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はちことぼぼるの日記(2001年5月)

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5/2/2001

この前の日曜日の朝、支度して下に降りて来たら、子供が二人、キッチンで朝食を食べていた。もう一度2階にあがってみたら、そこには子供がさらにもう二人、ベッドの上にごろごろ転がっていて、なんだか「うわ〜〜〜っ! 四人もいるぅ〜!」と思ってしまった。(笑)

*****

今週は、日曜日から六晩続けてのリバイバル集会をうちの教会でやっている。メッセンジャーは、ダラス神学校出身の南部バプテストの元牧師、現在巡回伝道師のビル・シャープレス師。

アッセンブリーの教会でのリバイバル集会のメッセンジャーに南部バプテストの伝道師が来るなんて、「えっ?」という感じかもしれないけれど、今はもはや教派/教団の違いなど関係なくなってきているんだと思う。聖霊様は私たちが下げている名札には関係なく、飢え乾いて求める者には等しく働いてくださるのだ。

ここしばらく、神様は私に同じことを何度も迫ってきておられるように感じる。神様の側の働きと、私の側の責任/応答、とでも言えばいいだろうか。つい先日(4/25)の日記ではエリザベス・エリオット師のことを書いたが、その時も、「やらなければならないことは、やりなさい」という師の言葉にチャレンジを受けていた。

先週の土曜日(4/28)に発行したメルマガVFMの記事のなかには以下のようなくだりがあった。

「親の力では子どもを回心させられないということは私も知っている。新しく生まれる者らは、人の意欲によってではなく、神によって生まれる[ヨハネ福音書1:13]。そのことも知っている。しかし私は、神がはっきりと『若者をその行く道にふさわしく教育せよ』、と語っておられること、また神が命令されるときには必ずそれを実行するための恵みをお与えになることをも知っているのである。また私たちの義務が、突っ立って論議することにではなく、行って従うことにあることも知っているのである。立ち上がって行動する中でこそ、神は私たちに会ってくださる。従順の道こそ、神が祝福を与えてくださる道である。私たちは、カナの婚礼で水がめを水で満たすように主から命ぜられたしもべらのようにしさえすればよい。その後で水を葡萄酒に変えることは安心して主におゆだねしてよいのである。」 (J.C. ライル「キリスト者の家庭教育」より)

神様の側にしか出来ないことはあるけれど、その一方で、私たちが神様から委ねられた責任として果たさなければならない分もあるということか。

そして今回のリバイバル集会のメッセージでも同様のことが繰り返し語られた。たとえば第2テモテ一章6節「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

私は今まで、不注意にも、私のうちに与えられた賜物を燃え立たせるのは神様の役割、神様にお任せすべきことだと思っていた。しかし、この御言葉をよく読むと、そうではなくて再び燃え立たせるのは私の役目、私の責任でなすべきことなのだということがわかる。

私たちはみな、いずれは神様の御座の前に立ち、自分の行いについて申し開きをしなくてはならない時が来る。自分がしたことについてもそうだが、なすべきことでありながらしなかったことについても、同じように申し開きをしなくてはいけないわけだ。

そんなことを思わされていたら、こんな御言葉がデボーションの時に与えられた。

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。 」(第一コリント4:3、4)

これには大変厳粛な思いにさせられる。

たとえば育児ひとつをとっても、私の育児のやり方について小児科のお医者さんや保健婦さんに何と言われようが、学校の先生やお姑さんに何と言われようが、それくらいでいちいち落ち込んだり悩んだりする必要はない。しかし、神様から委ねられ、語られ、示されたことに関しては、私が責任を持って遂行しなければ、そのことについては他の誰でもない、私自身が神様の前にアカウンタブル(accountable)なのだ。

・・・と書いていたら愛しのケンが「アハンアハン、ウェーン、ヒエッ、ヒエッ」と情けない声で泣き出した。よちよち。お腹がすいちゃったかな。今いくよ〜!

5/3/2001

書きたいことは山ほどあるのに、いかんせん時間がない。

あさってはみんのアイススケートの発表会。今日はそのリハーサルで昨日は写真撮影の日だった。明日はエミとみんのピアノの発表会。あさっての午前中にはまたエミのサッカーの試合もある。

いやはや、忙しい。

ところでエミのホームページ、日夜更新され続けている。私もほとんど覗いてあげていなくて可哀想なんだけど、本人は気にせず、せっせと更新している。独学でHTMLを随分習得したようで、私もやり方を知らないようなものを自分のHPに取り入れているのだからびっくり。

たとえば、最近、エミはトップページの背景の色をマウスを動かすだけで自由自在に変えることが出来るようにした。百聞は一見にしかず。是非ちょっと覗いてきてみてくださいな。トップページの下の方にパレットのようなものがあり、そこの色をポインターで指すだけでするすると背景の色が変わる。一体どういう仕掛けになっているんだか・・・

しばらく前にエミはこういう仕掛けのHPを見たらしい。その時私に、これはどうやったら出来るのかと聞いていた。私は知らないと答えた。ただ、「こうすればソースが見れるから、そこにあるHTMLを見てみたら」とソースの見方だけ教えてあげた。私は後から一緒によく見てあげるつもりだったのだが、忙しかったので結局それっきりになっていた。

そしたらいつの間にかエミはそれを自分のHPに取り入れていたのだ。びっくり。どうやってやったのか聞くと、ソースをみて、そこに書いてあるHTMLを真似してみたのだという。そう言うのは簡単だけど、人が作ったページのソースを自分で見て、何がどうなっているのかを把握するのはそう簡単なことじゃないはずだぞ。ましてや10才になったばかりの

エミに。いや〜、ホントに驚いた。

*****

話し変わって。第一ペテロ2:9の御言葉だけど、

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

この「神の所有とされた民」の部分、英語の聖書では「peculiar people」となっているんだよね。つまり、「妙な人々」ということ。「妙な」と「神の所有とされた」では随分印象が違うのだけれど・・・ 私が持っているギリシャ語の解説が出ているWord Study Bibleには「peculiar」の解説が出ていなかったからよくわからない。どなたが御存知でしたら教えてください。

「神の所有とされる」と、世の人たちの目からは「妙な人々」に見える、ということなのかな。いや、冗談抜きで。

5/6/2001

あれま。もう六日になっていた。ピアノの発表会もスケートの発表会もとてもよかった。ただ、ケンにとっては騒々しいだけでいい迷惑だったかもしれない。彼はどちらもひたすら泣き続けていた。特にスケートの方は、音楽は大音量でうるさいし、照明はチカチカするし、寒い会場でぐるぐる巻きにくるまれるしで大変だった。ごめんね、ケンちゃん。御苦労さまでした。

今日は礼拝のあと、モールにある写真館にいって、おばあちゃんと子供達四人で写真を撮ってもらってきた。おばあちゃんがここにいるのもあと一週間。来週の日曜日は母の日だし、お礼の意味もこめて、アメリカの孫たちと一緒にきれいに写っている写真をプレゼントしようと思ったのだ。ケンは写真を撮るとき、ちょうど寝ていたところを起こされたため、ずっと泣き通しだったけれど、奇跡的に一枚だけ笑顔を見せているような表情で撮れたものがあったので、それを引き延ばしてもらうことにした。

*****

三日の日記に第一ペテロ2:9の「peculiar people」についての疑問を書いたところ、早速きよきよさんから情報をいただいた。 以下はきよきよさんからのメールの抜粋。許可をいただいたのでここに掲載させていただきます。

「はちこさんの5月3日の日記読みました。まず初めに、ペテロの手紙第1の"peculiar people"ですが、僕もZodhiatesの(Word study New Testamentではなく)Word Study Dictionaryをひも解いてみました。すると、載っていました、次のように。

"4047 peripoiesis noun form from peripoio (4046), to acquire, purchase(Eph.1:14, where "until the redemption of the purchased possession" is equivalnt to the redemption acquired for us by Christ;・・・1 Pet.2:9, "a people for an acquisition {or purchase}" [a.t.] means a people acquired or purchased to Himself in a peculiar manner or unique manner;・・・"

in a peculiar mannerという説明が、ちょっとこじつけっぽいなあと思いましたが、欽定訳のpeculiarは、「妙な」というよりも「特別な」という意味合いが強いのかなあ、と思ったりしました。新欽定訳だと、"His own special people"となっています。同じくZodhiatesによると、七十人訳のマラキ書3:17「わたしの宝」が同じギリシヤ語が使われているようなので、やはり、peculiarは「宝」とか、「貴重な」とか、「特別な」とかいう意味かなあ、と思いました。」

なるほど、原語のギリシャ語でのその箇所の意味は、an acquisition、 purchaseだったのか。とすると、日本語の方が原語の意味をより正確に表現しているわけだ。試しにNIV(New International Version) の聖書を見てみたら「people belonging to God」となっていた。ふむふむ。

ちなみに私は普段欽定訳聖書を使っているわけではないのだけれど、うちの教会でよく歌う賛美に「We are a chosen generation, a royal priesthood, a holy nation, a peculiar people......」という第一ペテロのこの箇所からとった歌があるので、私もそのままpeculiarで覚えてしまっていたのだった。peculiarだなんて、おかしいなぁとなんとなくずっと思っていたのだけれど、これで謎が解けた。聞いてみるものですね。きよきよさん、どうもありがとう!

5/8/2001

今夜はエミの学校の四年生の合唱&オーケストラコンサートだった。エミの学校では四年生は全員音楽の授業の一環として合唱団に入ることが義務付けられているのだ。 ほんとに最近行事ばかりで忙しいけれど、おばあちゃんがいるうちにいろんな行事に参加してもらえるのでちょうど良かったと思う。普段は絶対ない機会だものね。今度の木曜日はGrandparents Dayといって、おじいちゃんおばあちゃんの学校参観日。毎年エミやみんは来てくれる人がいないので寂しい思いをしていたので、今回のおばあちゃん滞在では、Grandparents Dayまではいてもらおうと、最初から予定していた。ところが、いざとなったらみんったら、「おばあちゃんが学校に来ると思うと緊張しちゃう。おばあちゃんが日本語で『コレ、ナアニ』って言ったらどうしよう?」などと言っている。それを聞いたおばあちゃんは笑いながら「はいはい、『コレ、ナアニ』って聞かないようにするから大丈夫よ。」おばあちゃん、勝手なことばっかり言う孫でごめんなさいねぇ。

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いのちのことば社から出ている「サイト21」という雑誌の2月号を読んだ。「振り返れば『父』がいる--聖書が語る父親像」という興味深いテーマの特集だった。

ところが、テーマは興味深かったが、内容には必ずしも共感出来なかった。確かに現代風でもっともらしい「21世紀の」父親像を提示していたかもしれないが、残念ながら私にはそれが「聖書が語る父親像」であるとは思えなかったのだ。

たとえば、記事のなかで次のようなくだりがあった。

「・・・日本では、家庭や子どものことは母親任せというケースが多いようだが、『聖書』は明確に、最終責任は家長である夫(父親)にあると教えている。」

そうなのかなぁ?「最終」責任は家長である夫(父親)にあるって聖書が「明確」に教えているの・・・?

そして「最終」責任が父親にあるということを受けてか、評論家の芹沢俊介氏の近著「ついていく父親」(新潮社)を紹介していた。この本を読んだことはないのでよくわからないけれど、紹介されていた書評によると、父親は後ろに下がって黙って子どもを見守る存在であるべき、『口を挟まず、しかも目を逸らすことなく、信じて黙って見守』ってあげる存在であるべき、すなわち「ふりむけば父がいる」という存在であるべきだ、と主張しているらしい。

芹沢氏による記事もあり、そこで氏はこう言っていた。(8頁)

「父親が出ていって、子どもは引き受けられないことを引き受けるのが、父親の役割だと思います。そのとき以外は、父親は見えていなくてもいい存在なのです。危ういときに出てきて、何も言わずに救い出してくれる。それが終わると、すっと引き下がってしまう存在。」

こうして書きながらもつい首をひねってしまう。要するに、父親の役割は「危機管理」に尽きる、ということらしいが、聖書の語る父親って、そういうものなのだろうか? 父親の皆さん、どう思われます?

もちろん、「最終責任」も「危機管理」も、父親の大切な役割の一部であることは全く否定しないけれど、それだけやっていればいいと思われても困る気がする。育児やしつけと言えば、耳にタコが出来るほど聞かされたかもしれないこの御言葉、

若者をその道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。 」   

これらの御言葉からは、後ろに下がって見守っているだけの父親像というのは浮かんでこないのだけれど・・・

それにこういう御言葉もある。

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。 」 

                         箴言19:18

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。

                         箴言22:15

 芹沢氏のいう父親像もわからないではないけれど、でも何かものすごく大切なことが見落とされていると感じるのだ。それは、ある程度必要なことを教え訓練したあとでなら、黙って見守るしかないとき、見守るのがベストなときもあるだろうが、それ以前にまず親が先導して教えてあげなくてはいけないことがたくさんあるはずではないのか、ということ。父親の役割が危機管理に尽きてしまうなら、それ以前のプロセスで子供を教えるという大切な仕事は誰がやると言うのだろう? 

「危機管理」とか「振り向けば父」とか、新しい父親像のキャッチフレーズとしては聞こえがいいけれど、 何だか、父親がそうやって騙されて、自分でも自分を欺いて、子供を教え訓練するという主から委ねられた大切な責任、役目をいつの間にか放棄してしまう方向に進んでいるような気がして心配になった。

そういえば、こういう父親像って人が一般に神様に期待する役割と似ているかもしれない。

普段は自分の好き勝手なことをやらせてもらうが、困ったことが起きたら黙って神様に登場していただいて、自分を危機から救いだしてもらう、そしてそれが終わったらまた神様にはいなくなっていただいて、自分の好きなことをやらせてもらう・・・ でも、それは神さまが人との関係に求めているものではないよね。

ところで、この特集のなかで、編集長の川端光生さんという方が書かれた記事「理想の父親をめざすよりも、良い父子関係を築こう」にはうなずけた。

「人間は関係の生き物である。関係の中でしか生きられない生き物である。今の社会で失われているのは人間同士の深い交わりである。他人との交わりが怖く、薄っぺらな人間関係しか築けない人が増えているという。人間は一人で幸せになるのではない。他者との関係の中で幸せになるのである。真の幸福は人間どうしの交わりの外にあるのではない。『孤高の幸福』というのは欺瞞である。自己中心や傲慢なために一人になっていることも多い。父の役割は、人間の交わりを大切にする子を育てることだと思う。そのほうが子は幸せになれる。」(15頁)

アーメン! 良い父子関係って、本来「振り向けば父」や、昔からよく言われる「父の背中を見ながら」のような、一直線的なものではないはずだとと思う。川端さんはさらにこう言っておられる。

「聖書の神は、人間に道徳的に立派であることを求めるよりも、人間との愛の関係を修復することを第一にされる。人間の父子関係も同じであろう。」(同頁)

父子関係といえば、私とエミの母子関係も最近随分よくなってきた。そのことはまた今度書くことにしよう。   

5/9/2001

今夜はどこまで書けるかな。何だか今にもケンが起きて泣きそう。

エミだけれど、彼女の友達との問題は相変わらず。ただ、大きく変わったのは、彼女は最近、学校での出来事を積極的に私に教えてくれるようになったこと。

以前のエミは、学校から戻ってもすぐ部屋に閉じこもったり、私が「How was your day?」とか聞いても、「Good」の一言で済まされてしまうのが常だった。よっぽど彼女の中で鬱々としたものがたまった時だけ、何か言いたげに私の前で溜め息をついたりいじいじしたりしたけれど、どうしたの?と聞いてもちっとも話してくれなくて、私の方がイライラさせられたものだった。

そんなエミを、私もどう扱ったらいいのかわからず、もてあましている部分があった。とにかく彼女の気持ちを受け止めて、と思いつつもついお説教になったり諭したりで、ちっとも二人の間の心が通い合っていない、エミの心に届いていない、というじれったさがあった。

でも最近は違う。学校から帰ってくるとすぐに私のところに来て、「今日はね・・・」とシェアしてくれる。「How was your day?」と私がふれば、待ってましたとばかりにどんどん話してくれる。

そしてエミの話しを聞きながら、いかに今まで私は彼女のことを理解出来ていなかったか気付かされた。私のなかで、エミって○○な子だ、と決めつけていたところがあったのだが、それは私の誤認であったとわかってきた。というか、エミの方がこの一年くらいで精神的にも社会的にも急速に成長したのかもしれない。

友達関係のなかでも、特にエミのなかで苦痛なのはクリスティのことらしい。クリスティとは半年前までは一番の仲良しだった。あまりよその子のことを悪く言いたくないので詳しくは書かないが、この年齢って、もしかするとどんどん成長して変化していく年齢なのかもしれない。(私が子供の頃よりも、その時期が訪れるのが早まっている気がするが・・・) 以前は仲良しだった二人だけれど、別々の方向へそれぞれが変化して、そりが合わなくなって来たのかもしれない。エミとしては、一番の仲良しだったはずの友達に無視されたりからかわれたりするのはつらいのだろう。無理もない。私としてはそんなにクリスティにこだわらなくてもいいじゃない、別のもっと気の合うお友達を見つければいいじゃない、と言いたいところなのだが、本人にとってはなかなか簡単には割り切れないのだろう。昨日の父親像じゃないけれど、これこそまさに、黙って見守っていてあげるしかない。

とにかく、エミの友達関係そのものは改善していないけれど、私にこうやって話してくれるようになったのは大前進だ。何より、私の側も私のエミに対する接し方や受けとめ方に不適切な部分がたくさんあったことに気付かされ、そちらを改善するように意識して心掛けることが出来るようになったのだから感謝だと思う。

しかし、まだまだ課題は多いな。神様ごめんなさい、またやってしまいました、と 神様の前に泣き崩れることなしに過ぎる日など、一日もない・・・

最近つくづく思わされているのは、子供たちとの関係にしても、夫との関係にしても、うまくいくということを私はtake for grantedしていたということ。そしてそれゆえに自分の側からはらうべき努力を怠っていたということ。

神様がこの家庭に与えて下さらんとしている祝福はもっと大きいはずだと思う。私の御言葉への不従順のゆえに、それを受け損なってしまうことがないようにしたいと切に思う。

さ、ケンが呼んでいる・・・ 今からお風呂に入れてあげるね。  

5/12/2001

夕べ、三年半ぶりくらいにみんが喘息の発作を起こした。

去年くらいから秋と春にアレルギー症状が出るようになっていたのだが、この春もグスグスしていて、それが喘息を誘発したらしい。

夜中の12時過ぎ頃、寝ていたみんが泣きながら起きて、苦しい苦しいとベソをかく。呼吸はゼーゼーしているし、咳き込んでいるし、ありゃ、これは喘息の症状だな、と慌てて戸棚をさぐると昔使っていた薬の残りが出て来た。しかし去年の12月で期限が切れてしまっている。

ぼぼるパパに「どうしよう?」と言うと、「古くなって効力が薄れていることはあっても、毒に変わっているということはないだろうから、使ってみれば?」と言う。

そんなぁ、本当に大丈夫なの?と思いつつも、みんはいかにも苦しそう。思い切って五か月前の薬を吸飲の治療器に入れてみんに吸わせた。

終わってから、「どう?」と聞くと「Much better. Now I can breathe.」との返事。さっきは息があんまり吸い込めなかったんだけど、今は吸える、と言う。

本当は期限の切れた薬なんて、使ったらいけないのだろうけど、夕べだけは思い切って使わせてよかった。喘息の発作って、放っておいたら死んでしまうこともあるらしいから。今朝は朝一番にお医者さんにいって診察してもらい、新しい薬を処方してもらった。診察のとき、期限のきれた薬を与えたことを言ったら先生は吹き出していた。(-_-;

お医者さんから帰って来ると、今度は教会で母の日のランチョン。エミはサッカーの試合があったので、おばあちゃんと私とみんとま〜やの四人で行ってきた。それから戻ったら今度は一時間ほど昼寝。

朝からどたばたしたので疲れたよ。

*****

私はさっき、探し物をしていた。○○を探していたとしよう。○○がない、○○がない、と探していたら、××もないことに気付いた。あれぇ、××もないよう、と○○と××の二つを探していると、ぼぼるパパが後ろで「もう、ぼけてるなぁ」と笑う。失礼ね、と思いつつ探し続けていると××の方はすぐに出て来た。「あぁよかった・・・ あれ、私がもう一つ探していたのって何だっけ? 何を探していたんだっけ?」ぼぼるパパは後ろでひっくり返って大笑い。「はちこ、大丈夫かぁ?」 大丈夫よっ!

結局、何を探していたかは思い出したけど、探しているものは見つからなかった。いやん。

6/13/2001

今日は母の日。昨日のうちに買っておいた蘭のコサージュを母の胸元につけてあげてみんなで教会へ。

母は明日の朝早く、日本に向けて出発する。2か月間、いたれり尽くせりで私のことを助けてくれた。

子供たち、特にま〜やはすっかりおばあちゃん子になった。明日の朝、おばあちゃんは出発が早いので、今夜のうちに子供たちに挨拶をさせたが、エミはお姉さんらしく、「おばあちゃんどうもありがとう」とハグしながらそつなく御挨拶。みんは照れてしまったのか、顔は横を向きながら黙ってハグ。ま〜やはお姉ちゃんたちが挨拶をしている間、私は何も聞こえていません、という顔をしてひとりで夜食を食べていた。挨拶が終わったお姉ちゃんたちが先に2階へあがると、ま〜やは小さな声で私に聞いた。

「Is Grandma going back to her own house?」(おばあちゃん、自分のおうちに帰っちゃうの?)

「そうよ。」

「You can pick her up tomorrow again.」(明日、また迎えに行けばいいじゃない。)

四月の末におばあちゃんは一人でシカゴ市内に泊まりがけの観光に行き、その晩もま〜やはおばあちゃんがいなくなって寂しかったのだけれど、次の日にみんなで迎えに行ったので、その時のことを思い出して言ったのだろう。

「今度はもう、迎えには行けないのよ。おばあちゃんのお家は遠いから。ほら、おばあちゃんに最後にもう一度抱っこしてもらっておいで!」

しかし、ま〜やはふて腐れた顔をして、抱っこしてくれようとするおばあちゃんの手を「やだ」と払いのけた。困った子だ。素直じゃないんだから。

明日は学校があるし、じゃあもう寝なさい、ということで2階へ行くとき、階段をのぼりながらま〜やがすねた口調で言った。

「I don't want Grandma to go home...」(おばあちゃんにおうちに帰って欲しくない。)

ベッドに横になっても、足をじたばたさせながら、おばあちゃんに帰って欲しくない、と繰り返し愚図り、愚図りながら眠りにおちた。

ま〜やは本当にたっくさんおばあちゃんに遊んでもらったもんね。遠足にも一緒に付き添ってもらったんだもんね。公園に行ったり、歩いてお買い物に行ったり、おばあちゃんと大冒険したんだもんね。おばあちゃんのお化粧品で眉毛描いたり、血圧計で遊ばせてもらったりしたんだもんね。ママがケンにかかりっきりで寂しかったとき、おばあちゃんがずっと側にいてくれたんだもんね・・・

ほんとは、ママだって、おばあちゃんにお家に帰って欲しくないんだよ。でも仕方ないの。

おばあちゃんが帰ってしまったら、寂しくなるけど、でもまた秋にはイギリスに遊びに来てくれるそうだから、またすぐに会えるよ。

明日の朝には、ママと一緒に素直におばあちゃんに御挨拶しようね。

「おばあちゃん、2か月間、本当にどうもありがとうございました。おばあちゃん、大好きよ。」 

5/17/2001

予想はしていたが、やはりおばあちゃんが帰国してからというもの、私はてんてこ舞いだ。しかし、家族みんなで協力しあって頑張っている。(おばあちゃん、だから心配しないでね!)

ママの疲れを察したかのように、ケンは夕べ十時すぎから午前四時まで寝てくれた。約六時間も続けて寝てくれるなんて、初めてのこと! おかげで私も久々にゆっくり眠れた気がする。 

*****

昨日、みんがついに補助なしの自転車に乗れるようになった! よかった、よかった。この2日ほど、気温が90度以上まであがる真夏日だったが、夕食のあと、少し涼しくなったのでパパと一緒に練習したのだ。運動神経はよさそうなのに、根性と度胸が足りなくて今までなかなか出来ずにいたのが、昨日は突然スイスイ〜と乗れたらしい。自転車って、そういうものなんだよね。

ま〜やもパパと一緒に、最近新しく買ってもらった補助つきの12インチの自転車であたりを二周ほどしたが、パパいわく、自転車をこいでいる間も口がひっきりなしに動き、ずっとしゃべり続けていたとか。

そういえば、来週の金曜日はみんの誕生日パーティー、その次の週の金曜日はま〜やの誕生日パーティーをする予定。本当の誕生日は六月と七月なんだけど、夏休みに入る前にやってしまうことにした。 私たちがイギリスに向けて出発するのが7月20日過ぎくらいだが、それまでの約二か月、もう休む間もなく忙しいんだろうな。

5/20/2001

二週間後のま〜やの誕生日パーティーの招待状を用意していたら、間違えて、ま〜やの名前を書くところにみんの名前を書いてしまっていた。出す前に気がついてよかったぁ! あ〜あ、と思いつつ、全部作り直し。やれやれ。相変わらずのボケ丸出し。f(^_^;;

明日は朝9時からケンの二か月検診。体重はどのくらいに増えているかな。午後からは、みんの誕生日パーティー用のケーキを試しに作らなくては。ぶっつけ本番で失敗したら困るから。みんのパーティーは今度の金曜日。近所のフィットネスクラブでプールパーティーだ。

私が日記を書きはじめると、待ってましたとばかりにケンが泣き出す。もうっ。

5/22/2001

ケンの二か月検診での体重は、なんと14ポンド8オンス(約6.5キロ)だった。四か月児並みだ。でもこのペースで体重が増え続けるとは思えない。なにしろ、エミもみんもま〜やもみんな二か月検診での体重は95%タイル前後だったけれど、一歳になる頃には見事に三人とも5%タイル以下になってしまっていたのだから。ケンも同じパターンをたどるのだろうか。

ケンの現在の体重と頭囲は95%タイル以上だが、身長は50%タイル足らず。やけに頭でっかちに見えていたのは気のせいではなかったんだ。(笑)

*****

最近のエミは以前に比べたら本当によく話してくれるようになったのはいいのだが、近頃それがなんだか友達の悪口を言ってるだけ、のようにもなってきた。クリスティが○○して不愉快だったとか、マイアが××してそれは私(エミ)に対して失礼だと思ったとか。しかも連日同じようなことの繰り返し。だんだん私は聞くのが嫌になってきてしまった・・・ 忍耐の足りない母だからなぁ。f(^_^;;

エミの正直な気持ちを批判することなく受け止めたいし、ママには何を言っても聞いてもらえる、受け止めてもらえる、と思ってもらいたいが、一方で、エミのなかで沸々としているネガティブな感情を煽るようなことにはならないよう、聞く時の私の態度も気をつけなくちゃなぁ、と思わされている。しかし具体的にはどうあればいいのか、なかなか難しいのが現実だ。やっぱり、エミが少なくともママには自分の気持ちを何でも正直に話しても大丈夫と思わせてあげるのが基本かな。

祈りつつ、祈りつつ・・・

5/25/2001

今日はぼぼるパパの誕生日。なんとパパも大台に・・・ (^_^;;

それからみんの七歳の誕生日パーティー。プールパーティーだったのだけど、滅茶苦茶疲れた〜。私は水の中に入ってないけど、とにかく緊張。六〜七歳の子たちにとってはやや深めのプールだったので、ライフガードはいたけれど二人の子がちょっと溺れかかってしまった。水を飲んだとか、そういうことはなかったけどやはり怯えてしまって、特にひとりはその後最後までプールのなかにもどらなかった・・・ 可哀想なことをしてしまった。

とにかく、疲れたので今日はここまで。

あぁ、来週はま〜やのパーティーか・・・

5/26/2001

メルマガVFMの掲示板でのはちこの書き込みより:

Hさん、こんにちは! 『ゆるす』ことについて、正直な葛藤をお分かちくださってどうもありがとうございます。ぐちでも何でも分かちあえるのがこの掲示板のいいところだと思っていますから。(^^)『ゆるす』とは、私たちの信仰の歩みにおいて重要な鍵を握っているのでしょうね。だからこそ戦いがあるのでしょうか。

聖書は私たちが人の罪を赦さないならば、天の父も私たちの罪をお赦しにならない、また、神がキリストにおいて私たちを赦してくださったように、互いに赦し合いなさいといっていますが、それを頭ではわかっていても、なかなか赦せないのが私たちの弱さですよね。

時々、「赦す」とはプロセスであり、長い時間をかけて赦していけばいいのだ、という人がいますが、私は違うと思っています。私は、「赦す」とは私たちの意志による決断だと思います。私たちが受けた物理的な傷や精神的な痛みは「赦します」と決めたからといって一発で消えてなくなるわけではありません。その痛みが癒えるにはたいていの場合時間がかかるでしょう。でもだからといって痛みがなくなるまでは赦せないと思っていたら、痛むから赦せない、赦せないからますます痛む、という悪循環でいつまでたっても赦すことは出来ないでしょうし、その痛みもなくなることはないと思います。自分の感情をベースに赦すかどうかを考えるのではなく、意志によって、赦すことを選ぶものだと思うのです。そして、神さまの御前に「○○さんを赦します」と宣言するのです。

しかし、神さまの御前に「赦します」と宣言したはずなのに、傷が痛むことがあります。やっぱり赦せない、赦したくない、という思いが沸き上がってくることもあります。そして、赦したはずなのになぜまだ痛むのか、やはり私には赦せていなかったのか、と悩んでしまうのです。でも、それはサタンの嘘です。傷が痛むのは事実ですが、だから赦せていないというのは嘘なのです。サタンは私たちの肉的な弱さにつけこんで「ほら、おまえはまだ痛んでいる。赦してなどいないのだ。」とささやきます。そんな時私は、イエス様の御名によって「黙れサタン、私はすでに赦したのだ」と宣言します。

サタンのこの世での目的は「盗み、殺し、滅ぼす」(ヨハネ10:10)ことです。サタンは「赦す」ということが私たちにどれだけ大きな祝福をもたらすかわかっているので私たちが人を赦すのを必死になって阻んでくるのでしょう。なにしろ、私たちが人を赦せないならば、私たちもまた天のお父様からの赦しをいただくことが出来なくなってしまうのですから! サタンにしてみれば願ったりかなったりです。

さらに、「結婚」というのもサタンにとっては格好のターゲットでしょう。夫婦に不和があれば、夫婦だけでなくでなく子供にも影響します。家庭が崩されれば社会も崩されます。

私たちの敵は夫(あるいは私たちが「赦せない」と思っている人)ではないのですね。エペソ6:12の通りです。

ところで、40号のVFMで、ミドルトン師はこのようにおっしゃっていました。

>神さまが私たち妻に夫を敬うよう命じておられる理由は、夫に能力があるからとか、
>霊的だからという理由ではありません。夫が私の夫であるという理由だけなのです。
>つまり尊敬に価するかどうかで私たちの行動が決まるのではなく、神さまを愛するゆえに、
>神さまの愛への応答として、私たちは夫を愛し、敬い、従うのです。「私たちは、
>見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。」

これは私にとって、発想の大転換だったのですが、「赦し」についても同じことがいえないでしょうか? 相手が謝罪したから、償ったから、何か赦されるに値することをしたから「赦す」のでなく、御言葉が赦しなさいというから、神さまがイエス様の十字架によってすでに私たちのことを赦してくださっているから、だから私たちも赦すべきなのではないでしょうか。たとえ私たちの感情が痛み、赦せないと叫んでいても、神様への信頼のゆえに、感謝のゆえに、従順のゆえに、「赦します」と宣言するのです。そうすれば、私たちの神さまへの信仰、従順に対して、神様が溢れるばかりの恵みと祝福をくださるでしょうし、サタンもそれ以上私たちの痛む部分を攻撃することは出来なくなると思います。そして痛む部分は無理に否定しないで、神様、ここが痛むのです、と主の前に差し出しましょう。主がご自身の慈しみをもって、ギルアデの油(軟膏)を塗って痛みを癒してくださることでしょう。

そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。 』(第2コリント2:9〜12)」

5/27/2001

某掲示板でのんのんさんが紹介してくださっていた御言葉。なにかとても励まされたので、書き留めておこう。

まことに我が家は、このように神とともにある。

とこしえの契約が私に立てられているからだ。

このすべては備えられ、また守られる。

まことに神は、私の救いと願いとを、すべて育て上げてくださる。

第二サムエル記 23章5節

この数日、エミが人間関係の難しさを通して、大切なことを学んでくれているという手ごたえを感じている。エミにそのことを指摘したら、本人もとても嬉しそうに笑っていた。今となっては、エミがこの試練を通らせていただいたことをただ感謝している。まだしばらくは辛いと感じる日もあるだろうけれど、エミは確かに学んでいる。私も学ばされている。

まことに神は、私の救いと願いとを、すべて育て上げてくださる!

5/29/2001

エミのこと。

>まだしばらくは辛いと感じる日もあるだろうけれど

と書いたばかりだが、早速今日はかなり辛い日だったらしい。

子供って、残酷だからなぁ。エミのことを無視するなら無視するで、100%無視すればいいのに3回に1回くらいはいかにも仲良さそうに近づいてきてエミにちょっかい出すらしい。そしてエミが、「この子たちはやっぱり私の友達なんだな」と気を取り直して嬉しくなり始めたところでいきなりガブリと噛みつくような態度をとるようだ。エミは何度も「I'm confused. Do they like me, or not? I'm confused!」と言っていた。かわいそうに。

エミは不愉快そうに、クリスティがあれしたこれしたと事細かに私にグチる。

「ピリピ4:8の御言葉、覚えてる?」

以前、暗唱聖句で覚えた箇所なのでエミはすらすらと答える。

「ね? エミをmiserable で uncomfortableにさせるようなことには目をとめないで、良いこととか、正しいこととか、御言葉がいってるそういうことに目をとめようよ。」

そう励ましてみると、エミは「うん」と言ったが、どうもあれはあまり納得していないな。

イエス様に目を留めようとか、イエス様はエミのベストフレンドだよとか、避け所だよとか、良い羊飼いだよ、といくら教えても、それがエミにとってのリアリティーにならなければ単にクリスチャンのボキャブラリーを振り回しているに過ぎない。クリスチャンホームに育った強みで、エミのなかには多くの御言葉がすでに貯えられていて、それは感謝なことだけれど、今のままでは冷凍庫に冷凍したまま忘れ去られた食品と同じだ。(うちの冷凍庫には沢山あったりする。(^_^;; )そのあたり、どのように助け、教えてあげればいいのか。

今度は貯えた御言葉を実行し、応答すること。そしてそれに対して神様がいかなる業を見せて下さるのか、どんな祝福を与えてくださるのか、平安のなかで期待して待つこと・・・ それをエミに体験させてあげなくてはいけないのだろう。

ぼぼるパパとも話して、明日の朝はマタイ5章44節「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」からデボーションをし、クリスティとマイアの祝福のために祈ることを実践することにした。(エミとパパ、ママの三人での朝のデボーションは、しばらく前にメルマガで連載しているJ.C. ライルの「キリスト者の家庭教育」を読んで発奮した(?)パパの提案で始めたこと。)

イエス様、エミのこのレッスンのときを、あなたがエミの手をとって進んでくださいますように。

5/31/2001

いじめられると、Self-esteem がどんどん下がっていくものなんだな、ということをエミの中に目の当たりに見ている。

今までエミを育ててくるなかで、安定した高いSelf-esteem、健全な Self-imageをもてるように助けることが私の目標のひとつだった。褒め惜しむことをせず、日に何度も愛しているよと声をかけ、エミの能力だけでなく存在そのものを肯定するように慈しんできたつもりだった。そして期待通りエミは健全なセルフ・イメージを持つようになってくれたと思ってたのに、友達から無視されただけで、それがこんなにもあっさりと崩れ去るなんて・・・ 親の言葉よりも友達の言葉の方がインパクトをもつ年齢に入ってしまったんだなぁ・・・

一か月くらい前のことになるけれど、エミが「I'm not good enough! That's why they ignore me! I don't deserve anything!」と泣き崩れたことがあり、私はとてもショックだった。

今朝も、学校へ行く前に何やらぶつぶつ言って泣きそうになっていた。学校へ行きたくないとは言い出されなかったからよかったけれど。幸い、来週の水曜日で学校は終わりで夏休みに入る。その後二か月足らずで私たちはイギリスへ渡る。エミの状況や心境が悪化する前に環境が変わるのはありがたいことだと思う。

それにしても明日から六月か・・・ 早いなぁ。

*注* 文中ときどき登場する「メルマガVFM」とは、当時はちこがクララさんと一緒に発行していた「VIP ファミリーマガジン」というメールマガジンのことです。現在では残念ながら廃刊になっています。

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