。まだ宿題が終わっていなかったエミはそのあと10時過ぎまで頑張っていた。普段は朝七時には起き出してくるのだが、今朝はさすがに起きられなかった様子で、私もあえてギリギリまで寝かせてあげた。ところが、本人は寝坊してしまったと思い、朝からプリプリ御機嫌ななめ。家を出る真際にもハグをしてあげたら、「やめてよ!」と私の手を振払い、ブスっとして家を出ていった。 夕べみたいにいろんなことが重なるのは、そうしょっちゅうというわけではないけれど、そういう時にはどうやって優先順位を設定するべきか、一緒に考えてあげなくちゃいけないなと思わされた。私としては、ミッショネットも青年会も素晴らしいけれど、宿題がたくさん出たときにはそれを休んでもいいと思っている。神様を第一にするのと、教会「活動」を第一にするのは別の話しなんだから。大人でも、そこの区別をつけられずに溺れかかっている人は多いかもしれない。私もよく間違える。たくさん押し寄せてくるアクティヴィティーの数々にどう対処するか、今からちゃんと学ばなかったら、いずれパンクしてしまう。これから先も忙しくなる一方なのだから。 ちなみに、エミは今日は青年会をパスして、家でゆっくり休んだ。そして今はパパに数学の勉強を見てもらっている。今夜のエミはとても穏やかだ。 主よ、あなたが定めた秩序に従って、この家庭が治められますように。 ***** ケンスケは最近、小首をかしげて「ヘケッ!」と言うようになった。う〜ん、すっかりハム太郎化している。 10/19/2002翻訳終わったーー! あとは送りだせばいいだけ。主よ、感謝します。 ぼぼるパパも協力ありがとうございました。次から次へと私からまわってくる翻訳原稿のすべてに目を通し、ていねいにコメントをくれました。パパに見てもらうのとそうでないのでは全然違うので、私は翻訳者としては一人立ち出来ないな、と思ってしまった。 今日のパパからのコメントで可笑しかったやつ。著者の前書きの部分で、ウィルキンソン博士が例によってあれこれと前口上を述べ、最後に Warmly, Bruce Wilkinson と締めくくってあったところ。私はたまたまこの最後の二行を訳出していなかった。ところが、パパがコメントをつけて返してくれた原稿を見ると、一番最後に ぬくぬくと。 ブルウス・ウイルキンソン と書き足してあって、思わず吹き出してしまった。(笑) 10/20/2002昨日の「ぬくぬくと」は、「心を込めて」に直してから送り出した。(笑) ***** なんか、どーーっと疲れが出てる気がする。今日は朝の礼拝で、肉体労働に近い奉仕をしたからかもしれない。 ***** 最近、私がよく口ずさんでいる歌、マット・レドマンの"Heart of Worship"。この歌のメッセージが、私がここ数カ月ずっと思わされているテーマとあまりに合致していたので、シカゴに帰ってきて初めてこの歌を聞いたとき、とても衝撃だった。(もっともこの歌は、イギリス発らしいけど。) サビの部分はこんな感じ。
この歌は、礼拝/賛美に関して歌っているけれど、私はこのメッセージを、私のいのちの歩みそのものに当てはめて歌いたい気持ち。 ***** 日記に書けないことって、たくさんある。自分のことでなければ、なおさらのこと。だけど、祈っています。 10/21/2002フィリップ・ヤンシーの『Reaching for the Invisible God』(邦題『見えない神を捜し求めて』)という本に書いてあった。 Fear not (恐れるな)という神様の命令は、聖書のなかで365回登場するのだと。 365回… 私たちの歩みは、なんと容易に、恐れや不安に打ちのめされてしまうものだろうか。悩みは尽きることがなく、患難や試練は角を曲がるたびに私たちを待ち受けている。神様はそれを御存知なのだ。聖書のなかに出てくる365回の「恐れるな」は、そんな私たちへの日々の励ましのようだ。それも、静かな低い声での励ましではなく、力尽きて倒れている人を抱き起こし、両肩をつかんで揺さぶりながら、耳もとで叫んでいるかのような。 10/26/2002昨日は夕方から家族全員でショッピングモールへ行ってお買い物。まず娘たちが大好きなお店、Limited 2へ。ここの服は確かに可愛いんだけど、やけに高い。ズボン類はどれも一本45ドルほど、トップも一枚25ドルはする。私だって普段着にはそんなにかけないよ。(^_^;; 20%off のクーポンを持っていたのでエミに一着だけ買って、後は見るだけ。その後Gap Kidsを覗いたら、数週間前に35ドルほどで買ってあげたのと同じジーンズが、セールで一本12ドル99セントになっていた! ママは悔しい悔しいと地団駄を踏むことしきり。 その後はママとパパがそれぞれジーンズを買った。パパはいつものLevi's 505。一時期ちょっと太ってサイズアップしていたけれど、いつの間にか痩せて元のサイズに。私はGuess のブーツカット。サイズは2●インチで中学生の頃からこの25年間変わっていない(妊娠中&出産直後を除いて)。どうなってんの? 今日は朝はみんの水泳教室、午後からはみんと二人でアイススケートに。私よりすっかり上手になったみんは、アイスリンクに立つのが三年ぶりの私がもたもたヘコヘコ滑るのが恥ずかしかったらしく、ずっと他人を装っていた。(苦笑)そのうち私の側にスーッと滑ってきて、「ママ、ちょっと休む?」 二人で一旦リンクの外に出て、私がベンチに座ると、みんは一人でさっさとリンクに戻ってしまった。何よ、それ!? 恥ずかしいから退場してって?(笑) 実際少し休憩したかった私は、5分ほど休んでからスケート靴のヒモをしばり直し、再びリンクへ。ようやく勘が戻ってきたので、ちょっと本気を出して(?)滑っていたら、みんが後ろからサーッとやってきて「Mom! Much better! You are not so bad, after all!」 へへっ、どんなもんだい!? ***** シカゴはこのところすっかり寒くなった。11月中旬並みの寒さらしい。今にも雪がちらつきそうだもの。暖房も随分前からいれている。 そうそう、明日から冬時間だ。明日の朝は一時間余計に眠れる♪ 10/27/2002頭が痛い。多分風邪かな。夕べは頭が痛くて夜中に何度も目が覚めた。起きて頭痛薬を飲もうかと思ったけれど、起き上がるのはおっくうだったので、朝まで我慢した。 アメリカは今日から冬時間。一時間得するのは今日だけで、明日からは通常通り一日24時間。(当たり前なんだけど。) 10/28/2002ケンスケの夜の就寝時間は8時半。でもまだおねむになっていないと、ベビーベッドにいれられても「おりる〜! おりる〜!」と日本語で抗議する。日本語で言われたりすると、あんまり可愛くて、つい出してあげたくなっちゃうけど、ごめんね、お寝んねの時間だからね。(これを書いている今も、二階から彼の「おりる〜!」が聞こえてくるのでした。)どんなに泣きわめいても、たいてい5〜10分もしたら諦めて寝てしまうんだよね。おやすみ、Sweet Dreams! ***** 自己を否むって、禁欲主義に徹することではないよね。 自己を否むって、厳しい難行苦行に服することではないよね。 私は○○をしてはいけない、私は××をしなくてはいけない、そんなふうに思っているうちは、相変わらず自己がのさばってる時。どんなに自分を打ち叩いて「○○をしなさい、××はやめなさい、」のリストに自らを従わせようとしたところで意味がない。結局「私」が頑張っているだけだから。ああ、苦しい、苦しい。そんなのは苦しいね。 自己を否むって、それまで自分の内側ばかり向いていた私の目が、ただイエス様を仰ぐようになること。 When I look into Your holiness, When I gaze into Your loveliness, When all things that surround become shadows in the light of You... (Wayne & Cathy Perrin) 自己吟味と称して内へ内へと向いていた自分の意識が、今度はそのままイエス様のまえにそっくり差し出されるようになること。 「神よ。私を探り、私の心を知って下さい。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」 私の苦しみ、私の痛み、私の怒り、私の願い、私の気持ち、私の計画、私の喜び、私の、私の、私の… それらが全て イエス様の苦しみ、イエス様の痛み、イエス様の怒り、イエス様の願い、イエス様の気持ち、イエス様の計画、イエス様の喜び、イエス様の、イエス様の、イエス様の… と入れ換わる。 私の努力、私の鍛練、私の知性、私の経験、私の、私の、私の… それらがすべて イエス様の恵みと入れ換わる。 自己を否むとき、私の魂はイエス様の御霊にその座を明け渡すようになる。私の霊がイエス様の御霊によって潤され、生き生きといのちを吹き返し、魂までもがイエス様の御霊のもとに服すようになる。そしてそれまで知らなかった不思議な自由に驚かされるようになる。 自己を否むって、決して難行苦行の自己鍛練や、自己憐憫やプライドに満ちた禁欲などとは違う。 それはイエス様のいのちへのパスポート。 自分のいのち(psuche=魂)を愛する者はそれを失い、 この世でそのいのち(psuche=魂)を憎むものは それを保って永遠のいのち(ゾーエ zoe)に至るのです。 (ヨハネ12:25) 10/29/2002今夜も聞こえる。ケンスケの「おりる〜! おりる〜!」 そういえば、夕飯のとき、娘たちが学校で習ってきた惑星の話しをしていたら、ま〜やが得意そうにこんなことを言った。 「You know what? Pluto is a planet from Disney! It's true! It's true!」(知ってる? 冥王星って、ディズニーから来た惑星なんだよ! ホントだよ、ホントだよ!) ま〜やにとってはディズニーの犬のプルートと冥王星のプルートの違いなんて、関係ないんだね。きっと犬の顔の形をした惑星だと思っているんだよ。(笑)(笑) ちなみに、英語では水金地火木土天海冥を覚えるのに「My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas.」と言うのだって。Mecury, Venus, Earth, Mars, Jupiter, Saturn, Uranus, Neptune, Pluto. ***** 昨日送られてきたリバイバル新聞(10/20号)に、こんな記事を見つけた。ミッションバラバの金沢泰裕師のヤクザ時代のボスだった利川さんという方の劇的な回心の記事。 金沢師はクリスチャンになってから、自分のかつての親分だった利川さんになんとか福音を伝えようとしていた。しかし利川さんはあざ笑うだけで、金沢さんの懸命な伝道にはまったく耳を貸さなかった。ところが、10年以上も音信不通だった利川さんからこの六月、突然電話がかかってきた。「ヤクザ辞めたんや。お前の人生が変わったように、俺の人生も変えることができるか。」そして利川さんの求道生活が始まった。彼は聖書を読み始め、早天祈祷会に顔を出したり非行少年のフォローにも携わるようになった。そして8月6日、全日本リバイバルミッション関西40Daysにおいて、救いの招きに応じ、信仰告白をした。その後、しばらく続いていた体の不調のため病院へ行くと、ガンに侵されていたことがわかった。しかもすでに末期症状で、ただちに緊急入院となった。8月25日、反対する医師を説得し、車椅子のまま酸素吸入をしながら洗礼式。死から命へ、闇から光へと移された利川さんは、9月12日、本物の親分、イエス様の待つ天国へ帰還した。 10年間音信不通だったそうだけれど、利川さんは金沢さんのことを見ていたんだ。金沢さんの人生に起きた変化は、利川さんのなかで大きなインパクトを持っていたんだ。諦めないで種を蒔き続けることの大切さを改めて思わされた。 利川さんがイエス様を信じることが出来て、本当によかった。ハレルヤ、主に栄光。 ***** ●『魂と霊』 ジェシー・ペン-ルイス著 ●『「魂の力」対「霊の力」』 ジェシー・ペン-ルイス著 (共にオリーブ園より) 10/31/2002今日はハロウィーン。夕方からは忙しくなるぞ。 ま〜やは今、パパと一緒に病院へ行っている。キャストをはずしてもらう予定。キャストがはずれれば、用意してあったシンデレラのコスチュームが着れるね! 間に合ってよかった。(^^) ***** 先日翻訳した『A Life God Rewards』。これは、イエス様の再臨のときに、キリストの裁きの御座でクリスチャンたちがいただく報いについての本だった。 実はこの本に出会う半年ほど前、私はイギリスで『The Shock of Your Life』という本を読んだ。これは裁きの御座で何が起きるかを詳細にわたって描いたフィクションだった。(この本についてはケンブリッジ日記にもけっこう詳しく書いたので覚えている方もいらっしゃるかも。) キリストの裁きの御座で何が起きるか… 私にはまだ完全に理解できていない。だけど、いくつかのことは明らかで、イエス様は私たちがそのことをはっきりと知り、理解し、それに備えておくことを望んでおられるのも確かだ。 まず第一に、私たちはみな、イエス様の再臨のときに一人ひとりギリシャ語で「ベ−マ」と呼ばれる「キリストの裁きの御座」に立つことになっている。
裁きの座、と言っても、クリスチャンにとっては、これはある種の表彰式のようなものだと思っていいかもしれない。しかし、この栄えある表彰式の場で、キリストから報いを得ることの出来るクリスチャンと出来ないクリスチャンがいるのだ。裁判官であるイエス様の前には、私たちの人生について克明に記録された書物が運ばれてくるだろう。その書物には、私たちの罪の記録は一切残っていない。ほふられた小羊の尊い血潮によって代価がすでに支払われているからだ! れは、私たちの行いによるのではなく、ただイエス様の十字架の贖いを信じた信仰による。ハレルヤ! しかしその書物には、私たちが神様から委ねられていた各種のタラントやミナを用いてどれだけの利益をあげたか、すなわち神様のご栄光のためにどれだけの良い働きをし、どれだけの実を結んだかが記されている。神様は、私たちが良い働きをするために召してくださった。私たちがなすべき良い働きさえも、すでにあらかじめ用意して下さっていた。神様が私たちに願っておられたことを、私たちはどれだけ行っただろうか? 一杯の冷たい水を求めていた人の前を、気付かずに通り過ぎてしまったことはなかっただろうか? 行ったこと、行わなかったこと、この書物に記されているのはそれだけではないだろう。その時の私の心の動機、自分の誉れのためではなかったか、自己満足や自己実現のためではないかったか、自分のことばかりに気を取られて主のお心をないがしろにしていなかったか… それらのことも、すべて書き記されているであろう。 そして私はそれら全てについてイエス様の前で申し開きしなくてはいけないなんて! 今これを書きながら、ルカ12:47の御言葉を見つけて、私は泣いてしまった。
私はこれだけの実を結んだ、自分ではそう思っても、それらのものはすべて「火のテスト」によってためされる。
「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが…」 私は以前はこの箇所の意味がよくわからなかった。しかし、『The Shock of Your Life』を読んだとき、初めておぼろげながらにもその意味がわかった。このストーリーのなかで、自分の人生はイエス様の前に差し出せるものを何も生まなかったと気がついたときのベッキーの動揺、悲しみ… 天国には入れたものの、彼女は何の報いをも、愛するイエス様からいただくことが出来なかった… もう一度人生をやり直したい、今度こそイエス様のために実を結ぶ人生を生きたい、そう叫ぶベッキーに御使いはこう言った。「今さらそんなことを言っても遅すぎます。天国では報いのために働くことはないのです。ここでもらえなければ、永遠にもらえません。報いは、生きている間の行いに応じてのみいただけるものなのですから。」なんという喪失感だろうか。日本語の聖書で「損害を受けます」となっている部分は英語の聖書では「suffer loss」となっている。Suffer loss… まさにその通りだ。 また、傍目にはどんなに立派に見えるものを建て上げたとしても、その動機が不純で、自己実現や功名心、プライド、そういったものにまみれているなら、そのような建物は火によって跡形もなく焼き尽くされてしまう。私の人生には、焼き尽くされることなく残るものなんて、一体どれだけあることだろう。 うちの教会の牧師はいつもよくこう言う。天国は、すべての人にとって同じ場所、というわけではないのだ、と。多くの報いや冠をいただき、多くを任されて治める者となる人もいれば、何もいただかず、何の任命も受けない人もいるのだ。天国がイエス様への賛美に満ちあふれ、そこにいる全ての人にとってそうであることは間違いないけれど。『キリストの裁きの御座』の著者、リック・ハワード師はこのような感じのことを言っていた。全ての完璧に作られた電球が、どれもみな同じ強さの輝きを持つわけではないのだと。あるものは100ワットの輝きを持ち、あるものは15ワットの輝きしか持たないのだと。 ジョナサン・エドワーズはこう言っている。
チャールス・スタンレーはこう言っている。
別にビリー・グラハムと比べて「私の実は少ない」と嘆く必要はない。神様から10タラント委ねられた者もいれば1タラントを委ねられている者もいるのだから。問題は、私たちがそれをどれだけ忠実に管理し、委ねられたものに応じて、愛する御主人にどれだけをお返しすることが出来るか、なんだ。 また、せっかくの働きを、愚かな名誉欲や自己満足などによって台なしにしまうことがないようにしよう。スポルジョンはこう言っている。
それから、神様は私たちがさまざまな試練に耐え抜くことに対しても豊かに報いてくださることも忘れないでいよう。
『A Life God Rewards』の著者、ブルース・ウィルキンソン師はこう言って読者を励ましている。今日の私たちの行いや決断の一つひとつが、私たちの永遠での過ごし方を左右するのです、と。つまり、キリストの裁きの御座で愛するイエス様から「よくやった、忠実な良いしもべよ」と言われ報いをいただく誉れに与れるかどうかは、今日の、そして今日から始まる残りの人生における、私たち次第なのだ。ベッキーは御使いにもう遅すぎると言われたけれど、私たちは遅すぎない。何よりも、イエス様御自身が私たちに報いを与えることを切望しておられる。冠の数に制限があるわけではなかろう。天国に入るすべてのクリスチャンたちが報いを得、冠をいただくことこそ、イエス様の願いなのだ。
見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。(イエス・キリスト 黙示録22:12) |